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☆ 学修塾ダンデリオン 1月12日・15日ツイッターに関して

*かなり長い引用が続きます。下の方にやりとりがあります。

学修塾ダンデリオン    https://twitter.com/hp45z6dx0wlrka6
(老子道徳経 下編徳経59)
人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若(し)くは莫(な)し。夫(そ)れ唯(た)だ嗇、是を以て早く服す。早く服するは、これを重ねて徳を積むと謂(い)う。重ねて徳を積めば、則ち克(か)たざる無し。克たざる無ければ、則(すなわ)ち其の極を知る莫し。
其の極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国を有つの母は、以て長久なるべし。是を、根を深くし柢を固くし、長生久視するの道なり、と謂う。【大体の
意味内容】人を治め天に仕(つか)えるには、過剰な利益を削り過剰な支出を抑えるように、得るも払うも節制することが第一である。
いずれにおいても過剰さを慎むのが「嗇(しょく)」である。そうすることで、早く宇宙の道理に従える自由を得られる。本来の「理」に従い、「理」の中に在ることが、自分自身の心身が最ものびやかに活動できる合理性という「徳」を「積む」ということになる。
今日、自分本来の「合理」をひとつ見出し、明日また別の合理を見出してゆけば、その「徳」は足し算ではなく掛け算の「積」として大きく確かなものとなってゆくであろう。こうして「徳」を「累積」してゆけば、いかなる障害があろうとも、克服できないものはない。
そもそも「理」の中に在れば、障碍(しょうがい)を困難とは思わないのだから、自分の究極の限界などというものを知ることがないのである。何事も限界とは思わぬ志が、国を生かしめる。国を生かすための母(もと)が「嗇(しょく)」であり、それによって国も人も長久の命脈を保てる。
これを、「物事の根柢を深く固め、長(とこ)しえに久しく生きるの道」という。
 【お話】私は小学3年生から5年生までの間、剣道を習っていました。左(ひだり)利(き)きの私は、右手を上、左手を下にする竹刀の持ち方に違和感を覚えましたが、「左手で竹刀の重みを支えなければならないから、左利きのほうが有利なくらいだ」と師範に言われ、そうかと思って取り組んでいました。が、どうしても、すぐに疲れてしまいました。ほかにもいろんなスポーツに取り組んでいたので体力にも腕力にもある程度自信はあったのに、剣道だけは、いくら竹刀を軽くしても、友だちより先に腕が上がらなくなってしまうのです。結局、段を取ることもなくやめてしまい、ずっと謎のままでいたのですが、後年、ある剣道家(剣道研究者でもある方)と話す機会があって、この謎について質問しました。氷解しました。
右(みぎ)利(き)きの人は、力が弱い左手で下を持つから、竹刀全体の重みを支えるだけであとは右手に任せる。力の強い右手が負担の軽い上のほうを持って、太刀筋(たちすじ)をコントロールする。両手とも、無駄な力を入れないからバランスが取れてしなやかな太刀振(たちふ)りができるのだ、と。
目から鱗(うろこ)でした。剣道の決まりごとになっている、右上・左下の竹刀の持ち方は、右利きにとってこそ合理的であって、左利きにとってはアンバランスもいいところだったわけです。非合理的で、「身体道徳」に反するものでしかない。くだんの剣道家の方も「(剣道界は)硬直してる」と独(ひと)り言(ご)ちてらっしゃいました。私は「型」は大事だと思っています。でも、生きた「理」を考えない硬直した形式論は、「型(かた)」ではなく「枷(かせ)」に過ぎません。「手枷(てかせ)」「足枷(あしかせ)」「首(くび)枷(かせ)」の「枷(かせ)」です。
初めから「自由を奪う」目的のもの。どんな分野でも、最初はお手本のまねをして、基本の「型にはまる」練習を積みますが、まずは多くの人に共通の「合理」を体得する。それから工夫を重ねてて「型破り」していきます。「型にはまる」ことは不自由になることではなく、自分の心身にとってなるべく自由を得られる流れを獲得することなのです。段階が進んでくると、いよいよ、他人とは違った自分独自の「理」を追求して、「型破り」するわけです。 「型」がなければそれを「破る」ということもできません。初めから「型」も何もないのは「単なる「型なし」です。
それではいくらカッコつけても「様(サマ)にならない」。それを「無様(ぶざま)」といいます。自分の身の周(まわ)りにある様々な「お手本」は、ぜひ大事にしましょう。
(老子道徳経 下編徳経60)
大国を治むるは、小鮮を烹(に)るが若し。道を以て天下に莅(のぞ)めば、其の鬼(き)も神(しん)ならず。其の鬼の神ならざるに非ず、其の神も人を傷(そこな)わず。其の神の人を傷わざるに非ず、聖人も亦(ま)た人を傷わず。夫(そ)れ両(ふた)つながら相い傷わず。故に徳は交(こも)ゝ(ごも)焉(こ)れに帰す。
【大体の意味内容】大国を統治するというのは、小鮮(こざかな)を烹(に)るようなものだ。かき回すと形が崩れてしまうので、余計な手を加えずコトコト静かに煮る方がよい味わいが出る。「道」の理に従って、天下における自分本来の位置を見極め、そこに立って生きよ。そうすれば、大地の精霊たる「鬼」が人々に霊威をもたらすように、「道」理の徳が、「処」を得た人の内側から湧き出るように、その人を徳(はたら)かせる。神鳴(かみなり)が天地を突(つ)ん裂(ざ)きこの世に祟(たた)るような暴発はしない。いや、大地の「鬼」霊が祟り神にならないというだけではない。「道」理の徳を体現すれば、雷や祟り神であっても、その人を傷(やぶ)ることはできないのだ。さらに言うと、祟り神が人を傷(そこな)わないというだけではない
【お話】これまで「聖人」を理想的な存在として語りだしてきていたのに、ここでは神よりもマイナスな存在として扱われ、神はまた神鳴(かみなり)(雷)が原義であるように、本来祟(たた)りを為すマイナスな力として語られています。ただし「聖人」よりはましなものとして。さらにその「神」よりも良いものとして「鬼」を真っ先に挙げているのが面白いですね。「鬼」は大地の草木や生き物、岩や土や水などあらゆるものの精霊として、認識されていたようです。後々(のちのち)の時代には、悪いものの代表のように扱われる鬼も、老子の時代にはこうした、生命全般を育(はぐく)む者、人々の、死んだ祖先を指す言葉として、尊重されていたようです。お正月に、「お年玉」をもらいますね。これはもともと「お年(とし)魂(だま)」で新しい年の魂がやってきて、それが体につくから、すべての日本人が一斉に「年を取る」つまり年齢が一つ上がったそうです。明治時代以前は「数え」という方法で年齢を加えていました。最初は、生まれた瞬間で1歳となり、その後は誕生日に年を取るのではなく、正月元旦に「年魂」を獲得してみんな年を取ったらしい。その「年魂」が宿るモノとして、おもちが考えられていたわけです。確かに柔らかい丸餅(まるもち)は、魂が形を持ったものとしてぴったりですね。餅は、もちろん「もち米」という穀物から作られます。秋に稔(みの)る稲穂の、その穀物が一度稔る期間のことを「稔(とし)」と呼んでいたので、「年魂」はさらに本来は「稔(とし)魂(だま)」だったのでしょう。古代中国ではこうした精霊たちを「鬼(き)」と呼びならわしていたようです。私達が食べる様々な穀物や草、野菜、果物、肉、魚などなどには、その者の生命だけでなく、宇宙の「鬼」が宿っている。
宇宙空間に様々な星が生まれ其の星の中であらゆるものが成り立ってきたわけですから、日常の食べ物すべての背後に宇宙の力があるわけです。「僕らは『鬼蹟(きせき)』でできている」。そのことに感謝して、何でもおいしく味わい、元気になりましょう!
(老子道徳経 下編徳経61)
道なる者は万物の奥なり。善人の宝なり。不善人の安んずる所なり。
美言は以て尊を市(か)うべく、美行は以て人に加うべし。
人の不善なるも、何の棄(す)つることかこれ有らん。
古(いにしえ)の此の道を貴(とうと)ぶ所以(ゆえん)の者は、何ぞ。
求むれば以て得られ、罪有るも以て免(まぬがる)ると曰(い)わずや。故に天下の貴きものと為る。
【大体の意味内容】
「道」は宇宙生成の最奥(さいおう)の原理である。善い人にとっての宝である。善くない人にとっても安心して生きながらえる居場所のようなものだ。
美しく飾り立てた言葉を操って、人々からの尊敬を買い集めたり、美しい行いでさらに自分への利益を加えてゆくこともできる。(そんな「おためごかし」は見苦しいものだが、それでも良い報(むく)いを得られるのも事実だ。)
だから善くない人であろうとも、どうして見捨てられることがあろうか。
(「道」理とは、そのような取捨選択をせず、万物万人に働きかけるものである。)昔から「道」が貴ばれてきた理由は何であろうか。
それは、「求めれば、そのことが原因となって、得ることができ、罪があっても、「道」の働きにおいては免(ゆる)されているから」と、言えまいか。
(罪を犯せばすぐに死んでしまうということはないからである)ゆえに、「道」はこの世で最も貴いものと為(な)る。
【お話】
鎌倉時代の高僧「親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)」の有名な「悪人(あくにん)正機説(しょうきせつ)」とはこれが源流だったのだとわかりました。
「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや…」で始まる『歎異抄(たんにしょう)』の冒頭の大意は以下の通り。
「自力で善行(ぜんこう)を積み上げ、他力(たりき)を恃(たの)むことの欠如(けつじょ)した人であっても極楽往生を遂げられるのだから、ましてや煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)にして他力(たりき)を恃(たの)む悪人である我々が、極楽往生しないわけがない。
慈悲(じひ)深(ぶか)い阿弥陀仏(あみだぶつ)は、むしろこのような救いがたい悪人こそ救ってくださるのだから。」
このかなり理屈っぽい一節も、老子のシンプルな文章を読めばすっきりと腑(ふ)に落ちます。
特に、「道」とは「不善人の安んずる所」とか「求むれば以て得られ、罪有るも以て免る」といった簡潔な文が、かえって力強く響きます。
よく言われるように、「お天道(てんと)さまはすべてのものを等しく照らす」のであって、こちらの箴言(しんげん)のほうが老子の意をよく継いでいるといえましょう。
「善(よ)い行い」をすれば褒(ほ)められ、「犯罪」を働けば処罰されるというのは、小さな人間たちが行う小さな行いであって、宇宙の大道(たいどう)から見ればどちらも小さな者たちのうごめきにすぎず、大した違いはない、ということなのでしょう。
こうした大きな視点に立てば、宇宙の根本原理に反しない限りはつつがなく生きられるし、「道」に反すれば、自ら滅びの道をたどることになると。
「合理」というか、「道理」に沿うか沿わないかが最重要のポイントになるわけです。
といっても、例えばテロのような非道なふるまいが許されるわけでも正当化できるわけでもありません。
それは当然のこととして、視点を地上的なところから宇宙論的な広がりに転換してみるべきと、老子は訴えているのだと思います。
武術研究家甲野(こうの)善(よし)紀(のり)の言葉を参考にしてみます。
「逆縁(ぎゃくえん)も、出会いの最高形態である。」
愛しあったり尊敬しあったりするのを「順縁(じゅんえん)」とすれば、武人同士が命懸けで戦うのは「逆縁」となりますが、それもまた、互いの全存在をかけた、最高に熱いコミュニケーションである、ということです。
『バガボンド』というマンガの中で、聾唖(ろうあ)の剣士佐々木(ささき)小次郎(こじろう)と、凄腕(すごうで)の武士猪(い)谷(がや)巨(こ)雲(うん)とが、
斬りあいのさなかに互いを認め合い、惹(ひ)かれあってゆくシーンが印象的でした。
「小次郎、俺たちは、抱きしめるかわりに斬るんだな」と決着がつく。
ぶつかり合う命が宙空に昇華した瞬間。
何ともすごい絵でした。
「最強の敵は、最高の友」
2019.01.16 水曜日
00:12 コバルト
駿煌会との感覚が妙に近い気がします。
ぜひダンデリオンさんと駿煌会の直接のやりとりをやってみたいと思いますね。
06:27 虚空
そういう交流が少しずつでも広がるといいんですね!
08:59 コバルト
自分がどの道を歩いているか知ったときに、筋道というのを立てられるんじゃないかと思います。
要はそれは自分そのものの道理であって、例え世間的に外れていたとしても、自分自分達の道理に律することが出来れば、それで十分保たれるんですよね。
特に新選組なんかは厳しい規律の中で居場所を確立したもので有名ですよね。
あれも道筋を建てたもので、それに外れたら切腹という厳しいものだったみたいですし。
でもその厳しさが自分達そのものを見立て、律することが出来たものじゃないかと感じました。
09:02 虚空
「歩いているのか知ったときに」というのが先ず興味深い部分ですよね。今この瞬間には分からないけど、あとで分かるというような。以前諷虹君とT・K先生から送られてきた雪道の資料でやりとりしていた時にも出てきたのですが、今自分がどういう道を歩いているのか分かると、逆にその道以外の選択肢が見えなくなる、というのもありますから(縛りになってしまう)
難波先生が最近のツイッターで幅広い視野ということを発言されたことに対しての異議(?)のようなツイートがあったのですが、いわゆる「専門バカ」にならないような心がけは自ら必要だと思います。(諷虹君とよく話題になるのは、同じ数式を扱う同士でも、案外「数学者」と「物理学者」の交流がないらしいということ。)
10:30 コバルト
たしかに先細りになっていく道や破滅の道などあります、覇道(死んだとしてもそれは本望)という道にありつけるか、たとえば美空ひばりなんかは、歌道に突き進んだ人なんだろうと思います。
舞台の上で死にたいと言えるのはすごいです。
ちなみに道と波(波長)は同義であると言ってもいいかもしれません
波動と覇道!
☆1月18日 金
23:46 ヒマワリ
読みました!
漢文は飛ばしましたが、何故かダンデリオンさんのお話の部分は音読しましたw
誰も聞いちゃいないのにw
全部いいお話だな?と思いました。
型 枷 型破り …ほぉほぉと。
学ぶは真似ぶでござりますね。
数え年の意味を初めて理解しました。
よく耳にしてました数え年とゆう言葉を。
でもふーんぐらいにしか聞いてなかったから、そうゆうことなんだ!って理解。
お年玉の意味も、そうなんだーって感心。
鬼はなまはげだね!
2019.01.19 土曜日
00:04 ヒマワリ
こりゃスケールのデカい話だよ。
お天道様は見てんだかんねって、いいことしてるとこ見ててくれて、悪いことしてる奴にバチが当たるってことかと思ってたら、等しく照らしちゃう系なのね
嫌いな奴は嫌いだ!
因果応報!地獄へ堕ちろ!とか思わない系?笑
神様の領域じゃん。
シシガミ様系ですか、森の道理に沿うか沿わぬか…
命を与えもし、奪いもする。
生と死、死と再生。
はーーーん?
10:47 ヒマワリ
もっと頭の中に釣り糸を垂らしたら、もっと他に何か出てくるかもしれない。
数学的だし、福祉的だし。
↑あの老子道徳経 下編徳経59の部分。
18:50 ソルティ
難解でしたが、ダンデリオンさんの剣道のお話しが面白かった。
悪人しょうきせつは いまだに やっぱり書き直してほしいと思う。あと、カトリックの聖歌で「幸いなるかな~」というのがあって、幸いなるかな~義にうえ乾く人~天国は彼らのものである~。まあこれは良しとして、「幸いなるかな~ 心の貧しき人~」 これがどうしても、(なんでやねん?)だった。だけど、宇宙って 何でもあり! あなたの存在、それ自体が素晴らしいのですよ~。と言われているんだと理解することにした。
19:28 ソルティ 
悪人正機説は書き直してほしい、と書きましたが、親鸞さんに凡人にわかるように書き直してほしいという意味です。
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