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☆「江戸庶民の発想」から① ラインやりとり-1「”自分”が複数混在」(2019,02,03~)

2019年2月3日 日
09:09 虚空
T・K先生からのメールの中に、「江戸研究」などでも知られる田中裕子先生の話題がありました。(江戸時代の「色恋」意識の著作は私も持っています)
江戸庶民の発想を「自分の中の複数のアバター」という観点から考察されています。

アバターって数年前に話題になった「サマーウォーズ」でも出てくるネット社会では一般的な用語なのでしょうが・・・ちゃんとした意味を調べたことはありませんでした。
⇒「化身」という意味で、ネットワーク上の仮想空間でのユーザーの分身のこと。
以下メールの転載(部分)です
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1月11日の朝日の記事が目にとまりました。
法政大学の田中優子総長の朝日教育会議における基調講演、記事の見出しに「自分の多様性 社会を変える」
「江戸時代 文化を深めた『複数の私』」とあります。
 法政大学は「ダイバーシティ宣言」を掲げた。多様性を認め合う社会。そこへ向かっていくための一助として
「複数の個人」、すなわち「アバター」というものの存在に注目してほしい。
 本日は「江戸文化とアバター」と題し、江戸時代を現代世界へ通じる社会としてとらえ、未来を考えたたい。
そして、アバターの具体例がいくつも出てくるのですが、
 最たるものは落語だ。落語家は一人で何役も演じる。例えば「粗忽長屋」。
熊五郎が行き倒れた「自分の死体」を抱き上げ、「抱かれているのは確かに俺だが、
抱いている俺はいったい誰だろう」。奇妙な落語だが、人が簡単に分裂しても平気な世界。
江戸らしい。
 
とあります。・・・・・
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この記事内容をみて郡司先生の江戸庶民の認識法・・・私が勝手に「多次元構造の同時進行」と名付けた・・・を思い出しました。
ああいった観点からすると、当たり前に複数の人格を同時に進行させることができたような、あるいは「パラレルワールド」を意識世界で同時に並べていく・・・というような5次元以上の(?)発想法を普通にとれていた日本人と、第三項理論との関連は興味深いです。
郡司正勝 遺稿集
P73  [江戸の発想]
 歌舞伎の作品を補綴(ほてい)したり演出しだしてから、もう十本ほどになる。
 私がどうも腑におちないのは、必ずといっていいほどに、劇評に、筋がよく分からないとか、テーマに明解を欠くとか、わかり難いという評が焦点になっていることである。・・・
 いったい、どうして江戸時代の庶民が創り出した大衆劇である歌舞伎が、今日の最高学府を出たインテリにわからないのであろうかということである。・・・こういうとき、私は、あなたは教養があり教育がありすぎて解らないのでしょうということにした。
 
 歌舞伎狂言の構成は、仕組むといって、いくつもの世界を、時代の違う世界を、同時に組み合わせて綯い交ぜ(ないまぜ)にして作劇する。江戸時代の奇才鶴屋南北などになると、四つも五つも世界を組み込んで「筋からみあって新しい」と評されるほどである。まァいってみればTVのチャンネルを何分かごとに切り替えて見るようなもので、これに有機的関連性をもたせ、最後には一つに纒(まと)まって決着がつくこうしたのを上々とする。 
 こうした構造を芸術の基準としている、その構造が理解できなければ、おそらく絶対にわからないであろう。近代の学校教育は、西欧的理念と方法によったものだから、はなはだ合理的科学的で、そうした教育がすっかり身についているインテリにとって、こうした江戸の文化の構造や発想様式は、習いもしないし、生活にもないとすると、もう体質的に受け入れられなくなっているのである。日本人も、まったく西欧人なみの頭脳になっていて、すでに江戸人とは異質の人種になっているのではないか。
 江戸人の目は、いくつもの世界を、同時に一緒にみることの能力があった。トンボの眼のように、複眼的構造は、同時に、いくつもの事象をうつしとることができる。あるいは、それは封建時代に生きる者の生活の知恵であった。右か左かを分明しては生きてゆかれなかったこともあろう。なまじい教育のある者にとっては矛盾として受け入れられないものを、おもしろしとして、そこに見るべきものを見た世界構造。それが歌舞伎の構成であった。
 江戸歌舞伎は、テーマを四つも五つも一つの作品に盛り込み、鵜匠の手綱のように、その捌き方の技術を、ほれぼれと舞台で鑑賞するような、そんな生活基盤の美的基準がもうなくなってしまったのかと考えこまざるを得ない。
13:03 諷虹
粗忽長屋は演目名は聞いたことありましたが、実際どんな話なのか知らなかったのでこれを機会にいくつか聞いてみました
 https://www.youtube.com/watch?v=rgeluktyNQo
 今貼ったのは個人的に波長の合う落語家さんのものです(42分とありますが、実際は24分です。)
このようなそそっかしい人間が勘違いして、勘違いして・・・といつの間にかとんでもないことになっていってしまうという話の作りが「村の英雄」っぽいなと思いました。
枕で「オレオレ詐欺」なんかを例に出していますが、思い込み・・・一種の錯覚のような感覚、その人の中で「そうなのかなぁ」→「そうなのかも」→「そうに違いない!」となってしまっていると全貌が見えなくなっていってしまう。簡単なことでさえ気づかなくなってしまう
しかし、それを客観的にみると(語り手視点・視聴者視点)滑稽に見える・・・というところがここ数日話題にしている「主体からみた客体」なんかにつながるのかなぁ・・・って感じです
この手の話だと「主体が捉えた客体」(勘違いしている人がとらえている状況)がいかに狭い領域になってしまっているのか、狭まってしまっているのかというのを面白がっているということなんでしょうかね
そして、村の英雄はそんな風に狭まって狭まって・・・いったものが一気に解放され伝説として語り継がれていったという結末につながった?(圧縮と解放)
この「粗忽長屋」は自分はいったいどんな状況なんだ?と当人が当人を客観視するという次元の変化が起きたところをオチとしているので非常に哲学的というか、「これだけ粗忽な熊ならどんな風に状況を飲み込むんだろう」という広がりを想像させるようなオチなのかなと思います
18:32 虚空
ここで「村の英雄」が再浮上ですね!
落語の動画も観ました。
確かに「私」ってなんだろうという・・・。
夢の中の自分と、そういう夢をみている自分とが割と区別されている場合と、されていない場合があったりして・・・

子どもなんかは尚更でしょうが、自分も子どもの頃から今でも、生涯の中で最も何度もみる夢は「火葬場」そして「葬儀」に関する夢だということは何度かみなさんにもお話している通りです。
自分が火葬される夢、自分の葬儀の夢も何度もみているし。
葬儀のお手伝いをしていてハッと気が付いたらそれは自分の葬儀だったという夢もみているし。
そんな時に、夢の中であっても、この落語と同じような感覚に陥っていることはありますね。
2019.02.04 月曜日
07:41 コバルト
この動画を見て思ったのが、人間のも持つ一番古い記憶にしても大体3、4歳かららしいのですが、脳の成長など科学的な部分を抜きにして、そもそもそういう自我の確立はどうやって発生するのかが気になります。
混沌の中にいる(ウルトラマンのタイトル)みたいな感じ?
https://youtu.be/hSgBCi-1yQE
07:45 虚空
混沌をそのまま認める」かどうかも違いとして現れるんでしょうね。
自我の確立 なんていう立場からすると混沌状態はダメ となってしまうんでしょうけどね・・・
ウルトラマン本放送でこのOPと出会ったのは幼稚園の年少組の頃ですが、その頃から強烈に印象に残っています。
当時はモノクロテレビでみていたので、それこそ墨流しのような混沌から文字が浮かび上がってくる感覚。
余談ですが、ウルトラマンの先行番組としての「ウルトラQ」のOPがカラーとして使われて、そこから「ウルトラマン」と出るというのが今考えてみると面白い流れだった気がします。
さらに余談ですが字幕に「金城哲夫」と出たのも感慨深いものがあります。もちろん会ったことはないですが、上原先生の愛弟子であり、円谷英二氏に彼を紹介したのが上原先生だ、という因果・・・まさかあの幼児期にみていたシリーズの生みの親の師匠と出会って・・・なんて思いもよりませんでしたから。
この主題歌の歌詞って東京一作詞とありますが、円谷英二のお子様でウルトラマンシリーズのメイン監督だった円谷一さんの作詞家ペンネーム。

多分金城哲夫さんと一緒に作詞プランをねったと思うのですが、金城哲夫さんが学生時代に上原先生を通して学んだ折口先生の発想がとっても色濃く反映しています。
一番は「まれびと論」・・・救いの神が異界からやってきて幸をもたらす(なまはげ・お正月様⇒サンタクロースや水戸黄門)
二番は「ライフインデキス(生命の指標)
っていうような感じです。
13:44 コバルト
ウルトラマンは命を2つもっているんでしたっけ?
混沌をふまえると自我ってそもそもとても曖昧なものかもしれないです。
夢の世界って自分以外にもなれるし、それに自我を保ったまま好きな夢をみるという事を何度もチャレンジしましたが、夢を見ている最中に夢を見ている事を自覚したことは、ほとんどない気がします。
精神にある程度の衝撃(プレッシャー)を与えれば自我なんてすぐ吹っ飛んでしまうでしょうし。
ゾーン(超集中)に入っている時なんて自分が自分じゃない感じでもあるから。
16:42 虚空
光の国から迎えにきたゾフィーが命を二つ持ってきていて、その片方をハヤタに与えます。(この頃はウルトラ兄弟という設定がなかったので、ウルトラマンとゾフィーとは初対面という感じでした)
ここで興味深いのは「命」と「魂」とは別々にされているということです。
新たな命を与えられたハヤタはウルトラマンとして戦っていた期間の記憶はなくなったものの、それ以前の記憶はあるわけですから。
日本人の魂は入れ替わる・・・という折口先生の発想の大前提でも「肉体は器」だから魂は入れ替え自由だと。
このあたりも日本人が考えてきた「自分」ということを考察する手掛かりになるかもしれませんね。
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