忍者ブログ

色づく世界の明日から ☆第十三話最終回感想

参考サイトhttp://anicobin.ldblog.jp/archives/54661180.html


(虚空)


主人公を魔法の力で未来に返すという場面が冒頭にありましたが、やはりそのポイントは若き頃の祖母の魔法力ではなくて、主人公自身の無意識での呪縛が解けるかどうかが、過去にどれだけ留まれるかのタイムリミットであった、という点なのでしょう。


この前からこだわっている「真床覆衾(まどこおぶすま)」という点でいえば、まさに「機が熟した」「その場で経験すべきことは成就した。」だから「次のステップに移行した」という、この目に見える世界の理でそうなった、ということなのでしょう。


「脱皮」とか「蛹から蝶が羽ばたく」というあの感覚。


スピリチュアルの世界では「この世は魂が向上するための修行の場」というような言い方をするときがありますが、そういう見方からすれば「一つのことが授受した」ということで「めでたしめでたし」となり、何もないおだやかな日々がずっと続くというのは、この世に留まる意味がなくなることを意味するとか・・・。一時的な休息でおだやかな日々が訪れたといっても、また時がくれば「さあ、次!」という感じ。


朝の連続テレビ小説のような展開ですね。


未来に戻った主人公のところにタイムカプセルということで過去と新たな現在である未来とがつながったわけですが、きっとまた時期がくれば何かの壁にぶつかるんでしょう。


でも過去に戻っての体験によって「構え」が変革した主人公は「困り方」そのものがどこか変化していているかもしれません。過去の思い出を「逃げ場所」とするのではなくて、それを足掛かりにして自分の中から突破する力を湧き上がらせながら生きていくんだろうなと期待したいところです。


いずれ魔法使いといえでも祖母とのお別れも待っているんでしょうから。




(諷虹)


非常にきれいにまとまった作品になったなと思わせる最終回でした。未来に帰ってからあれこれと説明せずにキャラデザやキャラ同士のやりとりの様子だけであれやこれやを視聴者に想像させる・・・今期アニメではリリスパもちょうどそんな感じでしたね。


この作品の感想で何回か触れたと思いますが、台詞や描写等に個人的にものすごいセンスを感じます。最終回で気になったのは冒頭に出てきた「鈍色(にびいろ)」というワードと、色が戻るときの描写の2点です。ラストの絵本の件も非常に良かったのですが先にあげた2点についてのみ触れていきたいと思います。


今まで白黒・モノクロ・灰色なんかは使われていましたが「鈍色」というワードは今回初めて出てきたと思います(間違ってたらゴメンナサイ)。ゲームに疎い人や世代でない人はあまり聞きなれないかもしれませんが、私を含め大体20~40代くらいの世代の人のほとんどはポケモンを連想・思い出したのではないかと思います。


知らない方のために少し解説をするとポケモンシリーズ初代のゲーム及びアニメの1つ目の町(主人公の故郷・最初で最後の町を除く)がニビシティといい、そこのリーダーに勝つとグレーバッジというバッジがもらえます。このバッジを8つ集めることがポケモンというゲームの一つの大きな目標になるのですが、初代は町とバッジがすべて色モチーフになっています(ニビ<グレー>・ハナダ<ブルー>・クチバ<オレンジ>・タマムシ<レインボー>・セキチク<ピンク>・ヤマブキ<ゴールド>・グレン<クリムゾン>・トキワ<グリーン>の8つ。ちなみに主人公の故郷の名前がマサラタウンで「まっしろ」)


さて、そんな感じで知らず知らずのうちにマイナーな色が大体どんな色味かという英才教育がなされている(?)訳ですが、鈍色はポケモンの作中では「石の色」と言われています。調べてみると平安時代には喪服の色にも使われていた色のようです。灰色というのもどちらかというとマイナスなイメージですが、鈍色というとそれが更に強まるような印象です。しかも作中では「寂しげな鈍色」と言っていました。音的にも「わび・さび」に近いところがあります。非常に考察しがいのある深い一言だと思います。(第1作目のしかも初っ端にそれを持ってくるポケモンのセンスもやはり凄まじいところ)


次に色が戻るときの描写について。新世紀エヴァンゲリオンのTV版26話のラスト(「おめでとう」のくだりに入るところ)をめちゃくちゃ丁寧に描写するとあんな感じだったりするのかなぁとかも思いましたが、気になったところは黒いところがどんどん剥がれ落ちていくような演出でした。


私の中で五本指に入る漫画家にきゆづきさとこさんという方が居るのですが、その方も色に関する様々な作品を描いています。他の感想ややりとりでちょくちょく出てくる「棺担ぎのクロ」もその一つで、主人公の体がどんどん黒く蝕まれていく死の呪いを解くために旅をするお話です。また、GAという作品の中で「白は、この世で最も明るい色。黒は、この世で最も暗い色。」と表現していました(検索しても出てこなかったのでおそらく作者オリジナル)。


それからもう一つ、10年程前に流行った東方の同人音楽で「BadApple!!」という曲があります(歌詞参考→https://www43.atwiki.jp/sagararyou/pages/18.html


※東方project及び東方アレンジ・独自設定が苦手な方は読み流してください


ここからは私の解釈ですが、やはりこの曲の一番のキーワードは繰り返し登場するサビ部分、特に「もし私から動くのならば すべて変えるのなら黒にする」と「こんな私も変われるのなら もし変われるのなら 白になる」かなと思います。”黒→自分から染める・染まる”に対して”白→自分からは不可”ととれるのではないかと思いました。


さて、長々と様々な作品の考察を挟んでしまって申し訳ありませんが結論として、


白→黒(プラス→マイナス・幸→不幸等)は不可逆反応と思いこみがちになってしまうのではないかということです。確かに黒く染める事は簡単に出来ても、一度黒く染めたところを白くすることは出来ません。(絵画ではなく習字などをイメージしてもらえると分かりやすいかと)


瞳美は過去の回想でも母親と自分の間を黒く染め、魔法及び世界に対してモノクロのフィルターをかけていたのだと思います。そして最終回にてそれを克服するとき、黒い部分が剥がれ落ちるという演出になっていました。


黒の上に何も書けないのならば一旦黒を解放する・・・自分でかけた鍵・しがらみ・縛りを、解放する。禊の感覚が近いでしょうか?(ちなみに棺担ぎのラストもそんな感じです。)


正月で、インフルエンザで引き籠っているのもあっていつも以上に長文になってしまいました。しかしそれだけでなく、流行物や熱狂的ファンがついているものの根底には白黒の発想や鈍色・モノクロの発想が隠れているのだと思います。


そして、これだけたくさんの事を引き出してくれた「色づく世界の明日から」も紛うことなき名作なのだと思います。

 
PR

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない ☆第十三話感想

参考サイトhttp://anicobin.ldblog.jp/archives/54665858.html


(虚空)


とっても複雑な心境で観終わりました。原作を読んでいないので、続きの部分は劇場公開までというのも「エッ!そんなに待たせるの」という感じです。体調云々のこともあるんで。


妹さんにしてみれば記憶が元に戻ったということでめでたしめでたしというところなのでしょうが、周囲の気持ちも痛いほど分かる部分もあります。


そして、それに周囲がこだわればこだわるほど、記憶の甦った妹さんにしてみれば全人格を否定されたような気持ちになるでしょうしね。


EDでは空白の別人格の自分も受け入れた上での再出発というように描かれていましたが、周囲は気持ちの整理をつけるまでそりゃ大変でしょう。


思春期症候群ということを抜きにすると今回のエピソードは我々日常のどういったこととつながるんだろうな・・・と考えているのですが、まだピンときていません。


観返せばいいんでしょうが・・・どうしてもあの日記帳を読み上げる場面が切なすぎてちょっと勘弁です。


最終回の感想なのでもう少し総括したことでまとめたかったのですが・・・無理無理無理でした。

RELEASE THE SPYCE ☆第十二話最終回感想 『伝えたい想いのひとつ』 ~罪を憎んで人を憎まず~

参考サイトhttp://anicobin.ldblog.jp/archives/54637916.html
(虚空)
やはり二重スパイだったんですね。とりあえずはホッとしました。みなさん生きていたし、元敵さんでも利用されていたような方々は新たな居場所をみつけたようだし。あのムキムキさんやカナリアも含めて。「罪を憎んで人を憎まず」という精神を垣間見た気分です。
こうした処遇の仕方を描いている世界観のアニメで真っ先に思い出すのが「魔法少女リリカルなのは」シリーズです。もともとは無印劇場版公開時に諷虹君に紹介されて・・・ドツボにはまりました。フェイトに激しく感情移入して。
幼い頃からいじめられ仲間外れにされ、また常に優秀な同い年の親戚と比べられ失敗作呼ばわりされ「自分は生まれてきてはいけなかったんだ」と思い込みながらの人生でしたから。小中学生の頃はこの世を去ることもかなり真面目に思い描きながらということもありました。なのでフェイトの姿は単なるアニメキャラというのではないレベルでいたたまれない気持ちで観ていました。(あんな戦闘能力のような特技を私は持っていませんでしたが)
次のシリーズでは八神はやて。フェイトもはやても利用されたり勝手に闇の書との縁があったりで、最終的には罪人として時空管理局に逮捕されるような身になってしまいますが、ここからがこのシリーズの特異なところ。これまでのことを改めて今度は正しい道を歩んでいきたいという者にはちゃんと道を用意してくれます。
成長した彼女たちはミッドチルダという時空を越えた様々な世界を統括している場所の管理局勤務になり、今の制度でいうとフェイトは「検事」、はやては「自衛隊の特殊部隊の隊長」というような任務につきますから。
第三部では敵の数が一気に増えますが、最後に逮捕された面々も、その後を選ぶ自由がそれなりに与えられて、比較的罪の軽い女性たちでも収監されることを選ぶ者もいれば、正義に協力することを選び、一定の保護観察期間を経た後には、やはり虚空管理局で貢献する、というような役割についている・・・という様子が描かれていました。
そんな世界観をリリスパでも最終的には感じられたのは良かったです。
後半は師匠と弟子の別れを描いていました。師匠のつきかげ時代の記憶を消す弾を弟子が撃つ・・・ネットではいよいよ撃つ時に設定画面に70%と表示されていることから効力を落としているのではないかという意見もありましたが、師匠が渡す時点でそうなっており、それは人生の記憶をすべて消し去るのではなく、師匠のセリフ通りつきかげで活動するようになってからの記憶という意味であったようです。
でも最後のすれ違いの場面のチラッとみせた笑み。
二重スパイのノリなのかもしれませんね。つきかげ卒業の二択で「記憶を消して生きていく」というのは、事実上弟子に対して「師匠はもういなくなった」と思わせる道というような。背後支援として存在し続けるか、無き者として振舞うか・・・どちらの方がいいのかが弟子のタイプによって違うから、それは師匠自らが判断して決める、というような。
このアニメの中心テーマは「師匠と弟子の絆」「人から人に受け継がれていくもの」でしたが、この受け継ぎというのは上原輝男氏が常に強調していた「人間は伝承体としてしか在り得ない」という事に通じています。本当の単独個人などいないということ。
単に「組織の存続」という意味合いではなく、そうした側面からもこのアニメを通して考察することも大事なんだろうなと思っています。
(諷虹)
完全決着&ネタバラシのAパートとその後の日々を描いたBパート。
今までの敗戦ムードが一転、一気に決着まで駆け抜けた疾走感を感じました。反面、文鳥の女との決着がやや弱く感じてしまいました。まぁ、今までは物量で押したり、人質とったり、弱い方を狙ってかばったところを討ったりとダーティな戦い方だったから強かっただけで、一騎打ちになると大したことない・・・とでもすれば納得できますが。でもどうせなら12話丸々使っての決戦、13話でその後の日常パートみたいな感じでも良かったかなと。やはりこの作品の一番惜しいところは尺でしたかね・・・

Bパートでは、虚空さんも言っているようになのはシリーズでお馴染みの敵であっても再就職の模様が描かれていましたね。そして記憶を消してしまった師匠でしたが、モモとすれ違った時のあの笑みは色んな展開が予想ができるいい意味での投げっぱなしだったかなと思います。

Aパートで駆け付けた味方達もそうでしたがやはりスパイ・影の存在としての暗躍がかなりベースにあると思います。記憶を消したと味方も思い込んでいるからこその活躍、暗躍の機会があるのかもしれません。師匠曰く商店街の梅子おばあさんも記憶を消したタイプのツキカゲらしいですが、その話を知ったうえでBパート始めの新聞を読む梅子おばあさんの表情も師匠と同じニュアンスのように感じられたりもします・・・といった具合に色んな展開が予想できますね。余談ですがスパイスも料理の中で隠し味として暗躍する存在ですよね。

全編通してみるとアクションあり、ピリッとした山場あり、百合ありの爽快スパイものだったのかなと。続編やOVA等の展開も自然に考えられるいい作品だったなと心から思います。

アニマエール ☆第十二話最終回感想 『異なるみんなで一つの世界を』

参考サイトhttp://anicobin.ldblog.jp/archives/54634767.html
(虚空)
フッと思い出したのが「スラムダンク」でした。主人公の姿と桜木花道の姿が重なって・・・。
これを拡大解釈すると社会というか世の中全体の中でどう生きていくかということにも通じますよね。
「競争原理」や「成果主義」、ちょっと古くは「立身出世」・・・トップに立つ、権威を持つ、裕福になる・・・そういったことが実現しないと「意味がない」「負け組になる」という風潮が強まり過ぎています。
「縁の下の力持ち」ということに意義が見いだせない世の中。だから下請けとか専業主婦とか、本来だったら大きな仕事や成功の土台になっている最大の後継者の方々(仕事)が生きがいを見いだせない、報われないと感じてしまうというのはひどい風潮です。
やはりそれは「陰」ということへの意識が超鈍感になってしまったからでもあるでしょうね。ゲゲゲの鬼太郎ではありませんが「見えない世界がある」・・・日本人の感覚でいえば「見えない世界こそ本体」という発想がとれない。だから形として成果があげられるかどうかと人間の価値が正比例しているかのようにみんなが錯覚しています。

各都道府県の上にたつ人たちが学力テストの数字だけで右往左往し、学校や教師を非難し、「公立学校であってもエリート教育をすべきだ」とか「結果を出せない学校は潰れればいい」というような発言を平気で行う。
そういった方々は自分の体が「心臓」「脳」などのような重要と考えられている臓器単独で生きていけるとでも考えているんですかね?????
昨年NHKの放送された新たな「人体」シリーズは体全体のネットワークというのが中心テーマでした。これまで大きな役割をはたしていないと考えられていた部位にも非常に大きな役割があることが分かってきたと。これまでの「脳」という司令塔の指示に従っている下部組織なんていう位置づけではなくて、本当に健康な体として生きていくためには、すべてが大切な役割を持っていて、そのバランスが崩れたら能さえも正常に働けなくなるという内容でした。

スラムダンクの作者である井上雄彦さんの観方も同じだと思います。現在の独自の持ち味を精一杯発揮する・・・全体が一つとして互いに補い合っている。
物理学でいえば「相補性の原理」ですかね。
「みんなでチア」ということを極めるとそういった世界観・人生観がみえてきます。
(諷虹)
初めて他のチアの演技を見て、チアの凄さを感じたり、自分たちは場違いなんじゃないかと不安を感じたりと様々ないい刺激を与えられた大会出場だったのかなと思いました。
途中出てきた「頑張っている人を応援するのがチアの理念」という言葉、それから予選落ちしたという結果の件でふと「響け!ユーフォニアム」を思い出しました。
「響け!ユーフォニアム」は吹奏楽部を題材にしたアニメですが、全国を目指して本気を出す部員も居れば単純に楽器を演奏するのが好きな部員も居たり、初心者も居たり、ただただ適当に日々を過ごすだけの部員も居る(居た)。そんな部に新しい顧問が来て、一番最初に"全国大会出場を目指す"か"楽しく過ごす部活動にする"かを問います。
この2択はどちらも存在しうるからこその2択なんだと思います。ただただ全国を目指すのも一つの道ですし、楽しく付き合うのも一つの道です。「スラムダンク」の赤木(と小暮・三井)と他の同級生部員の2択、「ガールズ&パンツァー」の生徒会と他の戦車道履修者の2択なんかもそれにあたると思います。
今回の「頑張っている人を応援するのがチアの理念」というのは本質的なところなのだと思います。全国を目指している高校でも神ノ木高校チアリーディング部でも誰かを応援するという前提であるのは間違いないのだと思います。
そういう視点で見るとチアの演技を極めることしか見えていなかったひづめと、ひづめのことしか見えていなかった花和が、初心者のこはね達をサポートする・応援することでチアの理念に立ち返った・・・なんで見方もできるのかなと思いました。
総じて全体的にキャラとドラマ、ギャグのバランスがいい作品だったなーと思います。

となりの吸血鬼さん ☆第十二話最終回感想 『共に歩む』 共存共栄の進化論

参考サイトhttp://anicobin.ldblog.jp/archives/54633809.html
(諷虹)
今期やっていた「うちのメイドがウザすぎる!」の最終回がシリアスの中にギャグを入れてくるとしたら、こちらはギャグの中にシリアスが埋め込まれているのかなと思いました。深読みしすぎかもしれませんが
例えばAパートは唯一の食糧である血液が手に入らなくなってしまい、飢えている状態であっても友達の灯を食料と見たくない、対等な立場でいたいというものでした。他にもエリーに献血ルームの血は献血用であり、吸血鬼のものではないと諭すシーンも人間という種族との共存するという思いがあるのかなと感じました。
そしてBパートでは街中を散歩しながらこれまでかかわってきた人達と会話を交わし、最後に出会った森でもう一度初めて出会った時と同じやりとりをし、今までの総集編のEDが流れ、そして二人で歩いて帰る・・・という一連の流れが非常に最終回らしく素晴らしい流れだったと思います。
2人で飛ばずに歩いて帰っていくところも、人生を過ごすという意味での”歩み(あゆみ)”の意味合いもあるのかなと思いました。きっとこれからも人間と吸血鬼という種族の隔たりを超えて過ごしていくのだろうなという希望を感じさせてくれるラストでした。
(虚空)
進化論で有名なのは「自然淘汰(自然選択)説」でしょうね。実際には様々な進化論がある中で、一般的には進化論といえばこれ、というくらいに刷り込まれている概念かもしれません。
そしてそれはまさに現代社会の隅々にまではびこっています。強きものが生き残り、弱きものは捨てられていく・・・競争原理こそが理想の世の中にしていく最高の原理なんだ、という考えに盲従しているからこその経済界・教育界・企業の原理への発想の適応。
弱者切り捨て、福祉政策にまわす予算など無駄使い・・・そんな風潮すらあります。公立学校でありながら学力テストの成果が出ていない学校には予算をまわすな、潰してしまえ、なんていうことを法律関係の仕事をしていた方々が声高に叫び実行に移すことが良いとされるんですからね。(あの時の首長が元弁護士、その部下として動いていた教育長は元判事だったと記憶しています)

児童の言語生態研究会の基礎をかためる上で大変お世話になったという方にイメージ研究の第一人者であった藤岡喜愛先生の師匠は今西 錦司という先生。その先生の提唱された進化論は「棲み分け進化論」と呼ばれています。学問の世界ではマイナー扱いされているということなのですが、「共存共栄」という精神からいっても、こちらの進化論の方が大宇宙の理に近いと感じています。
アニマエールの感想の方にも書きましたが、一部の優れたとされるだけの存在で全体がうまくまわっていくほど世の中は単純には出来ていません。
「だから下の者は上の命令に全面的に従うべきなのだ」という主張もありますが、それもどうでしょうね・・・詳しくここには書けませんが、例えば古武術の世界などでは、そういった「脳が指令を出し、順々に神経で命令が伝達され、筋肉がそれに従って動き、現実に対応する」という西洋的な常識とは全く違う原理で探求されていているようです。
どの臓器が上でどれが下・・・ではなく表面に出ている役割には違いはあっても、究極的には対等。それをつなぐネットワークこそがカギだと。命令伝達系統云々ではなく、すべてがワッと感応し、適切に動く。

人間社会でそのつながりの根底にあるのが主従関係ではなくて信頼関係なのでしょうね。
「亜人ちゃんは語りたい」でも吸血鬼などと一般人との共存が描かれていましたが、異なる種であっても信頼で結ばれて、諷虹君の言うように地に足をつけてしっかりと共に歩んでいく姿勢。古代日本人が大切にしてきた姿勢。
その復活を願いたいものだと感じながら視聴した最終回でした。