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☆量子論からみる「心の考察」⑤ 先験的イメージとの関連を経て、再び「名前と存在」の考察へ

上原先生の探求しつづけた「心意伝承」・・・その具体的な裏付けとなることの一つに「先験的イメージの世界」があります。

それとの関りの深い内容に自然に流れて行きました。
こうしたことを踏まえてまた最初の「観測者問題」(名前の作用)等々について再検討です。

 ☆2019年 6月28日 諷虹宅-4

*アニメ「阿知賀編」第一話
赤土先生・・・子ども達と過ごして原点を見出す 生まれ変わる 子ども麻雀教室がなくなる際に看板を外す
虚空 ガルパンもそうだけど、咲だって「学校」への愛着がみんなあるよね。
それはやっぱり「学校」っていうのが「おうち気分」と重なっているからじゃないの。
 

*阿知賀編 子ども麻雀クラブがなくなっても一人で2年以上教室を守り続けていた先輩の存在。
「私がいつも通りなら、いつか来るかもしれないから。誰かがまたあの頃みたいに」



諷虹 清澄の部長さんにしても一人ででも存続させている



虚空 そこにまたみんなが帰ってくる、とか、誰かのたまり場になる、っていう「場」を守っている感覚って、やっぱりさ、息子や娘が巣立っていった後でも、いつでも帰ってこられるようにしておく心境と近いよね
 


諷虹 出ていった時と同じようにしておく・・・「裁断と継続」・・・コンビニから帰ってきたのと同じようにまた自然に前の続きって感覚になる。

この後のセリフで
麻雀をしていればいつかきっと巡り合える。」

シノハユもそうじゃないですか。「お母さんに会える」。咲も「お姉ちゃんに会える」
これって、ダンデリオンツイッターで言えば同じ志を持っていればどっかでちゃんと巡り合うだろう、っていう。



虚空 経路が違っていても行きつく先は同じっていう発想もあるよね。パラレルの中に。
全く違う未来に枝分かれっていうのもあるし、ドラえもんの第一話なんかだと、中間?
 


諷虹 それこそ、「山」じゃないですか。どのルートを通っても山頂。高みで会おうという感覚
 


虚空 でもさ、そのルートの取り方で頂上にいたった時の感覚はだいぶ違うよね。自分は筑波山でも迷うことなくケーブルカー



諷虹 ヤマノススメでもありましたね、ロープウェイで山頂にたどり着いたときの達成感がイマイチだったって



虚空 自分なんて無理したら達成感を抱く前にオシマイになっちゃう(苦笑)



諷虹 道はどっかでつながっているっていう感覚ですよね。
めぐり逢いっていうのも。



虚空 先験的イメージで「邂逅性」っていうのがあるけど、そういう意味もあるのかもね。
デジャブなんていうのに近いようだけど、完全にイコールっていうのとは違うかもしれない。


デジャブ 
既視感(きしかん)は、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる現象である。 フランス語: "deja-vu"よりデジャヴュ、フランス語由来の英語 "deja vu"よりデジャヴまたはデジャブなどとも呼ばれる。
 


諷虹 さっきの阿知賀編の第一話のタイトルも「邂逅」ですよね。



虚空 そうだっけ!?(確認)



諷虹 止まっていたら出合わないというイメージもあるのかもしれないですね、邂逅には。



虚空 どうしても今、青ブタが引っ掛かり続けているわけだけど、「名前を認識する」ということと、世界の中で存在が確定するということからそもそも始まっているわけだけど、今回の劇場版では「時空が錯綜しての出会い めぐり逢い」も大きなポイントになっている。そういう点では「君の名は。」もだけど・・・

青ブタでは、そういった出会い・めぐり逢いの根拠が「量子もつれ」に起因しているということになっている。


そうした事と今の咲を通しての事とがつながってくると面白いんだけど・・・

 
諷虹 一番最初の問いに戻ると「嶺上開花」で花が存在しているのか否かということで、「邂逅」っていうのと「量子論における観測」っていうのが似ているのかな、って。

さっきの阿知賀編一話でも、離れ離れになって連絡もとりあっていない状態で「今、何をしているのかな」って思い描いている(=波の状態)と、実際に出合う(邂逅する)と、しっかりと今の状態が分かる(=粒子の状態)

どっちでもある・・・咲いてもいるし、咲かないでもいる



虚空 相手にとってはどっちも共存しているよね。



諷虹 寅さんで「今頃どっかで野垂れ死んでいるんじゃないか」っていうのも、「シュレーディンガーの寅」ですよね。



虚空 この感覚ってさ、この歳になるとよくあるのは、年賀状とかのシーズンだよ。
かつての恩師とかに毎年年賀状を出している人に近況を手書きする時は、生きているとして書いている。でも実際には御家族の方から「実は昨年の〇月に・・・」何ていう通知。

本当は死んでいるんだけど、事実を知らされていないうちは観測していないわけだから、確実に生きている存在として認識している。



 
諷虹 便りのないのは良い便り、なんていうのもそうですね。


ネット解説『便りが無いのは良い便り
 
遠くに住んでいる知り合いから長く連絡が無い場合などに、悪い知らせが来るわけでもないのだから、むしろ息災であるに違いないと考えるという意味をもつ語。 』
 

諷虹 この「ちがいないと考える」っていうところですね。



虚空 だってさ、知らせを受けていなかったら、死んでいるとは想定しないじゃない。自分の意識世界では確実に「生きている」んだよ。

人間の認識と離れて存在するものに、存在という意味があるのかどうなのか、というのは古来から哲学でも議論されてきたことだけどね、でも人間の意識の問題や意識世界のことをずっと考えていると、「認識されているから存在」っていう発想の方が、実感をともなってピンとくるようになってきた。


もちろん若い時は、宇宙全体からみればこんなちっぽけな存在である人間が認識しようがしまいが、大宇宙も大自然も存在する、って何の疑いもなく考えていたけどね。



諷虹 認識する(予定)だから存在、っていうのもあるのかな・・・。
スラムダンクでも咲でも「全国にいる猛者」・・・まだ出合ってはいないけど確実にいる。まだ見ぬ強敵は。



虚空 それはやっぱり意識世界においては「まだみぬ猛者」っていう名前が認識されているからだよね。

あとさ、同じ感覚でいえばシロバコの「あるぴんはいます」もね。想像上のキャラであってもみんなで信じれば本当にいることになってしまう。実在感いっぱい。

大洗の町もそうだよね。ガルパンキャラはいると行政すら信じている。
だからガルパンキャラ住民票まで役場が正式に出している。看板をたてているお店ではそのキャラが本当にその家の子どもとか孫とかの感覚。

そしてさ、それをみんなで信じているから、リピーターが大洗を自分のふるさとに感じたり、なじみのお店を実家のように感じている

 
*シロバコ 2話「あるぴんはいます」会議
宮森が、各キャラの年表・履歴などを作成
 
虚空 これって、キャラも成長していくプロセス・・・人生という観点の導入だよね。
本当にこの世界で生きて成長してきた存在として認めている。



諷虹 監督のセリフでの「作っていく過程でキャラも成長」っていうのが、本当にキャラが成長しているという部分と、自分が成長しているからキャラのとらえかたが変化するっていう部分と・・・もっと深くっていうことで
 


虚空 これって、まさに教育の世界で教師が大自覚をしなければいけないところだよ。
同じ子どもをみても、同じ作文や発言をきいても、こっちの見方が未熟だったら、問題としか受け止められない・・・

咲でもさ、宮永とかの打ち方で「まるで初心者」って見下す連中に対して「全然違うものが見えているとしたら?」っていう問いかけをする式の場面が何度も出てくるよね。

所詮はその人の器でしか物事をとらえられないわけだから。
だから上原先生も「教える」なんていう意識を持つ暇が合ったら「生態」をきちんとつかまえていけ、って。

でも読み手の感覚によって、大事な事でも抜け落ちてしまうことが多々ある。だからいろんな人間が読んでいって、その結果を重ね合わせていく必要だってあるわけだよね。

前に駿煌会で「壺作文」の読み合わせをやった時に4人の読みが違った観点でさ・・・。
まさに量子論の「重ね合わせ」の発想の重要さ。
 



諷虹 「俳諧」なんかもそうだったんでしょうね。自然とかの情景をどうとらえていたのかを共有していく。



虚空 「お題」なんていう発想もそうだろうね。歌会とか・・・新年恒例の宮中歌会始めなんていうのも考えてみれば面白いよ。天皇陛下とか皇族の方々の詠まれた歌だけが披露されるわけじゃなくて、広く一般公募もしているじゃない。その気にさえなれば自分達だって応募できて、万が一選ばれたら、新年に皇居に行くわけだろ



諷虹 おーいお茶の新俳句大賞もそうですよね。それこそ幼児・小学生からお年寄りまで、国籍を問わず幅広く載っている。



虚空 万葉集の精神が息づいているのかもね。
 

*あるぴん は牽引役・・・さっきの先導との関りでも興味深い
会議でのやりとり、改めて観るとさらに面白さを再認識
 


諷虹 ここで実体が出てくるというのも・・・今のもある意味で邂逅ですよね



虚空 ホログラム理論だったりして。
だいたいさ、アニメの中での世界も、本当の人生と思っている世界も、個々人の意識世界の中では人によって違っているんだから、そんなに大きな違いはないんじゃないの?

だから「世界定め」とか「構え」が重要になってくるんだと思う。



諷虹 コンステレーションですよね。位置関係。



虚空 あの我が侭一杯のうちの親戚なんてみていると本当にそれはよく分かる。

全部自分の都合のいいように現実を捻じ曲げて世界を作っている、最初は意図的に替えている事も自覚してるようだけど・・・でも言っているうちに自分で自分を信じて、そういう世界を作り上げて信じ切る。信じきるから実感をともなってもきてしまう。

幼い子が現実と虚構が入り混じる、っていうのも、本人は入り混じっているとは思っていないじゃない。それが現実として認識されている。

まあ、そんなのは極端な例かもしれないけど、本当に客観的な事実をとらえて生きている人間なんていないんじゃないかと思うよ。大なり小なり自分で世界を作り変えている。



諷虹 表現として「世界は自分を中心にまわっている」っていう言い方をするじゃないですか。あれって、自分は「定点」ですよね。

そういう意味で言うとさっきの邂逅性みたいな思いがけない出会いなんていうのは起こり得ないのかな、って。自分が動いていないから。道でいうと始点で立ち止まっている状態なのかな、って。



虚空 別の言い方をすれば「定点」っていうのが「絶対基準」になっているから、「添加」が起きない。新たな軸の設定とか、目盛りのとりかたも。



諷虹 絶対的か相対的か・・・自分の物差しでしか測らない



虚空 ましてや「相補性」なんて取り入れない、認めないよね。自分だけでは限界がある、みんなの力も借りよう、っていうのが相補性の根本だから。

そうするとね、また咲になるけど、あそこで場を守ってきたキャラたちが「団体戦」をメインに考えているじゃない。持ち味の違う・・・オカルトめいた能力も含めてね・・・そういったチームの組み合わせの妙というのに大きなこだわりがある。
ガルパンも同じ。



諷虹 一種の「集合」ですね。



虚空 この集合っていうのが、軍国主義のイメージ歪んでしまって、みんなが全体のために個をなくす、平均化する、っていうイメージになってしまっているけど、飛鳥時代の宮大工の発想に残っているように、日本人古来としては「個々人の違い」を「一見悪いと思える癖までありのまま取り込むから素晴らしく長持ちする建築が生まれる」って考えたわけだよね。



諷虹 野村監督でしたっけ・・・「フォア・ザ・チームとは、「チームのために自分はどのように役立てばいいのか」を常に念頭に置き、実践すること。それができる人間が多ければ多いほど、組織は強くなる。
 


虚空 違いとか癖をそのままに組み合わせて生かすのが棟梁の役目とされていたわけだけど、それって棟梁にもそれだけの度量というか力量が必要なわけだよね。

組織論だったら上に立つ者すべてに必要な素養。教育でも、スポーツでも全部そうだよ。
でもなかなかそういう人材がいない。教師でもスポーツの監督でも、単に成績が優秀だったというだけでなった場合はそういう発想がとれない。ましてや欠点とか使いにくい人間を組み合わせて使うなんていう芸当はできない。


そうしたら個々の違いはぶっ潰して、それに従わないものは排除して、って言う方が簡単にできる。
 



諷虹 ガルパンのコミカライズでみほがチームメイトを助けた理由に関して・・・
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去年の黒森峰の敗因ーーそれは・・・西住姉妹に頼りすぎたことだ!
昨年の全国戦車道選手権大会――西住流後継者の隊長・西住まほと彼女の戦術を完璧に理解していた副隊長・西住みほ
そしてその手足となるために錬成された他の隊員たち その状態を誰も疑問にすら思わなかった
監督陣も・・・OG連中も・・・対戦相手さえも! 
すべては十連覇のために――万全の布陣だと思われていた

否、万全すぎたのだ――

知ってるか?人は訓練したことしかできない――手足は自ら考えて行動しない
だから彼女は飛び込んだ
彼女しかいなかったのだ

その瞬間自分の頭で動けるものはかのじょだけだったから
 
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虚空 西住流を受け継ぐ副隊長いなくなった、っていうのは「その名前の人間が消えた」っていうことだよね。

こういう場合じゃなくても、「世代交代」っていうので「頼っていた存在が消える」っていうのは宿命だよね。上原輝男がいい例だよ。先人が偉大だった時の代がわり。
ただ、どんなに偉大な存在でもいつかは消えるわけだから、消えたことによって、残された者達が「その名に値する」「その名を超える」というような自分達になろうと努力すればいい、っていうことになるわけだ。


偉大な先人の時ほど、一人じゃなかなかできるものではない。だから「重ね合わせ」という量子論の発想「相補性の原理」に立たないとだよね。


大洗チームがまさにそうだけど、それぞれにチームがど素人なりに個性豊か。他のチームはなかなかはみ出しがいないじゃない。それこそ「統率」がしっかりと取れていすぎている。だから想定外のことが起きると案外もろく総崩れになる。


劇場版の大学選抜との試合前半は、みほがみほらしくなくて、統率型の作戦で向かったから総崩れになりかけたわけだよね。でもすぐにみほらしい戦車道に切り替えて立て直した。


さっきも「道」の話が出たけどさ、水島監督が単に戦車の競技会というようにしないで「戦車道」の大会、って「道」を全面に出しているっていう設定にしたのはすごいと思う。


あとさ、覚書にリリカルなのは、っていうこともちょっと書いたのはね、単に相手を認識するために「名前を教えて」っていうのとは違うところがあるよな、っていうこと。

青ブタの桜島麻衣さんのエピソードだと認識の証としての「名前」っていうのが強いんだけどね、なのはの場合は「名前を聴く」っていうことに対してもっと積極的な意味があるような気がして。


以前にも出たけど、なのはとフェイトの関係だけじゃなくて、ヴォルケンたちとのやりとり。特にフェイトとシグナムの呼び合い方に伴う感覚。



諷虹 ずっとヴィータがなのはの名前を言えないでいたのが、最後に共闘する時になって名前が言えた、っていうのも。

意味合いの個人的な解釈だと、なのはとフェイトは「友達になるなり方」としての名前じゃないですか。形から入る。型をつくる。「友達は名前呼びするから、名前呼びすれば友達になれる」というような。結果の部分に・・・友達になっている状態を先にもってくれば、中身はあとからついてくる。



虚空 まさに「型」の文化だし、「言霊」の真髄だよね。



諷虹 シグナムとフェイトに至っては「邂逅」というか「認識する」ということじゃないですかね。冥途の土産じゃないですが、名乗ってから切り合う感覚。誰と闘っているのか、誰に切られるのかを分かった上でという・・・

フェイトステイナイトの佐々木小次郎・・・あれも真っ先に名乗るわけですよね。本当は真名を名乗るのは不利になるからしないというのが聖杯戦争での常識みたいなものだったのが・・・。



虚空 どうして名乗りが剣士で常識なのか



諷虹 不届き者とかに「名を名乗れ!」って迫るのもね。正体を知りたいとかそういうのよりも、「お前は、自分の名に恥じることをしているんじゃないか!?」ということに対してのこと。「悪名の状態で自分を名乗れるのか」という、踏み絵みたいな。

「汚名返上」とか・・・「汚名挽回」っていうのもありますけど・・・。
 
ネット検索 ニコニコ大百科
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B1%9A%E5%90%8D%E6%8C%BD%E5%9B%9E
 
 
誤用ではない?
概要で示されているように一般的に誤用として広まっているが、間違いではないという説もある。
実際、一部の辞書には明確に「汚名挽回」は誤用ではないとわざわざ記されている。
一度デマが広がると否定するのにコストがかかるのと同様の例だといえる。
 

「挽回」の意味
「挽回」という言葉には「巻き返しを図って本来の良い状態に戻る」という意味がある。
そのため「汚名挽回」は「汚名を被っている状態から元に戻る」という解釈が可能なため、「汚名返上」と同じ意味であるととらえることもできる。
似たような用法の言葉として「疲労回復」を思い浮かべれば理解しやすいだろう。
 

また、同じ「挽回」を用いた言葉でも「遅れを挽回する」「劣勢を挽回する」という言葉が一般的に使われているが、これも遅れや劣勢をもう1度得る、と言う意味では使われない。
 
なお、この説を正とする場合、「汚名挽回」は「汚名の有る状態から、良い状態へと回復する」と言う意味である。
「汚名返上」は、汚名を返上した後の状態を問わないため、根本的に意味の違う新語である、とする説もある。
 
また、「(悪い意味で)汚名をもう1度得る事」と言う意味で「汚名挽回」を使ってしまった場合、「挽回」を誤った意味で用いていることになるため、明らかに日本語の誤用となる。
恥ずかしいので使わないようにしよう。
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