忍者ブログ

☆西田幾多郎「善の研究」と「駿煌会」 諷虹君、大いに盛り上がる

10月4日の諷虹・虚空やりとり記録の終盤です。


ここまではアニメがらみの話をいろいろとしていて、そろそろ今日はオシマイという感じで片付け始めた時に、何気なく虚空が言葉にしたことから、さらに続きました。


難解なことで有名な、日本の本格的な哲学者の礎を築いた西田幾多郎博士の「善の研究」の話題です。あちことの断片的な拾い読みですが、これを諷虹君が非常に楽し気に声に出して読みながら盛り上がっていました。


学生時代に原典を購入していたもののさっぱり分からずに生きてきた虚空も、その彼の雰囲気に影響を受けて、なんだか違った読み物のように感じてきました。


「善の研究」の解説書は原典からの抜粋が沢山ありますが、そこは読み飛ばしてくださっても結構ですので、そんな文章に諷虹君がどんな反応をしているのだけでも目を通してみてください。





(帰り支度をしながら)
虚空 あのさ、近いうちに話題にしようと思っているんだけど、高校生の頃から妙にひっかかっていた西田幾多郎っていう哲学者の「善の研究」。難解なことで有名なだけあって昔買った岩波文庫のを何度読もうと思っても数行で挫折してきた。

でもこの前でてきた上原先生の「英才児は観察」っていうことと何かつながりそうだと思ったからもう一度引っ張り出したら、今度は半ページは読めた。
そしたらね、先週いわきへ行った時に、特急を待つ間にたまたま入った本屋でNHKのテキストをみつけて・・・

買って読んでみたら、去年から駿煌会でずっと話し合ってきたことや、この前土浦で難波先生と語り合ったこととすごく通じていることがあるらしいと・・・・。
10月に4回シリーズでの番組なんだけど、それをみたら、また原典に再挑戦しようと思ってる。


*諷虹に解説書を手渡すと、私が特にどの部分ということを示す前にパラパラとめくりながら関りの深そうな部分を次々とみつけていく。

諷虹君がみつけて声に出して読んだ部分をいくつかあげると・・・
***************************
解説書の抜粋
P20
ここで西田が強調しているのは、人が、同じことを認知しながら、個々別々の世界を認識し、生きているということです。・・・・・・・・ここで注意しなくてはならないのは、西田が個々別々の世界を生きていることを強調しているだけではないことです。現象的には無数の世界がありながら、実在的には一なる世界であることも西田は注意を促します。

P34
西田のいう「宇宙」とは森羅万象の異名です。さらに「宇宙」は、外的空間だけではなく、内なる世界をも包含する言葉です。・・・・宇宙を感じようとするとき、現代人は空を見上げます。しかし、西田は、目を閉じて座禅をしたかもしれません。そうすることで内外両方の宇宙を感じることができると思っていたのではないでしょうか。

P36
「知と愛」
西田は「愛する」とは「物」と一致することであるとも述べていました。ただ、西田の「一致」というのは、寸分たがわず重なり合うということではありません。むしろ、今の引用に「共に笑い共に泣く」とあったように、異なる二つのものが、異なるままで「共鳴」し「共振」しているようなイメージでとらえた方がよいと思います。
西田にとって共感と共振は哲学的経験の始まりにほかなりません。・・・・・

親が子となり、子が親となるというのは、ともに「私」が主語ではなくなる状態ともいえます。「私」が主語になると、世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しないかもしれない。しかし「私」が深くなっていくと、表層世界の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底にふれていこうとする。この状態が、西田のいう「善」の世界なのです。

P47
「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する。それが西田の「神」の理解です。

P52
西田にとって「哲学」とは、「小さなる自己」を通して「大なる自己」へと至る道であり、「大なる自己」の世界の叡知を「小なる自己」の世界へと運ぶはたらきともいえます。「大なる自己」とは、自我から自由になった「自己」、無私なる自己だと考えてよいと思います。

P64
「行為」はつねに「意識」を伴わなくてはならない、と西田はいいます。西田のいう「意識」とは、表層意識のことではありません。表層意識と深層意識の両方を含んだもののことです。その両方が一つになり「行為」されるとき、「善」への道が開かれるということです。

P66
ここでの「個人主義」は、現代のそれとまったく意味が違います。西田にとって「個人」とは、つねに「他者」と共にある存在だったのです。だからこそ、その開花が至高の「善」になる。むしろ他者と共にいなければ真の「善」にはなり得ないということです。
等々
**************************


そして原典をみせると手に取ってこれもパラパラとめくりながら、目についた文(響いてきた文)をあちこち声を出して拾い読み。
例 原文
P52 
直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質を持っている。・・・厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間・空間・個人等の形式に拘束せられるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越せる直覚に由りて成立するものである。
P216 (神に関する論述)
等々、他にもあちこち
諷虹 駿煌会の言葉の使い方って一般とずれているからすごく分かりずらい、って言っているのと同じじゃないですかね、この本が難しいっていうのは。


虚空 そういう点でいうとさ・・・やっぱり、駿煌会ホームページの用語辞典コーナーを早く充実させないとね。


*さらに原典の拾い読みを次々と声に出して読み上げていく
P190 善行為の動機 内を読んで
・・・・富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるものではない。もし人格的欲求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者を目的とした即ち意識統一者の為に働いた行為でなければならぬ。


諷虹 これはQべえとまどかですね。(アニメ「魔法少女 まどか☆マギカ」のキャラ)


虚空 これまで善の研究でいろいろなコメントがあったと思うけど、まさか「まど☆マギ」なんていうアニメと結び付けた意見がスッと出てきたなんていうのは先ずないよね。

原典 P199 男女の違い
「社会的意識に種々の階級がある。そのうち最小であって、直接なるものは家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級と言わねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は単に子孫を遺すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的を持っている・・・」


諷虹 この前土浦で話題になった、「郷土」から「世界」、果ては「地球」「宇宙」って人格が広がっていくみたいな話の、最小単位は家族なんですかね。
(さらにあちこち音読)

諷虹 面白いですね。これしか読んでいないのに何ですが、鉱脈がありそうな


虚空 はっきり言うけどさ、原典に直接目を通した分量は、高校時代に購入した自分より今の諷虹君の方が多いからね。


原典 P242  ・・・知は主客合一・・・愛は主客合一  を諷虹君が読み上げるのを聞いて


虚空 それがフレーベルでいう「共通感情」とか、上原流にいえば「意識のベース」「心意伝承」


諷虹 「学ぶことも共鳴」できるようにするというなんですね。


虚空 論理や知性が、感情やイマジネーションを豊かにするツールっていうことだよね。
西田さんって、もともとは哲学者じゃなくて、学校でドイツ語とか教えてたんだって。あとはね、数学に対しての素養があって、恩師の先生から「数学者になったらどうか」と勧められていたんだって。
そういうところもさ・・・駿煌会と相性が良さそうだよね。 

原典
「数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其物と一致するが故に、能く数理を明らかにすることができるのである。」

諷虹 これってこの前話していたことそのものですね・・・(と大笑い)
数理と一体化しているんですね。大いなる存在として。


虚空 さっきもそうだけどさ、善の研究をこんなに楽しそうに笑いながら音読する人間ってどのくらいいただろうね。


諷虹 『知ることが愛であり、愛がゆえに知りたくなる』っていうのも、オタク気質の性質ですよね。すごくよく分かる。

流し読みしただけですけど・・・学問として面白いってよりかは「あるあるネタ」で笑っている感覚ですよね。


虚空 それなんだよね、この解説者が主張しているのも。善の研究は哲学書として読んではますますわからなるって。生活と一致させて読む。
深夜アニメとかの俗っぽいことと結び付けている駿煌会と相性はいいんだろうね。



・・・・と、話している時に、諷虹、もう一度原典を手にとり拾い読みを始める。

虚空 書き手と波長をあわせるっていうのが如何に大事かだね。
だって、若い頃から何度か開いてもあんなに難解で読めなかったのがさっきから諷虹君が音読しているところは、よく分からないくても心に響いてくるもん。


諷虹 小説でだってこんなに文章を読んで楽しんで共感できたのは初めてですよ。
まあこれは小説じゃなくて哲学書ですけど。今度買ってみようかな・・・まあちゃんとは読まないと思いますけど。


虚空 この解説番組をみたらまたキャッチできることが増えるかもね


諷虹 でも、さっきからは解説を読んでないところばっかりがひっかかってきてるんですよね。解説書よりも原典の方が読んだ分量が多いですからね。


虚空 そこがすごいよね。だから解説番組をみたって、その解説者の意見に従わなければいけないということもないしね。


諷虹 今日、こんな風に読んだのを西田幾多郎はどう思っているのか分かりませんが・・・


虚空 喜んでいると思うよ。生活感情を通して読むことは「余の望むところ」って。
 
PR

☆好きな事を究める生き様 「個性」と「多様性・社会性」 ②

☆ 2019年9月22日  諷虹・虚空やりとり
昨日の続きだったのですが、
SWITCHインタビュー達人達 桑田卓郎(現代アート陶芸家)×ロバート キャンベル(国文学研究資料館館長)
を視聴しながらの語り合いでした。

こうした「個性」に関すること以外にも、駿煌会での語り合いとの接点も非常に多い内容でした。



虚空 昨日は英才児の狭くて深いということからの「個性」を、外側から働きかける力っていう切り口で考えたんだけどさ・・・

たまたま今朝、しばらく前に録画していて観ていなかった対談番組をみていたら、違う角度での参考になりそうなのがあって・・・・昼間要所要所だけは文字起こしをしてみた・・・実は一日中頭痛がひどくてしんどかったけど・・・。

英才児の云々だけでなくて、少女歌劇を考える上でもいろんなヒントがありそう

(ビデオ視聴)SWITCHインタビュー達人達 桑田卓郎(現代アート陶芸家)×ロバート キャンベル(国文学研究資料館館長)

☆清水寺 桑田の作品展示 見た人の反応
・「白昼夢みたいです。今現実だよね?っていう感じ」「確かにね、こういうの現実的にないから」
・未来っぽくもあるし、原始人が作ったみだいでもある。両方あるし・・・
諷虹 現代アートといいつつ未来なのか古代なのかというのはこれ如何に、ですね。

*桑田を高く評価していた陶磁器研究家の林家晴三
 厳しい言葉をかける一方、自分が主催する茶会で桑田の作品を披露。将来に期待していたという。

林家 (茶の器)いい色がでましたよね。ただ、全然茶を飲む人に対する愛情のない茶碗。自己主張だけでね。
それはそれで一つの在り方かもしれないけど
諷虹 昨日の話じゃないけど、自分の思い通りに追求していった結果・・・なんですね。

*作業場の様子
諷虹 外国の体に悪そうなお菓子のようですね。(色合い)

*初めて納得したという作品
桑田 これはろくろですね。そくろで回してそしてそのあと乾いているときにちょっと収縮したりしてどうしても正円じゃなくなってくるんですけど、本当はその時に調整したりするんですけど、そのまま楕円のままになって・・・マッ、いっかな、って。
これもそのときできたものだからって受け入れて楕円のままにして。

諷虹 ああいうのをみるとはがしたくなりますね。値札のシールがはがれかけているような気がして。


(制作の過程)

諷虹 日本の占術のようですね。
行き当たりばったりのような要素もあるんですね。


*桑田 よく僕は「変わったもの作ってるね」って言われることがあるんです。「何焼きなの?」とか「アンチ陶芸なの?」とか・・・僕は別にそういうの考えてなくて、今普通に作っているだけで自然に・・・。


虚空 英才児とかが純粋に自分の興味のあることに没頭している時ってこういう感覚なのかもしれない。変わったことに興味を持っている、と特別視されるのは心外というような。


諷虹 自分の中ではつながりがあるというところなんでしょうけどね。そこで自分が折れてしまうと統合失調症とか精神病のようになるんですかね。
「自分はおかしいんじゃないか」って世間と同じ視線の自分が生まれてしまうとおかしくなってしまう。


虚空 そういう意味では「自分・個性」を作らないというのとの関連がありそうだね。この前から話題になっている「没我」の問題。
下手に一般的な尺度を持っている「自分」を作ったら、自分で自分を壊しにかかってしまうような。
趣味を諦めるか、趣味を逃げ場所にして、他人と断絶してしまうか、というようなどっちかに。
英才児に限らず今の若者たちなんてみんなそうなのかもしれない。


諷虹 個性の問題ですからね。
あと昔からのいいものを残しつつ現代のいいものをという発言があったと思うんですけど、それをきいて、何年か前に国立博物館にいったときの、現代のコーナー。どういうのをチョイスしているかが興味あったんですけど、その時代を生きていた人間としての感覚。
そう考えると古典落語とか歌舞伎とかは何故残ってきたのか・・・普遍的なものがあったからなのか、それ以外のこともあったのか。
その尺度自体も個性みたいなものなのかなって・・・・

*桑田 ・・・・・焼き物にすごく興味があったわけでもなくて・・・写生会で絵を描いていると夢中になってまわりに気が付かないタイプ・・・・勉強が嫌いだったんですね、本当に。父親から新聞を朝読みなさい、って言われて朝置いてあるわけですよ。それが僕は嫌で大嫌いで、僕はそれに反抗するかのように本を全く読まなくなって、たしか国語で10段階で1があった・・・。

ロ でも国語ってナマの言葉ですよね。世界や世の中をどういう風にみるかとか、どういう風に渡り合っていくかとか、すべて言葉だから。教室の中で学ぶものばかりではないんです。今日おはなししていてもすごく言葉を運ぶ、運用する力をすごく僕は感じるんですね。

桑田 え?じゃあ国語、僕は大丈夫ですかね?

ロ 大丈夫。・・・・・・

虚空 IZ小の子たちってイメージ運動のパワーとかが破格だったんだよね。そういう点ではまさに英才児の要素いっぱい。

で、何に力を入れたかっていったら作文。そりゃ最初の学校でもイメージ作文は山ほど書いてもらったけど、それに加えて「心と体の実況中継作文」というような種類のもの。それを山ほどっていうのは、内側からどんどん湧き上がってくるエネルギーというか、情動をセルフコントロールする力を獲得してもらう第一歩が「言葉にする」と思っていたから。

もちろん気持ちや体感のすべてを言語化なんかはできないんだけど、それを少しでもキャッチして作文として書けるように・・・・自分自身の「観察」
そしてポイントはね、観察記録なんだから主観的な評価っていうのかな・・・いいとか悪いとか、そういうのは入れない。
キャンベルさんのこの言葉からそれを思い出した。
桑田さんはまさに生きた国語をバッチリやっていたということだよね。
ここで社会的な評価をするような「自分」を出してしまうと、自己否定に走っていくか、反社会に走っていくかしてしまうんだろうね。


諷虹 このところ型の話が出ていますが・・・俳句とか・・・この桑田さんは型があるのを拒絶しているタイプだったんですかね。連歌というよりは枠組みをとっぱらった正岡子規タイプなのかな。型があるから生き生きする人と、そうでないひと。
それで思い出したんですけど、図工の時間い四つ切の画用紙を渡されて、何を描いて画面を埋めようかということばかり悩んだ。だから自分は八つ切とかの方が好きだったんです。
自分が四コマ漫画の方に惹かれるのはそういうこともあるのかな、って。狭い方が奥行きを感じる・・・狭いから身動きができなくなる人もいても当然なんですけど。


虚空 それはあるかもね。だから自分なんて図工の時間に四つ切画用紙で描いてもらうことと同時に「葉書絵」も随分描いてもらっていた。両極端。あと、四つ切でも物足りない場合は黒板。


諷虹 でっかく描くのが好きではないというのもありましたね。ちっちゃく描いたのを並べたい


虚空 まさに昨日みせてもらったカードのコレクションだね。


諷虹 ああいう収集癖・・クリアファイルやポストカードもそうですけど、コンパクトなのを集めるのにこだわってしまう。葉書サイズのあの中での世界観。
画集も買うけど、ちょっとあのサイズはでかいかなというのが・・・・


虚空 以前から「圧縮と解放」なんていうのにこだわるのも、そういう意識が働いているのかもね。


諷虹 はがきサイズのようなものを何枚か組み合わせて・・・三題噺のような感覚・・・アルバムにとじておくときにもそういうこだわりはあるかも・・・


*桑田さん、ある陶芸家との運命的な出会い・・・基礎の基礎からたたきなおされる。型を受け入れる


諷虹 きちんと作れるからというのですね。

*桑田 先生のところにいると、山のちょっと崩れているところをみると「ああ、あそこの砂が使えるかも」とか「あれはああいう焼き物に合いそうな砂だよ」とか。先生がよくこう茶碗とか持って「もうちょっと焼けるといいね」とか、本当に微妙なところとか・・・
横でそういう先生が言う事をきける機会があって。それはすごく貴重なことで特別だった・・・。

ロ そういうことを言葉にする方だったんですよね。いちいち言うってことはすごいなと思うんですね。

桑田 焼き物の知識が増えていくと、こうなるっていうふうに分かってくるし想像がつく・・・でも「それじゃダメだよ」ってよく言っていました、先生が。じゃなくて「ダメだって思う事を、こうなったらもう失敗するって思っても、とりあえずやってみる」ってことを・・・


*桑田 ・・・・無理にメタリックで派手にしようというんではなくて、出会いとかもその中ではあって・・・技法との出会いもあるし、こうやって岐阜にきたからどういう職人さんがいっぱいいて技術を教えて頂いて、その中で「こんなことも出来るよ」って言われたり・・・・・


*ロ ・・・エッセンスとして残る、そぎ落とされなかった桑田さんのコア(中核)って何ですか?

桑田 やっぱり、一人でできてきたものではない、ということですかね。それは素材との付き合いとか、知識の面でもそうだし、あとは作る以外のことでも、想像できて新しいものができたり、っていうのもあるし・・・やっぱりそこだけは今後のサイクルは崩さずにやっていくことで、僕も元気でずっと続けられるし・・・なんだかちょっと死に際みたいな言葉ですけど。

ロ ちょっと意外な答えでしたね。僕は引き算が出来ないコアというのは、土に向かった時の気持ちであるとか、ろくろでこうやって上げていく時の瞬間の手ごたえとか、そういうことが返ってくるのかなと思っていたんだけど・・・。
周りに人がいて、人と一緒にいる。支えられたり、自分が投げかけたりっていうことだったんですよね。

桑田 基本ずっと一人でいるんですけど、でもそれを教え感動させてくださったりしたことがあって、自分は今それを感じられるようになって・・・自分だけだったらそういうことを感じられなくて・・・そういうのを「美しいよこれは」とか「これっていいよね」とか気づかせてくれたおかげで、自分は今、すごく土を知ることができるんで。
でもその中で自分が絶対に外せないところってありますね。


諷虹 前、画集だけ買っていたと思うんですけど「アトリエシリーズ」の画集。錬金術師の主人公の話。そこで出てきた言葉で
「素材の声をきく」
っていうのがあったのを思い出して・・・・自分はやっていないタイトルですがこんなのもあるみたいですね

フィリスのアトリエ
錬金術士の公認試験を受けるためキルヘン・ベルから旅立ち、プラフタとともにライゼンベルグを目指している。
旅の途中に寄った鉱山の町エルトナでフィリスと出会ったソフィーは、鉱石の声を聴くことができるという彼女に錬金術の才能を見出す。彼女に請われて錬金術を教えることになったソフィーは、彼女から「ソフィー先生」と呼ばれ、慕われることになる。
錬金術の経験を積んだ事で、素材の「声」を聞く事が出来るようになっており、素材の気持ちを理解出来る。


虚空 そこなんだよ。この桑田さんもそうなんだけど、本当にある道をとことん究めたら、それに関わってきた人達とのつながりだけではなくて、物質から語りかけてくるものとも交感できるという境地。

こんな背景には、日本古来の考えで言えば、八百万の神々が宿っているということになるんだろうし、空海だったら宇宙万物のすべてに大日如来が内在しているという言い方。

あるいは学生時代に没頭していた幼稚園の創始者フレーベルの四蔵でいえば「万有内在神論」・・・すべて神が創造されたものには生き物も物質も関係なく、神が内在している。
教育の究極の目的は、そうした万物の中に内在している神性をキャッチする能力の育成。そのためにフレーベルは恩物っていう遊具を乳幼児に与えた。一番最初の基本形はボールなんだけどね。

(ゲームの画面を視聴。錬金術で大釜をかき混ぜている場面をみて、虚空、先日高校生と日本神話の話をした際の天沼矛のことを思い出す。)



虚空 英才児の自由研究でもマニアックというか何と言うか・・・・とことん一点集中型の子が何人もいて・・・。一昨日ずっと話し込んでいた聖徳の先生が、昔に比べてそういう子が減ってきた、もっと狭くて深いことに没頭させたいということを話してくれたんだけど、それってこのこととも深いつながりがあると思うんだよね。
何も子どもはそれを意識していなくていいんだよ。
でもね、子どもが自分の興味を抱いたことに没頭しているときに、特にそれが教科書とかテストとかと関係ないことだと尚更なんだけど、「勉強に関係ないことばかりに興味を持って困る」って大人が思ってしまうわけだよね。
テスト云々ということを気にしない場合でも、もっといろいろなところに関心を持つ、広い視野をもった子に育てたいとか・・・・。

その時にこの問題をどう考えておくか、は大事なポイントだよね。

中途半端なところでやめてしまったら、その奥底にあるもの・・・森羅万象と繋がるものは見えてこないままで終わってしまう。でも究めたら、そこに到達できる。
究極の「特殊性」が「普遍性」に相転移する・・・日本人ってこの感覚だったんだと思うし、これも昨日話した、例えば宮大工の組織論ともつながっていると思う。
専門バカの頑固職人で周囲との調和もとれない困った人・・・でもそういう人をそのまま使えるのが棟梁の大事な資質であり、そういうクセをクセのあるまま使えないと、本当に長持ちする神社仏閣は作れない、って。

個々人と全体との関係の持ち方が、西洋風とはだいぶ違うよね。
まず勝手な部分を改めさせて・・・ってやっちゃう。それによって、本当にその人にしか持ちえないものを潰してしまう。今の世の中が平均化した子どもばかり育てようとする・・・

ちょっとでもみんなと違うと、大人だけではなくて、若者同士でも潰し合う、けん制しあう・・・みんなから浮かないかということにたえず神経をすり減らして心の病になるか、そういうことに気を使えない子は若者の世界からもドロップアウトされてしまう。



諷虹 このはな綺譚 にそれと関係の深いのがありましたね。(6巻 びいどろ横丁)



虚空 失敗っていうことの考え方もだいぶおかしくなっているからね。「失敗は成功のもと」って自分がガキの頃はいろんな大人が口にした言葉だけど、今はほとんどきかないもんね。失敗は即アウト。
でもこの言葉って、単なるなぐさめじゃないんだよね。失敗からはその気にさえなれば本当に生きた知恵を山ほど獲得できる。
だから英才児に限らずだけど、自由研究で本当にこれからの生き様につながっていけそうなのって、失敗とか試行錯誤の記録もきちんと残して考察しているものだと思う。

だいたいさ、ベテランの研究開発者が嘆いていたという話もあったじゃない。予測通りの結果が出なかった時に、最近の若いのはすぐに「失敗だ」っていって記録ものこそうとしない。ひどいのになるとデータを改ざんしてしまう、って。
自分達の時はそういう結果が出た時って、もしかしたら新たな発見につながるのかとワクワクしたものだ、って言っていたけど。で、ほとんどの場合は新発見にはならないんだけど、それはそれで多くのノウハウを学べたって。
さっき桑田さんの師匠が言っていた、ダメをわかっていてもやってみろというのもそうだよね。そういう一見失敗作を山のように作ってきたから、別のを作る時には案外それが使えたりとかいう自由自在がてに入った。
伝統的な「型」と、独自の工夫の失敗の積み重ねから得た知恵という「型」とが統合されて、新しい境地へ・・・っていう感じかな。
英才児で偏るタイプの子が他人に無頓着というか没我状態で、好きなことにとことん集中するというのは、そういうことへの道なのかもね。
それを中途半端にやめせさせるから、無駄な時間を費やしてしまった、なんてなる


諷虹 自由研究の本も失敗は載っていないですからね。


虚空 自分が自由研究を指導した時に大事にしたのはそこだった。うまくいかなかった時こそ、それをとことん考察した自由研究。でもそういうのは、案外学校で高い評価を受けていたからね。時には模範として他のクラスにも紹介された中学生もいた。全くうまくいかないで終わった研究だったんだけどね。
そういう風に受け止めてくれた理科の先生は、本物だんだと思う。


諷虹 研究ですもんね。


虚空 そうそう。研究ってそういうもの・・・まさに構え。予定調和でこの本の通りにやったらこうなりますよ、なんていうのは研究でも何でもない。

ネット検索「研究」
デジタル大辞泉の解説
けん‐きゅう〔‐キウ〕【研究】
[名](スル)物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすること。また、その内容。


虚空 この事実や真理っていう言葉が曲者だよね。だからうまくいかなかった実験は役に立たないって思われてしまう。失敗には価値がない、って。


諷虹 でも失敗は「こうしたらこうなる」っていう事実を明らかにしていることなんですよね。で、その中から成功したら「真理」がみえてくる。


虚空 「失敗は成功のもと」っていうのは本当に現代にちゃんと甦らせたい言葉だよね。
だって本当は様々なバリエーションが会得できるということなんだから、うちのオヤジがよく例えていたことでいえば、ご飯の水かげんが、目的に応じて自由自在に調節できる能力を会得することなんだから。


諷虹 一本道だけの地図がどれだけ役に立つかということですよね。お使いの地図じゃないんですから。もしその道が通れなかったらどうすればいいかが分からない。


*対談の舞台が国文学研究資料館へ
桑田 僕はちょっと調子が悪くなってきたら、茶碗を作ります。普段はオブジェとかをいっぱい作りますが、やっぱり自分の原点というか、すごく落ち着くんですね。何を別にやるとかじゃないんですけど、とりあえず土をろくろの上にボンと置いて、お茶碗型のものを作る。何も考えない。それがすごくリセットされる。

諷虹 (キャンベルさんが)英訳するというのも原点ですよね。そっちが母国語なんだから。


*ロ 大学に入ってから(日本独自の)文学とか芸術があることを知って、翻訳で読んでもなんかちょっと隔靴掻痒(かっかそうよう)・・・なんか痒いんですね。何かあるんじゃないかと思って日本語を学び始めたんですね。
そうすると少しずつ扉が、また次の扉を開いて、こすってノックしてこじ開けても、奥の方にまた扉があるという具合に。これを一生やっていても退屈しないということを結構早く分かったんですね。

虚空 これなんて、上原先生が詠みの世界を開くで5年生に話していた「奥座敷の掛け軸に迫る」っていうのを思い出すね。
(児言態雑誌15号 P77 http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/45178/20180313144742369069/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_15_71.pdf
::::::::::::::::::::::::
上原 ・・・うたをよむということかそれなんだよ。心の働きをつかまえるということなんだ。人間はみんなこういう生活をしている。校艮先生も、先生も、この周りにいる人たちもみんな心が働いて
いる人なの。そして、そういう生活の仕方をしている。
 これを例にたとえるとね、日本家屋の形と奥まった所に奥座敷がある。奥の座敷には

C神棚。

上原 そう、神棚がある。一番ちゃんとした部屋に行くと床の問を作ってる。床の間に土足であがったりしないだろう。そこは神聖な神様がいらっしゃる場所である。お正月なんか、そこにお飾り物なんかを置くだろう。そうなってるね。そして普通は、床の問に神棚があるって言ったね。床の間には何だか長いものがかかっているじゃないか。

Cかけじく。

上原 かけじくがかかっているだろう。今日の場合、阿部君のかけじくには『夏深し』と書いてあったということなんだよ。わかるかな。玄関があって、奥の間へ入って、又、奥の問へ入っていったらここに床の間があるね。ここにかけ軸がかけてある。そしてその全体をとりしまっている形になっている。だから今日のC君のイメージ、想像力っていうと『夏深し』っていうのがこう、とりしまっている。
 
だから、君達がこれから自分のイメージを引っぱり出すときに、今日のぽくのイメージの一番奥の奥座敷にはどんな掛け軸がかかっていて、そこには何と書いてあるだろうって思っでもいいんだ。それを季語って。言ったりするの。あるいはテーマとか題とか言ったりする。そして奥座敷へ行ったら、よみの世界を開くって書いてある。よむっていうことはどういうことなのかっていうことが書いてある。今みんなは、それに近づこうとしているんだよ。

Cよみって、あの世でしょう。

上原 そうだよ。分かった?
⇒お題「雲の峰」
::::::::::::::::::::::::::::::
虚空 さっきのことでいえば、どんなことでも究極的には森羅万象とつらなっている・・・そこまで扉を開け続ければ、狭くて深い道だって、ちゃんと「時間・空間・ジンカン」の広がりも深まりも獲得できるんじゃないかな。

昨日もいったけど、うちのオヤジの「子どものすることは何でも勉強」という言葉にはそういう側面もあると思う。


*(ある軍記ものの書物の挿絵をみながら)
ロ これは鳥観図ですよね。鳥になってその戦場の場面を・・・・・

諷虹 俯瞰図じゃなくて鳥観図


*ロ ここにたくさんのこういう原資料があり、単に発信をして開放するのではなくて、共にそれを学び、そのそれぞれのジャンル、それぞれの技術を使って、新しい価値を作っていこうという発想が・・・。私たちが研究事業としてやっていることと伴走するような形で、研究者じゃない人たちがそこに入ってきて、いろんなものをそこから同時に作ってもらうことによって・・・それができれば素敵なことかなという風に僕は思ったんですね。発想があったんです。
発信ではなくて「交信」あるいは「共振」

諷虹 共鳴ですね・・・どっかで聞いた言葉ですね・・・・(共振という言葉に感動)
⇒駿煌会の趣旨そのもの


*サンプルアニメ 鳥瞰シーンも出てくる
ロ その絵本をなぞりながら、カバーしていながら全然違う作品を作っているんですね。ただそのためにもともとの描線を捉えないといけない。100回も200回も絵本をみながらその人の筆遣いを模倣しながらのり移ってくるらしいんですね。それは自分のものにしないと納得しない。それを自分のものにして初めて山村浩二さんの作品がそこから生まれる。動き始めるんですね。ものすごく面白い物語が出来るんですね。
そういうものをその素材を扱っている研究者たちが見ると。それまでとは全然違う目線で山村さんが観ていると、ものすごいインスピレーションを受けるんですよ。
双方向性のことがすごく起きている。ちょっとビックリしているんですね。
(鳥瞰のシーンがある)


*小説家とのコラボの実例


諷虹 「君の名は。」もそういうことをやっているわけですよね。
:::::::::::::::::::::::::
*ロ この資料館に沢山の伊勢物語の原文だけではなくて、伊勢物語をめぐる注釈書だとか絵画だとか二次作・・・そこから派生してきた・・・ヒレをつけていろいろな在原業平の生まれかわりを・・・・・そういうヴァージョンがいっぱいあるんですね。10世紀から何百年もの間に。1000点以上のいろんな伊勢物語があって、そのことを知った川上さんがすごく盛り上がって。それがまた伊勢物語の第一級の研究者たちに集まってもらってレクチャーをしているんですね、川上さんに。

桑 知るっていうことは重要ですよね。知ると言う事で今どうするっていうのもあるし、自分は今どうしたいというのが出てくるような気がしますし。

ロ 知っているから崩せるし・・・
::::::::::::::::::::::::::

諷虹 同人誌の感覚ですね、まさに。ファンによる二次創作。
これも昔からのことと現代の融合ですよね。


*ロ 川上さんが(素朴な疑問を)研究者たちにぶつけるんですね。でも即答はできない。私達は実際に文献に書かれていることした答えられないので、調べて次のときにそれを答えたり・・・それがまたなんか面白い種火になって、研究者たちの間で結構盛り上がっていって、伊勢物語がちょっと違う色に見えたりすることもあって、二方向から一緒にシェアをすることによって、また新しい何かが生まれる。
共に何かを作る世界のちょっと小さな石のレンガのかけらみたいなものが作れたらいいかな、って思うんですね。

諷虹 バガボンドもそうですよね。


*視聴後
虚空 咲の話で出た事とかも含めて、英才児のことをはるかに超越して、人間すべてに響く話になっていくと思うんだよね


諷虹 鳥瞰っていうのもやっぱり・・・

ネット検索
ふ【俯】[漢字項目]
[音]フ(呉)(漢) [訓]うつむく
うつむく。身をかがめて下を向く。「俯角・俯瞰(ふかん)・俯仰・俯伏」
俯瞰 の俯の字 訓読みで俯く(うつむく)

諷虹 やっぱり俯瞰だと人間の視線なんですね。


虚空 人知を超えるなら鳥瞰だね。


諷虹 視点の違い・・・観測者が違うから。俯瞰だとどうしても人間の尺度だから、人間にとって有益なものばかりに偏りがちなのかなって。
でも、鳥瞰だと鳥視点、鳥にとって有益な情報・人間にとって不利益な情報・・・ノイズみたいなものだから、人間にとっての価値観とは違う観点もどんどん含んでいる?
レポートと論文みたいな感じかもしれないですよね・・・淡々と事実が綴られている・視界に入るものが全て描かれているレポート・鳥瞰に対して、その人の考えとか強調した部分がデフォルメされている論文・俯瞰・・・



虚空 葛西先生の英才児の著書は「鳥瞰」って言っているんだよね。英才児の視点を。
(・P177 「鳥瞰の視点」・・・「観察」⇒宇宙空間の転換(上原言))

ずっと話題になっている「英才児の作文の観察という視点」っていうのは、まさに人知を超えた領域への道なんだね。幅広い事実のキャッチだから。



諷虹 前に意識をスターライトブレイカーとファランクスに例えていましたけど、その場から動かさずにキャッチできる英才児(ファランクス)と、自分の方に寄せる、収束させて興味関心のあるものをにフィルタリングしてキャッチするIZ小的な子(スターライトブレイカー)


 

好きな事を究める生き様 「個性」と「多様性・社会性」 ① 

☆2019年9月21日  諷虹・虚空のやりとり記録です。
きっかけは英才児の中には自分の興味・関心事に非常に特化した生き方をする子ども達が多いという事からでした。

もちろんこれは英才児に限ったことではありません。そもそも子どもはそういう姿の方が自然だし、大人だって趣味の世界に没頭する人はいくらでもいますよね。


ただ、家庭でも学校でも、子どもがある特定の分野・・・それもいわゆる入試的に関係のないと大人が思ってしまうことに夢中になると、それは勉強の妨げになるものとして否定されがちです。またいわゆる「オタク」とか「ひきこもり」等々のような感じで、そういうことばかりに没入していると「社会性が育たない」という危惧も抱かれてしまいます。


たしかにそうした傾向が強く、家庭にも学校にも社会(職場)にもどこにも居場所が作れなくて、生きる事に絶望してしまう場合が多くみられるのは事実ですから、親や教師が心配してしまうのも無理からぬことです。


しかし、最近伺った英才小での子ども達もそうだし、また多くの偉人と呼ばれる方々もそうですが、幼少期から人並み以上に自分の好きなことに没入した場合の方が圧倒的に世間が注目するような成果だって出しているんですよね。


これだって事実です。


そうしたことの根本としてどういったことがあるのかが、最近のやりとりでの中心になっています。

:::::::::::::::::::::::::::
上原輝男先生が英才児の個性ということについて語った言葉に、次のような一見相反するようなものがあります。これもずっとひっかかっている事です。



(昭和62年 福井六呂師温泉)英才児の作文を読んで
*・・・これは結論を急ぎすぎてるかもわからないけど、個人性すらないんですよ現象を見てるんです。(中略)

一般的な言い方をしてしまえば観察してしまうんです。(中略)もう1年生以前からこういう習性がついているからものを見るときには、こんな姿勢が出てくるんじゃないかなと思うんです。

 (中略)そういう意味でこちらの意識ではなく物自体についていく。個性個性というけれども、実は個性が捨てられているからっていうことになるのではないか。



*彼らは決して人間関係を取り結ばないから、絶えず自分の世界にいる。

:::::::::::::::::::::::::::::::::

諷虹 数学の未証明の問題とか予想とかを後の人が義務感のように証明するじゃないですか。それは自分個人がというよりは、「数学という生命体」が「完全体になろう」として意思をもってやらせているような・・・。見えていないからみてみよう・・・陰の部分を知りたい・・・そういう意思の集合体の影響があるのかな、って。


虚空 この大きな意思っていうことが「一家系一人格」だとか「一教室一人格」って考えるとさらに面白いよね。


諷虹 やっぱり同調・同化なんでしょうね。一体化する能力が強いのかな・・・だから一つの分野に特化するというのも、みえていない部分をとことんみよう、全体像を知ろうとしようと・・・自分のことを知りたくなるように


虚空 それがね、例えば「一教室一人格」っていうのを、ただ、いろんな関心のあるやつが集まっている、っていうだけだと「人格」っていうイメージとは遠のくような気がしていたんだよね。だから、さっきの「大いなる意思の働き」っていうのは面白い、というか分かりやすい


諷虹 スイミーっていうのはそういうところを刺激するんだと思うんですよね


虚空 そこなんだよ、藤岡先生の単細胞生物から多細胞生物の進化のプロセスを考えるという内容だったわけだけど・・・大きなポイントは、初期段階では命令系統も指示系統もなく、なんだかわからないけど、持ち味の違うバクテリア同士が共存するようになっていったと。
個々のバクテリアには、全体のために自分はこういう役目を果たしているという自覚も意思も多分なかった。勝手に自分として生きていた。でも全体として一つの調和のとれた集合体が出来上がってきた・・・ってそんな流れ。
ある種の英才児が周囲に全く無頓着で、自分の関心事だけに突き動かされているというのが、果たして傍若無人な我が侭人間なのかどうか、っていうこと。


諷虹 歴史上の人物が一時的に生き返ったら何をするか・・・この前のFate/Zero のイスカンダル(アレキサンダー大王)の話でもでましたけど、自分の過去を振り返って自分のやってきたよりもさらに深いところの証明とかが進んでいるわけじゃないですか。そしたらまだ見えていない部分を解明したがるような気がするんですよね。
そこで情熱や煌きが失われるんじゃなくて、ますます探求心に火がつくようなタイプだと思うんですよね。
そういう人が偉人になっているのかな、って。エジソンが子どもの頃は周囲に対してというのもね・・・・もっと違う大いなる意思に無意識に惹かれて・・・。
そういう人が無限の寿命とかもったらどうなるんでしょうね。一生退屈しないで生きていくんでしょうね。


参考 Nanba先生のメールより
「英才児は個性が作られていない」と言う言葉、深いですね。
かれらは通常人以上に、欲動(情動、イマジネーション)に抑制が効かずそれに動かされるのでしょうが、その欲動が、個人的なものではない、ということではないかと思います。
同心円のちょっと外側からやってくる情動でしょうか。
ううむ、ますますおもしろい!!!!



諷虹 今放映中の、とある科学の一方通行でもやっているじゃないですか。
「ローゼンタール家の悲願」だとか、あとは、Fateの「アインツベルン家」とか「間桐家」とか・・・

一族のっていうと自分だけじゃな存在からの意志も介入してくるような

虚空 このね、大いなる意思のようなものをね、「キャッチしていなくても」っていうのが、さっきの藤岡先生の話とつながってくるんような気がしているんだよ。
例えて言えば「お釈迦様の手の平の上で」ってやつ。本人は全く気が付かないで、自分の気の向くままに好き勝手やっているようで、実はいつのまにか大いなる調和の中にある、って。

それをね「心意伝承」・・・無意識の地下深くから出てくるものとコンタクトがとれていればいるほど、全く本人がそれを自覚していなくても、そういうことになるんだろうね。

それがそういう部分とコンタクトがとれていない人間が好き勝手やると、本当にただの破壊者になってしまう。

英才児がある段階までは他人をおかまいなしに気の赴くままに好き勝手なことに熱中しまくるという場合があっても、それは特異な性質を持ったバクテリアと同じような感じになるんじゃないのかね。特異な性質を持ったバクテリア・・・細胞・・・が増えれば増えるほど複雑な構造を持った人間とかにだってなれたわけだから。
人間の細胞なんて一つ一つ個別に切り離して考えたら、個々の英才児のようなものなんじゃないの?

そういった自分がどこでどう他つながるのかは、何も一般常識の尺度で考えなくてもいいんだと。

K・S先生が英才児は「いつまでも潜在世界を捨てない子」とか、上原先生が「個性が作られていない」というのも、そこらへんが・・・・。だいたい最初から個性がつくられていたら、そういった枠組みに組み込まれてしまっている、っていうことだからね。最初から縛られている。
この前も話したけど、日本の教育って「七つまでは神のうち」っていって、最初は社会の枠を押し付けていないで、通過儀礼でどんどん型を身に付けさせていくという順番。
そういう風に考えると、この英才児の問題はどの人間にも当てはまることになる。
うちのオヤジがさ、「子どものすることは何でも勉強」って口癖のようにいっていたんだけど、深いところから突き動かされての趣味や遊びなんかは非常に大事だ、って。
それも今思い出した。
諷虹 神童についての言葉がありますよね。
「十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人」
子どもの頃からできたというのは、やっぱり人間としてではなく、先天的に神から与えられた能力のような・・・
虚空 なんでこれがただの人になるかだよね。
諷虹 努力して身に着けたのとは違う特異能力・異質な力・・・まさに神業。
それが俗世に染まってしまうんですかね。人間界のセオリーに染まるからダメになる。
虚空 だからさ、何歳までにどういう行動をとれなければならないなんて、何の根拠があるのか。流れを示しておくことは大事だと思うけどね。自分のやりたいことを貫きたかったら、やっぱりある段階になったら周囲の助けも必用になるわけだし。
でもそれはそう思った時に切り替えられればいい。
本当に心の奥底・・・あるいは難波先生の言葉でいえば現実的な円の外側を包み込んでいるものに誘引されての、大いなる偏りだったらそんな社会的な問題は起こさないだろうしね。

*英才小でみてきた自由研究の話題
諷虹 ものすごく高い知識でやっていくのと同時に、小学生らしい幼さが残っているというのがすごくいいですね。高校生とかの知識でもやっていることにとっぴょうしもないことのが残っている。大真面目に取り組んでいる。
自分が高専の時に似たような傾向もありましたね。遊びの中に授業で学んだ知識を組み込んで効率化するみたいなの。
こういうの見ると今でも自分もやってみたくなりますよ。対抗意識をもやしてしまう。
大真面目に、ネットでも科学者でもやっていないようなことをやってみたいですね。



虚空 そこなんだよね。だから英才小の高学年の子が廊下でキャッキャやっている様子がまるで低中学年っぽいのもね。潜在世界を捨てていないというのは、もっと分かりやすくいえば、無邪気さを捨てていないっていうこと。

でもさ、よく大人でもすごい業績をあげたような人が、ある意味ですごく子どもっぽさを残していた、っていうじゃない。研究に取り組んでいる時の顔つきは子どもそのものなんていうような。
あとは例えは悪いんだけど、アニメとかで本当にヤバいことするキャラって幼児性が同居していることが多いでしょ。無邪気に残虐なことを平気でやる。


諷虹 あのとあるのいかれた科学者もずっとアメをなめていますよね。


虚空 極悪非道じゃなくても、咲の天江衣なんかだってそうじゃない。破格の子どもっぽさと、不気味さを兼ね備えていた。というか、子どもっぽさが逆にえたいのしれないすごさを感じる。それが実写版だと、本当に妖怪じみた雰囲気の子として描かれているから、すごみを感じないんだよね。


諷虹 ガルパンのみほも愛里寿もボコに対してはあれだけ子どもっぽくなるけど天才。子どもっぽいから天才なんでしょうね。


虚空 だからね、英才児にもそういう面はあるだろうな、って。
だからヤンチャな子は破格にヤンチャ。
それはIZ小学校にも言える傾向だけどね。でもそれだけ潜在能力を感じさせる。


諷虹 落語とかの主人公もまっとうじゃないですよね。
だからこその人間味。


虚空 すごい子ほどエネルギーが暴走しかねない。それを上原先生は「洪水」にたとえていた。

だから「治水工事」が必要だっていったけど、それは単に頭ごなしに躾けるというようなのとは違うんだよね。(平成4年 「ぼけとつっこみ」の研究授業後)

それが「論理」とか「言語操作性」とかへの刺激。
感情とかイメージ運動をエネルギー・・・水量の多くて勢いよくドッとくるというのに例えれば、単に治水のために堤防を高くしてもあっというまに大洪水。
水路を増やすような拡張工事やバイパス工事が必要になってくる。
それを作ってやるというよりは、作ろうって自分で思うような刺激を与えておく・・・胞子とか種をまいておく。

芽生えるのはいつかはわからなくていいからさ。それこそ大人になってからかもしれないけど、植物だって発芽までの時期は随分ちがうんだから、勝手に大人が決めた時期に発芽したり、成長しなかったらダメとか負け組とか判定するのは、おかしなことだよ。

まっとうな政治 ⇒ まっとうな生き様 ⇒ まっとうな社会  ダンデリオンツイッター記事から

☆2019年8月21日以降のラインやりとり + 8月23日 諷虹・虚空やりとり記録です。


政治についての荘子の言葉の記事をきっかけにして、さらに一般化しています。


また安易に人を断罪したり犯人だと決めつけたりする今の世の中の風潮についてもふれられています。その気にさえなれば一個人がネット上で大きな情報操作を行いうる時代・・・そしてまたあっというまにそれを真に受けて、一緒になって総攻撃・・・実は無関係な人間であっても・・・。


独裁者と同様な構えの人間が、ますます増えているような危惧を抱いてしまいます。 




8月13日のダンデリオンツイッター、もう一つの記事です。3つに分けて紹介します
(荘子 人間世(じんかんせい)篇第四―11)
門もなく毒(とりで)もなく、宅を一にして已(や)むを得ざるに寓すれば、則(すなわ)ち幾(ちか)し。
迹(あと)を絶つは易(たや)く、地を行くなきは難し。
人使(じんし)と為(な)れば偽(ぎ)を以(な)し易(やす)く、天使(てんし)と為(な)ればれば偽(ぎ)を以(な)し難(かた)し。
有翼を以て飛ぶ者を聞くも、未だ無翼を以て飛ぶ者を聞かざるなり。
有知を以て知る者を聞くも、未だ無知を以て知る者を聞かざるなり。
彼の闋(けつ)を瞻(み)る者は、虚室(きょしつ)に白(はく)を生じ、吉祥(きっしょう)も止まるところに止まる。
夫(そ)れ且(は)た止まらず。是をこれ坐馳(ざち)と謂う。
夫(そ)れ耳目に徇(したが)いて内に通じ、而(しか)して心知を外(そと)にすれば、鬼神も将(まさ)に来たり舎(やど)らんとす。
然(しか)るを況(いわん)や人をや。是れ万物の化なり。

【大体の意味内容】
どこかへ逃亡するための門もなく、偏狭な自我を守る砦(とりで)もなく、心の在(あ)り処(か)をブレさせずに統一する。
そうして人知の及ばない生命運動の原理に従えば、それこそが生き方の完璧さに近づく。
引きこもれば、些細(ささい)なことでフラついてしまう自分の足跡を残さないこともたやすい。
とはいうものの、大地を踏まずに生きるのは難しいから、自分の生きざまを隠し通すことはできない。

人使、つまり人に使われる者は虚偽を犯しやすく、天使、すなわち天の意思に従うものは虚偽を犯し難い。
翼の有るものが飛ぶというのはよく聞くことだが、翼無くして飛ぶというものは聞いたことがない。
知識の豊富さを以て、知者であること誇る者は多いが、無知であることを以て知性の無窮(むきゅう)の広がりを認識するものはいない。
虚空(こくう)にさらされて生きる者は、わが心のわだかまりを虚(むな)しくして光を生じ、至福の輝きである吉祥が心に宿る。
そのように心を虚(むな)しくできず、些細(ささい)なことで動揺してばかりいることを、坐馳(ざち)、つまり肉体は坐っていても、心はじたばたと走り回って落ち着かないありさま
というのだ。
(身体は歩いたり走ったりしていても、心は坐っているというありさまがよい。)
目に見、耳に聞く者をありのままに受け止めて精神に通し、心の我執で解釈した知を棄(す)て去れば、鬼(おや)も神(かみ)もこぞりて心に宿るであろう。
まして人々からの信頼を寄せられないということはない
これこそが「万物の化」であり、
吉祥による人心の感化を意味するのだ。


【お話】
政治の乱れた国へ赴(おもむ)いて、その国を立て直そうと決意する弟子に向けてアドバイスする孔子(こうし)(『論語』における主役の学者)の言葉です。
国王や人民に対してことさら教え諭(さと)そうとするのではなく、自分自身を虚(むな)しくして、まずどのように非道な行為や思想であっても、それらをありのままに聞き、見守って、受け入れることが大事だというのです。
その結果、どんなに重苦しいイメージがのしかかってきても、まるで重力から解放されたかのように、翼無くして軽やかに心を飛翔させ、自分は無知蒙昧(むちもうまい)なるものとして彼らに教えを乞(こ)うべきであるというわけです。
こうしたとしても、すべてを受け入れる自分が、悪逆非道な彼らから認められるという保証はどこにもない。
結局は彼らを増長させるだけかもしれない。


そうであっても、虚心坦懐(きょしんたんかい)に彼らの魂の声、絶叫を聞き受け止めることで、彼らの荒ぶる魂が落ち着きを取り戻し、あるべき様に収まる可能性も出てくる。
あたたかな光に満たされて、多くの人々の本心が鎮(しず)まるかもしれない。
その一縷(いちる)の可能性に賭(と)する覚悟が必要だということです。
政治とは本来、こうしたしんどい仕事を引き受けることなのでしょう。

15:28 虚空 
もちろん政治に対しての発言という狭い見方ではなくて、いろいろな場面に対して考えさせられる内容です。


2019.08.22 木曜日
01:06 コバルト
ダンデリオンさんの中でもあたたかさが出ていますね。
やはり本能の根本的な所に「あたたかさ」があるんだと感じます。
ありのままの飾らない強さというか、飾らなくても内面から滲み出ているオーラが出ているような感じ。
滲み出るという事は、満ち溢れる事。
太陽のように、ただソコにジッとしても多大な影響力がある存在が象徴とされる訳なんですね。
天皇家(皇‥スメラギ、煌めき?)も象徴そのものな訳だし。




08:01 虚空
自分の場合は、見かけ上理不尽な扱いをされることを受け入れ続けてきた人生かも・・・幼いころのいじめでも、職場いじめでも、現在の親戚たちからの行為にしても・・・こちらが反撃しないことをいいことにして、さらにやりたい放題。

それはダンデリオンさんが指摘しているように
「こうしたとしても、すべてを受け入れる自分が、悪逆非道な彼らから認められるという保証はどこにもない。
結局は彼らを増長させるだけかもしれない。」
ということに実際にはなってしまっています。

「そうであっても・・・」という部分への境地には正直いって全くなることはできていませんね(苦笑)

「本心から受け止めている状態」ではないから、相手の荒ぶる魂に変容がないともいえますが・・・


*最近あるBSチャンネルで「地獄少女」の再放送をしています。以前にも観ていた番組ですが・・・「人を呪わば穴二つ」・・・恨んでいる相手を地獄に流してもらう代わりに、その代償として自分も寿命がつきた後には地獄に落ちることになる・・・それでも相手を地獄に落としてもらうかどうかがポイントになっているお話。

一方的に相手が極悪人なのに、何故自分が死後にまでとばっちりを受けなければならないのかが理不尽極まりないのですが・・・そのあたりのことは、上原先生の「犠牲論」とか「恨み論」との関係でずっと考え続けています。
☆8月23日 諷虹宅
*ダンデリオンツイッター記事特攻隊員&政治

虚空 時代が時代だったらコバルトブルー君も諷虹君も赤紙がきて、どっかの戦艦に突っ込んで命を散らしているかもしれないよね。


諷虹 政治の方のとワンセットでみるとなるほどな、と思うところがありますね。
『人使、つまり人に使われる者は虚偽を犯しやすく、天使、すなわち天の意思に従うものは虚偽を犯し難い。』

日本軍の軍部なんかもそうなんでしょうけど・・・こういうことを言うと角がたつと思うけど「天の意思」を「人間の基準」にしてしまう・・・政治的利用にという部分。
そういう意味では・・・その人が正しかろうが間違っていようが、革命を起こして、革命後に歴史をつくるのと、何かに摘発されて・・・ナチスがそうだと思うんですけど、信者たちは信じていたけど、あとで明らかになったらとんでもないことだった・・・。
でも明らかになっても政治でも何でも信者がい続けるっていうのはあるじゃないですか。
戦争でも、もし特攻隊員が反旗をひるがえしていたというような歴史的な事実があったとしたら、違う印象になったと思うんですよね。いろいろな意味で。
明智光秀なんかも、明らかになる順番によってだいぶ印象が変わったろうな、って。
秋葉原の殺傷も京アニの事件も、事件を起こしてしまったら全く共感なんか得られないじゃないですか。どんなに同情すべき点があっても


虚空 それでも考えに賛同する一部の風潮がネット上にあるっていうのをこの前NHKでやっていたけど・・・それだって、逆に英雄扱いっていう変な風潮があるよね。

NHk特集で立て続けに、戦後ずっと明らかにされてこなかった極秘資料とかが発見されてという番組をやっていたけど、2.26事件にしてもこれまでとは随分違った実像がこんな何十年もたって出てきた。

ダンデリオンさんも書いているけど、
 「お国のため、愛する家族のため」とはいえ、罪を犯したわけでもないのに死ぬことが決められてしまった彼らが、誰も反抗せず毅然(きぜん)として死地へ飛び立つことが不思議でした。

ここに挙げた人形を抱く特攻隊員の写真だけでなく、関連動画、エピソードは、テレビや映画やマスコミでは全く取り上げられません。ですが、この一枚の写真だけが特別なのではなく、特攻隊の身の回りの世話や軍需工場で働く挺身隊(ていしんたい)の女性たちが、自分たちをかたどったマスコット人形を出撃前の特攻隊員に贈るということが、どの基地でも一般に行われていました。

「軍神」と世間では言われる彼らの中には、その人形を飛行服にいくつもぶら下げて出撃した人もあったそうです。 特攻隊のイメージを崩すからか、昔も今も、人目につく形では一切取り上げられません。しかしここにこそ、看過(かんか)できない深く本質的なことがあるのではなかったか。 」

これも一種の情報操作だよね。
勇ましく敵に突っ込んで死んだというようにするための。


諷虹 ニュースとかもシナリオありきですからね。これもある意味人使。真実よりも虚偽を混ぜ込んだ演出になってしまっているんじゃないかなと。


虚空 ちょうど戦前に中止になった東京オリンピックについての番組もみたんだけど、オリンピックに出られなかった選手が、軍や国の宣伝に利用されて戦死した様子が非常に美化されて国内では報道されていた、って。
そうすると、こんな特攻隊員の写真なんかは表にはなかなか出なかったろうよね。


諷虹 ぶれちゃう・・・悲劇のヒロインがくつろいでいたら・・・とかね。
芸能人でもイメージを壊さないように、って。


虚空 かつての女性アイドルはテレビ局内でトイレに入るのも人目をはばかったっていうからね。夢を壊すから、って。
今はネットで私生活から何から自分でも他人からでもどんどんさらけだされているから、随分違っているだろうけど・・・


諷虹 今はやらせとかにうるさいじゃないですか、視聴者側も。最初から演出だって言えばいいのに・・・。最初から真実というようなスタンスで報道しているから。
マスコミも真実を報道といいつつ、ねつ造だとか普通にやっているのもあるじゃないですか。それがうさん臭さを生んでいる。


虚空 そりゃね、悪意がなくたって、編集という作業とか記事を書くということそのものが「演出」とか「主観」は絶対入るものだから。

昔の人はそれをある程度わきまえているっていうことが多かったんじゃないの?今とくらべて。だからとりたててヤイヤイ文句は言わなかった・・・「そんなもんだろ」って思っているから。
でも今はね・・・下手するとドラマで憎まれ役を演じただけで、私生活でも性格の悪いやつだと思われて誹謗中傷が殺到するとかね。
「現実と非現実」の区別がつかないんだよ。

諷虹 この前夜中にたまたまみていたクラシックバレーのを描いていた映画・・・蝶々夫人・・・そこでもそんな場面で客が暴徒化するって事件があったそうですね。


虚空 映像とか情報の信頼度は相当低いのにね。
だからガラケー女と勝手に決めつけられて住所から顔写真から勝手にのせられて全国から批判が

殺到、っていうのが最近も起きたじゃない。すぐに疑いははれたけど、傷は癒えていないって。
「ガラケーの女」デマ、法的措置へ 被害女性が会見
2019/08/23 17:44
茨城県守谷市の常磐自動車道で男性会社員があおり運転を受けた後に殴られた事件をめぐり、「傷害容疑で指名手配された男の車に同乗していた女だ」というデマ情報をインターネット上で流された都内在住の会社経営の女性が23日、弁護士とともに会見し、デマ情報を投稿した人たちの法的責任を追及する方針を明らかにした。女性は「SNSで手軽に発信できる時代だが、責任を取れるのか考えてほしい」と訴えた。

 今月10日に発生した事件では、宮崎文夫容疑者(43)が運転席の男性会社員を殴ったとして、傷害容疑で逮捕されている。交際相手の喜本(きもと)奈津子容疑者(51)=犯人蔵匿・隠避容疑で逮捕=も車から降りて、宮崎容疑者が暴行する様子を携帯電話で撮影していた。この時の映像がテレビなどで流され、話題となった。

 宮崎容疑者は16日に指名手配されたが、喜本容疑者の氏名はこの段階で公表されていなかった。女性の代理人弁護士によると、17日未明から、女性の実名やインスタグラムのアカウントを特定しながら「ガラケー女」「自首して」などという投稿がツイッターにあったほか、ネット掲示板にも投稿された。女性はすぐにフェイスブックで「完全に事実と異なります」と否定したが、インスタグラムには大量の誹謗(ひぼう)中傷が寄せられ、女性が代表を務める会社にも同日だけで280件の電話があった。

 18日には、会社のホームページに弁護士名で声明を出し、「虚偽の情報を広める者には法的措置を検討する」と警告。同日、宮崎容疑者と喜本容疑者の逮捕が発表された。

 弁護士は、最初にデマ情報を公表した人だけでなく、不適切な言葉で拡散した人や、インターネット上の「まとめサイト」の運営者らも責任が「極めて重い」と指摘。今後は、発信者の情報開示をツイッター社などに求め、特定できれば損害賠償を求める訴訟に踏み切る方針を表明した。名誉毀損(きそん)罪での刑事告訴も検討するという。
 
女性は「普段通りに寝て起きたら犯罪者扱いされて、名前と写真が流出していた。まさか自分のことだという認識をなかなか持てなかった」と振り返った。今もネット上にデマ情報が残ったままの状態で、「精神的にまだ平常に戻れていない」とも語った。(新屋絵理)



虚空 これさ、すぐに疑いははれたけど、疑いがはれないまま何のいわれもないのに社会的に抹殺されてしまう事例ってこれまでもあったし、これからもますます出てくるよね。
デマをとばした人も、それに安易にのった人も全く責任はとらないで、忘れ去ってしまう。

そういう意味では情報の出方によって、本当に世の中への印象はガラッと変わってしまう。

集団で「そうだ」と信じてしまえば、どんなデタラメなことでも、それが事実に鳴っちゃうんだもん。それは「人間の意識世界の特性としてある」っていうことをきちんと自覚しないとね。
そういうことを児言態雑誌18号の原稿にも書いたつもりなんだけど、あれは子どもだけじゃないくて、むしろ大人にこそ訴えたかったこと。

冤罪じゃなくてもさ、さっきテープ起こししていた6月1日のやりとりにもあった大洗のこと。キャラの誕生日にしても何にしても、ガルパンキャラたちは「いる」わけだよね。大洗ではそういう世界になっている。シロバコでの「アルピンはいます」もそうだよね。

「事実って何だ」とかさ、さらには「真実って何だ?」っていうのは実際にはとっても難しい問題だと思う。だから従来から哲学の課題でもあったんだろうしね。

昔高専の先生の言葉、言っていたじゃない・・・何だっけ「法則」だっけ

諷虹 なんでそうなるか分からないけど誰がやってもそうなるから法則というんだ、って。

虚空 それをちょっと拡張すればね、「誰もがそうだと思ったら 事実・現実」さらには「法則レベル」にまでなっちゃうんじゃない?
諷虹 結局「自分が信じたいものが真実」なんですよね。事実がどうであれ。
それが数百年レベルで伝承されれば、それは本当のこととして伝説化する。
「こうあってほしい」っていう願望が真実になってしまう。

虚空 それって上原先生が芝居なんかのことで盛んに言っていたことだよね。先にもう期待する形はある、って。それに合わないものは受けいられない。
いい例が「義経」・・・どんなに史実ではこうだったらしい、っていっても、やっぱり受け付けない。

諷虹 一時期義経のネガティブキャンペーンがあっても、やっぱり義経はイケメンじゃないですか。真田幸村とかも・・・


虚空 忠臣蔵もそうだよね。吉良上野介は地元では立派な人間とされていても、それは受け付けない。市川崑監督が新しい切り口で「四十七人の刺客」として忠臣蔵を映画化したけど、受け入れられなかったしね。


諷虹 越後屋なんていうと悪徳商人っていうイメージがあるじゃないですか。代官なんかも悪者って言うイメージ。花火もいろんな屋号の業者がいると思うんですけど、みんな「たまや」ですもんね。


虚空 こういうステレオタイプとか先入観って、定着しているものほどコワイよね。自分たちだって知らず知らず染まっていてもなかなか気が付けない。


諷虹 現代はそれを根本的にぶち壊してキャラ化する・・・女体化する・・・風潮もあるというのは面白いですね。
ネットでみたんですけど女体化されている歴史上の人物は自分がそうなっているのをしったらどう思うか、っていうのがあったんですけど、北斎なら喜ぶんじゃないかとか。

北斎女性化のを解説しているサイトの一つ
https://grand_order.wicurio.com/index.php?%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
⇒正確にいうと北斎そのものが女性化されているのとは違うようでもある



虚空 この擬人化能力は海外の人達からも一目おかれているもんね、日本人は。
最近だったら競走馬を女の子にしたウマ娘とか・・・
ちょっと前だと、戦国武将を女性化したのもあるよね。ちょっと名前は変えているけど

織田信奈の野望・・・いろんな戦国武将が女性として登場
http://odanobuna.com/character/index.html
信長を女性化したのをまとめて紹介しているサイト
https://mag.app-liv.jp/archive/83137/
女性化じゃなくても、三国志だとか戦国時代を題材にしたゲームで歴史に詳しくなったとか、ゲームの中のイメージが人物像になったとか。
そういう人にとってはゲームのイメージが「真実」になるから、それとずれているのは、たとえこれが真実と言われても受け付けないよね。
(あるサイトで信長と卑弥呼が同列に描かれている)


諷虹 私らからすればすべて「昔の人」っていうくくりだから、同じ時空で描かれていても気にならない。

虚空 そのあたりの抽象化の問題・・・サバイバル環境と結び付けて50円玉君とも語り合ったけど・・・くくりかたによって、「同類」はいくらでも増えるよね。
でもさ、さっきの葛飾北斎どころじゃないよね。それこそ信長の甦ってきて、こういうイラストをみたらどう思うんだろうね・・・。

諷虹 キャラをオリジナルでつくるのはめんどくさいですからね

虚空 みる人が「なるほど」って思えればいいんだからね。それで成り立ってしまうし、みんなが受けいれれば、それが実在として定着すらしてしまう。

写真とか情報を「みんなが受け入れるように紹介する」っていうことで、今の時代は多くの人が日本中や世界中を情報操作できる可能性を持ったわけだよね。

だから政治家だけじゃなくて、それこそさっきの記者会見記事のように「ネット拡散」という行為そのものにも、軽い気持ちではすまされない自覚は必要だよね。
「遊び」「冗談」じゃ済まされないレベルのことにあっというまになっちゃうんだから。
迷惑動画だってね・・・。

ラインにも書いたけどさ、
「こうしたとしても、すべてを受け入れる自分が、悪逆非道な彼らから認められるという保証はどこにもない。結局は彼らを増長させるだけかもしれない。」
っていう点で、自分は何も反撃しないからやりたい放題ばかりされてきたけど・・・。

でもね、相手が反撃してこないから、ますます調子にのって「やっちゃえ!」「やったもん勝ち」っていうのは情けない風潮だよね。

それを情けないとは思わないから、ズルとか卑怯なことを平気でするわけだけど・・・。

でも、相手が爆発しないうちに、まっとうな道に戻るっていうのは大事なんだけどね・・・。それこそ今再放送をみている「地獄少女」なんてさ・・・他人ごとではない気分で観直しているもん。

かつては「卑怯」とか「みっともないことはしない」とか、自分で自分を律することができた人間が多かったわけだけどね・・・いつからこんな風に「バレなきゃいいんだ」「法にふれなければいいんだ」「やったもの勝ち」「正直者はバカをみる」が主流のような風潮になってしまったんだろうね・・・なんて、随分年よりくさい言い方だけど・・・。


諷虹 美学ですね


虚空 だから「卑怯者!」とか「見っともないぞ」言葉にハッとしたからね。
それこそプロレスの世界なんてそうだったからね。じいちゃんが夢中になっていたころ。日本人対外人 っていうのが当たり前だった頃。

どんなに反則攻撃をされても卑怯な反撃はしないのが日本人。それに耐えて耐えて最後にはフェアプレーで勝つ姿にみんな酔いしれていた。青春ドラマが感動的に受け入れられてたのだってそういう精神的な土壌があったから。


諷虹 まっとうに頑張れば評価される時代じゃなくなった・・・憧れる人が善人じゃなくなった・・・。トップにたっている人がうさん臭さがあるような。
侍とかの時代・・・英国紳士のような文化が大事なんだと思いますよね。
マネーゲームみたいに、まっとうな人がつぶされる・・・だからまっとうにやるのが馬鹿々々しくなってしまう。
真面目にやって成功した人はレアケースっていうのもね。そんなら手軽にかせげるような道を選ぼうって。
小学生が憧れの職業でユーチューバーをあげるというのもね。

(各種番組でのコメンテーターの発言について)
諷虹 あんな風に軽々しく批判して良いものなのかどうなのか・・・芸能人なんかも


虚空 一億総批評家って言う言葉は昔からあったけど、ますます加速しているよね


諷虹 最近なんかはツイッターの声なんかも紹介しているじゃないですか。
いろんな番組でのインタビューでもどれくらいがサクラとか


虚空 仮にサクラじゃない場合だって、全員のを紹介するわけじゃないんだよね。特定の人間の一部の言葉。それを「街の意見は」っていって、あたかもみんながそう言っていますというようにね。でもさ、少数派の意見ばかりを選んで「みんなの」っていう紹介の仕方もいくらでもできるからね。

かつては国だけが情報を管理していて操作していたわけだから、それに比べれは自由が保証されているということなんだけど、逆に一般人同士が縛り合っている世の中。ましてまともに調べもしないで、軽いノリで誰かを犯人扱いして、誹謗中傷する・・・法治国家でありながら、事実上「リンチ(私刑)」が横行している世の中になってしまっている。
これは真剣にかんがえないとね。
互いを互いに縛り合う、潰し合うという風潮が助長されたら、それこそ疑心暗鬼で誰も信じられなくなって人間社会は崩壊するよ。
たしか、地獄少女にもそんなエピソードがあったけどね・・・。

「安易に人を裁くというのは、どんなにそれが正義感からであっても、それは他人から裁かれるということになる」・・・たとえ何をしていなくてもね。
さっきの女性のようなことは、誰にだって起こりうるんだから。

教育でもさ、本当に真剣に叱っても「パワハラ」なんて言われたり、熱心に指導すると「ウザイ」なんていわれたり・・・。わざと挑発されてこっそり動画をとられて都合よく編集されてネットで拡散。とんでもない時代。
でもね、そうやって自分に都合の悪い先生を排除しまくって、学校の先生がみんな事なかれ主義になったら、それこそ社会は崩壊するしね。自分が人間として成長することを真剣に見守ってくれる人がいない、っていうのがどれほどあとで大変なことになるのか・・・それが子どもだけじゃなくて大人(親)も分からない時代。


諷虹 聖書にあったという言葉ですね・・・・

「朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
— ヨハネによる福音書、(口語訳)8:2-11

「火の鳥 鳳凰編」からの「ふるさと意識」「母胎回帰性」  学修塾ダンデリオン ツイッター記事より

8月23日のダンデリオンツイッター記事をもとにしたラインや、諷虹・虚空の直接のやりとりです。


手塚治虫氏の「火の鳥 鳳凰編」にはいろいろな要素が盛り込まれていますが、その中で「ふるさと意識」に焦点をあてています。



火の鳥のシリーズ全体が「輪廻転生」の物語・・・「死と再生」・・・ですが、これと「母胎回帰と闇」という上原先生の言葉が妙にひっかかってきます。


::::::::::::::::::::::::::::::::

06:50 虚空
 8月23日のダンデリオンツイッター記事の転載です。

「お話」の中心は手塚治虫の「火の鳥」 「鳳凰編」の話題ですが、これは高校生の頃に私も特に愛好して何度も読み返していました。
お話 ⇒ もとの文 ⇒ 大体の意味内容 の順に紹介します。
 【お話】なぜか手塚治虫の漫画『火の鳥 鳳凰(ほうおう)編』を思いだしました。
主人公のひとり我(が)王(おう)は、荘子のこの部分の話とは真逆の存在でした。奈良時代、生まれてすぐの事故で片目と片腕を失い、村の中でいじめにあい、過(あやま)って殺人を犯します。逃亡し、盗賊として殺戮(さつりく)や強奪(ごうだつ)を繰り返し、再び誤って最愛の妻まで殺してしまいます。妻への疑いが誤解だと知って絶望し、良(ろう)弁(べん)僧正(そうじょう)に拾われて旅の供をします。

この間、病で鼻が醜く肥大しながらも人の心を取り戻し始めます。同時に我執や怒り憎しみの情念を持て余していた我王が、貧困に苦しむとある村人たちに乞(こ)われて「仏像」を彫りますが、自分のあらゆる邪念(じゃねん)や狂気をたたきつけるように彫った忿怒像(ふんぬぞう)が、見たこともない見事な、鬼気迫る仏像となって多くの人々に感謝されます。それから我王は怒りそのものを祈りとして彫り続けるようになるのです。

その後も無実の罪を被(き)せられて数年間牢に閉じ込められたり、苦難の連続を生きますが、いかなる時も自分の烈(はげ)しい怒りや妄執(もうしゅう)を力として彫り続け、観る者を圧倒し続けます。この世で最も醜(みにく)い我王の姿が、次第に神々しさを帯び始めてゆく。

東大寺大仏殿の鬼瓦(おにがわら)制作のコンペに出させられ、全霊を込めて生み出した鬼瓦はライバルを打ちのめすほどすさまじいものでした。が不正投票で落選し、のみならず過去の罪を暴かれて残る片腕を切り落とされ、放逐(ほうちく)されます。

両腕を失い、もはや生きるのが不可能なほどの体になった我王は、その後、奥深い山の中で、鳥獣(とりけもの)や草木たちと一体となって生き続けるのです。森羅万象の美しさを知り、涙し、鑿(のみ)を口にくわえて、まるでキツツキのようにして彫ることを続ける。荘厳(そうごん)な祈りに、生き続けます…

 (荘子 馬蹄篇第九―1二)
民には常性あり。織りて衣(き)、耕して食う。是を同徳と謂う。一にして党せず、命じて天放と曰う。故に至徳の世は、其の行は塡塡(てんてん)たり。其の視は顛顛(てんてん)たり。是の時に当たりてや、山には蹊隧(けいずい)なく、沢には舟(しゅう)梁(りょう)なし。

万物は群生して其の郷に連属し、禽獣(きんじゅう)は群れを成し、草木は遂(すい)長(ちょう)す。是の故に禽獣も係羈(けいき)して遊ぶべく、鳥鵲(ちょうじゃく)の巣も攀援(はんえん)して闚(うかが)うべし。
【大体の意味内容】民衆には恒常不変の本性がある。織り物をしてはその衣類を着、耕作してはその作物を食べている。それを同徳、すなわち万人に等しい徳(ありさま)という。統一された徳性を持ちながら決して徒党を組んだり、権力に束ねられたりはしない、名付けて天放、つまり天地自然(じねん)の摂理への解放という。ゆえに最高の徳に満ちた世では、人々の行いは塡塡(てんてん)としてゆとりがあり、眼差しは顛顛(てんてん)として柔和な光を宿している。

このような時代では、人々は自然(じねん)と一体となった生活をしており、山には小径(こみち)も隧(きり)道(どおし)もなく、沢には舟も橋もない。万物は群生して人々の村里にまで連なり、鳥獣も群れを成し草木は旺盛に繁殖する。だから鳥や獣たちも人々とつながりあって遊んでいる。木の上にある鳥や鵲(かささぎ)の巣にも、攀(よ)じ登って覗き込み、雛たちとじゃれあうこともできた。
:::::::::::::::::::::::::::::::::

8月27日
07:37 虚空
皆さんは手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」を読まれたことはないと思いますが・・・今回のダンデリオンツイッター記事の内容なんかは、そういう意味でやっぱり意識のベースとしての「おうち」なんだと思います。大自然が自分を包み込んでくれている感覚・・・おうち そして ふるさと
8月27日 諷虹・虚空やりとりから
*火の鳥 鳳凰編 ダンデリオンツイッター記事にあった原作本を持参

虚空 高校の時に本当に繰り返し読んで・・・今でも意識のベースの一つだよ。

(諷虹 読破 ダンデリオンツイッター記事も読み直す)

諷虹 これをみて思ったのは東方の幻想郷ですね。そこで暮らす人々も江戸時代の頃の感覚・・・だからこそ妖怪とかとの共存も「自然」なのかな・・・と。

虚空 全巻通してこの我王はいろんな人物として描かれているんだけど、大元は猿田彦なんだよね。鼻のでかい。


諷虹 この鳳凰編しかまだみていませんけど、この我王っていうのが、最初から一番自然な生き方だったんですよね。幼い頃から・・・・。茜丸は諭されてもう片方の腕で彫り始めたけど、我王は両腕を失ってもあたりまえのように口でノミをくわえてキツツキのように彫る。
それもまた自然な考え方・・・手がないなら口を使う。


虚空 昔話題にしたけど 無手の法悦(しあわせ)    大石 順教著 は両腕を失って鳥をみて悟ったんだよね・・・たしか。鳥は嘴だけでみんなやっている・・・

「これを失ったら人生も終わり」っていうので、なくて当たり前の時代があったものをあげる人が多いじゃない。どこまで本気かは別にしてさ。

戦争時代に空襲だとかがいつやってくるのか分からない、あるいはかつての江戸の町・・・地震は大火事で家を焼け出されるのがあたりまえの世界・・・それは逆に物質にとらわれない自由な境地だったのかもね


諷虹 あの感覚にも近いと思うんですけど・・・妖怪ウオッチのプロデューサーの人が子供たちの「あと5分もある」って言葉に感銘を受けていたところ
時間があるから何かするっていうのは当たり前といえば当たり前のことですけど、「何ができるか」を考える前に「何かする」っていう生き方・・・子供の方が自然に生きているんでしょうね


虚空 そんな我王・・・猿田彦が天孫降臨の時にも先導役を勤めている・・・その輪廻転生の壮大な物語という位置づけでもあるっていうのは、これも大真面目に考えた方がいい問題だな・・・
8月28日ラインやりとり
10:27 虚空
先ほど「火の鳥」についてツイッターにコメントしたことです

:::::::::::::::::::::::::::::
・ゆうべ諷虹君に「火の鳥 鳳凰編」を読んでもらいました。そこから浮かび上がってきたのがやはり「おうち意識 母胎回帰」のこと。大自然に抱かれてという感覚でした。
彼が読んだのはこの1巻だけなので、火の鳥前編を通しての壮大な流れについてはまだ触れられていないのですが・・・

・日本神話の中で登場する重要な神の中に猿田彦大神・・・天狗の元とも言われています・・・お祭りの行列などで先導役を務めることの多い神。その神が様々な形で火の鳥には登場するというのも大変に興味深いところです。自分には上原輝男先生の「犠牲論」と重なってくる部分もあって・・・

・火の鳥を高校時代に読んでいた頃、特に印象深かったのは「鳳凰編」「未来編」、意識に強くひっかかるものがあったのが「望郷編」「乱世編」・・・(もちろん他の話も印象深いですが)

望郷編などはタイトルからしてそのものズバリですが、母胎回帰等々の観点から全編通しで読み直してみようかな…
⇒ 実際に少しずつ火の鳥シリーズを読み返しています。
やっぱり「おうち」「ふるさと」「宇宙」というのがワンセットという感じがありますね・・・「母胎回帰」・・・「死と再生」・・・「甦り」・・・・