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☆真の学ぶ姿勢  「数学ガール」「上原語録」そして「食べるということ」

2019年4月26日 諷虹・虚空やりとり、その2です。
結城浩著「数学ガール」シリーズの第一巻を読み返し始めているという諷虹君が気になったやりとりを紹介。

それを受けてフト頭に浮かんだ上原先生の言葉を虚空が紹介。
また、このところのやりとりで話題になったこと(例えば小学校高学年での教科担任制導入検討のこと等々)と関連の深そうな上原語録を、いつもより多めに紹介しています。
そしてこの日のやりとりが「食」を中心に行われたことから、その視点で人間や教育についてまとめ、しめくくっています。 


虚空 ヒマワリフクロウさんがラインに書いていた
「実るほど頭を垂れる稲穂かな、みたいな感じで、上に行けば行くほど、謙虚になるってゆう人ステキだよね。」
っていうのを「成果主義」「競争原理」ばかり強調されて生活している現代人はあまりにも忘れているよね。学校なんてまさにそう。分かっていなくても「分かった」っていうフリをしなければあった言う間に居場所がなくなる。
昔からさ、いろんな授業を見せてもらった時に特に低中学年で先生と子どもたちとのやりとりである「分かりましたか?」「ハイ!」・・・あれにはずっと違和感を持っている。あんなやりとりで「分かりません」なんて言ったら顰蹙ものだからね。
特に他の先生たちが参観しているような研究授業でそれをやったら、あとでどれだけ叱られるか分かったもんじゃないよ、多くの場合は。
だってさ、算数なんかでも1年生が習うような単純なことが数学的には非常に説明が難しい、ハイレベルな発想、っていうのがいくらでもあるじゃない。
だからうちのクラスではほとんどあんなやりとりをしなかった。
だってさ、「分からない」っていうことを丁寧に聞くと大抵は深い部分と直結していることなんだよね。だからそういう発言は授業を深めるためにとってもありがたい発言なんだけどね。
でも、多くの先生は、「分からない」って子どもが言うと「自分の指導力が疑われる」ってとらえてしまう。テストだって間違えている部分なんていうのはその子その子にとって貴重な教材なのにさ。


極端な例だけど「点数が悪いと指導力がないって思われちゃうでしょうよ」なんて言って業者テストをする前に、同じ問題を何度もやらせて、分かっていない子には答えを丸暗記させて、みんな出来るようになったら業者テストの本番をやらせていた・・・なんていう先生もいた。だからクラスのほとんどは100点。その100点にどれだけの意味があるのか・・・結局先生の自己満足というか、自分が評価されるために子どもをダシにしているだけ。
今も似たような風潮はあると思うよ。だから学力テストの前に過去問や類問を何度もさせるとかね・・・・・実態をつかんで今後の指導に生かすためのテストでなければならないのに、まるで受験のテストであるように人物判定だけのテスト。
まあ、テストの結果が悪い学校や教師がダメのレッテルをはられて為政者からクビにされかねない今の風潮では自衛としてそれも仕方ない部分があるんだろけどね・・・。


諷虹 数学ガールを読み返してて

「数学ガール」第一巻より
テトラちゃんとの問いに対して
「好きだから。好きだから手間暇をかける」・・・
「学校の世界はとても小さくて狭い。子供向けの偽物がたくさんある。学校の外にも偽物はたくさんあるけれど、切ったらちが噴き出てくるような本物もたくさんある」
「学校の中に本物はないんですか?」
「いや、そういう意味じゃない。例えば教師。村木先生は知っているよね。変わり者だと言われてるけれど、いろんなことがよくわかってる。僕たちはときどき、村木先生から問題を出してもらったり、面白い本を紹介してもらったりしている。

好きなことをしっかり追い求めていくと、本物と偽物を見分ける力もついてくる。いつも大声を出している生徒や、賢いふりをする生徒がいる。きっとそういう人たちは自己主張が好きで、プライドが大事なんだ。

でも、自分の頭を使って考える習慣があって、本物の味わいを知っているなら、そんな自己主張はいらない。大声を出しても漸化式は解けない。賢いふりをしても方程式は解けない。誰からどう思われようと、誰から何と言われようと、自分で納得するまで考える。それが大事だと僕は思っている。好きなことを追い求め、本物を追い求めていくのがーー」

虚空 ここで「本物の味わい」って・・・味覚の例えが出てきたね。
よくさ、センター試験なんかで「何でこんな関係ない教科までしなければならないんだ」っていう学生に対して「本当に好きな事をするための大学に入るためなんだから、そこは割り切って我慢して勉強しなさい」っていう言い方をするよね。
自分なんかもそう思っていたけど、最近は随分違ってきた。
「好きなことを極めるためにもきちんと学んでおいた方がいい。様々な分野の事柄・・・むしろ関係ないという思うような事柄を積極的に添加することで、好きなことだけをしているのとは全く違う次元に飛躍できるんだ」って。


諷虹 
(さらに「数学ガール」からの引用)
「学校は学ぶ素材しか与えてくれない。教師は受験のことばかり考えている。それはそれでいい。でも、僕自身は自分の好きなことをずっと考えていたい。親から強制されて式変形しているわけじゃない。僕がどんな数式をいじっているかなんて、親は興味ない。机に向かっている僕の外面しか見ない。だから、僕は好きなようにやっている。といっても、もともと勉強しろなんてあんまり言われないけどね」
「先輩は成績がいいからですよぅ。あたしはだめなんです。しょっちゅう≪勉強しろ≫っていわれます。うるさいんです。うち」
「僕は図書館で考え事をしている。ノートを開いて、式を思い出す。どうしてその定義でなければならないかを考える。定義を書き換えて何が起こるかを調べる。肝心なところは自分で考えなければならない。教師が悪いとか、友達が悪いとか言ってもしょうがない。テトラちゃんは言ってたよね、さっきーー式が出てくるたびに≪どうしてこう書くのかな≫と考えるーーって。

それは、決して悪くない。時間はかかるかもだけど、自分が抱いた疑問に安易に納得せず、ずっと考え抜くのは大事だ。それこそが勉強だと思う。親も、友達もーー教師だって、テトラちゃんの疑問には答えられないよ。少なくとも全部には答えられない。もしかしたら怒り出すかもね。人間って自分が答えられない問題を与えられると怒り出したり、問題を出した人を恨んだり、逆に馬鹿にしたりするものだから」


諷虹 こういう「考える」っていうことが「問い」なんでしょうね。


虚空 この発言に近いことが上原語録にあるよ。
教育は『天下国家を動かすもの』ですよ!母親を動かすレベルではないんですよ!(平成七年二月例会)

だいたいさ、学校長からして親や教育委員会や議会ばかりの顔色をみてビクビクしているか・・・。堂々と「ホンモノの教育はこうである」って主張できなればならないのにね。マアそれはそれで他人には分からない苦悩はいっぱいあるとは思うんだけど。
教育に関する上原語録はそれこそ山ほどある中で・・・最近の駿煌会のやりとりと関わりの深そうなのをほんの一部だけでもあげてみるとね・・・・
上原語録
・『教えない素晴らしさ』の確認も必要ですね。二十一世紀に向けて慌てすぎている。(平成六年忘年会)
・教育は『伝承過程』の中でしか考えられないんですよ。・・・『過程的教育観』が必要なんです。今の教育は過程抜きだから、せっかちすぎる。学習過程を大切にしてやるんです。・・・
 扱う子どもの「生から死」に全部つきあうんではないのですからね。その一部分を担当するんですよ。           (日本教育史特講)
・子どもに『あの世』を教えるべきなんですよ。「この世限り」と言って何か得があるんですか。「今が大切」と言っても、「今はすぐ消える」んですよ。(国文学)
・教育するという事は決して既成の文化をもう一度子どもに考えさせる事ではない。(昭和六十三年合宿)
・ 教育っていうのは危険を伴っている仕事なんだよ。安全圏内で何かをする事なんて教育じゃないですよ、絶対に。次代の子どもを作ろうとするんだもの。危険に決まっているじゃない。次代が分かっているわけじゃないんだもん。・・・吉田松陰はどうだった。気違いじゃないか。でも吉田松陰がいたから明治維新はできたっていえるだろうね。    (平成五年合宿)
・教育学はロマンチシズムでなくてはいけない。教育者もロマンチストじゃなくちゃね。今の教育学はただの「子どものわがまま」です。    (児童言語)

・教育学は哲学・史学・文学と比べても浅い学問ですからね。だから逆に新鮮さが必要なんです。・・・体系づけの試みをする段階なんです。「教育方法学」なんていう方法を対象とするのがあるのも、教育学がまだ未熟だからですよ。方法論なんて安っぽいじゃないか。人間が消耗品化してしまう。(日本教育史特講)
・教育者は世の中を常に見つめ、世の先行を見守るんですよ。それをつかまえるためにも総合雑誌を読みなさい。・・・(国語教材研究)
・「知育偏重」に走れば墓穴を掘るんですよ。各教科の専門家になろうとしなくていいんです。より上の専門家はいくらでもいるんですから。
 
我々の仕事は「○○」を上手にさせるのではなく、子どもが「○○」にどう反応するかを見届ける事なんですよ。そして専門的なことが必要になったら、その時は専門家を連れて来ればいいんです。専門家は片輪なんですから。(国語教材研究)
・かつて、小学校の先生は何と呼ばれていたか、知っていますか?「訓導」と呼ばれていたんですよ。小学校と中学校では仕事の内容が違う事を、こうしたことでもきちんと分けていたんです。小学校は「日常性」を扱い、中学校は「知識」を扱うんだって。(国語教材研究)
・小学校の先生を『訓導』から「教諭」にしたのが間違いだったね。中学校以上の先生の真似をしたから。小学校には『訓導』が大切なんですよ。『孝』を忘れてはならないのです。人を理解するには親の理解が第一なんですからね。(国文学)
・ 教師は一般者とは違った生活感情を持たなければいけませんよ。時間・空間が違うんです。「子どもの見方」が違うから教育者だったんですよ。企業の常識っていうかイメージが現場を振り回しているんだけれども、一般の人にないイメージ、それは「子どもの存在の在り方」や「そのイメージのよりどころ」をしっかりとと持たないと・・・。   (平成五年忘年会)
・小学校の先生はガキ大将的でなくっちゃ。    (平成二年七月例会)

風虹 数学ガールのあとがきでの作者の想いで・・・数学への想いは好きな子への想いと重なるようなことが書いていあるんですが・・・


虚空 高2の時に出合った若い数学の先生がちょうどそんな感じだったね。本当に数学に恋しているというような。
「恋」って「乞う」で魂が互いに惹きつけ合うということだ、っていうけど・・・・だから何事も「好奇心」「興味・関心」がベース。
で、理想的にいえば好きな分野以外のことも積極的に添加していって、どんどん結びつけていける構え・・・そんな意識世界を広げていける・・・。
そうしたら身近なところから宇宙全体・・・見えない世界も含めての・・・共振共鳴が勝手に起きてきて、ますます面白くなっていくんだろうね。


諷虹 今日の全体を結び付けるような名言がありまして・・・
『食べ物に対する愛より 誠実な愛はない』
バーナード・ショー



虚空 だいたいさ、深く理解することを「自分なりに消化する」っていうもんね。あるいは「血となり肉となる」っていう言い方もある。
食べ物に例えているわけだからね。


諷虹 昔の人が単語を覚えた辞書のページを食べた、なんていう話もありますよね


虚空 本当に食べたかどうかは知らないけれど、でもそれでどこか納得してしまう意識があるというのがね


諷虹 爪の垢を煎じて飲む、もですね。


虚空 「うちのメイドがうざすぎる」の「胃袋をつかむ」とか・・・あと「ゆらぎ荘の幽奈さん」だと「餌付け」なんていう言葉が何度か出てくる。やっぱり「食」が大きなポイントだね。
夕方にさ、近所の人があく抜きしたばかりのタケノコを持ってきてくれて・・・さっそく新じゃがとかと一緒に煮ものにしたんだけど・・・やっぱりただの水煮で調理したのとは違う感覚があったよね。

それこそ「ああ、これがまさに旬の味」っていうような。
やっぱり「旬の食材」って「生命力を取り込む」感覚。
食べないまでも「和歌」で季節感を読み込むなんていうのは、魂に生命力を与えていたっていうこと。
のんのんびよりの春の場面だったら「つくしを食べた」、ふらいんぐういっちだったら「フキノトウ」とか山菜・・・・分校の時にも子どもらはそんな風なやりとりをしていたし、実際に自分も「つくしの佃煮」や「掘りたてのタケノコ」を頂いたけどね。
やっぱりそういった食材を日頃から食べている子は、どこか違うよ。


諷虹 興味ある話題とか、旬な話題とかで知識を深めるというのも「生命力」とつながるのかな、って。「生きた学問」


虚空 「只今」の感覚。だからこそ「垣間見」も伴って、あちらの世界とも共鳴しあえる!
 
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