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☆「量子論」からのやりとり④ 「咲」の外伝作品にみる「鳥瞰視点」「ぼんやり時間」

2019年 5月26日、諷虹君宅でのやりとり続きです。量子論と結び付けて「咲」について多様な語り合いがあったのですが、最も大きなものは、「咲」の外伝作品「シノハユ」に出てきた「鳥瞰」能力。

「俯瞰」ということに関しては、児言態の元英才小学校の先生だったKS先生もポイントとされてきた視点なのですが、それをもっとスケールアップした視点です。

それが、このコミックの中では、単なる岡目八目のような「客観視」というのとは違って描かれていることがミソ。

(これに関しては、6月1日のNanba先生と駿煌会メンバーの語り合いや、6月7日の諷虹・虚空やりとりでも再登場します。
ブログアップはまだ先になると思いますが・・・)


また「ぼんやりと過ごす」ことが現代人には圧倒的に不足しているのではないかということも、咲の山好き娘のエピソードからやりとりしています。

この感覚は教育のカリキュラムを考える際にも重要だと思っています。

諷虹 今気づいたんですけど、敵側のキャラ(大星淡)っていうのが能力を発揮する時って、背景に宇宙空間が描かれているんですね。ビッグバンみたいに


虚空 髪の毛も極端に逆立っているじゃない。この前から髪の毛の話題もラインで飛び出しているけど、やっぱり「髪の毛」には特殊な意識が集中するんだね。
アニメ画像より http://tama-yura.jp/animetory/img/entries/138196172353906c8881d343.70111004/53bcee6da6e05/pc/8.jpg
動画 https://www.nicovideo.jp/watch/sm20594125


諷虹 普段はわけのわからない、人畜無害そうなキャラが勝負になるととんでもないことをやりだす。

⇒この点に関しては今後掲載予定の6月7日のやりとりでも再び詳しく語り合う


虚空 そういう両義性も日本人って好きだよね。井上さんってバガボンドでそういうアレンジしてるじゃない。吉岡清十郎のキャラ設定をだいぶかえている。


諷虹 (動画をみながら)こういう髪型になるっていうのは・・・歌舞伎みたいな・・


虚空 それをさ、その髪型状態をみて視聴者の多くは共通の何かを感じるわけでしょ。それも心意伝承的なことかもね。


*外伝主人公(穏乃)が修験道の山の中で自分の能力に目覚める場面
・「修験者が修行のために歩いた深山路、そこを修行ではなく庭のようにかけまわっていたという。」

「女の子が山を?」

「その幽邃(ゆうすい=景色などが奥深く静かなこと。また、?そのさま。)の地でひとり、しずのは何を感じ取ったのか」


・穏乃(あの頃――山の中で一人でいる事が多かった――
  だからこそ自分自身と言うものをハッキリと感じることが出来たし色々考える時間が出来た気がする
  いつか意識は自然の中に溶け込んで――深い山のすべてと一体化しているような。そんな気分になったんだ。
  今、牌の山も対戦相手も、あの頃の山のように感じる!!) 

虚空 この言葉っていうのはさ、この所話題にしている「最も身近な感覚だからこそ、宇宙とか究極のことと響きあえる」っていう・・・。

修験道でも修行僧でも「山に籠る」って・・・なんで人間は悟りを開こうとするときに山に籠ろうとするのか。

トランスフォーメーションを起こせる大舞台だ、っていうことを直感しているんだろうね。
今風の「引き籠り」じゃなくて、本来の「籠る」っていうのを現代人も甦らせないと・・・。


諷虹 (穏乃(外伝主人公)と大星淡の対決場面)「山」、「地球」対「宇宙」の勝負。


虚空 昨日、電車に乗っていて改めて感じたんだけど、いろんな人たちのほとんどがスマホとにらめっこしているよね。自分なんてスマホもないし、老眼の進行もあるから、最近は電車の中で読書もしない。そうするとさ、基本的には窓の外をながめながら想像の世界に入っている。

よく言われることだけどさ、現代人って一人でいる時間が一人でいることになってない。自分の空想の赴くままにとか、イメージ運動のなすままにとか・・・内なる自分との対話とか・・・そういうことをする時間が極端に減っている。

この主人公の言っているような
「だからこそ自分自身と言うものをハッキリと感じることが出来たし色々考える時間が出 来た気がする
  いつか意識は自然の中に溶け込んで――深い山のすべてと一体化しているような。そんな気分になったんだ。」
っていうチャンスを自ら潰している。

内から湧き上がる自分との対話をしないで、そのくせ他から次々と寄せられてくる自分を縛り付けてしまうような「膨大な情報」でオーバーフロー状態・・・いつのまにか押しつぶされている。でもそれにすらなかなか気づけない。

未知なる世界に誘ってくれるハズの「新たな知識」がそういった世界へのスイッチにならない。だから知ればしるほど、人間の幅が狭くなってる。

自分は登山とかはほとんどしなかったけど、ひと頃天体写真にはまっていた時には平日の夜に何度も花立山とか里美牧場とかで一晩中徹夜した。平日だから誰もいない。
天体写真だから一枚撮る間数十分は何もすることがないから、夏なんかは駐車場のど真ん中に寝そべって満天の星をぼんやり眺めてた。そうした「ただぼんやり」っていうことから、いつの間にか得ていた事ってすごく貴重な蓄積だったと思うよ。

同時にあの頃は顕微鏡写真も撮っていたからね・・・望遠鏡を覗くのと、顕微鏡を覗くのと・・・接眼レンズを覗いたら丸い枠の中に大宇宙なり小宇宙なりが視えるという点では共通でさ・・・・自然に類化性能というかね・・・こっちは宇宙、こっちは微生物とかミクロの世界っていう区別がなくなっていた。

山が好きで過ごしていたそんなキャラ(外伝主人公)だから「山」のことから麻雀につながることをどんどんキャッチできたんだろうし、心のエネルギーにもなったんじゃないの?

本編主人公の崖の上の花がどうのこうの、っていう子は山が特別好きだっていうんじゃないんだろ?

諷虹 ええ


虚空 名前からの連想・・・それだって類化性能っていえば類化性能。
和歌でいえば「掛詞」とか「縁語」とかに通じる言葉の感覚だよね。
一昨日の麻雀の話の出だしで言っていたことに通じる・・・・

(参考)一昨日の発言
諷虹 麻雀の「山」・・・捨てたところを「河」っていうんですよ。山と河って・・・それだけでいろいろな考察ができそうなんですけど、例えば山から牌を持ってくるわけですけど、一番最後の牌を海底(はいてい)って言うようになる、とかね。山が突然海の底になったり、捨てるのが河・・・そう名付けた人は一種の箱庭のような感覚で作っていたのかなって。

咲の主人公なんかも、嶺上開花(りんしゃんかいほー)っていうのが山の上に花が”咲く”っていう所が自分の名前と同じって言うことでその役が好きになる・・・というかその役でしか上がらないレベルにまでなるんですよ。実際にはありえない確率ですが。

諷虹 今の山の好きなキャラの名前が「高鴨穏乃(たかかもしずの)」なんですけど・・・どういう意味がこめられているのかな、って。

虚空 単純にいえば、高いところを飛んでいる鴨。漢和辞典では「穏」は「作物を隠して外に出さないこと。中におさめて外にあらわさないの意を含む」

山に登る=高いところ=鳥が飛ぶ・・・っていうのに加えて、この穏やかの本来から考えると、手の内を隠しながらやりとりする部分は普通の麻雀的であるし、それから相手の能力を封じるという能力っていう見方もできるし・・・その両義性?

作者がそう考えたかどうかは分からないけど・・・・


諷虹 ちなみになんですけど、作画をした五十嵐あぐりさん(バンブーブレードの作画も担当)ですけど、この外伝作品(阿知賀編)を描いたあと、現在進行形で描いている外伝の外伝・・・のような作品(シノハユ)の主人公「白築慕(しらつきしの)」が幽体離脱のように羽根がはえて・・・鳥瞰・・・俯瞰じゃなくて・・・している描写があって・・・。


虚空 随分前にマッチ棒パズルで6本使って正三角形を4つ作る、ってやったじゃない。それと通じるんだろうね。

物理的というよりは数学的に抽象化された軸を増やしてどんどん発想の次元を上げていく感覚。
それこそ、一昨日郡司先生の言葉を引用したような江戸庶民の発想とか、古代人・万葉人が自然の中での生活の中でそれこそ自然に獲得していた感情生活であり、思考様式であり、イメージ世界だったんだろうね。



*シノハユ (9)
(対戦相手が気合を入れなおす)
「風が凪いだような・・・この感じ・・おかあさんと打ったときにもよくあったな。
(回想)

慕「ああいうときどうするの?」

母「どうするの、って、そうねぇ・・・麻雀に限らずすべてにおいてだけど、まよったら一歩ひいて周りをみてみるの。」
慕「麻雀だと一歩引いても見えるものはかわらないよ」
母「おっしゃるとおりですけど、なんというか、卓上より広く見て、他の打ち手のまとう空気、それぞれのバックボーン、自分のバックボーン、世界全体をみるのよ。
たとえば~・・・なんかこまったときにね、おじいちゃんの外国の友達にバイオ研究者がいたなぁとか、北欧人のお金持ち女性がいたなぁとか・・・冷蔵庫にアイスクリームのケーキがあったなぁとか・・・」
慕「あるの!?」
母「ああ・・・口がすべった」
慕「やった」
(回想おわり)
慕(今、ちょっとわかる。)鳥瞰描写


諷虹 この時は一瞬だけ垣間見る・・・能力に目覚めかけるんですけど、それが丁度昨日発売された最新刊(11巻)で、滅茶滅茶絶望的な状況にたたされたときに水底にいるような描写が描かれて、羽根の描写がこのあとでて、空中高く浮かんで、今の試合だけじゃなくて他の会場の様子だとか、今まで戦ってきた人たちが今何をしているのかが、同時に見えるんですよね。まだ登場してきてないキャラもいたりして。・・・それで今の局面がみえてきた、って。


虚空 さっきのお母さんの説明でも感じたんだけど、一歩ひいてみるものの実例が、常識的にかんがえれば全く関係ないようなものもいっぱい含まれているよね。

今の対戦中のだって、局面に直接関係ないものも同時にいっぱいみている。

その中で「局面に関係ありそうなのはどれかな?」って考えているわけじゃないんだよね?関係なさそうなものも含めていっぱい観て、それが重なりあったところから局面を直観しているような感じに受け止めたんだけど


諷虹 まさにそうだと思うんですけど。どっちかっていうと対戦相手のことはあまり観ていないですからね。麻雀中でない人のことの方が多いくらいですからね。
「見えた!」っていってみているのは会場の外の風景ですからね。


虚空 だからさ、最近教え始めた高校生にもよく言うんだけど「理系文系」なんていうつまらない仕切りなんて取っ払って・・・できれば自分が今まで関心のなかったような分野とか、絶対関係なさそうなものからヒントを得よう、っていう姿勢こそが本当の意味での実力・・・生きる力になるんだ、って。まだ「類化性能」っていう言葉は紹介していないんだけど・・・。

さっき「垣間見る」っていう言葉も使ってくれていたけど、チラッと垣間見たことの意味が「なんのこっちゃ?」っていう事の方があちらの世界からの深い意味が内在していることが多い、って。スピリチュアルに詳しい人の言葉を借りれば「高級霊」とか「上位神」からのメッセージほど謎めいている。

逆にいかにもすぐに分りやすいヒントっていう場合は、「低級霊」とかが「からかい半分」で送ってくるもので、うっかりそれにのって現実志向の御利益を得ることに夢中になってしまうと、ある時にドーンと突き落とされる、とかね。

まあその真偽は分からないけど、やっぱり人類の進歩の歴史をみたって、全く関係なさそうなところからインスピレーションを得てのものの方がすごい場合が多いよ。

ネット検索も便利は便利だけど、やっぱり本当は充実した図書館で資料を自分で書庫から探す、っていうのは大事。思いがけない表題の本に偶然目がいって、新たな世界に出合う、っていうことが起こるから。ネット検索ではキーワードにひっかからないものは画面に出てこないもんね。
だからさ、どっかの大学の最新式図書館が紹介されていたけど・・・書名とかを選ぶと、自動的に書庫からその本を取り出してきてくれる装置。
アホかと思った。新たな出会いなんていう余地を全くなくしてしまうよね。
目的の資料だけでない・・・「あれ、何だろう」っていう出会いが想定外の幅を広げてくれるのに。


やっぱりどんなにネット検索や通販が普及しても、やっぱり本棚にいろいろなのが並んでいる本屋さんとか図書館は大事。掘り出し物の発見の喜びのある本格来な古本屋さんもね。

「関係あるか・ないか」なんて簡単に判定できるほど、自分らって物事を分かっているわけないじゃない。

さっき出てきた母ちゃん・・・結構幼い娘(小学校低学年?)にするような説明じゃないけど・・・でもホンモノの教育者の素養バッチリだよね。麻雀に限った事ではない、って一般化もしてるしさ。


諷虹 これが幼い時の買い物の場面なんですが・・・



虚空 お母さんがそれを意識していたわけじゃなくてもね、この子は人間力がこうした一見出鱈目な親に育てられているから耕されている、っていうのが分かるエピソードだよね。

普通の子だったら、冷蔵庫の中がコンビニ状態になっていたら、「わーい」って喜ぶだけで終わりだろ。でも家の経済状態とか、賞味期限順に整理するとか・・・冷静に今何をすることが大切なのか、って一度感情などから切り離して考えている。


この積み重ねが「鳥瞰」の下地なんじゃないの?


それもね、単に客観的にとらえるんじゃなくて、「実感」を伴って・・・理性で「関係ある・なし」のフィルターで勝手に視えてくるものを取捨選択しようとしないで・・・ありのまますべてを受け止めて重ね合わせて構造化できるような感覚への下地。

それは「生活」っていう極めて身近な経験の中での積み重ねだから、単に「理性」の力というのではない境地に行けたんじゃないの?


(虚空の料理経験 学生時代など仲間内での宴会準備のエピソード
料理準備は虚空の役目 材料の準備や調理手順が、理性で考えるというよりは、自然に全体像がフワッと浮かんでくる感覚。)
さっきの鳥瞰の場面とかをみながらその時のことを思い出したよ。理性とか思考じゃない感覚。理屈抜きで浮かんでくる感覚。


虚空 別に宴会用にいろんな料理を一度に準備した経験なんてないんだよ。家族のおかずは小5の時から作っていたけど、おかずの品数なんてほとんどなかったから。単品料理。
オヤジも大変だったと思うよ・・・最初の頃は特に失敗ばかりだったし、レパートリーも少なかったからね。

でも失敗した時にもオヤジは「こうすればいいんだ」っていうのはほとんど言わなかったんだよね。もちろん叱るなんていうことはなかった。


ご飯が固めになっちゃった時は「酢飯にするときは今日の水かげんを思い出せばちょうどいい」とか、柔らかすぎた時は「誰かが風邪をひいたらこんな感じ」とかね。そういう助言はされた。
それで失敗も知恵をつけるための材料っていうかな・・・いろんな加減が実感として分かったから、違う料理の時にも「こうすれば良さそう」っていう見当がつけられた。

もちろんそれでも失敗することが多かったけど、同じ失敗はしないとか、次に逆に生かせるようにっていうのはいつも考える癖がついた、っていうのはオヤジのおかげ。

そんなことを何年もやっていたから、仲間内ながらも品数も量も多い宴会準備もなんだか自然にできちゃった。

(その他ちょっと雑談が入ったあと)


今の子ってさ、することないと「何していいのか分からない」ってすぐ言うよ。大人もそうだろうけどね。

でも幸か不幸か、自分はスマホなんていうのも持ってないから電車の中はぼんやりする時間。あいまいな「量子」の感覚。さっきの子の鳥瞰も量子だよね。


諷虹 神社のベンチに座ってだとぼんやりして景色を眺めていることが多いですかね、「何もしないをする」っていう感じ、公園とかのベンチだとスマホとかいじっちゃいますけど。


虚空 このところ本当に目もイカレテいるし、体を起こしているのも辛いから、パソコンに向かう時間も、本を読んでいる時間もめっきりと減っている。その分ぼんやりと「量子的」な時空をただよっている感じかな・・・。

そんな時って「自分」っていう感覚も薄れていく・・・意識そのものが薄れているから・・・それこそ「粒」じゃない存在。霊的な存在って「波」に近いっていうか・・・まさに量子。

空想とかイメージとか意識世界とか・・・それは全部「想念」の世界・・・波だよね。


それを「話し言葉」や「文字言葉」にして自分でも意識化するし、他人にも伝えられるんだけど、それは量子で言えば「粒」として固定化したものだから、波の時の実体のない豊かさはほとんど欠落している。それは複素平面で虚数世界が実数の数直線に投影された時には滅茶苦茶狭いことになってしまうような。

それを日本人は「言葉は事のハ」ってつかまえていたわけだよね。
実体は目にみえない想念の波・・・だからこそ、マクロの宇宙ともミクロの宇宙とも共鳴しあえる。


そんな感覚を段階に応じて育つような環境かな・・・。


幼い時には自然な流れに身をまかせて・・・でも現実思考に目覚めたあとは、「思考力」や「知性」の力も借りて、人知を超えた領域に想いを伸ばす。

「古典」なんかだって、本当はそれのものすごいスイッチになりうる宝。でもそうした扱いは学校教育ではほとんど感じられないどころか、興味を失って嫌いにさせる古典教育が主流。
なんとかしないとね・・・・
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