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☆Nanba先生を囲んで Ⅱ-④  「かたちの教育と自己の拡大」古典を生かす 

上原輝男先生は芸能論を通しても様々な考察をされていますが、人間の成長や教育に関しても「かたち」(型)「様式」「構造」等々を究めて重視されていました。

「中身を教える(覚えさせる)のではない」という主張です。

「おままごと」のような「ごっこ遊び」も「見立て」という観点から、先ほどの「数理思考と類化性能」の発達のためには大切な素地であったということから始まります。

英才小では今もやっていますが、江戸時代の寺子屋教育や藩校などでも漢文の素読が幼い頃から繰り返し行われてた意味。

そういう下地をみんなが持っていたから「共振・共鳴」も自然におこっていた・・・他人同士、社会全体・大自然や宇宙全体・・・異界も含めて・・・ということへの共鳴が起きて、現代人が考えるような身勝手でちっぽけな「個人」を超越できたのだろうと。


それが「型」(器)ではなく、そこに何を盛り込むのかを強制し、目に見える形になっていなければダメとする風潮・・・現象思考ばかりに偏っている・・・が、教育だけではなく社会全体の歪みにもなっていると思います。


やりとりの後半、「おうち意識の構造図」をみながらのやりとりが続くのですが、その中でNanba先生が指摘されている「この図の隠れた部分」への指摘は大変に重要だと感じています。


虚空 上原先生が芸能論もずいぶんと使うじゃないですか。そうすると水戸に京都のお茶屋の女将さんがきたときに話をきけた時のようにね・・・実際にあの時に来ていた芸妓さんが沖縄出身だったというのはね・・。あれは衝撃だったんですよ。あんなに純京都風なのに出身が沖縄です、って。なんで沖縄の人がこうなれちゃうの!?って。

以前Nanba先生先生が「憑依」の話をされたじゃないですか。最近の広島大学の学生は憑依能力が低下している、だから読解ができなくなっている、って。祇園だとか古典芸能の世界って憑依能力ですよね。

能でも日本舞踊でも「神」とか「精霊」に成るわけですよね。そうすると西洋演劇のように「役の気持ちになりきる」とかはそもそも出来ない、って。人間がいくら想像したって、そんな人間の想定の範疇だったら「神」とはいえないわけでしょ、人知を超越した存在なんだから。

ヒマワリ ごっこ遊びの究極みたいなものなのかな?

虚空 (Nanba先生先生に対して)さっきもおままごとの話になっていたんですけど、「おままごと」とか「ごっこ遊び」の哲学というか・・・「約束を想定してそこから世界をお互いにつくっていく」

諷虹 哲学とか数学も「仮定」からはじまって、仮定からはみださないようにやっていって最終的に目的地とか証明したいことに到達・・・哲学はどこまでも行く、みたいな。・・・定義づけして約束ごとで繰り広げられていくことなのかな、って。

虚空 段取りだけであとはそれぞれの役に成っちゃうじゃないですか、ちっちゃい子たちは。どう演じようかなんて考えないで。
ただ、今の子たちは例えば道具が完成されすぎているおもちゃばっかり。昔のおままごとのようにものすごく単純化された状態で見立てをしてというんじゃなくて。そんなのでのおままごとをしていたら「数学」だとか「哲学」の素養が育たない、なくなってしまうんじゃないか、って。

諷虹 棒切れを剣に見立てたり、とか。包丁に見立てたり・・・それって「自己の拡大」のようなものじゃないですか。これが棒状だから棒状のものには何にでもなれる。

虚空 それがね、さっきのように「表現されていなければ意識されていない」なんていう発想では、見立てなんてそもそも成り立たない。

よく話すことだけど、ずっと前に参観した「ごんぎつね」の授業でもそうだよ。ごんを撃ってしまった兵十がごんに手紙を書きました・・・っていう想定で最後に子ども達に書かせていたけど・・・。歯の浮くような言葉を沢山書いていた子ほど褒められて、「とりかえしのつかないことをしてしまった、どうしよう・・・・」としか書いていなかった子は「もっと書けないの!」ってダメな子扱いされていた。

「言葉にならない言葉」だって日常の中でいくらでもあるじゃない。「言葉を失う」とか・・・「とても言葉では言い尽くせない」とか。

でもね・・・和歌でも能でも落語でも全部そうだよね。それが日本の文化じゃない。「たくさん表現していない」「具体的な表現がされていない」ましてや「表現されていないということは、中身もないんだろう」なんていったら成立しない。

上原先生が国語教材の講義で最初にうるさく言っていたのは「日本人は言葉は こと の は とつかまえていた。物事の端っこのところしか表し得ないのが言葉なんだ」って。

ヒマワリ なくてもあるっていうこと?

虚空 それこそ能なんかでは、旅の僧侶がスーッとちょっと歩いたら、もうそれで諸国を旅した、ってことになっちゃう。

諷虹 そういう意味ではお客さんってどの立ち位置にいるんだろうな、って。

虚空 お客さんがそうしたことに共鳴できたわけじゃない。演じ手と観客との間で約束事による世界の共有というかね、それが成り立っている世界。それを支えているのがものすごく数学的な抽象と類化性能。
でも最近のお客さんは共鳴できないんだよね、日本人でありながら。西洋的な発想というかものの見方になっちゃっているから。

諷虹 何かその「自己の拡大」っていうのがさっきから頭に残っているんですけど、西洋演劇は自分達が劇と一体化することでお客さんを引き込んでいくという感じだと思うんですけど、日本の歌舞伎とかって、自分が一体化していながらも、お客さんが盛り上がるところはお客さんの気持ちで演じるみたいな・・・お客さんはお客さんとしてそれを観て掛け声を飛ばしながら世界をつくっていく。
西洋演劇では掛け声とか入れちゃったら崩れちゃう。お客さんと劇は・・・

虚空 確かに「成駒屋!」とか、あれって役者の屋号だからね。全然違う人間を演じているのに、役の名前を叫んでいるんじゃないんだよね。

諷虹 役に成り切らないで戻ってこい、って言っているような不思議な感覚ですよね。

虚空 そういう感覚を同居できるんだよね。

Nanba先生 役と自分との行ったり来たりとみせるというところはあるよね、歌舞伎は。

虚空 本人もみせる。ベルサイユのバラを宝塚が初めてやった時、歌舞伎役者の長谷川和夫が演出して・・・練習の時に主役たちが怒られたって。
本編が始まる前のプロローグがあるんだけど、そこで幕があいた時からアンドレとオスカルに成り切っていたというので怒られたって。成り切り過ぎているって。

ヒマワリ へー

虚空 お客さんはあなた方を観に来ているんだよ、って。完全になりきっていたらダメなんだ、って。それでかなりビックリしたって。
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(その言葉に関するものは見つからなかったが、「型」の演出に関してはいくつかありました)
参考 「ベルサイユのばらはミュージカル界の歌舞伎~古典の力。型の力」
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12186072209.html
主役、オスカル。原作ではその瞳に星が飛んでいる。少女漫画ですから。
「あの瞳の星を舞台の上で飛ばしなさい」
と言われ、呆然とする榛名さん。(初代オスカル役の方です)
けれど…初日に、彼女はちゃんと舞台上で目に星を飛ばすことに成功するのです。
客席からは「光ってる」「ひゃー」「キャー」の叫び声。
「目線を、二階席の手すりから一階席まで落とせ。そして『い‐二三番』の席を見なさい」
これが、長谷川さんの指示。
ピンスポットが絶妙に目に当たり、乱反射する角度までを計算しつくした演出。
…これは300本以上の映画を通して照明の当たり方を研究し尽くした長谷川さんならではの
技だったそう。
 「ちょっと感動したこと。」~タカラヅカ~
https://blogs.yahoo.co.jp/phjbd514/18663191.html?__ysp=44OZ44Or44K144Kk44Om44Gu44Gw44KJIOmVt%2Biwt%2BW3neWSjOWkqw%3D%3D
鳳蘭、「ベルばら」秘話を明かす
https://www.daily.co.jp/gossip/2018/04/28/0011206441.shtml
「右に3歩行って、2階の3番目の端のお客さまをパッと見て、そこから上手の一番前をすっと見なさいとか、そういう演出でしたね。形。様式の。長谷川先生がスターだったから分かったと思うの。エキスを全部タカラジェンヌに教えてくださった」「今の宝塚の、スターが出て来る前にチャンチャカチャンチャンチャ~ン!で、スター登場!っていうのも長谷川先生が最初に作った演出です。ものすごく客席を盛り上げてからスター登場、は長谷川先生の演出です」と、長谷川演出が後の宝塚に及ぼした影響の大きさを証言した。
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諷虹 確かに映画とかでも好みの役者さんが出ているから観るって

ヒマワリ そうだよね、

虚空 その役者さんが成っているかどうか

Nanba先生 歌舞伎も宝塚も似ているところあるよね。応援している俳優を観に行くっていうところがあるから。
逆に劇団四季なんかは徹底的に役者が消える・・・劇団四季だと役者名が分からない。

諷虹 展示されている絵画をみるのか、ライブビューというか描いている姿を見せるのか・・・そういう違いがあるのかな、って。一つの世界で。

Nanba先生 最終的にはどちらもおんなじだとは思うんだけど、自分がそこに入ってしまうんじゃなくって、出たり入ったりすること自体をみせるとか・・・・

そういうのを含めての「私」みたいなのを英才児は英才児は感じていると思う。平凡な大人はそこまでいけないのかもしれないね・・・統合されていない。

虚空 だからやっぱり上原先生は英才児に江戸庶民をみたんだと思うんですよね。
Nanba先生が以前「児言態の教育って近世の教育を復活させようとしているのかな」って・・・それは単に古臭い日本に戻そうというよりも、その頃の日本人の方がずっとすごかったじゃないか、って。

Nanba先生 各藩の藩校のようにやればね。だって藩校で教えられていたものは小さな自分を捨てるということで、要は自分を捨てるというのは自分を大きくしていっているわけじゃん。

諷虹 イメージなんですけど、例えば水戸藩校だったら「土地に根付いた知識」というか、農業が盛んだったら農業、海が近かったら漁に特化した内容だったり・・・段階をふんで大きくしていったのかな、って。

まずは自分の村の形で・・・世界を変えるくらいの大きな人材にするんだったら、そこからさらに広い視野・・・やっぱりいきなりは大きなサイズにはなれないから、雪だるまみたいに・・・藩校のように土地に根付いた教育で、次に日本の教育があって、それからグローバルになっていく。

虚空 それが「おうち」がベースっていうことだよね。国際教育の基本は郷土教育っていうのもあの当時から文部科学省も言ってはいたんだけど、今は「おうち」「ふるさと」「世界」っていう基本的な流れがおかしくなってしまった。

Nanba先生 各藩の藩校について一時期調べたことがあって、各藩の特有の勉強と同時に、中国の古典のような滅茶滅茶ユニバーサルのようなものも小さい頃からやられているんだよね。必然的にグローバルとローカルがつながるような教育をしているんだよね。
それってすごくないですかね。

四書五経なんていうのは当時でいえばもうグローバルスタンダードなわけよね。そういうのをちっちゃい時から教えつつ、自分たちの地域のことも。それはすごいシステムだと思うんだよね。

諷虹 素読っていうのは、あれはどっちなんですかね。自分がない状態なのか・・・文章と一体化するという意味では幽体離脱みたいな感じで・・・フッと。英才小では最初にやるじゃないですか。ストレッチというか体をほぐす感じで・・・素読でただひたすらに文章を読むという感じで、自我の没我感というか・・・

Nanba先生 素読は確かにちっちゃな自我は消えるんだけど、僕はあれは自我の柔軟運動だと思っていてちっちゃな自分を柔らかくしていく時に、グローバルスタンダードなことを読むということによって何千年もとべるということをやっているんだと思う。
それはヨーロッパがラテン語とラテン語文献をずっと手放さなかったのと全く同じ。ヨーロッパの国語はラテン語を学ぶということだから。それは東洋でいえば中国思想を学ぶということだから。

唯一違うのは、日本は中国語を日本語で読めるようなシステムを作っちゃったっていうところ。
ヨーロッパのどこの国がラテン語を英語読みできるようにしたか、って。ラテン語のまま読むわけじゃん。そこがすごい。

諷虹 ホームポジションが変ったという感じなんですかね

Nanba先生 そうかもしれない。

諷虹 中国時代じゃなくて、国風文化とか、日本語読みができた時代の・・・平安なのか・・・日本人が始まった時、みたいな

Nanba先生 そうそうそうそう。あくまでも中国の文献を読んで、そこでグローバルなものに飛んでいけるんだけど、一方でローカルだから。・・・それが素読によって何千キロも飛べると同時に、日本の古代にもとべる。

虚空 このまえ諷虹が言っていたミクロコスモスとマクロコスモスだね

Nanba先生 ちっちゃな自我が柔軟になっていくことを素読でやっているんだと思うんだよね。そうした中からいろんなものが入りやすくなるんじゃないかな。知識とか・・・。そして自分というものが大きくなっていく。

虚空 そういうところがさ、ヒマワリにしてもコバルト君にしても、素読はやっていなくても、アニメだとか数学のやりとりを聴いて、そのまんま受け入れて・・・

ヒマワリ そうだね。大きくなっている感じがするね。
なんだか新しいのがペターッてくっつくような感じだから。

Nanba先生 分かりやすく言うと「素直」なんだろうけど・・・柔軟にしていくというのは・・・。
でも単なる素直ではなくて、「大きくなっている」という感じ。
「おうち」っていうのも自己だと思うの。大きな自己になっていく。

虚空 のべつくまなく受け入れるっていうのとはちょっと違うよね。幅広くっていっても。
「人のいいなりになる」とか「洗脳される」というのとは違う、っていう意味で。
そのカギをにぐるのは、自分の無意識世界との経路の風通し具合じゃないかな。

(新興宗教がらみの話題から、現代人が人生においても、すぐに答えをおしえてもらいたがる傾向について)

ヒマワリ 人から教えられるような人生なんだね。

虚空 今の学校教育も同じじゃない。全部こうしなさい、ああしなさい、って段取りを教えて・・・失敗も挫折もしないように。
だから子どもの方も「そんなの教わってない」とか「どうしたらいいのか答えを早く教えて」なんてばかり言う。
司令塔がいなくなったらもうどうしていいかわからないんだよね。


Nanba先生 みんな答えがあるものばかりやってきたから、人生には答えがあると思っちゃうんだね。


虚空 答えなんてなくたっていいんだ、ないのが普通なんだ、って言ってくれる人がいないんだよね。


ヒマワリ 答えがみえていても、その答えに歯向かいたくなる人間はどうすんだろうね・・・ヒマワリとかコバルト君とかみたいな。
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(児言態雑誌15号 おうち意識の構造図の話題)
虚空 ゆうべ、この図をみた瞬間にコバルト君が「ここんところは・・・」とかいろいろと熱く語りだしたんですよ

ヒマワリ さっきのNanba先生先生の話が「あれ、この図と似ている」って

Nanba先生 そうね、おんなじだね。

諷虹 「お笑い芸人は結局ここをネタにするのが一番受けるし、万人に笑いがとれる」って言っていたんですよね

虚空 それをね、この図はああなんだこうなんだとしゃべっていたわけじゃないんですよ。たまたまこのページを開いて「そういえばこれは以前おうち作文をもとにみんなで作成した構造図」っていった瞬間に、いろいろと言い出したわけなんですよ


Nanba先生 ああ、そうかー


虚空 教えられたから言えるとかじゃなくて、そこから何か感じたらそれを口にする。
だから洗脳なんてされないと思うんですよね。。虚空が言ったから「はいはい分かりました。先生の仰せのままに」なんていう態度はとらない。ヒマワリにしたってそうだよね

ヒマワリ そうだね。

虚空 むしろこっちが何か言ったって「でもですね・・・」ってすぐに何か言い返してくるもんね

諷虹 こういうのもあるんじゃないですか、ってね。

虚空 むしろ虚空の考えが及ばぬところを言ってやろう、っていう姿勢だもんね。
そういう風にスッと反応できる。

ヒマワリ 図に反応しちゃうね。

諷虹 さっきの自我が広がっている考え方をふまえると、これは自我が広がっていく過程だともとれますよね


Nanba先生 そうそうそうそう


虚空 だから意識のベースっていえるわけだよね。
ただ、英才小の特徴としてはこの辺(生理感覚)が作文には書いていないと。

Nanba先生 それはだけど違うんだよね。これはこういう風に閉じられた感じにはなっているけど、この「生命」っていうのが満たされていくんだよね。

諷虹 広がっていくということは・・・

Nanba先生 そこまでが生命。「生命」でもあるし「社会」でもある。この子たちはそいいうふうになっていこうとしているし、なっているんだよね。

虚空 現実意識の外側にイマジネーションの世界がドーンとあるんだけど・・・ヒマワリさんもそういう感じなんだよね。

上原先生がよくいっていたんだけど「イメージを先行」・・・「イメージをイメージを」っていうのはこういう意味で言っていると思うんだけど、それがここ(中心)がイメージなんだから、その外側はイメージにとって邪魔なんだ、っていう発想になっちゃっているんだよね

Nanba先生 ここを突き抜けて出てこなきゃあかんと思ってしまっているわけね。

虚空 でも英才児は突き抜けなければならない対象ではないんだよ。「論理」も「知性」も。それらもすべてイメージを豊かにする道具なのよ。

Nanba先生 柔らかいよね。満たされているし柔らかい。だから出やすくもなっているし、それが「統合」されているようにも見える。

ここにはもう「他人」も一緒に入ってくるので「私とあなた」ということがどんどん「同じ生命」ということにつながっている感じだよね。


諷虹 この前、戦後ワースト2位の選挙の投票率だったというのがね・・・愛国心とかいうのもこれが広がっていけば自然に「日本が苦しめば自分も苦しい」って考えるから、社会に対してとか政治に対してだとかに興味をもつことになるのが、ここで止まっちゃっているから「日本がどうなろうと、俺が生きていければいい」っていうようになっちゃっていると思うんですよね。
だから「生命」が広がっていっていないのかな、って。

虚空 一体感がないんだよね。「俺は俺」っていう「俺」は、すごいちっちゃい「俺」。


Nanba先生 それが逆にいえば、それが広がっていくようなきっかけを失っているんだよね。学校教育とか家庭教育でそれが奪われていったんだよね。

それがこの3人のやりとりでは「同じ生命の競合」っていうのがあるじゃん。「おうち意識」って結局「拡大された自己」のことだから。それがうまく出来ないままきてしまったのかな、って。それがうまく出来ないようにするのが「近代」というシステムだし。
日本でいえばかろうじて近世までが「自分」と「共同体」の幸せが、って。

虚空 やっぱり幕末なんかで若者たちが「にっぽんのために」って本気で動けたのは、「国家がリードする国家意識」ではなくて、本当に「内側から湧き上がってくる国意識」

Nanba先生 「社会」なのよ、ちゃんと。でも幕藩体制は作られたものというよりは、古代から作り上げられてたものをベースにされたところが多かったから。でも戦争中の日本は「国家」という人工的につくられたものによってやられたから結局壊れていくんだよね。

虚空 国民に言っていたきれいごととは全く別の下心があったわけだしね。

諷虹 天皇という象徴があってそれと共鳴しあうか

Nanba先生 それが近世まではそれがあったんやけど、近代以降は明治政府が天皇を利用するために「人工的な天皇像」を作っちゃったんだよね。


諷虹 それが今はゴチャゴチャになってしまっているんですね。


Nanba先生 神だとかいうことも近世まではそんなに言っていないからね。そういうのが一番こわいんだよね。


虚空 自分もよく神話の話を出すけどね、手あかがつきすぎちゃっているんだよね。日本神話といっただけでアレルギー反応がおきてしまう。

だからこそ去年の10月のがすごいと思ったのは、KS先生の書いた単元設定。
Nanba先生 うんうんうん。今回この辺が大きなポイントになるんじゃないの?
「大きな自己」みたいなものとか「生命」ということが、「おうち」という意識が満たされている感覚として、もうこの子たちは持っている。それがどんな風に言葉に表れてきて、それがどんな風に伸ばしていくのか。

諷虹 「おうち」ってさっきの話でいえば「自己の広がりの第一歩目」であり、そこで自分がおうちにまで拡張するから・・・拡張できたわけだから、じゃあ今度は「村」とか「国」って

Nanba先生 広がっていくよね。

虚空 前の石巻での単元設定のところで、「第4番目に問題とするのは空間・時間・人間関係の相関の中に世界観を得ているということである」・・・このことが今回の要になるんじゃないのかな、って。

その要というところで、この「世界」っていうのが自分は「あの世」も「宇宙」も含めての全ての世界と思っているんですよ。そこが「現実的な意味での世界」という常識的な見方とのズレがあって。

でもそれらを結び付けていくのが「共感」。

さっき、石巻の時の授業で上原先生に「虚空、あの話を授業でしろ」って言われて・・・(茶碗のエピソードをすることになった経緯)・・・そのところの授業記録をさっきファミレスでこの二人にも読んでもらったんですけど、その時に随分と共感してくれて・・・

ヒマワリ もう勝手に涙がポロポロでてきて・・・・

Nanba先生 ああ、そうなんだ

虚空 泣き出してね・・・

Nanba先生 あらまあ・・・

ヒマワリ 共感力高いね。

虚空 その私の話に対して石巻の1年生たちが「浦島太郎みたい」って言い方をしてくれて・・・。
1年生なりに「この先生の気持ちに共鳴しよう・共感しよう」って・・・それをすごく素直に出してくれた。
英才小の子はそういうことが「作文に書いていないからできない」じゃない。


Nanba先生 書かない

虚空 書かないだけ。
4年生の片っ方のクラスが「理想の家」ということをやたらと書いていて、なんかそういう方向に偏るような何かが書く時にあったんだな、って。
ただ、怪我の功名というかね・・・単なるこんな家に現実的に住んでみたいというような意味での理想の家じゃなくて、突拍子もないあり得ない家のイメージを書いている子が何人もいて。そのクラスの子たちだけが書いているといってもいいくらいなんですよね。

でもそれはそのクラスの子が特殊なんじゃなくて、それが英才児が「きっかけさえあれば、いろいろな形で書けるよ」証拠だと思うんですよね。

Nanba先生 そのきっかけの与え方が、もしかしたら公立校の子ども達は違うきっかけの仕方を与えないと出ないかもしれないね。ここが難しよね。
ここで数学で躾けられていたことって、多分大きいよね。

虚空 自分も2年生は担任したことが1回あるので・・・参観していてビックリしたのは、先生が特に投げかけなくても「一般化しよう」という発言がいくつも出てくるんですよね。与えられていた帽子の課題から離れて数理的に一般化しようとする子までいて。
もちろん完全な形では一般化できていませんでしたけど、そういう風にしようしようという意欲というかね、それが出てきていて

諷虹 私なんかは、これは母胎回帰につながるな、って・・・全部は出てきていないけどエキスというのかな・・・ほんの一ミリでもここに表れていれば、ちゃんと根元にはあるんだろうな、っていう安心感があって・・・ここにこれを書いているということは多分「ここからひっぱっていけばここにたどりつけるかな」とか・・・英才児に対する信頼感のようなものがあるんです
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