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☆「コーヒーコーヒー」と「純粋経験」と 「≒ ニアリィイコール」

2019年11月9日の諷虹・虚空やりとりです。

以前にも駿煌会で話題になった ある短編アニメ集の中のエピソード「コーヒーコーヒー」に関して、西田哲学の「純粋経験」という観点から、最近中学生や高校生とも盛んにやりとりをしていました。


今回、のやりとりではそれを一歩進めて「≒ ニアリィイコール」ということから迫っています。


数学的なやりとりが続きますが、今後この「≒ ニアリィイコール」はキーワードの一つとして頻繁に登場すると思われますので、是非何を言いたくて二人がやりとりをしているのかお察しください。
初めてこの「コーヒーコーヒー」話題が出た時のやりとり記録
⇒『波動同士の共鳴』⑥「言葉にならない意味」 2018,12,30 諷虹・虚空やりとり + ライン
http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/154/

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☆Helvetica Standard  という短編アニメ集の中にあるエピソードの一つ  
https://www.youtube.com/watch?v=Hxfks2bB28I

ファミレスのような場所に女の子が二人。
片方がコーヒーを飲もうとしている
一口飲んで
A このコーヒー、あんまりコーヒーコーヒーしてない
B えッ? コーヒーコーヒーしてない? 何言ってんの?
A 自分でもよく分かんないんだけど・・・何ていうか・・・コーヒーコーヒーしてないんだよ!
いいからちょっと飲んでみ。ほれ、ほれ。
B 全く・・・・コーヒーコーヒーしてない、って何なのよ?
(一口飲んだB)
B ン!! コーヒーコーヒーしてない・・・・
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諷虹 最初に一人目がコーヒーコーヒーっていう言葉を言ったから二人目もコーヒーコーヒーという言葉に言い表したっていうのはありますよね。
仮に一人目が言わなかったとしたら、何て表現していたのかな、って。
・・・経験したことが、コーヒーコーヒーという言葉にしっくりきたからコーヒーコーヒーという言葉を使った所があるのかなって。
風呂に入っての極楽極楽なんかも自分もそうなったから使うというような


虚空 でもさ、そのコーヒーコーヒーというのが何なのかを言語化はできないじゃない。ありのまま。だから「コーヒーコーヒーしてない って何なの」と言いつつ、自分も飲んでみたら共感した・・・でも言葉としては「コーヒーコーヒーしてない」というのをそのまま使ったというのがポイントだと思うんだよね。
本質的なところに迫って言語化すればするほど、コーヒーの本質からずれていくような。


諷虹 その言語化できないって、辞書はつくれないということですよね。感覚の言語化だから
医者のいうズキズキ痛いとかガンガン痛いとかがずれていると上手く伝わらない

虚空 純粋経験でさ、分析だとかそういうのを一切伴わないっていうような言い方をしてるじゃない。つまりさ、ある物事に対して「純粋経験」に近いような経験をした・・・でも、それを説明しようとした瞬間にそれはもう純粋経験でなくなる、っていうことじゃない?
二律背反が起きる・・・量子論の不確定性原理のようにさ。


諷虹 言葉に言い表せないっていう言葉があるじゃないですか。何もいえない状態に陥っている時・・・純粋経験のまんまの時


虚空 言えちゃったらもうアウト。
一人目がさ、コーヒーの香りがどうだとか酸味がどうだとか苦みがどうだとか細かく分析したら、分かったような気にはなるかもしれないけど、むしろズレた感じが広がるかもしれない。
そういうのがあるから日本人って「細かく長文で」というよりも、想いが深くて広くても、文を短くする方向になった。和歌なんてそうだよね


諷虹 昔よく友達に言われたのが「お前、名前つけるのが好きだな」って・・・。何か現象とかがあると・・・同じ現象に共感が生まれた時に・・・この現象に名前を付けておこう、って。それで付けた現象の名前は全く思い出せないですけど、よくやっていたな、って


虚空 それもさ、付けていたのは名称でしょ。説明じゃないんだよね。


諷虹 似たような言葉をつけてカテゴライズする感覚ですね。
前に言った「カップ焼きそば現象」」ですね。



ネット検索  「カップ焼きそば現象」
 漫画『みなみけ』から発生したネットスラング。
オリジナルの模倣品・代替品が、オリジナルとは別の魅力・需要を持ち、個性として確立してしまう現象。
コンセプトが同じなのに、作品の世界観や立ち位置によって別キャラ化する現象である。
「焼きそば」を食べたいときと「カップ焼きそば」を食べたいときは違う。これらは既に別の食べものという話から。

諷虹 カニとカニかまぼこ・・・おつまみとして食べる時は別にカニそのものを食べたいわけじゃない


虚空 和歌でもさ、掛詞とか例えだとかを駆使するじゃない。むしろ直接的な表現よりも、直接を避けることが好まれる風だよ。
比喩表現の方が核心に近づけると感じている・・・それがこのコーヒーコーヒーに現れているような気がするんだよね。

もっと言うとさ、中学生や高校生とこの話をする時に、あの数式を紹介したんだよ。

0.999999・・・・・・・・=1

これが数学的には成り立つということ。そこから本質の「1」そのものを言葉で言えなくても、例えば「コーヒーコーヒー」なんていう言葉での方が、具体的な言葉でない分、限りなく迫ることができてさ・・・・本質そのものと = としていいんじゃない、っていう感覚。
それが純粋経験に迫る時の感覚に置き換えられないかな、って。

極限値の考え方もそうじゃない。限りなく近づく、っていうのとその点になるって違うけど、同じというような


諷虹 言語化できないというところがミソなのかな、って。
よく分からないものを使って本質に迫ろうとするから、それがその場その場で便利なものに置き換わっていくのかな。
「超解釈」というか。
(注 ここで即興で浮かんだ言葉だったが、ネット検索したら使っている人はいた。ただし辞書にはないよう)

 ≒を=としてしまうことが超解釈なのかなって。で、それを、何度もできるというか。
(注 実際のやりとりでは = は イコール、≒ はニアリーイコール、≠ は ノットイコール と読んでいる)



ネット検索 「 ≒ (ニアリーイコール)」
ニアリーイコールの意味と記号 ニアリーイコールとは、「おおよそ等しい」「ほとんど等しい」という意味の言葉で、英語では【nearly equal】と書きます。「≒」という記号で表記されるのが一般的で、「A≒B」の場合、「AとBはほとんど等しい」という意味になります。

この「≒」という記号ですが、実は、国際的には「≈」【approximately equal】という記号を用いるのだとか。 外資系企業の資料に「≈」が使われていても戸惑うことのないよう、国際的には「≈」、日本では「≒」であることを覚えておくと良いでしょう。




諷虹 ある意味では証明にはなっていないけど、一足飛び二足飛びで本質に迫ってはいるけど、万人に共通できるかは分からないところが難しいところですね。
人によっては ≒ が ≠ と受け止めるでしょうしね


虚空 さっきの式
0.999999・・・・・・・・・9 だったらこれは = じゃないんだよね。
 

 0.999999・・・・・・・・・9 < 1
ってなる。


諷虹 ≒ って大らかですよね。日本人向けと言うか茨城県人向けというか


虚空 「かまめ」 「いかっぺ」 だからね。
とかく茨城県人の欠点の象徴のように言われる言葉だけど


諷虹 それこそ 本質に迫れる県民 なのかもしれないですね。
学者の頭が固いのは「万人が納得するルート」を見つけようとしすぎているからかもしれないですね。
≒ を使わないで = = = = で何が何でも繋いでいこうとする感覚。
酒の席での議論なんてほとんど ≒ ですよね。「ストライクゾーンが広がる」・・・分かんなくても・・・・本当にそうか?っていう頭が働かないから・・・言ったもん勝ちのような・・・・


虚空 これはさ、いい加減の推奨じゃなくてさ、極限値の概念として、ちゃんと数学的に認められていることじゃない。「ε δ」(イプシロン デルタ)なんてね


諷虹 有効数字もそうですよね。日常の場合とか精密機械の分野とかで随分違う・・・・桁数がね。要求水準。学者の感覚はそれに近いかな


虚空 上原先生が心意伝承の研究での難しさを語っていたのがそういうことだったと思う。無意識の世界の心の動きをどうつかまえるか。学問的に処理しようとすると、どうしても固定化して言語化しなければらない。でもそれを厳密にやろうとすればするほど本質から離れていく。


諷虹 「純粋経験」は経験した瞬間、刹那に思ったこと・・・それを100%再現するのは不可能ですけど、それを =こうだった としてしまうんじゃなくて 本当に=なのか?もっと近いものはないか?って追求していく・・・

=じゃなくて≒としておくことで、それから先に経験したり得た知識を踏まえて「あの時のあれはこうだった」みたいに探求していく姿勢が純粋経験なのかなって
非常にあいまいな表現が多いですが・・・(笑)


虚空 あのさ、前にNanba先生がさ、児言態のメンバーに「よく駿煌会の話についていけますね、アニメとか数学の話、分かるんですか?」って聞かれて「文を読んだんじゃ分からないけど、一緒に話してるとすごくよく分かる。それはこの人らが何を言わんとしているのかが分かるから。アニメとか知らなくても」って。
その感覚だよね。
自分なんて若い頃は上原先生の本で観たこともない歌舞伎だのが話の素材になっていて、さっぱり分からないって思っていたけど、最近あまりそれが気にならなくなってきた。図々しくなったというよりは、その話を正確に知っているかどうかが問題ではないと思えるようになってきたからかなと思う


諷虹 一番最初に善の研究を読んだ時も = で読もうとしていなかったですからね。


虚空 だからあんなに楽し気に、時には声をあげて笑いながら拾い読みできたんだね。


諷虹 いかに自分の世界と接点をみつけるか・・・


虚空 でもそれが西田さんが本当に目指した哲学への姿勢なんだろうしね。


厳密に=を積み重ねる姿勢を無視するわけではないけど、感情やイメージがからんだら完全な = で一致なんていうことはあり得ないからね。感覚器の性能だって違うしさ。同じ色のものをみていたって100%ピッタリのもので同じ色を認識しているわけないじゃない。物の見え方だってさ、それぞれの視力とか目の状態で見え方はみんな違うんだから。


諷虹 昨日のバットマンの映画の姿勢も旧作は ≒ で、新たな劇場シリーズが = なのかな、って。


虚空 アメリカ社会との向かい合い方が大きく違ってきたんだね。


諷虹 アニメの鬱展開なんかとはちょっと違いますが、主人公が誰かを殺してしまったら、もうまっとうなエンドにはならないだろうな、って覚悟しますからね。


虚空 そこをどうするかのさじ加減が制作者によって随分違うよね。
露骨なのだったら「魔法少女特殊戦あすか」とか。それこそ手足がバラバラに切断されるなんていう描写は序の口だからね。ああいうのは苦手なのに、なんであんなのを全話観たんだろう????


諷虹 ひぐらし もそうですよね。誰かが誰かを殺した時点でBadEnd確定のような


虚空 ちょっとオブラートで まどマギ。
もう少しオブラートにくるんでちょびっと混ぜるのが太田監督?


諷虹 都築さんは「魔力ダメージでノックダウン」とか、「フロニャ力でけものだま化」といった具合に、暴力描写をいかに変換するかというのにこだわっていましたよね
(魔法少女リリカルなのは、Dog Days)

*≒の例として「はなまる幼稚園」
その世界がちゃんと分かっているとは言えない人達が制作しているから逆に面白く仕上がっている
似た例 百合をよく知らなかった太田監督の「ゆるゆり」
和服についてほとんど知らない人達が作った「藍より蒼し」
桜木花道もこの路線
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