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☆ウルトラマンの生みの親を交えての上原先生達対談 を読みながら 「教育の本質」へ迫る②

この対談記事の中で当初から最も気にしていた部分 

『教育的であるということは、内容ではなく形式である!!』
についてのやりとりが核心部分ですが、これはまさに現代の教育が最も誤解している部分。

「形式的な丸暗記」などと受け止めてしまっては全く上原先生の真意とは離れてしまいます。
「型」「様式」「儀礼」等々の本質と関連してきちんと考えなければならないテーマ。
それこそ先生の最も難解な著書「芸談の研究 心意伝承考」や儀礼等々に関する論文、あるいは折口信夫先生の「日本の教育は感染作用」という発想等々と照らし合わせながらみていかなければならないのですが、さすがに今回のやりとりはそういった学術的な側面からは迫れていません。
アニメ等々からの考察です。
もちろん、この2号対談記事の内容は、今後も繰り返し話題になると思います。


☆教育的であるということは、内容ではなく形式である!!

虚空 やっとサイゼリアの時から騒いていた核心の章にたどりついたわけだけど・・・
この見出しってすごいことだと思うんだよ。どうしても丸暗記型のテスト対策勉強って「内容」こそが大事とされているだろ。「これはよく出るからちゃんと覚えておけ」って。数学とかだって「解き方を覚えろ」だしね。

ただ、一つ間違えると「形式である」ということを「中身はどうでもいいから丸暗記させろということか?」と誤解されてしまう。
そうじゃないと思うんだよね。
分かりやすいのはやっぱり芸の修行。あの京都の舞妓さん・芸妓さんが水戸にきた時のお茶屋の女将さんに質問した時のやりとりもそうだったけど・・・。

それこそ「人知を超えた・・・常識を超越した」そういうものを会得するための知恵が「型」の文化だったと思うんだよ。
理屈であれこれ中身を考えても踏み込めない領域が問題にされている。

目先の「テスト対策が教育」という現代社会の常識では到底分からない境地の話が上原先生から出ていると思って読まないと誤解を生むよね。

諷虹 形式ということになるのかどうか分からないですけど、例えば国語で物語文をやるときに、さっきの演劇のようにそれぞれの登場人物のセリフを言っていくといろんなものが見えてくる、というのがあったよな、って。
社会で家内制手工場と機械化された工場の違いを、高専の授業で芝居がかったことをした記憶があって・・・その時に「そういう気持ちなのかな」って経営者とか労働者にリンクできた。この立場だとこういう発想になって、こっちの立場だとこうなるのかな、って。
当時随分と熱くなった思い出があります。
⇒高専時代のノートを引っ張り出してきてふりかえる

虚空 俗にいう「憑依」の一種かね。
折口先生が「日本の教育は 感染作用 である」って言っていたような・・・
諷虹 (二進法などで躓いている生徒の話題)


虚空 二進法に入れないのってどうしても十進法から離れられない場合じゃない。
時々小学生にね、二進法の計算をいくつか書いて「このノリでいったら、次はどうなると思う?」って。そうすると結構できちゃうよ。
それは「このノリ」っていうことで「新しい約束を見つけよう」って思うから。それを自分でみつけた後で「それを0と1の二つの数字だけの世界だから 二進法 っていうんだよ」とあとで言葉をくっつけてやるとスッと入る。
それを最初から「二進法をやるよ」なんていうことばから入ると変に構えちゃって・・・壁を作っちゃってなかなかその世界に入れない。
異世界モノでRPGになまじ親しんでいると、それとは違った約束を入れている「いせスマ」には入りにくなった若者が多かったようにね。
(マイナスの計算 ノリで約束をつかませる のと 規則の丸暗記 との違い)

諷虹 ゆゆ式でもありますよね、調べたことを「これはお酒の席で決めたのかな」なんていうのが


虚空 実際にもそうじゃない。物事を深く考える子の陥りやすい落とし穴って「深読みしすぎる」っていうこと。その裏には深い理由があったんだろう、とかね。
でもそんなに深く考えていないで「やくそく」されて定着したものだってあるんだよね、いくらでも。だから「背景もきちんと考える」って勧めても、深い理由がない場合だってあるんだよ、っていうのも同時に教えておく必要はあるよね。


諷虹 使われる文字も習慣でそう使うものとかもね。わざと「イロハ」を使うとか「甲乙丙」と使うとか

『上原  
うん。たとえばね。善をすすめなければいけないと一全懸命になっている子どもがいるとするでしょう。すると、このときに、悪をにくむわけですよ。しかし、善と悪との二つを考えるようになってくるでしょう。そうすると、いままで、一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。

 だから、やっぱり、人間のものの見方がどんどん変革されてくれば、それは(人間性が高まるということが)できてくることだと思う。
 さっきの映画の話にしても年寄の方は、映画の場面がとらえられなかった。子どものほうは。そのしくみを見てとった。そこに写されているものは、人間生活でしょう。
 そのしくみがどうなっているかがわからない方の人間の人問性が高いと言えるか、それよりも、しくみがわかるほうが、人間性がわかっていける可能性をずうっともっているって言えないでしょうか。』

諷虹 「一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。」っていう部分ですよね。


虚空 丸暗記だったら、それでオシマイなんだよね。

でも見方が増えるということは、同じ見方を他の分野にもやってみる・・・それによって新発見を自分でして「新たな世界の構築」の連鎖反応ができるようになる、っていうことだよね。
「ものの見方」が増えることを、さらに「知識・概念」まで拡張したのが駿煌会で使っている「添加」だと思うんだけど。
だからさ、この「添加」っていうのは今後是非広めたいと思っている。
「構えの変革」を自ら起こしていく原動力にもなる。それこそ「添加」による「意識世界」や「イメージ運動」の変化からくる「興味関心」「感動」がエネルギー源になってね。

『上原
 そうですよ。それは、ものの見方の仕組が、変わってきたということです。感動する仕組の構造が変わってきたということなんです。

 だから、その構造を変えてやることが必要なんです。作品のテーマなんかをいくら強調したって、子どものイメージには、先生は、あの作品をたいへんほめたということしか残らない。

 そして。そののち「ああ、先生の感動したことは、こんなことだったんだ!」と気がついたときは、それは、その仕組がわかったというときなんですよ。』

諷虹 「構え」ということで・・・これが私の最後の大きいメモなんですが・・・

『上原
 それはね。われわれは、こういう盲点を持っていると思う。内容と形式を分けて考えるとき、形式は内容の容器でしかないという悪いくせを持っているんですよ。

 形式こそ智恵なんでね。

 実は、それは容器(いれもの)でも、なんでもなくって、最も、生(なま)の智恵だと思うんだ。内容を問題にするってことは。その智恵を問題にしているんでね。』


諷虹 結局「型」とか「構え」っていうのは「容器」っていう風に置かれているわけですよね、ここで。
例えば安いグラスに高い酒が入っていたら、「なんでこんな安いグラスに・・・」とか思いそうですが、案外高いグラスに安い酒(飲みなれた、ありきたりなもの)が入っていたらそのグラスが良いものだと気付かない可能性があるのかなって。
中身が高価な時に初めてその外側、「容器」・「型」に目がいくけれども、中身がありきたりだとあまり関心がない部分・・・ミスディレクションみたいな。重要な部分なのに焦点があまり合わなくなってしまっている・・・


虚空 無意識に「ふさわしいもの」っていうイメージのリンクがあるのかもよ。
だから服装でも小物でもいいものを持って、「それを持つのにふさわしい人間になれ」っていうような。襲名の感覚もそうだろうけど。
ただ、それが今は高級ブランドものを持つだけで人間が完成したかのような・・・自分がいい酒に熟成しているかのような自己満足になってしまっているんじゃないの。
努力もしないで。


諷虹 努力すれば成功するとは限らないけど、成功した人間は必ず努力している・・・これも成功したという中身があるから初めて外側の構えとかどういう努力をしてきたかという容器の部分に目がいく


虚空 アメリカの訴訟社会の風潮がどんどん流れこんでいる一つの表われかもしれないんだけど、何でもかんでも他人のせいにする風潮・・・昨日から話題になってるバスの運転手に土下座を要求した中年男のもそうじゃない。居眠りして降りる停留所で降りられなかったのは起こさなかった運転手のせいだと激怒したと。それでバス会社がその停留所まで送ろうと配慮してくれたんだけどおさまらなくて運転手に土下座を要求した・・・

こんなことをやっていて、何でも損害賠償とかの風潮になっていったら、基本的に大人として自立できる人間力だって自らつぶしていることになるよね。
年齢相応の肉体にリンクしない人間。
そのくせ早期教育とかは不自然なくらいにうるさい世の中。

諷虹 人事を尽くして天命を待つ・・・これも結局「器が出来ていれば中身が」ということですよね


虚空 それが今は何もしないで天命を待つ・・・棚からぼたもちだよね。


諷虹 2代目経営者なんてそうなのかもしないですね。中身だけ譲渡されて


虚空 「あれは2代目の器じゃない」なんていう陰口があるもんね。

自分も「器化」ということばはよく使ってきたけど、それはやっぱり日本舞踊の家元の知り合いとか、京都のお茶屋の女将さんとかの話からの発想もそうとう入っているから「日本人の知恵」として位置付けてはいたけどね。


諷虹 だからこそ『教育的であるということは、内容ではなく形式である!!』
昨日のまちカドまぞくでも、魔族でありながら「みんなが仲良くなれますように」って。魔族の器ではないですよね。


虚空 器にふさわしいものを引き寄せる、っていう部分と、器は出来ているんだけど、どうしても自分にしっくりくる中身の感覚と一致しないというのもあるんだろうね。

「性同一性障害」なんていうのもそうなのかもしれない。もっとも日本人は魂に関してはな性別の経験は魂によって違うという見方だから「障害」でもなんでもなかったと思うけどね。これまでとは違う肉体に初めて宿った魂が違和感を覚えてしまうっていうのは何も特別な感覚じゃないから。それは自分のようなラフな恰好ばかりしている人間が、ある日突然かしこまったタキシードなんかを着たら違和感というか着心地の悪さばかり感じるのと同じだと思うから。

そのあたりの「型」と「中身」のことはもっと丁寧に考えていった方がいいかもね。

*シロバコでの「人に教えるのは勉強になる」というセリフから
虚空 これはさ、小学生に教えた時に痛感したよね。建前が通用しないから。
逆に変に物分かりがいい中高生が「分かった」っていう反応をしてくれる方がコワイよ。


諷虹 改めてみると、あの人数が全部が全部相互に作用している感じがありますよね。


虚空 それなんだよね・・・だからさ・・・いま 改めてこれをみていてさ・・・京アニのことが浮かんできてちょっとね・・・・。
あの会社は本当に珍しいくらいに社員みんなが家内制手工業のように作っていた会社だっていうじゃない。それがこんなに一度に仲間を失ったっていうのはね・・・・。
重要な地位とかなんかじゃなくて、どのポジションの人も大事っていう本当の組織。


諷虹 あの平岡も腐ったミカンじゃないですけど、腐った会社にいたから腐ってしまった

虚空 最初から京アニのような会社に入っていたら随分人生が違っていた男だよね。
まあ、水島監督としては、一度絶望して腐ってしまったようでも、志がかすかに残っていればいくらでもやり直しのチャンスはあるんだ、っていうことを描きたかったんだろうけどね。

諷虹 平岡が更生する一番のきっかけは、高梨太郎じゃないですか。他に立派な人はたくさんいるけど。

虚空 最もダメ社員のように描かれているけどね。無責任なお調子者。でもこれが水島監督がモデルっていうことなんだから、その経験を生かしたっていうことなんだろうね。
あんな太郎をクビにしないで仕事を与え続けていた周囲の功績ともいえる?

諷虹 さっきはどちらかというと努力もしないでという傲慢な方でしたけど、努力はしているけど、消極的な考えでまだ器ができてないと自分で判断しちゃうタイプの人間も・・・
虚空 作画監督補佐とかキャラデを引き受けるなんてまだ早いっていう場面だね
諷虹 ある意味「うぬぼれないといけない」わけですよね。器ができあがっていると。機が熟していると思うタイミング。
虚空 そこがね、まだちょっと襲名には早いかなというところで襲名させることでその名に追いつかせようという知恵なのかもよ。
ただ、自分が最初から諦めていたら入り込まない。
そこがさ、あの作画監督の女性も示していた「引き受ける以上の責任」という覚悟じゃないのかな。最終的にはね。
諷虹 それによって得るものがいっぱいあるという部分。演じてみてわかること・・・いろいろな立場になってみて初めてわかるようになること。


虚空 本当に努力してきた人達は、自分もそういった経験を経てきているから、真の意味で「思いやり」とか「優しさ」があるよね。態度としてはものすごく厳しい時はあっても、裏側にはその人を全肯定する気持ち。
だから失敗そのものをダメとは言わない。失敗から学び取ろうという姿勢がない時ことこそが問題、って。
それはやっぱり「型」・・・「型」を「形式」としかとらえていないと、単なる容器っていう上原先生の指摘・・・でも「知恵」としてつかまえると「形式」とか「型」は「構え」っていう言葉に言い換えた方がふさわしいのかもしれない。


諷虹 付与するものが感じられますね。
「構え」っていうことは、「構えている人がいる」っていうことですよね。単なる「器=モノ」じゃなくて「人」がいる。そこに「思考・感情」っていうのが並んでくるのが自然になってくるんじゃないですかね。

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諷虹 最後の最後、ここに「ぬえ」ってメモしたんですけど・・・
『上原 
仮に一枚の用紙に犬なら犬を納めるとするでしょ。するともう一つの観方だからね。だから、おとなだと、その犬を中央におくか、端におくか、端においてその犬が体半分、用紙からはみ出していてもいいのか、そして、画面から切れていても。その犬の全体は子どもに見えるのかどうか、おとなにはわからない。そういうことをわれわれは謙虚に考えてやらねばとさっき言ったんだけど、いまの話は、描き手が子どもでしょ。だから、子どもが自由に自然に筆をとったものだとすれば、それ以下の年齢の子ども達には抵抗が少なかったかもしれないと言えるね。』
諷虹 既成概念からの脱却のようなことだと思うんですよね、ここは。

ぬえ
『平家物語』などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足が狸、尾は狐になっている。さらに頭が猫で胴は鶏と書かれた資料もある[1]。

諷虹 かといって荒唐無稽すぎない絶妙なバランス


虚空 そこが前にでていた「意中性・的中性」のことだね


諷虹 桃太郎のことで出てきたやつですね
この記事の最後、

郷右近
やっぱり切断と継続ということですか・・・(後略)

さっきの微積の話じゃないですけど、鵺だって部位ごとに切り貼りしているわけですよね。
それによって新たな次元というか発想というところにたどりついている。

虚空 フト思い出したんだけど、仮面ライダーの怪人の名前、ゲルショッカーでは「二つの生物のかけ合わせ」、デストロンでは「生物と機械のかけ合わせ」になっていたわけだけど、これもただデタラメにくっつければいいというものじゃなかったと思うんだよね。

特にデストロンのが分かりやすいと思うけど、子どもながらに「なるほど」と思えたかどうか・・・。「カメバズーカ」とか「テレビバエ」・・・


諷虹 上半身が人間で下半身が魚なのか、上半身が魚で下半身が人間なのか・・・


虚空 人魚はなじみだけど、逆のがあったじゃない・・・鯖かなんかの


諷虹 えんどろーですね。「鯖魚人」https://twitter.com/iruka_hoshizora/status/1093475481549037573?s=20


虚空 あの生足は気味悪かった。
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