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好きな事を究める生き様 「個性」と「多様性・社会性」 ① 

☆2019年9月21日  諷虹・虚空のやりとり記録です。
きっかけは英才児の中には自分の興味・関心事に非常に特化した生き方をする子ども達が多いという事からでした。

もちろんこれは英才児に限ったことではありません。そもそも子どもはそういう姿の方が自然だし、大人だって趣味の世界に没頭する人はいくらでもいますよね。


ただ、家庭でも学校でも、子どもがある特定の分野・・・それもいわゆる入試的に関係のないと大人が思ってしまうことに夢中になると、それは勉強の妨げになるものとして否定されがちです。またいわゆる「オタク」とか「ひきこもり」等々のような感じで、そういうことばかりに没入していると「社会性が育たない」という危惧も抱かれてしまいます。


たしかにそうした傾向が強く、家庭にも学校にも社会(職場)にもどこにも居場所が作れなくて、生きる事に絶望してしまう場合が多くみられるのは事実ですから、親や教師が心配してしまうのも無理からぬことです。


しかし、最近伺った英才小での子ども達もそうだし、また多くの偉人と呼ばれる方々もそうですが、幼少期から人並み以上に自分の好きなことに没入した場合の方が圧倒的に世間が注目するような成果だって出しているんですよね。


これだって事実です。


そうしたことの根本としてどういったことがあるのかが、最近のやりとりでの中心になっています。

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上原輝男先生が英才児の個性ということについて語った言葉に、次のような一見相反するようなものがあります。これもずっとひっかかっている事です。



(昭和62年 福井六呂師温泉)英才児の作文を読んで
*・・・これは結論を急ぎすぎてるかもわからないけど、個人性すらないんですよ現象を見てるんです。(中略)

一般的な言い方をしてしまえば観察してしまうんです。(中略)もう1年生以前からこういう習性がついているからものを見るときには、こんな姿勢が出てくるんじゃないかなと思うんです。

 (中略)そういう意味でこちらの意識ではなく物自体についていく。個性個性というけれども、実は個性が捨てられているからっていうことになるのではないか。



*彼らは決して人間関係を取り結ばないから、絶えず自分の世界にいる。

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諷虹 数学の未証明の問題とか予想とかを後の人が義務感のように証明するじゃないですか。それは自分個人がというよりは、「数学という生命体」が「完全体になろう」として意思をもってやらせているような・・・。見えていないからみてみよう・・・陰の部分を知りたい・・・そういう意思の集合体の影響があるのかな、って。


虚空 この大きな意思っていうことが「一家系一人格」だとか「一教室一人格」って考えるとさらに面白いよね。


諷虹 やっぱり同調・同化なんでしょうね。一体化する能力が強いのかな・・・だから一つの分野に特化するというのも、みえていない部分をとことんみよう、全体像を知ろうとしようと・・・自分のことを知りたくなるように


虚空 それがね、例えば「一教室一人格」っていうのを、ただ、いろんな関心のあるやつが集まっている、っていうだけだと「人格」っていうイメージとは遠のくような気がしていたんだよね。だから、さっきの「大いなる意思の働き」っていうのは面白い、というか分かりやすい


諷虹 スイミーっていうのはそういうところを刺激するんだと思うんですよね


虚空 そこなんだよ、藤岡先生の単細胞生物から多細胞生物の進化のプロセスを考えるという内容だったわけだけど・・・大きなポイントは、初期段階では命令系統も指示系統もなく、なんだかわからないけど、持ち味の違うバクテリア同士が共存するようになっていったと。
個々のバクテリアには、全体のために自分はこういう役目を果たしているという自覚も意思も多分なかった。勝手に自分として生きていた。でも全体として一つの調和のとれた集合体が出来上がってきた・・・ってそんな流れ。
ある種の英才児が周囲に全く無頓着で、自分の関心事だけに突き動かされているというのが、果たして傍若無人な我が侭人間なのかどうか、っていうこと。


諷虹 歴史上の人物が一時的に生き返ったら何をするか・・・この前のFate/Zero のイスカンダル(アレキサンダー大王)の話でもでましたけど、自分の過去を振り返って自分のやってきたよりもさらに深いところの証明とかが進んでいるわけじゃないですか。そしたらまだ見えていない部分を解明したがるような気がするんですよね。
そこで情熱や煌きが失われるんじゃなくて、ますます探求心に火がつくようなタイプだと思うんですよね。
そういう人が偉人になっているのかな、って。エジソンが子どもの頃は周囲に対してというのもね・・・・もっと違う大いなる意思に無意識に惹かれて・・・。
そういう人が無限の寿命とかもったらどうなるんでしょうね。一生退屈しないで生きていくんでしょうね。


参考 Nanba先生のメールより
「英才児は個性が作られていない」と言う言葉、深いですね。
かれらは通常人以上に、欲動(情動、イマジネーション)に抑制が効かずそれに動かされるのでしょうが、その欲動が、個人的なものではない、ということではないかと思います。
同心円のちょっと外側からやってくる情動でしょうか。
ううむ、ますますおもしろい!!!!



諷虹 今放映中の、とある科学の一方通行でもやっているじゃないですか。
「ローゼンタール家の悲願」だとか、あとは、Fateの「アインツベルン家」とか「間桐家」とか・・・

一族のっていうと自分だけじゃな存在からの意志も介入してくるような

虚空 このね、大いなる意思のようなものをね、「キャッチしていなくても」っていうのが、さっきの藤岡先生の話とつながってくるんような気がしているんだよ。
例えて言えば「お釈迦様の手の平の上で」ってやつ。本人は全く気が付かないで、自分の気の向くままに好き勝手やっているようで、実はいつのまにか大いなる調和の中にある、って。

それをね「心意伝承」・・・無意識の地下深くから出てくるものとコンタクトがとれていればいるほど、全く本人がそれを自覚していなくても、そういうことになるんだろうね。

それがそういう部分とコンタクトがとれていない人間が好き勝手やると、本当にただの破壊者になってしまう。

英才児がある段階までは他人をおかまいなしに気の赴くままに好き勝手なことに熱中しまくるという場合があっても、それは特異な性質を持ったバクテリアと同じような感じになるんじゃないのかね。特異な性質を持ったバクテリア・・・細胞・・・が増えれば増えるほど複雑な構造を持った人間とかにだってなれたわけだから。
人間の細胞なんて一つ一つ個別に切り離して考えたら、個々の英才児のようなものなんじゃないの?

そういった自分がどこでどう他つながるのかは、何も一般常識の尺度で考えなくてもいいんだと。

K・S先生が英才児は「いつまでも潜在世界を捨てない子」とか、上原先生が「個性が作られていない」というのも、そこらへんが・・・・。だいたい最初から個性がつくられていたら、そういった枠組みに組み込まれてしまっている、っていうことだからね。最初から縛られている。
この前も話したけど、日本の教育って「七つまでは神のうち」っていって、最初は社会の枠を押し付けていないで、通過儀礼でどんどん型を身に付けさせていくという順番。
そういう風に考えると、この英才児の問題はどの人間にも当てはまることになる。
うちのオヤジがさ、「子どものすることは何でも勉強」って口癖のようにいっていたんだけど、深いところから突き動かされての趣味や遊びなんかは非常に大事だ、って。
それも今思い出した。
諷虹 神童についての言葉がありますよね。
「十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人」
子どもの頃からできたというのは、やっぱり人間としてではなく、先天的に神から与えられた能力のような・・・
虚空 なんでこれがただの人になるかだよね。
諷虹 努力して身に着けたのとは違う特異能力・異質な力・・・まさに神業。
それが俗世に染まってしまうんですかね。人間界のセオリーに染まるからダメになる。
虚空 だからさ、何歳までにどういう行動をとれなければならないなんて、何の根拠があるのか。流れを示しておくことは大事だと思うけどね。自分のやりたいことを貫きたかったら、やっぱりある段階になったら周囲の助けも必用になるわけだし。
でもそれはそう思った時に切り替えられればいい。
本当に心の奥底・・・あるいは難波先生の言葉でいえば現実的な円の外側を包み込んでいるものに誘引されての、大いなる偏りだったらそんな社会的な問題は起こさないだろうしね。

*英才小でみてきた自由研究の話題
諷虹 ものすごく高い知識でやっていくのと同時に、小学生らしい幼さが残っているというのがすごくいいですね。高校生とかの知識でもやっていることにとっぴょうしもないことのが残っている。大真面目に取り組んでいる。
自分が高専の時に似たような傾向もありましたね。遊びの中に授業で学んだ知識を組み込んで効率化するみたいなの。
こういうの見ると今でも自分もやってみたくなりますよ。対抗意識をもやしてしまう。
大真面目に、ネットでも科学者でもやっていないようなことをやってみたいですね。



虚空 そこなんだよね。だから英才小の高学年の子が廊下でキャッキャやっている様子がまるで低中学年っぽいのもね。潜在世界を捨てていないというのは、もっと分かりやすくいえば、無邪気さを捨てていないっていうこと。

でもさ、よく大人でもすごい業績をあげたような人が、ある意味ですごく子どもっぽさを残していた、っていうじゃない。研究に取り組んでいる時の顔つきは子どもそのものなんていうような。
あとは例えは悪いんだけど、アニメとかで本当にヤバいことするキャラって幼児性が同居していることが多いでしょ。無邪気に残虐なことを平気でやる。


諷虹 あのとあるのいかれた科学者もずっとアメをなめていますよね。


虚空 極悪非道じゃなくても、咲の天江衣なんかだってそうじゃない。破格の子どもっぽさと、不気味さを兼ね備えていた。というか、子どもっぽさが逆にえたいのしれないすごさを感じる。それが実写版だと、本当に妖怪じみた雰囲気の子として描かれているから、すごみを感じないんだよね。


諷虹 ガルパンのみほも愛里寿もボコに対してはあれだけ子どもっぽくなるけど天才。子どもっぽいから天才なんでしょうね。


虚空 だからね、英才児にもそういう面はあるだろうな、って。
だからヤンチャな子は破格にヤンチャ。
それはIZ小学校にも言える傾向だけどね。でもそれだけ潜在能力を感じさせる。


諷虹 落語とかの主人公もまっとうじゃないですよね。
だからこその人間味。


虚空 すごい子ほどエネルギーが暴走しかねない。それを上原先生は「洪水」にたとえていた。

だから「治水工事」が必要だっていったけど、それは単に頭ごなしに躾けるというようなのとは違うんだよね。(平成4年 「ぼけとつっこみ」の研究授業後)

それが「論理」とか「言語操作性」とかへの刺激。
感情とかイメージ運動をエネルギー・・・水量の多くて勢いよくドッとくるというのに例えれば、単に治水のために堤防を高くしてもあっというまに大洪水。
水路を増やすような拡張工事やバイパス工事が必要になってくる。
それを作ってやるというよりは、作ろうって自分で思うような刺激を与えておく・・・胞子とか種をまいておく。

芽生えるのはいつかはわからなくていいからさ。それこそ大人になってからかもしれないけど、植物だって発芽までの時期は随分ちがうんだから、勝手に大人が決めた時期に発芽したり、成長しなかったらダメとか負け組とか判定するのは、おかしなことだよ。
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