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☆ウルトラマンの生みの親を交えての上原先生達対談 を読みながら 「教育の本質」へ迫る①

「子どもの目をT・V作家と子ども雑誌編集者と語る」の記事。広島大学リポジトリ 

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/45035/20180306135326102493/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_2_35.pdf

少しずつ読みながら語り合ってきたやりとりをブログアップ 

http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/369/   以降 してきましたが、一応今回で記事の最後までざっとふれることができました。

最初は 「人間の世界認識法」について再確認。これは最近話題になっている「英才児の観察力」ともつながる重要な部分です。

サバイバル生活を描いた今季アニメをもとに「数理思考」の問題もとりあげているのですが、これも上原先生が中学年では「論理思考の訓練」「感情やイメージと切り離す言葉の世界の修練」を盛んに強調されたことと深いつながりがあると思っています。
2019年 7月26日 諷虹宅
*児言態雑誌2号の テレビ番組等々があたえる「子どもの世界認識法」「意外性 と 意中性(的中性)」 に関する話題の続き

虚空 ストーリー4コマって複雑なコマ割はする必要ないわけだよね。

諷虹 ただ、描くスペースが限られているというのはありますね。あと、強調したい場面・・

虚空 そこは基本やっぱり起承転結なんだろうけど・・・
でもね、自分なんて子どもの頃の4コマはやっぱりサザエさんとかいじわるばあさんで、それぞれ独立。ストーリー漫画はいろんなコマ割りタイプ。
もちろん今だってそういうストーリー漫画は普通にあるけど、でも4コマ系の雑誌中心にみている人間からすると、物事の括り方が4コマの倍数っぽくはなるかもね。
長編小説を読まないで、ショートショート系のばかりとかもそうかもしれないけど。
映画だってかつては2時間半くらいの劇映画は普通だったけど、今の観客はもたないとか。
昔のソビエト映画なんて5~6時間のもざらだった・・・


諷虹 ガルパン最終章に慣れ過ぎたから、普通の映画でも長く感じるようになっちゃいましたね。天気の子なんかも・・・


虚空 劇場版ガルパンは普通に長かったけどね。(119分)
まあ、そういう自分も2クールアニメがすごく長くて充実していると感じるようになってきちゃっているからね。1クールのリズムの染まってしまってる。
鬼太郎とかは100話くらいやっていてもだいたい一話完結だからね。サザエさんとかちびまる子とかアンパンマンもそうだよね。
でもガンダムとかはストーリーが続くっていう感じじゃない。


諷虹 ・・・毎話毎話前をチェックしててみるわけじゃないですよね。長編小説を読むのもそうですけど、流れがつかめなくなる。


虚空 朝とか昼の連ドラなんていうのは一応毎日少しずつだから記憶に残りやすいだろうけどね。
以前、誰だったか・・・単発もので評判をとっていた脚本家が大河ドラマか連ドラか何かの脚本を担当した時に、話のリズムに慣れなくて大変だったとか・・・。


諷虹 パッケージがしっかりしていれば、途中でみたって大丈夫ですけどね。キルミーベイベーとかイカ娘とか・・・。久しぶりに途中をみてもついていける


虚空 それは単独4コマの延長のような感じだからだろうね。それでネタは一応完結しているような。昔だったらうる星やつら・・・


諷虹 最近のだと「ソウナンですか」ですよね。


虚空 それで思い出したんだけど、このところずっとことばと感情・イメージを切り捨てる話ばっかりしているじゃない。
サバイバルを生き抜けるかどうかもそれがポイントだよな、って。
概念として「タンパク質」とかを摂取できるもの、と思えるかどうか


諷虹 それにある意味じゃ一番「潔癖な生物」じゃないですか、女子高生って。


虚空 それでタイプの違う人間を配置しているでしょ。先が読めるといえば読めるんだけど、それこそ「的中性」と、それを上回る描写でみせているよね。


諷虹 まちカドまぞくも的中性のある作品ですよね。


虚空 だいたいさ、決まり文句でオチをつけるタイプはそうだよね。「これで勝ったと思うなよ」ってなるわけだから。
水戸黄門だってそうだよね。あれ、何回か「ひかえおろー」がなかったのがあったけどすごい違和感があったからね。あれだけみんなマンネリだと批判するからスタッフもそうじゃないのを作ってみたんだろうけど、不評だったようだし。

マンネリで先が読めるというので有名だったのが「大映ドラマ」って呼ばれていた作品群だけど・・・あれも「またかよ」とか「こんな偶然起こるわけない」ってこぼしながら、でもみんな観ていたわけだよ。自分は観ていなかったけど・・・・。


諷虹 今思ったんですが、この「マンネリ」には負のイメージ、マイナスイメージがありますよね。例えばですけど、アニメ版のひだまりスケッチとかはマンネリとは言わないじゃないですか。「お約束」・・・みんなが待ち望んでいる展開。
でも、マンネリはみんなが飽き飽きしている・・・何も得られないし、何も感じられない・・・そこまできてしまったら、何か変化を起こした方がいい状態
そもそもマンネリって何なんですかね・・・・

ネット検索
マンネリの意味
「マンネリ」は「マンネリズム(mannerism)」の略で「新鮮味や独創性がないこと」という意味の言葉です。
もともと「マンネリズム(mannerism)」は芸術の分野で使われていた言葉ですが、今日では一般に広い意味で使われます。
「退屈する」や「飽きる」というような意味で使われることも多いです。
例えば、付き合いはじめは楽しかったカップルが、時がたつにつれて新鮮味が失われ、退屈したり飽きたりしてくることを「マンネリ」と言います。
デートの時に相手から「マンネリだよね」などと言われた場合は、なにか別の新しいデートプランを模索する必要があるでしょう。
マンネリの語源はイタリア語の「maniera(マニエラ)」で「芸術家の手法」という意味の言葉です。
偉大な芸術家の手法を変化させることなく伝えていたことが、いつしか「新鮮味がない」を意味する「マンネリズム(mannerism)」になったようです。
虚空 上原先生の言っていた「保存と伝承は違う」にも通じるかもね。


諷虹 例えば、のんのんびよりで誰かが転校するなんていう展開は誰も望んでいないじゃないですか。それはただのぶち壊し。


虚空 ゆるゆり2期とか劇場版宇宙海賊だよね・・・いつも同じ例をだすけど


諷虹 新しいことをすればいいわけじゃない・・・かといってずっと同じでいいかどうかというそこのさじ加減。


虚空 ひだまりスケッチもね、最初は時系列無視で描いていたんだから、その路線でも良かったと思うんだよ。それがだんだん学年の一年間を追って、卒業とかになってきちゃったから、主要キャラを卒業で出せなくなった。ひだまり荘の家族イメージが崩れた。


諷虹 作る方は大変だと思うんですけどね。昔、らきすたっていう作品で、入学当初は敬語交じりの堅い文章でメールのやりとりをしていたのが、いつからこんな感じになったんだっけ・・・ってエピソードがあったんですけど。
そういう意味では時系列バラバラだとここで宮子がこう言うのは違和感あるか?とか一言一言に注意するようになるのかなって


虚空 それももっていきかた次第だよ。そこれこそ今週の高木さんみたいにすれば観ている側も混乱しないだろうしね。
それにしても2年生ということで高木さんのからかい方も凝ってきたよね。裏の裏の裏をかくような。
ただ、あれも裏側には「西方君が大好き」っていうのがみえみえだから微笑ましく見てられるんだよ。あれが本当に悪意をもって「西方をいじって楽しんでいる」だったら嫌な女の出てくる胸糞悪い話になって、自分なんて絶対みないから。嫌な過去を思い出すし。
実際に高木さんが最初に放送されるときに、観るかどうか迷っていたもん。嫌なアニメだったらどうしよう、って。

*再び2号対談の話に戻る
虚空 さっきの話は、やっぱり上原先生のこれだよね。

上原
 そうそう。たいへんおもしろいところだと思うな。私は浸画家の才能と言うのはテーマなり、内容的なものをどう配分するかというのではなく、新しい形式を見つけることだと思う。

さっき言った起承転結とはちがった、転々承々か何か知らないけれど、何か他のパターンを見つけることであり、そうしたときにこそ内容が盛り込めたというのだと思う。それを期待したいんです。

テンポが早くパンチがきくのを子どもが好むというのは、何かものの見方の一つの型をそこで習得したことだと僕は思っている。いままでストーリー性しかなかったのが、別の見方ができはじめたと考えたいんだ。だから、次の手がうてるのであれば、漫画やパンチのきいたものを与えるのも教育的に見て決してかまわないと思う。人間の新しいものの見方ということにおいてね………

 この雑誌を始めたのもそのような考え方があったからなのです。空間とか時間というんだって、これは人間がつかまえたわれわれの世界の構造を、時間空間というとらえ方をどこかで覚えてきたわけでしょう。

 だから、この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法を、われわれ新しい人間はつかまえていかなくてはならない。だから、もはや、物語内容にヒューマニズムがあるとか主題がどうであるかという問題は、陳腐でしかない。むしろ、それは、非教育的な内容しかないというようなこと問題でないと思う。もっとたいせっなものがあると思う。

 たとえば、子どもに修身の教科書の内容をどんどん入れれば子どもは、すばらしくなるかというと、決してなりはしない。それよりも、ものの見方という新しいパターンを創造していくことのほうが、新しい人間を作りあげる上でたいせつなのではないだろうか、今日は、聞かせ役ではなく聞き役のはずだった(笑)だから、お二人の試みを具体的に聞かせて下さい。

 たとえば、九時ちょうどに人間が殺されるというドラマがあるとする。あと十分ある。しかしテレビでは時間制約のために場面転換が行なわれている。そのようなときに、どんなテクニックを使うかが聞きたいのです。

 そのテクニックを示すということは、そのようなものの見方を指導していることと同じであると考えるのです。それが子どもの能力とかけ離れていれば、子どもはそこに不可解を感ずる。それは絶えず苦方していることでしょう。
諷虹 『この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法』っていう部分。
「四次元・多次元」ってメモしてあるんですけど、3次元から4次元にということなんですかね。

虚空 逆じゃないのかな・・・寸断するんだから次元が一つ下がる。それを再構築して元の次元に戻す。

スルメでイカを分析して、また元のイカにもどる、ような。


諷虹 寸断して次元が一つさがることで、逆に次元を一つあげる・・・微積の感覚なのかな・・・。微分がわかることで積分が分かる、というように。一つ下げることでも形がいろいろと変わるじゃないですか、定数項が消えるとか。不定積分のC・・・積分定数。何をいれてもいい

虚空 元の式の数値から解放される、っていうことね。


諷虹 ここは注目しなくてもいいんじゃないか・・・本質はここにあるということが見えるようになる・・・寸断することで構造がみえるから・・・次元があがる


虚空 「観察」っていうのがデッサンのたとえでいうと「ものを観る力のアップ」・・・「新たな発見があるということ」だよね。決めつけや思い込みから離脱できる。

そうした得られた新鮮な感動が新たな美を見いだすことや、作品を生み出す原動力。

英才児の「観察報告型」の作文と「イマジネーションどっぷり型」の作文は表裏一体関係なんだろうよね。だからあの3年教室の掲示物みたいに、同じ子が緻密な飛行機のイラストと生き生きした恐竜のイラストを描いていた。


諷虹 我々も戦車にどっぷりはまったり、馬にはまったり・・・そういう部分は似ているかな、って。

虚空 だからNanba先生も言っていたじゃない。駿煌会メンバーも英才児だね、って(笑)
だってコバルトブルー君にしたってヒマワリフクロウさんにしたって、アニメや数学とかの理系と結び付けての話はバンバンしてくるもんね。
*「サバイバルを生き抜く」・・・「感情・イメージ」をオン・オフする基礎としての「数理思考」

虚空 またさっきの話になるけど、生命の極限に追い詰められた状況でも、ものをいうのは抽象化能力だよね。下手に感情やイメージが豊かだったら生き抜けないよ。


諷虹 カエルを逃がす程度の余裕はある


虚空 本当に極限の空腹状態になったら食えるだろうけどね。
でもそれはやっぱり、感情やイメージと切り離せた状態になるから。
ただね、そうした極限で「人間としての理性」をテーマにしたのが市川崑監督が映画化もした「野火」。南方の島で食料がない極限に追い詰められた日本兵の残党が原住民をサルと称して食べる、食べないの話
以前、ここで聞いた「東京喰種」にもそういったやりとりがあったよね。


諷虹 あそこが一番面白いやりとりでしたね


虚空 ああいった部分も、生活感情と密接な数理思考だよ。
実際に「ソウナンですか」のサバイバル姉ちゃんのセリフはそういうのばっかりだろ。どう処理すれば飲料水とか食料になるのか。


諷虹 そこで「割り切る」っていうじゃないですか。小数点以下で割り切る場合を割り切るというか・・・整数では割り切れないで余りがでる。少数まで拡張すれば循環小数でないかぎり割り切れる。

あと、1/3と1/9(=1/3÷3)みたいに0.33333333・・・ってなるものを、0.11111111・・・って永遠に割り続けることができる状態・・・これも割り切ってるって言えるのかどうか。有理化した無理数も同じですね。割り続けることができる。

無限に続く小数、割り切れていない数ですが、永遠に割り続ける、っていうような機械的な作業に落とし込めているという点では割り切れているような気もしますが・・・


虚空 サバイバルで割り切る場合でも、どうしても感情にひきずられる時は「置き換え」を行うじゃない。

「〇〇の味のようだ」とかね。本当に割り切れていないけど、割り切れた気分にさせる。「カエルは鳥のささ身肉のようなもんだよ」とかね。実際に知らないで食べたら大抵の人はそう思うと思うよ。ワニのもも肉もそんな感じだった。もっともあれは何だかしらされずに食べさせられて「何だと思う?」って聞かれたんだけどね。そう聞いてくるからには普通の食材ではないんだろうって思って、当てたけど。向こうはビックリしていたよ。そういえば「イルカ」をご馳走になった時にも一口で当ててビックリされた。「食べたことあるんですか!?」って。初めてだったけどね。


諷虹 この前サイゼリアで食べたエスカルゴも「貝だよな」って。(諷虹・コバルトブルー・虚空の3人が初挑戦した時のこと)


虚空 そうだよ。それをなまじ「カタツムリ」とか「デンデンムシ」なんていう名前にこだわるから、余計な感情がまとわりつく。


諷虹 「認識している」仕方ですよね。食料として認識しているかどうか。家畜に名前をつけるかのような


虚空 銀の匙の豚丼ね。
一度話したことがあると思うけど、うちのじいちゃんが生きていた頃、みんなで焼き肉をやって・・・牛タンを食べたじいちゃんが「これうまいな」ってバクバク食べていたんだけど・・・「これ、何の肉だ?」っていった時にみんなが「牛だよ。うしのベロ」って言ったら、急に顔色かえて口から出してしまった。それでもう絶対食べなかった。
今思えば「ベロ」っていう言い方もまずかったんだろうね。


諷虹 そう考えると焼き肉の部位は食材として定着していますよね。


虚空 そうだね、焼肉屋で「心臓ください」とか「大腸ください」とか言ったらね・・・。なんだか「魔女」になった気分になっちゃう。

「テッポウ」なんて・・・これも食べたことはないけど、早い話が直腸だから、そうとう排泄物に近いものがつまっていたわけだけど・・・・
自分もタンとかはそれなりに納得していたけど、以前さばく前の豚のモツがビニールに入れられているのをもらったことがあるよ。そんな沢山じゃなかったけど、その中に、どうみてもこれは「ベロ」です、っていう状態のタンが入っていた。それこそ表面もそのままのザラザラ感で。ちゃんとさばいて薄切りにしたけど、ちょっと焼いて食べる時に、さすがに元の姿が頭にチラついた。

諷虹 鳥をバードじゃなく、チキンっていうのも・・・


虚空 人類は衰退しましたのチキン・・・加工済みチキン・・・あれがおぞましく感じたのは、切り離されたハズのイメージが不自然な姿でくっついちゃうからだよね。
バタリアン(ゾンビ映画の一種)の肉屋のシーンもそうだよね。おぞましいと感じる根元は何だったのか。

諷虹 理科室の人体模型が動き回るのもその一種ですよね。


虚空 中途半端だから余計に感情がくっついた時に不安定になるんだろうね。理科室の定番だって「人体模型」の方だろ。「骨格模型」はそれほど怖がらないよ。肝試しにつかった時にもね。
葬儀での火葬だって、入れる時にはみんな大泣きしていても、骨になってでてきたらまず泣いている人はみたことない。あれはまさに割り切れた状態。入れる時は眠っているようにも見えてしまうからね。
*対談記事に戻る
金城
 僕は、シナリオを書くとき、こんどは、どんなテーマでやろうかと思い、そして、素材を考え、だいたい、話を四つにわけて、個々のシーンを組みたてるのです。そして、コマ割りをしているのです。その場合、一つのシーンが続くとは限らず、場面を転換させ、同じ会話でも電車の中で銀座の町というように絶えず、画面を流していくのです。この辺に子どもの感覚とピタリくるものがあるように思います。


諷虹 これがよくわかるのはエヴァンゲリオンだと思うんですよね。エントリープラグ内とか、エヴァと使徒が戦ってる様子とか、心の中とか、指令室とか、戦闘シーンが次々と切り替わる。ガンダムなんかのロボットアニメでも操縦席と、外のロボット同士が向かい合ってるカットが何度も切り替わりますしね・・・ガルパンなんかも戦車の中と外を描いていたり、観客席の他校の人視点だったり。いろんな人の視点の重ねあわせみたいなのがある。

それがごった煮になった状態なのが、まどマギの魔女結界の中なのかな、って。


虚空 この前から話題にしている市川崑の犬神家の一族で、それに近いシーンがあったんだよね。違う時空が同時進行で重なり合っていく・・・それが当時は新鮮な手法だったわけだよ。

で、あの当時の中高生とか大学生だった世代で犬神家に刺激を受けて映像作家になった人が結構いたわけだけど、今話にでたエヴァの庵野監督もまどマギの新房監督も、どっちも市川崑の犬神家に影響を受けた人だからね。

市川崑っていうのは「映像の魔術師」なんていう異名もあったくらいで、いってみれば「時間とか空間」をデザインしていく、っていう感覚の映像作りを結構するんだよね。
それもさ、日本の古い伝統的な素材ほど生きた。ものすごく古臭いものが新鮮にみえた。
金田一映画の魅力の一つが、古い日本の風景をハッとするような新鮮な気持ちでみせたこと。
それは上原先生の
『上原 そう。子どもが喜べばいい………それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれればならない仕事だと思う。』

『上原 それなんですよ。だから、モンタージュというのは、いつも継続と切断をやっているわけだ。子どもは全く、切断、切断、ではわからない。かといって、継続、継続では退屈を感ずる。その継続と切断の新しい何かを、子どもが見つけつつあるというふうに思いたいなあ。』
にも通じているかもしれない。だから何十年もたった今でも受け継がれている。

黒澤明なんかもそうなんだろうね。


諷虹 ここに「郡司先生の江戸庶民の発想」っていうメモがあるんですけど・・・・

補足 しばしば虚空が引用している上原先生の師匠の一人である郡司正勝先生の言葉(郡司先生 遺稿集) 
P73  [江戸の発想]
 歌舞伎の作品を補綴(ほてい)したり演出しだしてから、もう十本ほどになる。
 私がどうも腑におちないのは、必ずといっていいほどに、劇評に、筋がよく分からないとか、テーマに明解を欠くとか、わかり難いという評が焦点になっていることである。・・・

 いったい、どうして江戸時代の庶民が創り出した大衆劇である歌舞伎が、今日の最高学府を出たインテリにわからないのであろうかということである。・・・こういうとき、私は、あなたは教養があり教育がありすぎて解らないのでしょうということにした。
 

 歌舞伎狂言の構成は、仕組むといって、いくつもの世界を、時代の違う世界を、同時に組み合わせて綯い交ぜ(ないまぜ)にして作劇する。江戸時代の奇才鶴屋南北などになると、四つも五つも世界を組み込んで「筋からみあって新しい」と評されるほどである。まァいってみればTVのチャンネルを何分かごとに切り替えて見るようなもので、これに有機的関連性をもたせ、最後には一つに纒(まと)まって決着がつくこうしたのを上々とする。
 
 こうした構造を芸術の基準としている、その構造が理解できなければ、おそらく絶対にわからないであろう。近代の学校教育は、西欧的理念と方法によったものだから、はなはだ合理的科学的で、そうした教育がすっかり身についているインテリにとって、こうした江戸の文化の構造や発想様式は、習いもしないし、生活にもないとすると、もう体質的に受け入れられなくなっているのである。日本人も、まったく西欧人なみの頭脳になっていて、すでに江戸人とは異質の人種になっているのではないか。

 江戸人の目は、いくつもの世界を、同時に一緒にみることの能力があった。トンボの眼のように、複眼的構造は、同時に、いくつもの事象をうつしとることができる。あるいは、それは封建時代に生きる者の生活の知恵であった。右か左かを分明しては生きてゆかれなかったこともあろう。なまじい教育のある者にとっては矛盾として受け入れられないものを、おもしろしとして、そこに見るべきものを見た世界構造。それが歌舞伎の構成であった。

 江戸歌舞伎は、テーマを四つも五つも一つの作品に盛り込み、鵜匠の手綱のように、その捌き方の技術を、ほれぼれと舞台で鑑賞するような、そんな生活基盤の美的基準がもうなくなってしまったのかと考えこまざるを得ない。

⇒虚空はこの江戸庶民の発想法を「多次元構造の同時進行」と呼んでいます。

虚空 それは上原先生のこの発言部分だね。
『上原
 うん。だからね。あれがだれが一番最初にやったか、僕は知らないけど、誰かが回想シーンとして、初めに持ってきたときには、たいへんびっくりしたんだと思う。ところが、人間というのは、あの形式で写されると、″ああ、あれは回想シーンだ″というふうに捉えることができてくる。やはり、映画芸術というのは、そういうものを見つけて行くのでなくてはいけない。特に、子どもに飽きられずにあたるというのは、それを見つけてゆくぺきだと思うのです。

金城
 このあいだ、スチーブ・マックイーンの’華麗なる賭け’という映画を見たのですが、画面が六つにわれ、別の空間で六人が、それぞれ違うことをしているのを一度に見せてしまうんです。それを年寄の人たちは、″いったいどうなっているんだ″とこそこそ話してる。その横で、お孫さんがついてね。中学生ぐらいかな。″あれはいま、一緒に同じ時間にああいうことが行なわれているんだ’と教えているんですよ。』
虚空 それこそ、まどマギあたりでも、この辺の展開の構造はややこしくなってきているじゃない。あとは化物語シリーズ。自分はオジサン世代だからなかなかついていけなくなっている。普通に回想シーンのカットバックくらいなら違和感はないけどね。


諷虹 あとは一つ前のここなんですけど・・・・
『上原
 あのね。こんどは、頭の中の場が動かなくてはいけない・・・頭の中の場が変わることがパンチになるんだと僕は思う。それが非常に変わってきているんではないかと思うんだけど、どう?』

虚空 このやりとりの頃はまだそれほど凝った映像表現っていうのはなかったからね。
劇場映画だったらシネマスコープとかで情報量の多い画面作りはできたけど、テレビはまだまだ画質も悪いし、画面比率も4:3だし、大画面テレビなんていうのもなかった。
今なんかでは通常のテレビ放送モノでも、相当凝った画面作りができるからね・・・この対談の頃には全く想定しなかった場面転換とかが行われているよね。


諷虹 普通にこれを読んで思ったのは「これも物理学っぽいよな」って。電磁誘導・・・磁場が動くことで電流が発生するとか、電流が発生することで磁場が動く・・・あれって電流が一定に流れている時は磁場は変化しない。

慣性の法則じゃないですけど・・・。さっきのマンネリ。
変化があるから連鎖反応で他の変動も起きる。その変動を起こさないように一定で流し続ける。止まっちゃっても変動は起きるわけですよね。


虚空 それは止まる時に、っていう意味でしょ。


諷虹 そうです、止まる瞬間に、ということです。地球の自転も、もし止まったらその止まる時が一番大変だろう、って。

それを「頭の中の場」としているところですよね。
演劇でも場面転換・・・・天気の子をみて思ったんですけど「真っ暗」なのを何度か入れていたじゃないですか。そこからパッと映像を切り替えるみたいな。
あれで、何か一区切りのモード切り替え


虚空 「暗転」とかいうお約束だよね。
歌舞伎なんていうのは演出テクニックでそれを貪欲に追求していた。だから西洋の演劇舞台とは全く違った舞台構造を考えたわけだよね。幕の使い方もそう。西洋の幕とは違った・・・時空を転換するための道具。単に一つの場面が終わりました・・・じゃないよ。一瞬で転換する。そこに「衣裳の早変わり」なんていうのも加えたから余計だね。
今でいう特撮を生の舞台でみせていたようなもの。だから日本では特撮モノも特化した。

よく映画と舞台の違いということで「時間の進み方」が言われる。ナマの舞台はリアルな時間での進行。でも江戸歌舞伎なんていうのは、それを現代の映像並みに自由自在にあやつろうとした。ゴーンと鐘の音がひびいたら数時間が経過とかね。さっきでた「お約束」だよ。

そのDNAじゃないの・・・最近流行りと言われている「2.5次元の舞台」って。西洋演劇は「額縁」って言われるけど、そういう感覚じゃない舞台作り。

歌舞伎をさらに遡って能からしてもね、ちょっと数メートル丸く歩いたら、それで諸国を旅したことにしちゃうしね。そんな感覚で舞台というのを考えていたから。決して人生のある部分を額縁で切り取ったかのような感覚ではなくてね。

時空のデザインということからいうと、黒澤明よりも市川崑の方がずっと思い切ったことをいろいろと試していたんじゃないのかな。

あとはね・・・ふだんの映画は割とオーソドックスな時間の流れて撮っていた野村芳太郎っていう監督の代表作「砂の器」なんかは、音楽会のシーンに様々な別の場面や回想シーンが複雑に織り込まれていた。


諷虹 落語だと、誰かのやりとりの合間に語りが入って、またポンととんでも違和感なくつながる。


虚空 今朝の番組で、まだ録画したものの冒頭だけしかみてないんだけど、NHKに山寺宏一さんが出ていたよ。一人何役ものアフレコをした話題とか。でもそのDNAにだって落語とかがあるかもね。


諷虹 少年漫画で時々あるんですけど、モニター室の場面。部屋の中で同時に他の場面をみることができる・・あれってテンションがあがる感覚。秘密基地でも、基地全体が見渡せる・・・脳のようなところ。そこにいればすべてが分かる。ワクワク感があります。
ボタン一つでギミックが発動するようなのもあって。


虚空 エヴァの描写にもあるよね。ゲンドウの背景にシンジの表情がモニタリングされているとか。00


諷虹 監視カメラの映像を同時にみるというのもやったことはないですが、面白いのかな、って。
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