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☆「英才児・ガルパン・麻雀漫画・論理」を通して「人間や教育全般を考える」

2019年 6月16日 諷虹・虚空のやりとりです。


まずは聖徳学園英才小学校の公開授業を参観しての虚空の感想から始まって、ガルパンで新たに劇場公開されたのを機にこれまでのガルパンを振り返って、人生とか教育とかとの接点をあれこれと語り合っています。



途中からは女の子たちが主人公の(パラレルワールドが舞台)麻雀漫画のことやスラムダンクの話も大幅に取り入れながら「論理」と「感情・構え」などの関係も考察しています。



諷虹君は深夜の初回上映で観てきたのですが、虚空がまだのため、具体的な話にはこの段階では踏み込んでいません。


*聖徳の昨日のこと  落書きを注意することなく笑って通過
諷虹 最終的に信じていたら言わないですよね。
のんのんびよりでもそうですよね。夏海と小鞠で大人の対応が違う。
最終的には絵を描いていようがちゃんと戻ってくると信じているからだと思うんですよね。


虚空 放課後に授業をされた教務主任の先生と結構長時間立ち話ができたんだけど・・・いろんな発言をそのまま受け止めて、その中から浮き彫りにしていっているのが、本当にいいなって、伝えたんだよね。

そうしたら、正確な言い回しは覚えていないんだけど「人間として向き合っている」っていうような言い方をされた。

諷虹 昭和の子育てと今の子育てにもそういう部分もあるかなって。人生のレールをしくことを強要しない。なるようになる・・・どっしりした構えの人が多かったのかなって。
でも今はいかに先の道まで敷いておくかってなっちゃってんのかな、って。


虚空 もちろんレールをガチッとっていう親はいたよ。でもそういうお母さんは「教育ママ」とか、もっとひどいのになると「教育ママゴン」なんていわれていた。

優等生も「点取り虫」とかね。どっかそういうのは本来の人間性とは離れているような直感が働いたと思う。

諷虹 江戸庶民とかにそういうのってあったと思うんですよ。字は読めない、でも仕事はできる。

虚空 ちょうど昨日の中3に余談として言ったんだけど、江戸の文化の主役は庶民だった、っていうのがポイントだって。そしてね、有名大学とかそんなのがなくても、すごい人材が沢山育った。割合で考えるとすごいことだよ。今の高学歴な人間から、どれだけすごい創造力をもった人とかが生まれている?


諷虹 それこそスマホとかですぐに調べられる・・・ただ、何年に何が起きたのかとか言葉の意味とか一瞬で調べられるわけじゃないですか。
それが「一億総全員が調べられる」状態になっているけど、世の中どうなっているかというと、そんなすごくはなっていない。
だから知識を機械的にデータを持っていても、それを並べた時に何がみえてくるのか・・・類化性能じゃないですけど・・・


虚空 構造がみえる・・・それがやがて抽象化・一般化・普遍化っていう方向へ。


諷虹 月並みな言い方だと知識を活用していく。
どっかの国では計算は電卓でOKらしいんですけど、大事にしているのは活用のしかた


虚空 それは昔、特殊教育の免許をとるための講義でも話題になっていた。計算力を無理に訓練するのはしない、電卓を使わせる。でも大事なのは、今が何算になるのかがわかること。これは何も特殊教育ばかりじゃないよね。

算数が苦手な子には「せめて計算力」っていって計算練習ばかりさせるのが教育界の常識だったけど、自分はあれには異論があった。

文章題が「応用」だからやらなくていい・・・そんなアホなことあるか、って。

それこそ生活の中での算数・算術だったら、式を思いうかべられなかったら、計算力だけあっても計算できないよ。仮に電卓を使わせようとしてもキーをどう打てばいいのか分からなくては駄目なのと同じ


諷虹 ガルパンの西住流とかいっても、みほのなかでは、他にもいろいろあるし、大洗の素人集団を上手に使う。

大洗の試合を各校の隊長が観に来るというのも、ここに負けたからじゃなくて、西住みほのそういった自由自在な姿、新しい戦い方を創造していくのを学びにきているんじゃないかって。
あれだけ格言を貯蔵している・・・古きを学ぶタイプのダー様が一番熱心に通っている・・・新しきをっていうのも心がけている。

外伝作品ですけど、野試合の闘いで一番ノリノリなのがダー様。紅茶仮面なんて素性を隠してまで出ている。
虚空 やっぱりそうした二律背反・・・「どちらか」ではなくて「どちらも」。
それは「いいとこどり」というようなご都合主義とは全く次元が違う。

相反するものと、その両極の間にある、無限のものをすべて包み込んで一つの世界を構築していくっていう構え。
それが「守破離」の神髄とも連なるかな????
聖徳の数学もそうだけど、いろんな発言をとことん出し尽くしてもらっている。期待するような発言が出た時に過剰な褒め方とかしないで・・・やっぱりそういう教師の反応って子ども達はよく見ているから、何を言ってもいいんだと子ども達に信じてもらう関係はなかなか大変だけどね。
でも、一見無駄にみえてもそういう段階をたっぷり行うから、狙った事だけではなくて、そこから外れて考えるだけの自由自在も同時に獲得できるんじゃないのかな。
ガルパンでいえばさ、プラウダ戦でみほが立てていた作戦に反することでみんなノリノリだった。それをみほは受け入れたじゃない。それも「そんなことをしたらきっとダメになるから好きにやって思い知ればいい」っていうようなのではなくてさ。自分の判断が違っているかもしれない、・・・さっきのことでいえば、みんなを信じているからの発想。
諷虹 機械じゃなくて人間だから急に判断をかえるとリスクが増える、っていうことを言っています。多分10.5話だったかな???
⇒「人間は機械じゃないから、簡単にスイッチを入れたり切ったりはできないの。みんなの士気を下げたくなかった」
(罠にかかってみんな意気消沈・・・士気を失う・・・あんこう踊りで回復)
虚空 そんな風にストーリーを組み立てるんだから、水島監督って教育者の素養がバッチリだよね。とんかつ屋の常磐さんも教育者・・・名校長になれるタイプ。
(10.5話を観ながら)
虚空 「ありさ」が自分の学校より大洗が格下だということにこだわって混乱を余計に増長させていたよね。感情やイメージで切り捨てられるものは自由にオンオフできるかどうかだよね。
*生徒会室 コタツの鍋
諷虹 これで距離感が変りましたよね。
虚空 「包み込む」「囲む」・・・日本文化の神髄の一つだよね。
美味しんぼでもあったけどさ、外国人が「どんぶり文化」と「海苔巻き文化」の論争をする回があったけど・・・どちらも片っ端から取り込んでいく点では同じ
諷虹 「昔の母校」っていうこのセリフ・・・この間からの「母校」の話・・・なのはA’sのフェイトじゃないですが「過去との決別」。
*決勝前のみほのメンバーへの語り
「明日対戦する黒森峰女学園は私がいた学校です。でも今はこの大洗女子学園が私の大切な母校です。だから私も一生懸命に落ち着いて冷静に頑張りますので、みなさん、頑張りましょう」
虚空 「ここが母校」っていうのを「だから」と受けて「おちついて冷静に」っていう言葉に流れているっていうのも、面白いね。地に足がついた意識になれるから「おちつける」ともいえるから。
実際に「おうち意識が薄い」なんていうと精神的に不安定になったり、真の力を発揮できないよ。意識のベースが崩れているから。 
あとはさ、ソルティさんからのことで出てきた「ふるさと」をどうつかまえるかとも関わるね。
一度きちんと決別する・・・でもそれは「捨てる」とは違うわけだよね。意識世界の中ではつながっている。でも現実世界で「いつでも逃げ場所」と自分で思ってしまっていると、本物の力が出ないこともあるからね。「背水の陣」に成り切れるかどうか。
ふるさとの人たちが「いつでも帰っておいで。」って言ってくれるのは大事。でも本人がそればかりを言っていたら、それは必要以上の甘えになってしまう。
これが難しいバランスだよね。
*決勝の直前 ダージリンがみほに
ダー「あなたは不思議な人ね。闘った相手みんなと仲良くなるなんて。」
みほ「それはみなさんが素敵なひと達だから」
ダー「あなたにイギリスのことわざを贈るは。 四本足の馬でさえつまづく 強さも勝利も永遠じゃないわ。」

*黒森峰のエリカのみほをバカにしたセリフ「弱小校だとあなたでも隊長になれるのね」
を改めて考える。
⇒ もしみほが黒森峰に居続けたら、現在エリカは副隊長になれなかったであろう。
みほを批判してばかりいるが、それは危機感の表れとも考えられる。
結果を出せなかったら、自分が副隊長として格がないことになってしまう?
あるサイトでエリカとみほの関係を独断と偏見で(?)解説しているサイト
(この人の意見は みほのキャラからすると不自然な考察もある)
https://ch.nicovideo.jp/hito_hoshi_gomi/blomaga/ar163008
*戦車に手をあてて「がんばろうね」
物としてではなく仲間・パートナーとしての見方
試合後の傷だらけのアンコウへの眼差し


諷虹 黒森峰の小梅・・・みほが助けた子ですけど・・・とのやりとりで、みほが長い間ずっと心の中でひっかかっていたことが解消されるわけですよね。
秋山とのやりとりもあって。
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小梅「あの時はありがとう。あのあとみほさんがいなくなってずっと気になっていたんです。・・・でもみほさんが戦車道をやめないで良かった」
みほ「私はやめないよ」
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秋山 西住殿、良かったですね。仲間を助けた西住殿の行動は間違ってなかったんですよ。
みほ 今でも本当に正しかったかどうかは分からないけど、でもあの時私は助けたかったの。チームメイトを。だから、それでいいんだよね(開放的笑顔)
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諷虹 よくガルパンで戦車の上でみんなで食べるシーンがありますが、これも雌雄同体じゃないですが、戦車がレジャーシートの上みたいな・・・外でありながら内である「縁側」のような領域。
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サンダースへの初勝利のあとのやりとり
秋山 勝ったじゃないですか
みほ 勝ったというより、何とか勝てたという感じだけど
秋山 でも勝利は勝利です。
みほ そう・・・だよね。勝たないと意味がないんだよね・・・
秋山 そうですか?楽しかったじゃないですか。サンダース付属との試合も、聖グロリア―ナとの試合も、練習も戦車の整備も練習帰りの寄り道も・・・みーんな!
沙織 うんうん。最初は狭くてお尻痛くって大変だったけど、なんか戦車に乗るの楽しくなった。
みほ そういえば、私も楽しいって思った。前はずっと勝たなきゃって思ってばっかりだったのに。だから負けた時に戦車から逃げたくなって・・・。
秋山 私、あの試合、テレビで観ていました。西住殿は戦列を離れて助けに向かったんですよね。
みほ でも、私の戦車はフラッグ車だったからそのせいで撃たれて負けて10連覇できなかった
秋山 私は西住殿の判断は間違っていなかったと思います。前にも言いましたけど、助けにきてもらった選手の人たちは西住殿に感謝していると思いますよ。
みほ 秋山さん、ありがとう。
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諷虹 この時はまだ完全には晴れていないんですね。
小梅さんに言われてはじめてそれが確認できて・・・・

虚空 あとさ・・・今日、ブックオフで シノハユ の1巻を立ち読みしたんだけど・・・
勝負ごとに「好き」という感情はいらないとか邪魔みたいに言い張るキャラが出てるじゃない。

諷虹 2巻はその好きはいらないって言っていた子の視点なんですよ。その背景が描かれている。

虚空 昨日の聖徳で先生たちと語り合ったことにもつながるんだけど、聖徳の子って基本的に勉強を楽しんでいる、面白がっている。でも世間的にはそういった態度・・・楽しく勉強しているのは真剣みが足りないとか、そういう見方もたくさんあるじゃない。

進学塾なんかでなんてそうだよね。間違った時には真剣に悔しがれとか。

2年を担任した時に、体育会系の学年主任に学年体育のあと、叱られたことがあるんだけどさ・・・うちのクラスの子で、ドッヂボールで当てられたあと「当たっちゃった」って笑ていた子がいて・・・もっと当てられて悔しいとか、そういう気持ちを持たせないとダメだ、とかね。
でも、自分はそういう感情を否定はしないし、時には大事だとは思うけど、強制的に受け付けるもんんじゃないと思っていてさ。

まず楽しいとか・・・それはヘラヘラという軽いノリの楽しさばかりじゃないわけだろ。

真剣にやって高度なことを乗り越えての楽しさ・・・ライバルに打ち勝ったとか・・・そういう充実感だって「楽しさ」のうちだよ。

野球とかで優勝したときのビールかけとかだってそうだろ。

そういう意識が土台にあった上で、どこかの段階で初めて「悔しさ」を感じた・・・その時でいいんだと思うんだよね。自分がそう思ったらで。

それを何でも先走って大人が対応する術を仕込もうとするから、かえって何も分からなくなる。

シノハユ2巻冒頭
「石飛閑無 小学3年生 基本無敵  自分を妨げるものがこの世にはある なんて考えたこともなく 甘やかされて知識もなくて なんとなくぬるま湯の中にいた・・・」

虚空 この冒頭さ・・・ずっと議論になっている「分母分子の転換とイマジネーションの関係」ともつながってくるって思っちゃった。

上原先生が、本当に口をすっぱくして中学年には論理の訓練をしろ、感情やイメージと言葉が切り離された世界があることを理解させるように、って。

難波先生の学会発表もこれと密接な内容だった。特に小学校のあと・・・中学生や高校生もふまえての視野からの内容だったから。
*コミック2巻をみながら

このキャラの名前もすごいよね。「閑が無い」・・・「石が飛ぶ」・・・別に石を投げるという方じゃないよね。飛び石連休の方のだよね???

その子が「いつの世も革命ってのは私みたいのが起こすんだ。」って主張しているよね。上原流にいえばトランスフォーメーション・・・意識や時空の転換。

でもすぐあとに、何でもみんなより出来て無敵な場面が続いて「なんだろ、最近なんか食い足りないような感じだ」ってぼやいているよね。
・・・で、麻雀に出合うわけか・・・。

*「煩雑でわかりにくいルール。意味不明な要素満載。・・・クソゲーっぽいけど、退屈しのぎにはなるか」
*一か月後の4年生になって、大会で同じ学年の子に負けてくやしがる
「自分は最適手を選択していたはず、。それなのにあの結果。最悪だ。最悪のゲーム。でも、このままずっと運のせいにしていたら、本当に負けたことになる気がする。」

諷虹 将棋だったら勝てるんですけどね、最適手ばかり選べれば。
*「つまり!!私はまだ完全に負けたわけじゃねェ!」
虚空 ここさ、気持ちを立て直すのに一種の「論理性」を持ち込んでいるよね。理詰めで自分を納得させている。これ理屈に合わなかったら・・・何の根拠もないと自分で分かっているような強気の発言だけだったら、口でいいつつも内心は余計に落ち込んでしまうのかもね。

そこが4年生っていえば4年生らしく描かれているといえるかな。
*「人間相手にもっと練習する必要がある…か!!」

虚空 理屈で納得したあと、これも話の筋道で今後の対策はどうあるべきかを組み立てて動き出すわけだよね。難波先生がよくいう「論理思考の裏づけ」との接点を感じる。

根っこを育てる国語教育 -第三項理論と児言態理論- 難波博孝(広島大学)
⇒「論理と読み手」に関する質問に対して

難波 児言態の理論にのっとって、論理も感情もイマジネーションの上にのってかっているものだと考えています。私もそれに従っています。

従って論理によって人の発達を促すことは出来ると考えています。その場合の論理はイマジネーションの裏打ちがあっての論理だというところがポイントだと思っているので、その論理自体が如何なる人でも無意識のイマジネーションとつながっている形で表現されていると考えます。

例えば高等学校でいえば評論文が、筆者のイマジネーションが無意識が論理という形でかなり強く現れていると思います。従って筆者の論理であるという事は間違いなく筆者のイマジネーションと出会うことではないかなと、今考えたんで・・・今考えたんで・・・すごく私はいまの質問によって研究が進むように感じました。ありがとうございました。
 
*続きの場面、自分のトラウマが刺激されるような周囲の言葉でいちいち感情がゆさぶられている描写が続く。

先の学会やりとりのちょうど続き
⇒「ゆさぶり体験」ということに関する質問に対して
難波 まず前提としてはここでは小学校高学年になっているということを注意して頂きたいと思います。その上で今おっしゃったように自分の中で「そう読んでしまう読み」を転換させていくようなゆさぶりが大事だと考えます。先ほどの発表ともつながると思うんですが、やっぱり登場人物で読んでしまうのに対して作者から観るという視点が大事です。

大事なのは作者や語り手として読んでいったときに、読者という学習者がイマジネーションを発動していけるようなゆさぶりになっていかなければならない。作者・読者ということをただ教えていくような授業ではダメだということだと思います。

これは先生の御専門の説明文である場合でも、筆者の事を教えて筆者が分かるというのではなかったと思うんですね。筆者というものを新たに想定していくことによって今まで見えなかったものがみえる。それは自分の浅い確認から深いところからのイマジネーションが沸き上がるのかなという気がしています。
*閑無 私は麻雀が大嫌いだ!でもあいつに勝ちたいから付き合ってほしい。
補足1巻「知ってる?一流のアスリートにはその競技が好きじゃない者も多い。好きかどうかよりまず負けず嫌いなんだ、私もね」
諷虹 身長でかいからバスケとかもありますからね。

虚空 以前プロ野球のある選手が「好きな野球を毎日やれていいですね」って言われて「仕事でやる野球は楽しくない」って答えていたよ。

諷虹 イチローも似たようなことは言っていましたね。これからは草野球をやってみたいようなことに関わっていきたいって。
この漫画の面白いところはキャラの視点をかえて同じ事を描きながら話がすすんでいくんですよね。

虚空 同じ出来事でも認識の主体が変れば世界が違う、っていうのを具体的にみせている、っていうことだよね。「自分が思っている当たり前」とか「真実」は、今のあなたが認識してとらえているその位置づけでできている世界なんだ、って。

だから違う人間には当然違う世界になるし・・・また同じ人間であっても意識の軸が変化すれば「過去」だって変わる。

昨日もそんな話が出たんだけどね。「過去は変えられないけど」なんていう言葉が全体会で紹介されていてさ・・・
*一時的に閑無さんがトップになった時の内言
「順位を見ろ!今、私がトップ!去年のはナシだ!!」
諷虹 去年の10月の50周年の時・・・第三項理論の須貝先生が、ヒマワリフクロウさん懇親会で話していた時に、「過去はかえられないから」って言ったのに対して、須貝先生が「いや、過去は変えられますよ」って言ったんですよ。

「どんなにひどい過去でもそのあとに成功してしまえば、そんな過去も良いものになる。だから過去は変えられるんですよ」って。


虚空 まさに昨日そんな話も飛び出したんだよ。


諷虹 さっきの「今この瞬間」っていうのと「論理性」ってことで・・・スラムダンクでありましたよね。

試合の最初の2点を桜木花道が入れた時に「今湘北の全得点をこの桜木が!(今のところ)」っていって気持ちを盛り上げている場面が。

虚空 まあ、嘘ではないよね。

諷虹 論理的に「正しい」からこそ、自分への理由付けとして

虚空 その正当性がお墨付きになる、っていうことだよね。
そりゃ普通に考えれば何十点も入れていて、それが自分一人で叩きだしたというならいざ知らず、試合開始直後の一回のシュートだけで何を言うんだ、ってことなんだけど・・・でも、論理的に誤りはない。

高学年以降、ましてや中学生や高校生で論理や知性に目覚めている子ほど、理屈に合わないことは受け入れないことがあるよね。単なる精神論とか気分の言葉を「軽蔑する」姿勢。

夢の世界の発言を「幼稚っぽい」「もう自分はそんな子供じゃないんだ」って排除、拒絶する意識。

聖徳の子はどっちも共存していくのが自然体なんだろうけど、普通はそういう段階の子にそのまま「余計なことを考えずに昔みたいにイメージして」っていっても、なかなか「ハイそうですか」とはならないよ。時に生真面目な子なんてさ。

もう一つは、さっきも出ていた、一旦現実思考になった後の境地は別次元になるという問題。想定外というか・・・人知を超えた・・・奥底から思いがけずに湧き上がってくるいイマジネーションの世界。これをひっぱり出すのは自然に思い浮かぶように、というだけではなかなか出てこないから。


諷虹 先ず一勝した時に「先ず一勝」と思うのか「今のところ全勝」と思うのかですよね。事実は変わらないにしても、人に勘違いさせると同時に、自分自身も騙せるというかな・・・。自分自身をだます、ホラにも似てますが、嘘じゃないところが強い。ホラに残ってしまっているマイナスもなくなっている。


虚空 論理が使える子・・・大人でもそうだけど、常識とか思い込みをオフにして、あらゆる想定をパッと場合分けしてしまうことができる。そうすると想定外の回避の道が「あるじゃない」って気づける。


論理性とはちょっと違うけど、咲でもあったよね。構えが変ったら、今この瞬間に自分の前に並んでいた牌の配列が全く違ってみえてきた・・・悪い並びにしかみえていなかったのが、そうでもない見え方になった、って。
麻雀に限らず「悟りを開く」ってこれだよね。

さっきの過去が変るっていう問題でもね・・・・昨日聖徳の数学の先生と話していた時に「児言態でありながら小学校の国語」が封印されて「中学生や高校生に数学や理科ばっかりを教える20年あまりだった」って。でも逆にいえば、本気で理数と感情・イメージとかの人間性の問題を直結させて考える発想がでてきた、って。

国語嫌いの子に理数の話題ばっかりで授業をして、結果として国語の得点力が上がったり、人間感情の問題を解決できた例も話したんだけど・・・

そういう実際の姿をみせてくれた人たちによって、過去の自分が変化できている、っていうのは感じられた。


諷虹 シノハユの続きで口では否定的な言い方をしていても、表情が変わってくるんですよね。


虚空 まだ読んでないから何ともいえないけど、それも新たな経験とか出会いによって、意識や構えが変化して・・・それによって過去も含めての意識世界が変化した、っていうことだよね。

何度もいうけどさ、そりゃ普通に生活を送って行っても、突破口を見出せることは普通にありうるよ。

でもね、結果として同じ打開策をとってもね、自分の中から沢山想定できた中で選んだのと、一つしか浮かばなかったのが、たまたま上手くいったというのは違うじゃない。
それは決まりきった問題しか出題されない中間や期末で高得点できる子と、何がどんな形ででるか分からないテストでも得点できる子との違いだよ。

人生そのものでいえば、常に正解と思えるような助言をしてくれる存在に頼り切りになって、失敗なく生きて行こうというのと、失敗をしながら知恵を会得していく・・・修理固成をして生きて行っているか、の違いでもある。

咲でも特殊能力に頼り過ぎて勝ち進んでいる子が案外何かのきっかけでそれがうまく機能しなくなると脆く崩れてしまう場面が結構あるじゃない。あのメガネの・・・

諷虹 染谷まこですね

虚空 ど素人にあっけなく負けてしまう。それは自分の特殊能力が活かせない相手だったから。でもこの前もいったけど、そんな能力使わないで、普通の人間として麻雀していればきっとあっさり勝ったかもしれないわけだろ。ビギナーズラックがあったにしても。

だからさ、郡司先生が指摘していた江戸庶民の発想・・・同時に複数のことをみて進めていける・・・自分はそれを「多次元構造の同時進行」って名付けているけど、そうした「重ね合わせ」だよね。量子論的な「相補性の原理」。
成果主義とか、失敗をしないように、とかを気にし過ぎたら、そんな多角的な視点とか意識は育たない。

昨日たまたま聖徳の子が休み時間に廊下を走り回っていることについての話題も出たんだけど、聖徳の先生たちって特に注意とかもしてなかったじゃない、一昨年参観した時だって。でも聞いたら特におおきな怪我はないんだって。

だから「もしかすると、走り回りながらも周囲の状況を多元的にパッとつかめているからかもしれないですね。それも英才児としてのいい訓練になっているのかもしれませんね」って言ったんだけど・・・それは量子論のことで2個のボールを使ったドッヂボールの話から湧いて出てきた言葉だった。

今の普通の子たちに学校の廊下を走っていいよ、なんていったら衝突事故が多発して大怪我するだろうね。全く周りが見えていない状態で突っ走るから。

車の運伝でもF1レーサーと違って一般人が運転してレースに出たら自分も他人も巻き込む大事故をあっというまに起こしてしまうのと似ているんじゃない?

だから適度の失敗とか怪我とかの体験を小さい時から積み重ねておくのは大事だよね。
人間関係のトラブルとか喧嘩もね。

それをとめすぎる、相手の親をすぐに訴える、学校の指導力不足として攻撃する・・・そんなことをやり続けていたら、全くダメな人間しか育たないよね。
西住みほみたいな生き方ができなければ、これからますます多様化して予測不可能な世の中には対応していけない。
今の自分がとんでもない転倒をしても致命傷にならないでとりあえず生きているのも、小さい頃から転んだりはいっぱいしてきたからかね・・・。
(補足 その時、難波先生からある女子高の話も紹介された)
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