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☆金城哲夫氏 × 上原輝男先生 対談にからんで 「理数の発想とからめて」

前回の続き内容で、2019年7月19日  諷虹・虚空のやりとりです。
理数の発想と、人間学・教育学・民俗学の話題がめまぐるしくクロスしています。
あまり難しく考えずにお読みください。


上原先生の「意外性 は 実は 意外ではない」という指摘について繰り返し話題にあがっています。人間関係のコミュニケーションの隠れた基礎部分なのかもしれません。
 


 
「京アニ事件」に関して
虚空 この前から出ている 生活意識のパターンだけど、気に入らない時に堂々と相手に伝えて・・・という発想がないんだよね。無条件で叩き潰せみたいなね


諷虹 今朝も京アニで救われたという人が話していましたけど・・・だから恩人が亡くなったという感覚なんでしょうね


虚空 庶民同士での潰し合いというか・・・言語弾圧。
アニメの作品が気に入らないから過激なネット上の書き込みっていうのはこれまでもあったし、自分も別サイトでだけど散々攻撃されたことはあるからね。
いつ暗殺されるか、なんていうのも現実味を帯びてくるよ。

はからずも、サイゼリア会談の内容が悪い方向で懸念にていた通りになっちゃったわけだけど・・・やっぱり「意識世界」の構築の仕方そのものが相当歪んできてしまっているというのはいえると思う。

誰もが大なり小なり「妄想の世界」を構築して生きているわけだけど、それが反社会的なことになるかどうかの境目に何があるのか・・・・。

それも2号対談の中に隠されているような気がしてる。
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2号対談記事をふまえて

諷虹 自分でメモしておいたことなんですけど「子どもの場のとらえかた」と「流れ・動き」・・・

最初「場」ですけど・・・。物理的な話になると必ず出てくるじゃないですか。「重力場」「ヒッグス場」って。それをこの時代の対談で真っ先にとりあげているのが印象に残りましたね。
やっぱり「現象を見ているんじゃなくて場をみているんですね」。

子どもの時に観ていたものって、セリフとか話の内容とかそういうの全然理解できてなくても何故か好きで何回もみていた、っていうのはどういうことか


虚空 この前も話したけど、ウルトラマンと同じ頃にやっていたマグマ大使もね、夢中になって全話みていた。でもほとんどの怪獣とかは覚えていなかったんだよね。

あとは、ウルトラセブンのあとの「キャプテンウルトラ」円谷ではなくて東映が作った。これも全部みているハズなんだけど、覚えている敵はキノコのお化けみたいなバンデル星人くらい。
でもね、初代ウルトラマンとかウルトラセブンは本放送の一回観たきりでもほとんどの怪獣が印象にのこったしだいたいの話も頭に残っていた。

これは内容への記憶力の問題じゃないと思うんだよね。

この前コバルト君とも話したけど、児言態っぽくやった国語の授業って、結構子ども達が覚えている。
そういう違いって何からくるのかというと、やっぱり単に内容が興味深かったっていうだけじゃないと思うんだよね。


諷虹 後になって見返したときに、このシーンすごい覚えているな、とか、「このシーン好きだった!」って・・・でもそれがどうしてだったか全く分からないんですよね


虚空 今それを話してくれた時にも、声のトーンが大きく変化したでしょ。あたかもその時の感覚そのものが甦ったかのように。

自分の記憶では、学生の頃にレンタルビデオ屋さんっていうのが出来始めて、最初に借りてきたのが、仮面ライダーの旧1号のだったんだけど、OPをみた時に、毎週放送がはじまるのをワクワクしていて「始まった!」っていう瞬間の感覚そのものが甦ってきた覚えがあるよ。

それはさ、家庭教師時代にヒマワリフクロウさんのところでお姉ちゃんと一緒に時、セーラームーンをみせた時、OPが始まった時に、やっぱり同じような雰囲気だった。

覚えていたからっていうのとは違う感覚。今回の言い方でいえば「当時の型が甦る」ということで、当時の「感情やイメージが流れ込んでくる」っていうのが近いんじゃないかな。
「器」としての自分の中に。

それが上原先生が桃太郎を通して言っていたことかも。どこか思い当たるところがあるはずだっていう。


諷虹 結局自分の奥底にしまってあったことなんですよね。分からないのは「何故それをしまったのか」という感覚。今だったら心の奥になんかしまわないだろうな、って
大掃除をしていて、「アッこんなところにこんなのが」って思いがけないことがでてきた時の感覚


虚空 それがもしかすると「現実意識」に目覚め始めた時に「もう卒業」っていって封印していったものなのかもしれない。

このはな綺譚でも浜辺のあの子が小さい時の妄想の記憶というよりは、そういった「場」に伴う感覚を甦らせて、再確認していたじゃない。
そして、「すべてが」って受け入れた。
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(前回引用したばかりだが)
(過去回想 聞いて聞いて!いまそこで宇宙人見たの!!ほんとうだって、ほら!今UFOがいた!)
少女 子どものころは嘘でも構わないからわくわくした。
答えの分かり切った代わり映えのしない「現実」
妄想も空想もぜんぶ含めて「現実」なのにね。
アンタみたいな子があたしの傍にもいれば良かったのに。そしたらあたしはあたしを否定しなくて済んだ。
柚 いらっしゃいますよ。きっとまで出会っていないだけです。
わたしが今の仲間たちと出会うまで「仲間」を知らなかったように。
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虚空 ラインにも書いた「歪みを是正してくれるのがナマの人間同士のやりとり」っていうのも、この場面だよね。「アンタみたいな子があたしの傍にもいれば良かったのに」っていう。
もしかしたら秋葉原の犯人とか今回の犯人も、全然違う人生を歩んでいたかも


諷虹 しかもあの話って、実は身近にいた、っていう内容じゃないですか。
顔はしっていても出合ったことにはなっていない


虚空 そういうことが本当に多いと思うよ。
だってスマホとかであんなに密にやりとりをしているようで、互いに「演技ごっこ」しているようなもんだもん。

諷虹 「流れ・動き」ですけど・・・ここでは紙芝居よりもアニメの方がスピード感をもっているという風に書いてあるわけですけど、「流体」の「風」とか「水」みたいな・・・動きを伴いながら変化する。

何故か自分のメモの中に「波紋」ってあるんですけど・・・ここに「石を投げる」、っていう発言から連想したのか・・・覚えていないですけど・・・

虚空 まあ、今夜の映画(天気の子 のこと) を楽しみにね!


諷虹 紙芝居って子ども達が集まっていてリアクションをするじゃないですか、ツッコミをするとか。そういう風シンクロ・共鳴っていうのも起きるかな、って。
今もツイッターで放送中に書き込みを入れながら(実況)というのが流行っていますけど・・・この紙芝居感覚なのかな、って。


虚空 一人で観ているんじゃない、という実感が欲しいのかね。誰にも干渉されるのは嫌でもさ。そういう書き込みをするメンバーは「YESマン」同士でしょ?だいたい。
昭和の家族が同じ居間で番組を観ている時って、それこそ世代間ギャップが飛び交ってやかましい、っていえばやかましかったよ。母親が気に入らないようなシーンが出てくると「消せ」とか騒いで



諷虹 実況の書き込みをみると「こんな受け止め方もあるのか」っていういろいろな発見
もありますけどね。


虚空 それが「添加」っていうかさ、「自分の枠を広げる」方向にいけばそれは豊かさにつながるんだよね。

で、聖徳の子なんかは、それができてしまう。論理性も武器にして。相反しているかどうかは関係ない。だって「場合わけ」をしている感覚だから。

これが、「こんな考えの人もいるかも」っていうように相手の気持ちを想像しながら「どんな場合があるかな」ってやっちゃうと、「これはあり得ない」って勝手に切り捨てる。
聖徳の子はそこがちょっと違うんだよね。倫理的に場を想定していしまう。気持ちとか、そそれがあり得るかどうかの可能性の考察は後回しなんだよね。


諷虹 数学とかやってて、その公式とか数式を考え出した人と同じ気持ちにリンクできるとすっと理解できるってのがありましたね。これこれこういう理由だからこれを用意した・・っていう背景がわかると「なるほど!」って腑に落ちるんですが

そういう意味ではカントールとは共鳴できませんでしたね。無限の集合を用意して、それを体系づけるっていうのが・・・晩年は精神を病んでしまったって話も残ってますが、カントール自体が「無限」の世界とリンクしすぎてしまって人の域を外れてしまったのかもしれませんね・・・


虚空 生まれるのが50年早すぎたとか・・・そういうことだよね。周りの人とあまりにもみえているものが違うから。数学界でも相手にされなかったんだよね。相当孤独だったと思うよ。
「無限の濃さ」なんてね・・・無限は無限で同じだろ、という世間の見方を根底からひっくりかえしたんだから。

ニコニコ大百科
しかし集合論は無限をまるで普通の数のように扱う大胆な理論故に否定論者も多く(特に有限の立場以外信じられないとしたクロネッカー)、またあまりに無限の世界に踏み込み過ぎたためか、カントールは次第に精神を病み、40代以降の後半生をほとんどサナトリウムで過ごしたという。数学の持つ自由と狂気を代表する一人といえるだろう。


虚空 この「数学の持つ自由と狂気」っていうのがかなり言い当てているよね。
やっぱり「論理」とか「手続き」だけで話が進んでいくわけだよね。だから常識のブレーキをかけない限り、どんどん人知を超えていける。常人の枠を超えられる。

それだって、ちゃんと自分の無意識の奥底にあるものなんだけどね。ないものは出てこないんだから。

で、物理学者なんかは、学問の性格上、数式の変形にあとから現実を対応させようとする。そうすると全く思いがけないイマジネーションの世界が広がるわけだよね。
インフレーション宇宙なんて、リアルに想像しようとしたらものすごいっていうか、それこそ人知をはるかにしのぐイメージ世界だよね。


諷虹 一時期巨大数を調べていたことがありますが、いかにスマートな書き方で無限のすごさを記述できるか・・・しかもあれは自然数の世界なんですよね。


虚空 「流れ・動き」にしてもそれこそ無限に考えられる・・・。それを圧縮する知恵


諷虹 (無限を利用した最近はやりのウィルスについて)

虚空 日本の笑い話だかなんかにもあったよね。寺子屋で「一、二、三」という漢字を習った子が家に帰ってきて親に自慢する話。「もう習わなくても全部の字が書けるようになった」って。確かオチは・・・よく覚えてないんだけど「万八」さんに出す手紙の宛名を書いてくれとたのまれて、いつまでたっても出来たといってこないから部屋を覗いたら「まだ・・・つ目までしか書けていない」って。


諷虹 そういうのでは位取り法っていうのがすごかった、って何かの本にありましたね。数字としての文字の数は10種類でも、それですべてが表記できる。


虚空 指数をつかえばもっと圧縮。


諷虹 そういう意味で言うと3ケタ4ケタのひっ算っていうのはすごい高度なことをしていると力説していた人がいました。


虚空 もう同じ手続きのくりかえしだからね。
ただ、さっきの笑い話はそれが裏目にでるのを利用しているわけだよね。それじゃ不便な点があるから改善された

(「これでなっとく! 数学入門 瀬山士郎 ソフトバンククリエイティブ)

虚空 (P22の内容から・・・ローマ数字や漢数字の限界を突破)
「0」」の導入の偉大ささよね。
ない数に数字は必要ないだろうという常識を打ち破ったからできた飛躍。

数学でも上原先生の用語にしてもそうだけど「辞書的に意味を知る」っていうのは、全然分かったことにならないし、使いこなせないところがあるよね。
その根元にある「型」とか「構造」をつかまえる。

コバルト君とかヒマワリさんなんかは「パッ」と構造で物事をとらえるから、新たな言葉を自然にバンバン使っていくだろ。添加力がすごい。

諷虹 今ここにある記述・・・(対談記録 P37)

『上原
 そういうことですね。簡単に言うと、子どもに桃太郎の本を見せるときわめて初歩的な段階では一場面一場面としてしかとれないわけですよ、「ももから生まれた……」とね。それが、どんどん大きくなるのが次に出てくる。

ところが、いま、要求されていることは、場面ごとにパンチがきいていて強烈でなくてはならない。と言うことは、次の場面と切り離されていることが、子どもに受けがいいということなんでしょう。全体の中の部分、部分と集合としての全体を子どもは、どこかで習得するわけでしょう。その関係のしあいを、いまは、問題としている。そうなると、その辺に秘密がある。』

ここの集合っていう言葉に線をひいたんですけど・・・。でもこれは「部分集合」っていう意味ではないんですよね。「部分」と「集合」としての全体。


虚空 それが「同時に」っていう感覚?


諷虹 断片的でありすぎて、集合になっていないという意味でなんですかね。


虚空 それが近いかもね、この文脈では。
たとえば個々にインパクトがあるというつかまえかたから、そこに何故インパクトがあるように設定されているのかの意味を全体との関連で考えられるように、いつかなる。


諷虹 でかい模造紙に絵を描く時に、思い付きで書いていく感覚のような、そういうつかまえかたなんですかね。
ただ、犬がでてきた、キジが出てきた、・・・そういう登場でパンチがある。
鬼が島にいく道筋で出合っていったというのではなくて


虚空 人生なんてまさにそうじゃない。日々目の前に何かがおきて過ぎていく。あとになって人生をふりかえった時に「ああ、あれがあったから今の自分があったんだ」って意味付けをする。それがトランスフォーメーションによって「過去もかえられる」っていうことだろうしね。


諷虹 シロバコの大御所がみんなそれをいっていますよね。ただ目の前仕事をやってきただけとか、好きなことを追い続けただけ・・・それがやがて重鎮のようになっていく。


虚空 京アニスタッフさんたちは、まさに地道に愚直にそれを積み重ねてアニメ制作してきたんだろうにね・・・・
(SHIROBAKO の関連シーンをみる・19話)


再び「意外性」について
『上原
 ちっとも変わらないっていうことね。……ところが僕なんかはね、実は意外ではないんだという考え方をしている。つまり、作られるべくして作られていった作品であって、川上から桃が流れて来るのも、驚かしてやれなんていうでまかせじゃなく、日本人にとって完全な意外性でなく、予期されるところの意外性なんだな。

日本人の感覚にぴったりした意外性であるから、あの話は今日まで伝承されて来た。子どもにとって、完全な無縁性ならぱ、その作品は当たらない。わからないということになってしまう。期待される意外性でなくては、やっぱりダメなんだと思う。』



虚空 「意外性」っていうことなんだけどね、この言い方を発展させて、「意中性」っていう言葉を使ってみたことがあるんだよ、以前。


具体的にいうと、上原先生が「夢」についての原稿をまとめる時に会員それぞれに下書きを分担させた時・・・自分は「手形占い」のことで書いたんだけど・・・

雑誌15号 「子どもと夢 夢は体感とともにあり」のP101
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/45181/20180313150148259518/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_15_96.pdf
下書きでは自分は「意中性ともいうべき やっぱり との感覚」ってしていたんだよ。そうしたら先生から電話があって「言葉を少しかえるけどいいか」って。
で「的中性」に変わっていた。

『 この内容の真偽はともかく、今問題にしたいのは、ある出来事に対して、子どもが「えっ?」という意外性ではなく、的中性ともいうべき「やっぱり」との感覚を伴わせていることである。夢の世界での出来事に、現実の世界現象の原因の説明ができるとするこの符号性はどこで獲得するのであろう。世にいう。夢うらない‘である。』
諷虹 その話をきくと、「意中性」よりもかなり精度があがっている感じですね。
さっきの昔の映像をみた感覚のように「スパッと射抜かれた」ような。
核心に一気に迫っている。

まさに的なんですね・・・的を射る。


虚空 自分では意識していなくてもね。
それこそ心意伝承として無意識にはあったものが、突如甦った感覚かな。
意識していないのに、結果としてはど真ん中を射抜かれた感かくだから「的中性」なのかね。


金城
 あの、意外性ってね、侯は、桃太郎の話だってものすごく意外性があると思うのです。でっかい桃が、どんぶらどんぶら流れて来るわけです。まずこれが意外性ですよ。でっけい桃だなと婆さんが、爺さんの帰って来るのを待って切って見た。中から赤ん坊がとび出した。これは猛烈な意外性ってわけですよ。鬼ケ島へ鬼征伐に行くでしよ。いぬ、さる、きじが家来っていうのもそうですよ。鬼退冶ですからね。ウルトラマンみたいなものですよ。これは。桃太郎というと一般化した話だと思うけど、よく考えてみると。


諷虹 桃が流れてくる事とか、桃から子供が出てくることを自然に受け入れたうえで、こっから先、何が起きるのかなモードでワクワクしながら続きを見ていく・・・


虚空 そこが先生の指摘なんだよね。何がおきるか分からないんだけど、無意識の奥底では「こんなことが起こりそう」っていいう予感になることはあるわけで・・・それと無意識にはコンタクトをとれている。

サイゼリアでも言ったけど、川上の山の上には神の世界があるということや、桃の実が生命力・・・生殖っていった方がいいか・・・の象徴の果物であるということをふまえるとね。

この前の「まちカドまぞく」でも、桃太郎を踏まえるのかな、って薄々感じていれば「ああ、だから犬がここに出てきた」とか「餌付けされている」っていう場面の必然性がね。
あのさ、くだらないことなんだけどさ、桃太郎で出合う順番って犬さる・・・


諷虹 犬猿キジだと思います


虚空 キジはともかくなんだけどさ、犬に吠えられたあとで邪神像を落とすじゃない。転がりおちる。あれが手元から「去る(サル)」なんじゃないかな、なんてね。


諷虹 鳥と考えれば、階段をポンポン落ちていくんで・・・「跳躍」=鳥 ?
あと、お母さんが一族の呪いの影響で稼ぎすぎた給料を大きな鳥に持ってかれるエピソードがあって・・・


虚空 「うちの娘。」のことだけど、3話でさらに子煩悩っていうかデレデレだったんだけどさ、ラインでも書いたような母親に包み込まれた感覚の問題。

これって現実的な母親に限定して考える必要なんてないわけだよね。
「うちの娘」の主人公の冒険者の若者だって、ちゃんとそういう役割を果たしているから。

諷虹 今の親での母親と父親との役割分担の話がこの前も出ていましたけど、仮にそれが片親だったにしても、どちらの役目もしていれば、っていう


虚空 ある先輩の先生に昔言われたんだけど、「先生、っていうよりも親・・・お母さんってみられてるかもね」って。確かに子どもらが時々「お母さん」って話しかけてくることはあったんだけど「お父さん」って言われたことは一度もないんだよね。

諷虹 ゆゆ式にもいますよね、お母さん先生


虚空 でもあれは若くても一応女性でしょ。
ただね子どもの認識の仕方は型なのかもしれない、っていうことでは、あの頃はうんとお腹がでていたから・・・

よく1年生には「ねえ、一体いつ産まれるの?」って大真面目に聞かれることもあったよ。そんな時に「先生は男だから産まれないよ」っていいうのも野暮だから「いつだろうね」とか「先生にもわからないんだよ」なんて答えていたんだけど。


諷虹 ゆゆ式の松本先生にしても、仙狐さんの尻尾にしても大きなものに包まれる感覚ってやっぱり母性ですね。昔の聖母とかってふくよかに描いていることが多かったですよね。


虚空 今のダイエットは、業界によって作られたイメージだからね。金儲けのために。


諷虹 まちカドまぞくのお母さんも白い割烹着をいつもきているじゃないですか。
母親感がすごい出ているよな、って


虚空 割烹着って給食のときしかみなくなってるんじゃないの?今の子どもは。
今のお母さんはせいぜいエプロン。


諷虹 商店街を割烹着で買い物かごをもって歩いている描写なんて、すごい昭和感ですよね。


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『上原
 怪獣ていうのも、やっぱり期待された人聞じやないけど(笑)、期待されたものだったと。

金城
期待されたものだったでしょうね、いまヒーローがいないんだから。(笑)』


諷虹 怪獣を望むものの根元ってヒーローを望んでいるんだろうな、って。

ここの隣には「破壊衝動」ってメモ書きをしているんですけど・・・これも昨日の今日だからなんでしょうけど、テロとかそういう破壊行動に出ているというのは根幹では「救いの神が現れるのを望んでいるのかもしれないな」って。


虚空 淀みの解消というかね、マンネリや惰性は「死」と同等だからさ・・・ニュートンの慣性の法則のように。だから「いい風をふかせる」という「再生」という意味では大事にしていたと思うよ。

だから安政の大地震のあとに、あんな鯰絵が流行ったんだろうしね。町が新生するための起爆剤になってくれた感覚。

でも、秋葉原にしても京アニにしても、そういうものは産みだしていない。


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 もう少し聞きたいことがあるんだけど……三十分ドラマで一話一話完結式の連続ドラマっていう形式について。……子ども向きの十五分形式はまだないですよね。

郷右近
 「ひょっこりひょうたんじま」があります。

上原
 あっそうか、とにかく、いまでき上がっている形式は、考えに考え抜かれて、今日の形式を生んできたのではなくて、子どもにとって、これが一番正しい所だからというようにしてきたものではない。ですから、そういう面での、研究とか改良だとかについての、お二人の考えはどうですか。
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諷虹 これなんて今は15分アニメなんて普通にいっぱいありますからね


虚空 実質3分の5分アニメもね


諷虹 それの本質って自分の中では何だろうと思うと、30分ではちょっときつい(設定が重たい)内容でも、割とぶっとんだ内容でも15分だと観ていられるかな・・・

これって「夢心地」とか「夢世界」なのかな、って。

今夢っていう言葉で、一昨日みた夢の世界なんですけど・・・。巨大なショッピングモールみたいなところで、下調べの段階では「あ、ここに目当てのものがある」って見つけて、最初はそこにたどり着けたんです。で、そこから隣に並んでる関連した物をどんどん追っていくうちに深部まで迷い込んでしまって、結局自分の足で最初の目当ての場所に戻ることはできなかった・・・っていう迷路みたいなところに迷い込む夢だったんですけど

アトラクションの迷路とかも自分の足で出口を探してるときと、地図で見て入口と出口を探している状態・・・俯瞰・鳥瞰の状態だと同じように楽しんでいるようでもどこか冷静に、論理的に処理してるところあるのかもな・・・って起きた瞬間に思ったってのを思い出したんですけど

(シノハユ11巻 鳥瞰のシーン)
虚空 鳥瞰し終わったときに、ハッと夢から醒めたようなシーンがあったじゃない
あれも今対局中っていう現実意識から飛んじゃっていたってことで・・・だからこそ麻雀とは直接関係ない描写まで見えた。


諷虹 地図上でみているときには冷静な自分もいるじゃないですか。
実際に歩いている方が得ている情報も多いし、ベンチに座ってそこで時間をつぶそうかな、とか。地図だったらなかなかそうは思わないじゃないですか。

『上原
 それがというのは、十五分の中にテーマが盛り込めるかということでしょう・・・で。

郷右近
 いいえ、テーマではなく、十五分の中の山場です。それが短い中にはいるかということです。

上原
 それは、僕には気にならないんだな。そんなことよりも、それを縮約した形と考えなければいいのであって、三十分の、十五分には十五分の形式を見つけることだと思う。おとなであれ、子どもであれ十五分のパターンがあるというのではなく、子どもの見るパターンを発見してやるというふうに、私は考えたいのです。』

諷虹 阿知賀編もそうですが、麻雀自体を紹介するきっかけになったキーワードが「山」・・・そこに今日最初にも出てきた「場」・・・。
二つの言葉が組み合わさってるじゃないですが「山場」って。

最も盛り上がった重要な場面。クライマックス。やま。「芝居の山場にさしかかる」

山場というと地理学としてとらえられがちですが、実際には「哲学的」というか、盛り上がった状態みたいなエネルギーの状態をあらわしているような言葉になっている。それを今までも違和感なく使いこなしている、不思議な言葉だなと。さっきの的中性なんかもあるのかもしれないですね


虚空 (このはな綺譚の)柚って、本人は全く自覚していないけど、相手のど真ん中を射抜くんだよね。「的中性」・・・的中率が抜群。

だから相手もハッとして、自分の意識世界を整理するとっかかりをつかめる。
自分の中の仕組みを自覚して整えられるからこそ、柚と分かれたあともちゃんのやっていける。


諷虹 柚がいうタイミングって、物語の山場で的中させるわけじゃないですか。一番エネルギーが高い状態・・・適時打(タイムリーヒット)。

そのタイミングだから、相手はハッとするんですよね。
そういう意味では「起承転結」の「結」の部分でピッタリと的中させている。だから結びの言葉になる。


虚空 これがそういう言葉だからこそ、印象深いセリフになるわけだよね。


諷虹 山場だから。2時間ドラマの断崖のところで犯人がわかるというのも、ハッとさせるものがあるんでしょうね。
別にどこでやってもいいやりとりを同じような場所でやる。
「山場」であり「水場」なんですね。
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