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駿煌会 児言態50周年参加後④ (2018年11月3日)

当日の写真や授業ビデオをみながら話題は「モノクロ世界」ということへ

諷虹 白黒は知識がある方が深みが出るというか・・・。あの魚が好きだっていう子は白黒の波の絵から作文を書いているわけですよね。自分の専門性をつかった魚の物語をつくっている。
今回の授業で使われていた絵で人気だったのってだいたい色味が強いというか夕日だったり馬だったり・・・赤だったり青だったり・・・木も黄色。結構目立つ色が選ばれていたのは、やっぱり色がイメージを誘発するというか。

でもこの前話に出たんですけど、モノクロ写真とかモノクロ映画にも味わいがある。そこにこそのイメージの触発はある程度大人になってきて、知識がはいってきてて、その蓄積が・・・例えば東京駅のモノクロ映画だったとしたら、実際の東京駅の印象があった上でみた方が「ここはこういう風に映るんだ」とかイメージが触発・誘発される。やっぱり知識がモノクロをみたときに出てくるんじゃないのかな、っていうのがあって。だから魚の子は白黒の波をみて魚の知識が誘発されていたんじゃないのかな、って。
ヒマワリ それって単元設定のどっかに書いてあったよね・・・「先に体感とか思考があって、そっからイメージの世界。
虚空 モノクロによる刺激の問題は今後も考える必要はあるだろうね。あの時の実践報告でもあったようなモノクロの水墨画を使った授業のように、使い方によっては小学校3年生の段階でも触発される事例はあるし。
(諷虹・虚空の二人が観ている現在放送中のアニメ「色づく世界の明日から」の紹介。主人公の魔法使いの女の子は色を感じることができなくなって悩んでいる。それが写真部に入り、モノクロ写真の世界を知ったことでトランスフォーメーションを起こす場面がある。)
⇒ブログ内 「アニメ感想 色づく世界の明日から」も是非お読みください。
特に色についての考察が前面に出始めたのは 12話感想ですが、詳しく述べられているのは13話(最終話)感想です。 http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/159/
ヒマワリ 私はモノクロの写真からあんまり色って思いうかべないかも・・・。色を連想しない。
コバルト 脳が多分補正しているんじゃない?
ヒマワリ いや、自分はモノクロの世界はモノクロとして受け入れるんだけど・・・。昔の写真を今風にカラー版にしてみました、なんていうのがあるじゃん。あれみると「ああ、確かに綺麗になるなー」っていうだけで、白黒は白黒として受け入れてる。それはそれ、これはこれの世界で観ていたな・・・今まで。
諷虹 これを白黒で撮ったらどんな風な色合いになるのかな、って無意識にしているのかも。
ヒマワリ 漫画とかはまさにそうじゃない。基本白黒じゃん。トーンはって。べた塗りとかさ。
ちっちゃい頃って私、カラーじゃない漫画ってすごく嫌だったのね。小学校6年生くらいになって、やっとあのモノクロの漫画がスッと入ってきた。昔はカラーじゃないと読まなかった。四コマ漫画とかのカラーのやつが好きだったんだよね。
コバルト 光と影みたいな
ヒマワリ それはそれで完成したものじゃん。だからここでわざわざ色を付けようなんて思わないんだけど・・・脳みその中で。
虚空 自分が高校時代に映画監督になりたいな、って思って好んで観た映画っていうのはさ、日本映画の黄金時代と言われた頃のモノクロ映画なんだよね。
諷虹 今このモノクロ写真をみて思ったんですけど、一か所に注目するってことがないですね。
コバルト 確かに全体で・・・
諷虹 赤い看板なんてあると、そこを無意識に追ってしまう。そういうのが緩和される。
コバルト 全体をみれる。すべてを風景としてとらえられる。
ヒマワリ あれあったじゃん・・・「ゼロとイチしかない世界」・・・電卓内部もそういう世界。
虚空 二進法のデジタル世界。
諷虹 パソコンの内部も。
ヒマワリ そうなのか。
⇒何故かこの話がここで途切れて別のことへ
この時に考えていたことについて後日確認したヒマワリフクロウさんのコメント
『今になって再び思ったこと、こんなことあのとき思ってたかもと思い出したことは、
電卓はその二進法でしたっけ?0と1の世界とゆう受け止め方から、私の頭の中で白黒は白と黒だけの世界ってゆう風に受け止めてて、色の想像とかしないのかな?とか。
絵をモノクロで描いた人は、モノクロで描く意味がきっとあるだろうし。
色のある世界より、もしかしたら美しいのかもしれない。
曲線を見て欲しいとか、無限の可能性を秘めてモノクロで描いたとか。
数字の世界の0は、永遠に0。
0が1になったりしない。
1も永遠に1。
1が2になったりしない。
白と黒にも、その永遠を思ったりして、色をつけない脳みそになったのかな?
なんてことを思いました!』
(ここから動画サイトでモノクロ映画の短いシーンをいくつか視聴  その合間に虚空の思い出話
虚空 自分は今でも心理描写とかいう意味でも全盛期だった頃のモノクロ日本映画はすごいと思っている。特に観ていたのは市川崑作品だったけど、ピアっていう雑誌で探しながら名画座めぐりをして、シネマスコープサイズ画面でスクリーンいっぱいに広がる計算されつくしたビシッとした構図のなかの「光と影」の世界にゾクゾクしてたよ。

外国映画はほとんど観なかったけど、強烈に画面の印象が残っているのは池袋で観た古いロシア映画の「罪と罰」たしか5時間以上の長さの作品。あの頃は座席指定じゃなかったんだけど、混んでてね。空いていたのがスクリーンから2~3メートルっていう距離の最前列。そこでシネマスコープサイズの大画面を5時間以上見上げていたんだからかなりの苦痛だったけど、でもモノクロの画面からの雰囲気には圧倒された。
教師になって3年目に担任した3年生のクラスでビデオドラマ作りをしていた時にさ、モノクロ版も作ってみたんだよ。そしたら文句タラタラ。色がないっていうのがあんなに拒絶されるとは思わなかった。で、それ以降はやっぱりずっとカラーで撮っていた。


自分らの子ども時代ってさ、ちょうどテレビでカラー放送がはじまった時代。モノクロ放送がたくさんある中にカラー番組が混じる。画面の隅に「カラー」なんていう字幕が表示されたりしてて。
でもね、我が家は白黒テレビ。まあ近所だって多くの家は白黒テレビだったんだけどね。だからウルトラマンとか、カラー放送促進という狙いもあって作られていた「仮面の忍者赤影」とか、みんなモノクロで観ていたわけだよ。色を想像しながら。幼児の頃だったから本屋にいくなんていうのもなくて、そういった番組を紹介している色刷りの子ども雑誌なんかもなかなか目にしないから・・・。
それが母方の実家はじいちゃんが新しいもの好きでかなり早い段階でカラーテレビを購入してて。だから田舎に帰ると普段モノクロで観ている番組をカラーでみるわけ。かなりビックリしたね。ウルトラセブンの鮮やかな赤とか、赤影に出てくる卍党忍者たちのカラフルな色彩とか。
自宅で観る時にはじいちゃんちで観た印象をもとにして主人公とかは脳内補正していたけど、毎週かわる怪獣とか敵とかはさ、やっぱり自分なりに想像するしかなかったね。

今思えば「色のイメージによる束縛」から解放されていたともいえる。自由に想像しながら観ていた分、イメージ世界はカラーで色が限定されていたより広がっていたのかも。
でも当時はさすがにモノクロはモノクロとして受け入れる、っていう感じではなかった。そうなってしまった原因は妹との張り合いがあったかな。幼稚園の頃から病弱だったり、学校行くようになっても友達のいない自分はいつも一人で過ごしてたわけだ。家で。友達も多かった妹はいろんな家に遊びにいって、そこでカラー放送を観てくるわけ。そうすると帰ってきたから自慢するんだよね。自分が小学校2年生の時だってまだ白黒テレビだったんだけど、さすがにその頃は周囲の家もカラーが普通になってきてて・・・だから学校でも「おまえんち、まだ白黒テレビなの!」なんてさんざん馬鹿にされた。それで嫌な想いをさんざんして、家に帰ってくれば今度は妹が「おにいちゃん、高速エスパーのこの色わかる?」なんていう具合。だから余計に本当は何色なんだろう、っていう意識になっていたと思う。
ちなみにうちでカラーテレビ買ったのは小学3年になるちょっと前だったかな・・・だから仮面ライダーはカラーで最初から観ていた。もうカラーテレビがあたり前になっていたからそういった「色」を前面に出す雰囲気は加速してたかな。レインボーマンとかゴレンジャーなんていう戦隊ものとか。
そんな風だったからその3年生たちみたいにモノクロを激しく拒絶というのはなかったし、違和感というのもなかったかな。
だから学生時代になって昔の日本映画をみるようになってからはヒマワリさんの言うように「モノクロはモノクロ」として普通に受け入れていた。これは実際にはどんな色なんだろう、っていうのは考えようともしなかったね。っていうか色を考えるって言うのは道に反するっていうか、邪道って思ってた。
さっきもモノクロ写真をカラーっていうのが出たけど、数年前にさ、NHKがモノクロで作られたウルトラQをカラー化して放送したことがあったよ。観たけどさ・・・カラーだ、すごい・・・というよりは違和感の方が強かった、っていうのは大人だからかな???その後たまーに観る時はモノクロ版で観ているもん。
諷虹 今これみながら墨絵を描いていた時のことも思い出していたんですけど
ヒマワリ うちらもやったよ!(社会人クラスを実施していた頃)
(当時の思い出あれこれ)
虚空 あの時さ、諷虹君の方が墨絵になっていたんだよね、「陰影」を意識しててさ。自分は墨の濃淡ではなくて、輪郭・・・ただの線画になっちゃったんだよね。それこそ漫画の延長。
それからさ、余白を大事にしなけりゃいけないのに、余白にも馬鹿みたいにたくさん描きこんで。それで諷虹君に爆笑された。あれは確かに水墨画というよりは漫画原稿。
諷虹 それこそ雪州ではないですけど、薄い墨だったらそれをここにしようとか・・・色によってこれはここにしよというのがポンポン出てきたな、って思いますね。涙を使ってネズミを描いた、っていうように。そんな感覚はいまだに残っているんですね。墨絵ってある意味で点の集合のようなものを見立ててそれを形にしていくみたいな組み立て方って、イメージに近いのかな、って。イメージを具現化していく形。
だからそういう「輪郭を作る」っていうのは頭にあるものをそのまんま出す、っていうのに対して、墨絵って自分も初めて現実に現れてああしよう、こうしようって決めていくのかな、って。
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