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☆金城哲夫氏 × 上原輝男先生 対談にからんで 「先入観の壁」-1

2019年7月 13日 諷虹・虚空の対談記録です。
先日のサイゼリアでのやりとりの続きとなります。

今後の考察にも大きく影響しそうな上原輝男先生の発言がいくつも登場します。

・ウルトラマンの生みの親を交えての上原先生達対談 を読みながら 記事に先立って:  http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/369/
・ウルトラマンの生みの親を交えての上原先生達対談 を読みながら
・① http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/370/
・② http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/371/
・③ http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/372/
・④ http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/373/
4コマの積み重ねに関して
虚空 たとえばさ、アニメの「サザエさん」なんていうのは3つのパートにわけてるけど、さらにその中の各エピソードは原作では独立した4コマ漫画なわけだよね。それにストーリーを感じさせるようなものを並べて構成されている。
最近のストーリー4コマは、最初からそれを想定して並べられているわけだよね。
サザエさんに近い作り方をしていたのが「ひだまりスケッチ」だと思う。あれも時系列とかバラバラのエピソードを並べ替えたりして一つの流れをつくっている部分もあるじゃない。

監督の新房さんはもともとは昭和世代・・・自分と同じ頃だから、サザエさんっぽいリズムに近いんじゃないかな?
でも同じ新房さんが化け物語シリーズになると展開の仕方に非常にクセがでてきて、自分にとってはとっつきにく世界になっている。

そのとっつきにくさの正体っていうのが、今回の座談会記事で分かった気がするわけよ。
構成の仕方のコマワリ、積み重ねの仕方が新房さんの中で大きく昭和流から、新たな平成流っていうか、NEW新房流に変わった。

新房さんも上原先生と似たような気質があるよ。足踏みが嫌い・・・常に新たな映像の文体を探求する。

自分が好きだった市川崑監督もそう。失敗を恐れず・・・っていうか晩年になるほど駄作と言われるようなのを連発していた。「万年新人監督」なんて評する人もいた。
でも、それは市川監督にしてみれば勲章だったんだろうね。
世界の認識の仕方って、同時に意識世界の構成の仕方っていうことがはっきしりた。
今、文字起こしをしている養老孟子さんの対談で「バカの壁」について語っている部分があるんだけどさ・・・・

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山下 ・・・バカの壁というね、あれを思いつかれたのは?

養老 それは若い時に教師になってしばらく学生さんに一生懸命に教えるじゃないですか。通じないんですね。
それがバカの壁ですね。

同時に相手がバカというよりも、自分がそう(笑)あることが全然通じないわけでしょ。お互い様ですよ。壁でね。なんだこれ、って。・・・・・・
自分が興味ないことって、およそ理解しようとしない。僕はものすごく分かってるというか、慣れてるんです。

完全に壁を作っちゃう。それはその人がバカでわからないからじゃなくて、分かりたくないからブロックしてしまうんですね。そういう好き嫌いがちゃんと出来てくるのが、僕は中学生ぐらいからだと思ってる。社会的には。
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虚空 たとえば世界構成が違う作り方のアニメだと受け付けない・・・化物語シリーズをほとんど観ないのは、内容云々っていうよりも、わけのわからない展開だから。それが新房さんの癖のある演出、って片付けていたけど、養老さん流にいえば、新しい世界定めの流儀を受け付けていないことに根本的な原因があったんだな、って。

内容じゃないんだよ・・・構造そのもので拒絶反応を起こして壁を作っている。

逆に言えば、これまでと違う構造があることを認識して、認めて、受け入れたら、結構それまでの自分と違うことでもスッと受け入れるんじゃないかな。
それを今まで自分は「器化」と呼んでいた。型を先につくる。

その時に国語っぽいことを通してだと、自分の発想とずれている時ほど「そんなのあり得ない」って壁をつくられてしまう。

だから、完全に自分の感情やイメージ・・・当たり前・・・がくっついていない数理的な扱いをした方が、国語でもパッと転換できる。

前の「風立ちぬ」の離れの間取りを図式化させてみたとたんに、あの映画の謎が一気に解けた、っていった高校生だってそうだしね。
最近中学生や高校生に数学や物理のエネルギー論や量子論なんかをネタにして国語をやっているのもそう。

具体的な教材で扱うよりも、一気に広げて受け入れてくれるようになる。

そう考えると、19号にそこまで突っ込んでは書いていないんだけど、全教科領域を通しての「〇〇的思考」とか「知識・理解」っていうのは、「型」を広げる方向に生かせれば、全部が国語となり構えとなり、生き様に直結する。

そのことが、2号の座談会の特に後半で語られていると思うんだよね。
T・K先生のメールで紹介されていた上原先生の言葉なんだけど
・「人間の感情構造は、この世に生きるためにあるのではなくて、あの世との交信するために感情構造はあるのだ」(昭和62年)
・1年生3人の作文をよんだ先生のことば、(昭和62年 福井六呂師温泉)
「焚火」なり「遠足」なり「国語の時間」いずれにも共通することが見だされるような気がする、(中略)自分の視界の中にそれが入ってくる、そのときに凡人と違うっていうことが出てくるっていうふうに思うんです。簡単に言うと長いんですね。目を止めてから目が離れるまでが長いってことですよ。焚火を見た、そうすると焚火から目が離れるまでが非常に長いんです。僅かな時間かもしれないけれど、僅かな時間の中に本当に克明にそれが見えるっていうわけですね。

言ってみればね、これは結論を急ぎすぎてるかもわからないけど、個人性すらないんですよ現象を見てるんです。
一般的な言い方をしてしまえば観察してしまうんです。観察するから長いんです。(中略)もう1年生以前からこういう習性がついているからものを見るときには、こんな姿勢が出てくるんじゃないかなと思うんです。
 そうそう、きょろきょろなんてする必要がなくなってくる。物自体が変化する。変化にこちらの目がついていくだけですから。そういう意味でこちらの意識ではなく物自体についていく。個性個性というけれども、実は個性が捨てられているからっていうことになるのではないか。
 

彼らは決して人間関係を取り結ばないから、絶えず自分の世界にいる。とも先生は言っています。先の超君の「心の風景」の世界が成立するのも頷けます。
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(それに対しての虚空返信の一部)
これは「論理性」等々で、感情やイメージと切り離した言葉の世界があるということに気づかせる、ということの視覚Verなのかなと受け止めました。
 

そういう世界の言葉を用いる・・・それが論理の訓練やぼけとツッコミということだったと思うのですが、T・K先生がずっと問題にされてきた「俯瞰」・・・さらには先日の6月1日のNanba先生との水戸でのやりとりで航太君が口にした「鳥瞰」(話題にしたアニメ独自の要素が入っているのですが)・・・そこいらへんとの関り。
 

それが、「おうち意識」を「深める方向」と「おうち以外にも一気に拡張する方向」との両方向に突き抜けることになるのではないかな・・・という気がしています。
 
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諷虹 この2個目って、記号的な情報をみて、それを自分の中で・・・目についたものを自分の中で反芻する・・・一瞬みたことが頭の中に残って・・・・あとになって初めて「これってこういうことだったんだな」とか「こういうことだったのかな」って後付けでいろいろと考えるのかな、って。

そこで感情とかが付随されて、1個目の「感情構造があの世のため」っていうのが、あっちの世界というだけじゃなくて、自分の中の宇宙・・・ミクロコスモ的な。
「あの世(宇宙・マクロコスモ)」と「自分の中のあの世(ミクロコスモ)」


虚空 もう少し一般化するとさ、「想定外のこと」・・・想定っていっても今自分が意識できている世界、って言う意味だけどね・・・を掘り起こす・・・・.
想定外っていっても、それは意識できている世界の外っていう意味だから、自分の無意識の中に既にあるという意味では、想定内なんだけどね。
注)もう少し後で、上原先生の桃太郎のたとえから関連の深い話が再びでる


諷虹 想定外もある意味であの世ですもんね。「彼岸」と「此岸(しがん)」


虚空 人知を超えた領域なんていうのは、まさにあの世といえばあの世。
物理学者が数学を駆使してこの世の始まりを探求しているけどさ、数式が先にできて、あとづけで現実的にはどうなんだろう、って考えるわけじゃない。

他の分野だったそうだよね。原子構造だとか電子の分布って顕微鏡でも見えないのに、「こうなっています」なんていうのだって、なんで分かるのかっていったら、数式からイメージしているわけだよね。だから学者によって最先端のことほど主張内容が違う。
それは同じ数式からでも飛び出してくるイマジネーション・・・イメージ運動の動き方とかがみんな違うから。

でも先生の言葉って「あの世」なんていうとすごいオカルトめいて考える人もいるかもしれないけど、そうやって一般化していくと、誰もが新たな世界を獲得して成長していく姿の原理そのものを言っていると思うんだよね。


諷虹 先週出てきた「先験的イメージ」なんかともつながるのかな、って。なんやかんやわかんないけど何故か頭の中にずっと残っているな、っていうのもね。


虚空 ユングの元型との接点でいえばさ、先験的な世界が無意識に膨大に蓄積されているわけだよね、最終的には宇宙意識ともつながっていると。
無尽蔵に無意識界にはあると。
自由な発想で浮かんできたイメージ世界は、なんだかんだ言っても浅い部分の、比較的その子その子によって出やすいものがポンと出てきたって感じだと思うんだよね。
それはそれで素晴らしいんだけど、それだけじゃない。

でもそれを深く掘り起こそうとする前に、自分にとっての当たり前とか世間の常識とかの知恵が邪魔をするようになってしまう。

だから中学年なんかだと「これはお話だ」とか前置きをするようになるとかね。
あるいは「もう自分はそんな馬鹿げたことなんて考えないぞ、信じないぞ」って盛んにやりはじめる。それが中学年のボケとツッコミ関係。

でも、そういった自分を縛りにする論理性や知性を、逆に利用して、現実と夢の間を・・・それこそコバルト君が昨日こだわった言い方では卍マークをグルグルと回転させる・・・それで人知をはるかに超えた領域にどんどん踏み込めるような人間になる。


諷虹 子どもの頃に意地悪クイズの本・・・発想の上をいくような意地悪クイズ・・・一問目はやられた、っと思うけど、2問目以降は切り替えて正解に近づける


虚空 一時期流行った「頭の体操」なんてそうだよね。企業でもよく使われていたけど、企画会議なんかでいかに他社が目をつけていないような分野を開拓するか・・・それには常識に囚われないしなやかな発想が必要だ、って。

Nanba先生と盛んに話になっている中学生や高校生以降の上原先生の発想の生かし方、っていうのがこのあたりにありそう、っていうのはずっと言い続けてきたことだけど、今回の座談会記事で確証になりつつある・・・かな・・・


諷虹 頭の体操なんですが、カラオケボックスでNanba先生と話した時に、言っていた「発想がずばぬけた人間って迫害される・・・周りに同じレベルの人・・・周りが一つ下くらいならいいけど2つ下だと迫害対象になる」っていうような話があったじゃないですか。
あれって、ことりのおやつ君そのものなんじゃないのかな、って。感受性がものすごく高い


虚空 そうなんだよ。そういう子は教え子にもいっぱいいたから。「わけのわからない子」「デタラメな発表をするから研究授業とかのときには絶対指名できない」なんて公言する先生がいたけど、実際に担任してみると、桁外れに発想が優れているんだよね。本人の頭の中ではちゃんとつながっているんだよ。でもそのつなげ方が感じられないと、そう言う風にしか受け止めてもらえない。これは本当に悲劇だよ。

だってさ、世の中を大きく転換してきた歴史上の人物なんて、悪くいえば「頑固」「妄想家」「わけのわからない非常識な人間」のオンパレードじゃない。


諷虹 信長なんて「うつけ者」でしたからね。


虚空 規格外だよ。でもそこで「俺をお前らの尺度でなんて考えるんじゃない」なんていう桜木花道のような態度をとれればいいんだけど、ほとんどは潰されてしまう。
馬鹿正直な発言をしてしまうから、優れた人間ほど浮きまくるしね。

上原先生が言っていた「出る杭は打たれる、打たれぬ杭は出られない」なんていう境地になって、同時に謙虚さも失わない・・・っていうのが令和流の生き方になるのかな???
新房監督作品に関して再び
諷虹 虚淵玄がそもそもね・・そこに新房さんという二大何かやりそうな人。そこに蒼樹うめのキャラデザ

虚空 だから普通にはならないだろう、って覚悟をしていたわけだけど、そのはるか上をいったわけだよね。第三話でマミさんが死んでしまう。
そしてさ、それが大きな反響を呼んだら、もうそのパターンのアニメがぞろぞろ出たじゃない。だからみんな第三話を警戒するようになった。

あれなんてひどかったじゃない「魔法少女育成計画」あの第三話はいくらなんでもね・・・自分はあそこで観るのをやめたから。


諷虹 自分は最後までみていたんですけど、途中の展開で裏切られた感があって。
自分で勝手に決めていた着地点と違っていたから、ということにもなるんでしょうけど・・・


虚空 上手に作られた作品は、そういった着地点を想定してさ、それをさらに上回るようにみせるわけじゃない。
水島監督なんてそういうところがあるだろ。有名なミスリード予告編とかね。
劇場版の「モーレツ宇宙海賊」なんかもそうだよね。クライマックスで完全に肩透かしくらった感しか残らなかった。

上原先生の発言の中にこんなのがあった。

諷虹 実は私もそこには線をひいていたんですけど、特にコメントは書き込まないでいたんですけど。
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上原
 そういうことですね。簡単に言うと、子どもに桃太郎の本を見せるときわめて初歩的な段階では一場面一場面としてしかとれないわけですよ、「ももから生まれた……」とね。それが、どんどん大きくなるのが次に出てくる。

ところが、いま、要求されていることは、場面ごとにパンチがきいていて強烈でなくてはならない。と言うことは、次の場面と切り離されていることが、子どもに受けがいいということなんでしょう。全体の中の部分、都分と集合としての全体を子どもは、どこかで習得するわけでしょう。その関係のしあいを、いまは、問題としている。そうなると、その辺に秘密がある。
(中略)

 それは、私流に言えば、二つの問題があって、継続型の方をとるのと、意外性の方をとるのとある。しかし継続を拒否する型をとるものも、拒否されながら、どこかで完結されなければならない。そんな宿命を持っているのですよ。テレビにしたって漫画にしたって、完結はしなければならないんだから。

形式的に言うと、昔よく言われた起承転結ね。それは、もはや、子どもにとってだめなものか。そして金城さんは、新しい作品を作るとき。その形ではなく、別な新しい場面のっかまえ方、たとえば、部分と全体との関係のしかたを、起承転結ではない新しいバターンを考えつつあるんではないかというふうに、金城さんあたりは考えているのではないか。
 この点をいま少し知りたい気がするんですよ。
(中略)
金城
 あの、意外性ってね、僕は、桃太郎の話だってものすごく意外性があると思うのです。でっかい桃が、どんぶらどんぶら流れて来るわけです。まずこれが意外性ですよ。でっけい桃だなと婆さんが、爺さんの帰って来るのを待って切って見た。中から赤ん坊がとび出した。これは猛烈な意外性ってわけですよ。鬼ケ島へ鬼征伐に行くでしよ。いぬ、さる、きじが家来っていうのもそうですよ。鬼退冶ですからね。ウルトラマンみたいなものですよ。これは。桃太郎というと一般化した話だと思うけど、よく考えてみると。

上原
 ちっとも変わらないっていうことね。……ところが僕なんかはね、実は意外ではないんだという考え方をしている。つまり、作られるべくして作られていった作品であって、川上から桃が流れて来るのも、驚かしてやれなんていうでまかせじゃなく、日本人にとって完全な意外性でなく、予期されるところの意外性なんだな。

日本人の感覚にぴったりした意外性であるから、あの話は今日まで伝承されて来た。子どもにとって、完全な無縁性ならぱ、その作品は当たらない。わからないということになってしまう。期待される意外性でなくては、やっぱりダメなんだと思う。
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虚空 これってさ、「心意伝承」っていうかね、折口学をふまえての発言だと思うから。

川上・・・山の上には神の国がある、っていう信仰。しかもね、桃っていうのを単に果物なんてとらえるのは現代的な感覚で・・・つまりね、あそこで流れてくるのは他の果物ではダメという暗黙の了解。桃がくるっていうから桃太郎が産まれても意外ではあるけど、なるほどね、って納得してしまうものがある。

つまり「生命力」の象徴だから。あの形状からしてもね。だからそこからすごいやつが産まれてきた、っていうのは無意識に納得できてしまうものが意識のベースにある。

考えようによってはね、大胆な言い方をすれば、難波先生とのカラオケ対談の時にも出た雌雄同体の問題・・・ガルパンの話題で「戦車は雌雄同体の象徴」なんて言っていたあのことだってあるかもしれないよ。桃太郎がきび団子を渡すわけだけどさ、あれを犬たちが受け取ってパワーを発揮して鬼を退治するんだから。
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