忍者ブログ

「おうち意識」⇒「ふるさと」意識へ 意識のベースを探る

☆2019年8月27日 諷虹宅 でのやりとりです。

「ふるさと意識」といえば・・・自画自賛めいた話になってしまいますが・・・ある思い出があります。


以前、虚空が勤務していた小学校で文部科学省の「国際教育研究協力指定校」になっていたことがあります。その頃、上原先生に個人的に助言して頂いたことが「おうち ⇒ ふるさと ⇒ 世界」という具合での意識の広がりを調査することでした。


学年ごとにテーマを掲げて研究というスタイルを学校としてとっていたのですが、その時に初めて学年主任だった私は他の二人の先生方にこうしたことを提案。3年生という学年のことも考えて、他国のことよりも、「おうち」や「ふるさと」を中心に据えました。


確かに当時、「国際教育の基本は故郷教育」ということは指導主事からも出ていたことなのですが、そのさらに出発点として「おうち意識」を据える・・・まさにそれは、すべての共通感覚のベースとしての「おうち」という事だったのです。


当時、国際教育の指定を受けた学校は、多くの場合は世界中のいろいろなことを調べたり、英語教育をとりいれたりというのが主流だったのですが、「おうち」「ふるさと」を全面的に据えて、一見「これが国際教育?」と参観者に思われるような学年発表だったのですが・・・指導主事からは「これが子供たちの心に根差した本当の国際教育です」と高い評価を頂きました。

やりとりの後半は、ダンデリオンツイッター記事にあった「火の鳥 鳳凰編」の話題になったのですが、それは次の記事として投稿します。



諷虹 この前おうちとの関連で「ふるさと」のことも出たじゃないですか。故郷・・・その「故」・・・亡くなった人にもつけるよな、とか・・・。

そういう意味ではフェイト(Fate/Zero アニメ)のセイバーとかイスカンダルとかのように「もう今はないのかな」という意味合いがあるのかなと思って字を調べてみたんですけど、故事成語の「故」なんですね。「昔からの」とか、「以前の」とか・・・。
そうするとどこまでを言っての「故」・・・昔なのかな、って。生まれた頃なのか、生前の記憶なのか・・・前世の記憶なのか・・・。
*ネット検索
「郷」の方は
ネット検索
きょう
〖郷〗 (鄕) キョウ(キヤウ)・ゴウ(ガウ) さと
1.
むらざと。いなか。古代の律令(りつりょう)制で行政区画の一つ。郡のなかの数村をあわせたもの。ごう。「郷邑(きょうゆう)・郷令・郷俗・異郷・他郷・水郷(すいきょう)(すいごう)・国郷談(くにきょうだん)」。以下「ゴウ」と読む。 「郷士・郷兵・郷社・在郷・近郷」
2.
ふるさと。 「郷里・郷国・郷土・郷党・郷関・郷愁・故郷・帰郷・同郷・家郷・愛郷・望郷・懐郷」


諷虹 合わせて考えると昔育った場所みたいなもんですかね。

ネット検索
「田舎」
い‐なか〔ゐ‐〕【田‐舎】
1 都会から離れた地方。「田舎から町に出てくる」
2 田畑が多く、のどかな所。人家が少なく、静かでへんぴな所。「便利になったとはいっても、まだまだ田舎だ」
3 生まれ故郷。郷里。父母や祖父母のふるさとについてもいう。「うちの田舎は四国の港町です」
4 (名詞に付き、接頭語的に用いて)素朴・粗暴・やぼなどの意を表す。「田舎料理」「田舎風(ふう)」「田舎侍」
虚空 「第二のふるさと」なんていう言い方もあるよね。

諷虹 都会から離れたところを”いなか”・・・故郷と都会は対極なんですかね。これだと都会生まれの都会育ちの人はどうなるんでしょうね。
それこそ英才小の子なんて・・・

虚空 屋上で遊ぶんだもんね。

以前朝の連ドラで話題になった「ちゅらさん」で、沖縄から東京に出てきた青年が「東京は人が住むところじゃない」と愚痴る場面があった。その時に東京育ちの女性が激怒して・・・。


諷虹 都心には住みたくないですが、ちょっと離れたところで都会に出やすいところに住みたいというのはありますね

虚空 だから茨城の県南地域は東京のベッドタウンなんだよ。

ベッドタウン
独自の産業基盤をもたず,大都市の近郊にあって大都市への通勤者の居住地となっている都市。夜間人口が昼間人口をはるかにしのぐこと,販売サービス業が肥大していることなどが特徴である。住民の転出,転入が激しく定住性が相対的に低いことから,地域に対する住民の愛着,関心の度合いが薄いのが社会心理的な特色である。また世帯主の年齢も若いことから,幼稚園や義務教育学校の整備が必要になるなど生活行政,教育行政などの面でさまざまな困難をかかえていることが多い。

諷虹 「ベッドタウン」を訳して「布団町」みたいな日本語だとするとこの説明は違和感がありますよね。故郷のようなおうち意識・安心感がなく、それこそ寝るだけに帰ってくる場所。だから日本語じゃなくて英語で表現したんですかね?


虚空 だからそういう地域の学校も大変なんだよ。愛着もなにもないから。もともとは農村だから祖父母とかさらにその上の世代から、っていう人達も一部にはいるんだけど、大半が新興住宅地の世帯。
自分達の地域・学校という共通意識がなかなか実感として持てないことが普通・・・しかたないんだけどね。


諷虹 故郷の意識が薄い、西部劇なんかの人達にとっては”ベッドは明日への英気を養うだけの場所なんでしょうね。


虚空 それが故郷を自分達で作ろうとした歴史を持つ国との違いだよね。国語でいうと前にも話した「小さなリスの大冒険」。
小学校3年生にこの結末の続きを話し合ってもらったけど、「やっぱりこの子たちは日本人なんだな」って思ったもん。


:::::::::::::::::::::::::::
都会の小さな公園に住んでいた臆病リス「マール」が、たまたま西の方の巨木の森があるという話を聞きつけ、「西へ行かなくちゃ」と決意し、出発。大冒険の末に巨木の森にたどり着く、という場面でおしまい。

当時、上原輝男先生にこの教材について相談した際、

「こんな臆病なリスが何故、たまたま聞いた話だけで大冒険をする気持ちになれたのか・・・それは日本人にはなかなか分からない感覚だと思う。 これは翻訳ものの教材だよね。僕は誤訳というか、あまりうまい訳じゃないと思う。

これは「西」じゃなくて「西部」なんだと思う。アメリカ人にとっては「西部」っていうのは開拓者魂を刺激する言葉だから。だからこのリスも「西へ行かなくちゃ」じゃなくて「西部に行かなくちゃ」・・・・だから勇気が沸き上がってきたんだろ思うよ」

という指摘がありました。

この話を学年会で出した時に、誰からともなく「ふるさとの意識も日本人とは違うんだろうね」という話になり、それをこの教材での授業の最後に問いかけてみることになりました。

「このあとマールはどうするでしょう?」

予想通り(?)大半の児童は、また元の都会の公園に帰って、旅の自慢話をするだろう、でした。何人かが、西部の森に住むんじゃないかと書いたのですが、その意見に対しては「そんなわけないよ」という意見が大半でした。

授業のしめくくりとしては、どちらの意見が正しいというのではなくて人や国によって意見も、当たり前の基準も違う・・・それを認め合う・・・という方向の投げかけをしました。

::::::::::::::::::::::::::::::


諷虹 錦を飾る場所がないんですものね
虚空 こういう言葉が今時飛び交うっていうのがすごい。

ネット検索
錦(にしき)を飾・る
美しい着物を着る。転じて、成功して美しく着飾って故郷へ帰る。「故郷に―・る」

諷虹 やっぱり故郷に「帰る」んですね。

虚空 6月1日のやりとりでもガルパンのおうち意識・ふるさと意識のことは盛んにでていたじゃない。
:::::::::::::::::::::::::::::
Nanba先生 本当にあそこに乗っているのは子どもなんだ、ある意味で。

諷虹 あとガルパンでは「母校」とか

虚空 学校をすごく大事に位置づけていますよね。

諷虹 大洗という町もね

Nanba先生 ホームタウンだよね。

諷虹 それが実際にあるということで全国から集まってくる。

虚空 リピーターが多いということと、ふるさと意識

諷虹 他県から来た人って、必ずっていっていいほど「ただいま」の感覚なんですよね。お店の人に「また来たよ」じゃなくて「ただいま」。実家に帰ってきた感覚。

Nanba先生 だから「聖地」とは違う感じなんだ

(中略)

Nanba先生 観光地じゃないんだな。観光地のように行って帰ってくる場所じゃなくて、まさしく「戻る場所」なんだね。

コバルト 子宮

Nanba先生 子宮か・・・すごいな・・・。

コバルト 汚そうと思う人がいない

Nanba先生 子宮だもんな。

諷虹 実家かえって汚して帰ってくるなんてね・・・

ヒマワリ 生まれ変わりだもんね。
::::::::::::::::::::::::::::::

ガルパン最終回のラスト
凱旋パレード
学園艦に帰ってから「お風呂入って、アイス食べて,それから・・・戦車に乗ろっか」

:::::::::::::::::::::::::::::::


ガルパン劇場版
会長 「みんなで大洗に、学園艦に帰ろう!」

みほの帰省
姉「ここはお前の家だ。戻ってくるのに何の遠慮がある」
みほ「(部屋)かわっていない」

劇場版のED・・・各校のおうち気分満載


:::::::::::::::::::::::::::::

虚空 この世界には、実際にある「県立 大洗高校」は存在しないんだよね。
でも現実の大洗の町が、ガルパンっていうことだと、アニメの大洗女子が実在しているかのような雰囲気になっている・・・アニメで全国優勝した時だって、優勝祝賀の横断幕が駅に出たわけだろ。

キャラパネルが置いてある店だって「うちの娘」「うちの孫」っていう扱いだし、役場だって住民票を発行しているとか・・・みんなで盛大なおままごとを本気でやっている・・・そして、それが現実の意識と入れ替わっている。
この前50円玉君と「虚構とドキュメントと現実・真実」のことについて扱ったんだけど・・・。 
さっきラインにも書いたけど、宮崎アニメも「おうち意識」をあの手この手で取り入れているじゃない。
多くの人達と共鳴するわけだよね。


*大洗の八朔祭りに行った諷虹の話
諷虹 山車の一台が戦車型だった


ネット検索
 
 八朔祭について
大洗磯前神社の八朔祭は、鹿島神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」と、 香取神「経津主命(ふつぬしのみこと)」が、大洗磯前神社に祀られている 「大己貴命(おおむなちのみこと)」に国譲りを迫り、 北上した古代神話にまつわる神事で、四海平穏、五穀豊穣を祈願するお祭りです。

古くは旧暦8月1日に鹿島神宮から神職総代等が矛・盾を奉じ騎馬を以てはるばる大洗に参向して祭っていました。

近年は8月25日を以て同神社の例祭とし八朔祭と称しており、 夏の終わりの風物詩として町内外から多くの人出で賑わいます。


虚空 これって伝統的なお祭りなんでしょ・・・神様がらみの。自分にとって縁の深い神様も関わっているし・・・。
それでこの戦車の形の山車はすごいね。

諷虹 ご祝儀を渡すと空砲を撃ってくれるとか・・・盛り上がっていました。
普通じゃあり得ないような光景なのに、大洗だと違和感がない・・・。

山車の様子のブログ記事(動画リンク紹介あり)
comicbookstore.blog39.fc2.com/blog-entry-4717.html
80年前と一致?
https://twitter.com/yosizo/status/1165098099489927168?s=20
*このはな綺譚の最新巻 「此花亭慕情」シリーズ〆

諷虹 読みました?

虚空 読んだ・・・記憶をなくしていくという話だから、どうしても痴呆症のことをいろいろと思い出しながら読んでたんだけど・・・忘れていくっていっても、当人にとっては本当にボケてしまった状態ではボケていると思っていないし、忘れてしまったという自覚もないんだよね。入院のショックで一時的にボケたじいちゃんだって、おかしくなってしまっているという自覚はない。
本人はその瞬間でちゃんと普通にものを考えて生きているという感覚なんだよね。
だから忘れられたとしても「また初めまして」を繰り返すというのも、すごく実感があった。
知り合いでも実の親が認知症になって、っていう方が何人もいたから余計にね。


諷虹 此花亭慕情は4巻から一応始まっていたんですね。(その弐 5巻)(その参 7巻)(その肆 8巻)

こうやってみると出会いも別れも月明りの下だったんですね。(4巻P29 と 9巻 P34・35)

善も悪も・・・なんか太陽って全うじゃないとその下に居られないような選民意識があるようですが、月だと魑魅魍魎も跋扈するような・・・善も悪も。
だからこういう悲劇にしてもいい出来事にしても・・・。

*柚が着物を買って比丘尼様に会いにいきたいです、という場面

諷虹 故郷に錦ですよね、この場面も。


(このあと、火の鳥 鳳凰編 の話へ  次のブログ記事)

PR

☆Nanba先生を囲んで Ⅱ-⑤  英才小2年生向け「おうち意識」の授業へのあれこれ

翌日から児言態の合宿ということもあり、自然に話は英才小の2年生に対しての「おうち授業」への話になっていきました。

「やり方を考える」というよりも、ここまでの膨大なやりとりをふまえて自然に湧き上がってきた想いを語り合っているという感覚です。
そこからNanba先生が「連歌」というアイデアを出されてきました。

こうした授業の発案の手順そのもの・・・上原先生が生前繰り返してた「授業の方法よりもまず、テーマに関係しそうなことの徹底的な考察。それから単元設定の理由はテーマの確定。授業のやり方はその後に自然に決まってくる」というのを地でいった感じです。

*もちろんこれらの授業へのやりとりは児言態としてのやりとりではなく、駿煌会としての好き勝手なやりとりではありますが・・・・。
虚空 英才小の作文をよむと、この意識構造図に載せているような観点とか項目がね、1年生の段階から相当出ている。だからそれをいちいち出してもらう段階はすっとばしていいと思うんですよ。

Nanba先生 すっとばすと・・・今までの児言態の授業って「出す」ということに命をかけてきたじゃん。仮に「出ている」とするじゃん・・・出ているし。そうすると「次に何をするか」っていうところだよね、今回は。

それは僕が英才小に「小説」を使ってね、って言っているのと全くおんなじだと思うんだよね。中学生や高校生のように小説に向かうというところに彼らはもう行くべきだし、行かないと物足りないと思うんだよね。

だから本当のことを言うと、もしかしたら「おうち」とか書く次に・・・てきとうだけど・・・「地球」とか「宇宙」とかね、そういうテーマで書いたらむしろ「おうち意識」が出るかもしれない。

虚空 まだそれほど深く考えているわけではないんですけど、この前ちょっと思い浮かんでKS先生にもメールしたのが、新潟の大赤沢で行われた3枚のカード合わせの授業。三題噺の。私は参加できなかった合宿なんですけど・・・。
そのカードの中に一見おうちとは関係なさそうな言葉・・・でも本質的には「おうち」とか「母胎回帰」とかに関する言葉も入れておいて・・・それで長編を書かせるんじゃなくて、短文。粗筋。そして一つ書いたら「次のカードを選らんで」って次々と書いてもらう。
選ぶカードの語彙をどこまで広げていけるか・・・常識とかの枠を超えて。あるいはものすごく条件をつけて・・・。
できれば「えっ?これがおうちのお話?・・・あっ、でも確かにおうちだ!」っていいうのが飛び出してくるとね


Nanba先生 ああ!そういうのがいい!!
って言うかそういうのじゃないといけないような気がするね。


諷虹 圧縮ですね


虚空 そう、圧縮と解放。そりゃ何段階かの活動を用意していいんだけど・・・導入で1年生にやったようなことを入れるとか、体感を出してもらって、確かにそう注文すれば英才児はサッとモードを切り替えて出してくれるんだ、っていう確認をしたいならそういうのを入れて「体感も出る」という確認をするのもいいとは思いますけど、でもそこでとまって満足したんじゃね。


Nanba先生 体感はあるんだ、って。僕らは。むしろそっから出発しなきゃならんのよね。せっかく英才小でやるんだから。


諷虹 いかに短文の中にエッセンスというか核になることを入れられるか・・・ちっちゃくすることができれば、でっかくすることも出来るわけですからね。それに応用できるし。本質をつかんで短い言葉で伝えるということもできる。

虚空 あるいは「お話リレー」。これは収拾つけるのが大変だけど。特に研究授業ではね。
この発想は長浜君がかつてやった「接続詞の授業」のアレンジなんだけど、接続詞をなればておいてランダムに「これ」「次はこれ」って指定して続き話をさせる。想定外の筋立て・・・お話リレーでも「次にこういう風に展開させようかな」というのを回りが平気でひっくりかえすような状況。
数学の授業で端的にでていたけど、英才小の子はそれはそれでちゃんと受け入れると思うんだよね。
でもそれによって、コバルト君が最近よく使う「起承転結型」じゃなくて「序破急型」・・・いい意味で想定とか予定調和をぶち壊す・・・新たな発想に転換できる・・・そういう他の児童とのやりとりを授業の中盤あたりに持ってくるとかね。
自分の今意識していることとか、無意識でも出やすいところじゃない部分・・・地下2階とか地下3階を掘り起こし合うような他の子とのやりとり・・・


Nanba先生 それを聞いていたら・・・例えば「連歌」とか「連詩」とかいうのもいいかもしれないね。


虚空 ああそうですね!日本人ってそういうことで、自分の意識世界をすごく修練していたんですもんね

諷虹 俳諧連歌。

虚空 自分が思っている通りには作れないという「制約」が、逆にものすごい広がりを生んでいったわけですもんね。

Nanba先生 そうそうそう。

虚空 好きに自由にやったんじゃ生まれてこない境地


諷虹 「縛り」とか「負荷」をかけることで、っていう感じですよね。

Nanba先生 それが大好きだったんだもんね。それが明治になって正岡子規が俳句という形で独立させてしまったがために面白くなくなってしまったんだよね。


虚空 自由主義なんていうのもね・・・季語はいれなくてもいいとか・・・それが裏目に出ちゃっていると思うんだよね。


Nanba先生 連歌って相手の五七五に対して、ただ七七をつけるだけじゃなくて、何句目には必ず月を入れるとか、そういうのが全部決まっていたんで、その制約がかえってむしろ想像を呼ぶ・・・。


虚空 そうするとその中に一見おうちの要件とか違うもの・・・それは5年生や6年生の作文からキーワードを拾い出してもいいんだけど・・・要件の出し方にはあんまり学年の差がないと感じているんで。高学年になるとそれこそ数学的に家の定義を述べるとか、一般化しようとするとか・・・書式は変化するけど家の要件としてはね


Nanba先生 変わんないね。


虚空 でも何人かは宇宙とかに突き抜けている子がいるから・・・それこそ星に移住する話を書いている子もいるし。


ヒマワリ すごいね


虚空 それでも「おうちの要件」ってあるわけだよね。これを外したらおうちにはならない。
でもね逆に言えばその要件が満たされていれば、それは一見したらおうちとは関係なさそうなものも「ああ、これもおうち意識なんだな」って・・・。
具体的にいえばさっきの2年生の立体マンダラだよね。どうして「おうち」という課題でマンダラのことをかきたくなったのか。


諷虹 やっぱり自分の興味関心のある事だからじゃないですかね。

虚空 そこでね、立体マンダラの構造を的確に描写というか説明しているでしょ。そうするとね、おうちには何らかの閉じた世界という構造があるというのを満たしている。自分のおうちを書いていなくても、立体マンダラの世界も閉じた世界としてはこれもおうちだと2年生なりにつかんでいると思うんだよね。
でもヘタをすると普通の先生は「ちゃんと話を聞いていたの?おうち で作文を書くって言ったでしょ」なんて叱りそうでしょ。

ヒマワリ ああ、言うね。

虚空 でもね、あの子はちゃんと「仏の世界です」って書いているじゃない。

ヒマワリ おうちの作文で仏なんて言われたらゾッとするよね。逆に「怖」!

諷虹 ピカソの絵だとか・・・著名な人が全く関係のないようなことを言ったときに「深いな」って思うのか、「荒唐無稽なことを言ってるな」と思うのかの違いですよね。

ヒマワリ 関係ない事を言わないわけはないよね。

諷虹 結局その人の中ではつながっているから出ているんですからね。

ヒマワリ そうそう。

虚空 それが周囲が全く無理解でずっときてしまうと、統合失調症だと診断されるくらいに追いつめられてしまうことがあるわけだよね。

でも実際にすごく感覚のいい子って、学校でもわけの分からない子、変なことをすぐに言い出す子・・・っていうことで問題児扱いされるからね。教師の期待する発言をしてくれないから・・・あの子がいなければもっと授業がきちんと進むのに、とかね。
研究授業でそういった子が挙手しても指名しないとか・・・・。事前に発言を禁止している教師もいたしね。指導案での期待通りの発言をしないと自分の指導力が疑われるとか・・・プロの教師として・・・。
Nanba先生 やっぱり(他人とは違う世界が)「見えちゃう」人の不幸が近代はやっぱり強いよね。
(補足 広い意味での 犠牲論 ともつながりあり?)

虚空 西洋の自我のとらえかたと、日本古来の自我のとらえかたの違いっていうのも大きいと思うんだよね。それぞれ相性が悪いように思う。
西洋でいうと「自己同一性」とか「アイデンティティの確立」とかうるさく言うけど、日本人なんて「そんな生き方はつまらないじゃないか」って。短い人生なんだから何通りにも生きよう、って。それが郡司先生の江戸庶民の発想法にもつながると思うしね。
異なる自己を同居させてしまう。
その名残だと思うんだよね、ネット上で複数の自分を使い分けているというのも


ヒマワリ アカウントね。

虚空 それを一つに統一しないと大人として成熟していない、なんてね

ヒマワリ 全然そんなことないよね。

虚空 それは表面的には異なるアカウントを単に使い分けている・・・それによって本音を出せる・・・とか、そういう処世術の一つと思われがちだけど、日本人の場合はもっと根の深いものがあると思う。

諷虹 個人レベルで終わってしまっていますよね。


(立体マンダラ作文の話に戻る 文の冒頭よみあげ)
諷虹 それを家族としてとらえている可能性がありますよね

虚空 そうそう。

Nanba先生 あるある。それはすごくあるよ。

諷虹 鯉のぼりもお父さんとかお母さんとか子どもとか・・・並んでいるからあれが家族構成に通じていくわけですもんね。

虚空 「大日如来は太陽の仏でもあるし、すべての仏が集まったものでもあります」って。

諷虹 天照・・・お母さん意識ですよね。

Nanba先生 こういうことが「おうち意識」の拡大であり「自己」が拡大していって、それでこの子の中で「おうち」自体も拡大しているよね。
それこそ「コスモス」・・・「宇宙」が「おうち」だものね。
そういうとらえかたが出来ている・・・この段階はもう抜けているわけだから・・・次の段階へということだよね


虚空 次を考えてあげなきゃいけない

Nanba先生 次だよね。

虚空 だからね、よっぽど本気で「意識のベース」とかね、「知識を拡大させるとはどういうことなのか」とかね・・・そういういくつものことを徹底的に突き詰めてからじゃないとね・・・・

 実際今日もね、ほんの2年生の作文を数枚読んだだけだけど、Nanba先生先生が着く前のファミレスから始まってもう何時間もこれだけ盛り上がっているし、教育全体のいろいろなことに話が発展しているんだよね。


諷虹 2~3時間はゆうに超えていますからね・・・この作文に直接かかわるやりとりだけでも。


Nanba先生 この作文を子ども達が読み合ってもいいくらいだよね。何か言うよね、子どもは。


虚空 そういうのも導入の中で面白いかもね。この立体マンダラなんて。どう受け止めるのか・・・この子の個人的な思い込みとして片付けるのか、「ああ、たしかにこれもおうちだ」って受け止めるのか。
でもね、「これっておうちじゃない」って否定する子は少ないんじゃないかな

Nanba先生 少ないと思う。

諷虹 この作文の続きを書いてみようとか・・・

虚空 導入段階でこの作文をつかって「ああ、おうちっていうことをどんどん拡大していいんだ」って・・・それは誘導じゃなくてね・・・「構え」の問題として。「ああそうか、今日はそういう発想もアリなのか」っていう「世界定め」の確認事項の一つとしてね。
そうしたらもうあとはね

Nanba先生 行けるよね。

虚空 それがバタフライエフェクトになっていく。あの言葉、最近本莊さんもよく使ってくれているけど。

ヒマワリ 波がブワーッと広がっていく感じだね。

虚空 なんだかんだいって本荘さんが一番ブログを丁寧に読んでくださっていると思う。それで新たな漢文紹介がそれにつながっているような事を書いてくれているし


諷虹 さながらこれも「連歌」ですね。


虚空 お互いにそれでいろんな方向に広げ合える。


ヒマワリ 本莊さんも一緒に呼んで話をしたいよね。


(そういういろいろな分野の人たちを一同に集めてのイベントを開けたら、という企画を語り合う。 Nanba先生がみんなに日常スケジュールを細かく聞く)
Nanba先生 なんでこんなことをきいたかというと・・・ガッツリ時間をとってこのためだけにみんなを集めて・・・これは実現できるかどうか分からないけど、うちの学生たちも集めて連れてきて、お話をきく座談会を・・・
ヒマワリ 面白そー、やろー!
虚空 私もね、英才小の先生たち・・・数学の先生とか。
この前、数学の授業をされた教務主任の先生ともずっと話し込んで結構深まったんですけどね・・・。
私は絶対英才小なんかは数学と国語とか・・・いろんな教科の先生方がタイアップして子ども達の発達を検証した方がいいな、って
Nanba先生 それはやるべきだし・・・あとあの図書の先生とか・・・すごい人達が揃っているんだよね。
そういうメンバーとうちの学生と・・・。
まあいきなりだと大変だから、まずは茨城に来れる人だけでも一日きて・・・。
何かのついでにというのではどうしても時間が短くなっちゃうから。
だからみんなで予定を合わせられないかな、って。
それをやりたいね・・・ちゃんとテーマを設けて・・・
ヒマワリ いいね、楽しそう!会場押さえよう!!
Nanba先生 会場をおさえて・・・そうしたらいいよね。
虚空 異種格闘技じゃないけどね・・・
ヒマワリ 畑違い合戦。
Nanba先生 一応みんなも児言態は知っているでしょ。うちの学生たちも児言態は知っているから。だからベースは一緒。
やっぱり朝から来て、ずっと一日やるというのがいいかもね。夜は無理だね・・・茨城のこの状況を考えたら。
諷虹 開いている店もないですしね。
虚空 今日だってこのロビーが使えなかったら、大変だったもんね。
Nanba先生 やっぱりガッツリ時間をとりたいね。今日は結構しゃべれたからよかったけど、ちゃんとテーマを決めて・・・
(具体的な計画に向けてのやりとり)

ヒマワリ その束が全部作文なの?1年生から6年生までの・・・
虚空 そう
Nanba先生 そしたらすぐに発達がとれるよね
虚空 できますね、大変だけど(苦笑)
でもざっくりした印象なんですけど、おうち意識の発達というよりは「型」の発達っていう傾向の方がはっきり出ているように思います。
だからこの前からずっと話題にしている雑誌2号の「教育の本質は形式である」っていうことの秘密は、多分ここからも伺えると思います。
そういう時にね、「ナマの感覚」っていうのをヒマワリさんなんてどんどんぶち込んでくれるじゃない。
ちょっと話が変るんですけど、この前の金曜日にヒマワリのお姉ちゃんと会って・・・
(娘さんの出生前の記憶に関するエピソード紹介)
夜11時、時間切れでお開き

☆Nanba先生を囲んで Ⅱ-④  「かたちの教育と自己の拡大」古典を生かす 

上原輝男先生は芸能論を通しても様々な考察をされていますが、人間の成長や教育に関しても「かたち」(型)「様式」「構造」等々を究めて重視されていました。

「中身を教える(覚えさせる)のではない」という主張です。

「おままごと」のような「ごっこ遊び」も「見立て」という観点から、先ほどの「数理思考と類化性能」の発達のためには大切な素地であったということから始まります。

英才小では今もやっていますが、江戸時代の寺子屋教育や藩校などでも漢文の素読が幼い頃から繰り返し行われてた意味。

そういう下地をみんなが持っていたから「共振・共鳴」も自然におこっていた・・・他人同士、社会全体・大自然や宇宙全体・・・異界も含めて・・・ということへの共鳴が起きて、現代人が考えるような身勝手でちっぽけな「個人」を超越できたのだろうと。


それが「型」(器)ではなく、そこに何を盛り込むのかを強制し、目に見える形になっていなければダメとする風潮・・・現象思考ばかりに偏っている・・・が、教育だけではなく社会全体の歪みにもなっていると思います。


やりとりの後半、「おうち意識の構造図」をみながらのやりとりが続くのですが、その中でNanba先生が指摘されている「この図の隠れた部分」への指摘は大変に重要だと感じています。


虚空 上原先生が芸能論もずいぶんと使うじゃないですか。そうすると水戸に京都のお茶屋の女将さんがきたときに話をきけた時のようにね・・・実際にあの時に来ていた芸妓さんが沖縄出身だったというのはね・・。あれは衝撃だったんですよ。あんなに純京都風なのに出身が沖縄です、って。なんで沖縄の人がこうなれちゃうの!?って。

以前Nanba先生先生が「憑依」の話をされたじゃないですか。最近の広島大学の学生は憑依能力が低下している、だから読解ができなくなっている、って。祇園だとか古典芸能の世界って憑依能力ですよね。

能でも日本舞踊でも「神」とか「精霊」に成るわけですよね。そうすると西洋演劇のように「役の気持ちになりきる」とかはそもそも出来ない、って。人間がいくら想像したって、そんな人間の想定の範疇だったら「神」とはいえないわけでしょ、人知を超越した存在なんだから。

ヒマワリ ごっこ遊びの究極みたいなものなのかな?

虚空 (Nanba先生先生に対して)さっきもおままごとの話になっていたんですけど、「おままごと」とか「ごっこ遊び」の哲学というか・・・「約束を想定してそこから世界をお互いにつくっていく」

諷虹 哲学とか数学も「仮定」からはじまって、仮定からはみださないようにやっていって最終的に目的地とか証明したいことに到達・・・哲学はどこまでも行く、みたいな。・・・定義づけして約束ごとで繰り広げられていくことなのかな、って。

虚空 段取りだけであとはそれぞれの役に成っちゃうじゃないですか、ちっちゃい子たちは。どう演じようかなんて考えないで。
ただ、今の子たちは例えば道具が完成されすぎているおもちゃばっかり。昔のおままごとのようにものすごく単純化された状態で見立てをしてというんじゃなくて。そんなのでのおままごとをしていたら「数学」だとか「哲学」の素養が育たない、なくなってしまうんじゃないか、って。

諷虹 棒切れを剣に見立てたり、とか。包丁に見立てたり・・・それって「自己の拡大」のようなものじゃないですか。これが棒状だから棒状のものには何にでもなれる。

虚空 それがね、さっきのように「表現されていなければ意識されていない」なんていう発想では、見立てなんてそもそも成り立たない。

よく話すことだけど、ずっと前に参観した「ごんぎつね」の授業でもそうだよ。ごんを撃ってしまった兵十がごんに手紙を書きました・・・っていう想定で最後に子ども達に書かせていたけど・・・。歯の浮くような言葉を沢山書いていた子ほど褒められて、「とりかえしのつかないことをしてしまった、どうしよう・・・・」としか書いていなかった子は「もっと書けないの!」ってダメな子扱いされていた。

「言葉にならない言葉」だって日常の中でいくらでもあるじゃない。「言葉を失う」とか・・・「とても言葉では言い尽くせない」とか。

でもね・・・和歌でも能でも落語でも全部そうだよね。それが日本の文化じゃない。「たくさん表現していない」「具体的な表現がされていない」ましてや「表現されていないということは、中身もないんだろう」なんていったら成立しない。

上原先生が国語教材の講義で最初にうるさく言っていたのは「日本人は言葉は こと の は とつかまえていた。物事の端っこのところしか表し得ないのが言葉なんだ」って。

ヒマワリ なくてもあるっていうこと?

虚空 それこそ能なんかでは、旅の僧侶がスーッとちょっと歩いたら、もうそれで諸国を旅した、ってことになっちゃう。

諷虹 そういう意味ではお客さんってどの立ち位置にいるんだろうな、って。

虚空 お客さんがそうしたことに共鳴できたわけじゃない。演じ手と観客との間で約束事による世界の共有というかね、それが成り立っている世界。それを支えているのがものすごく数学的な抽象と類化性能。
でも最近のお客さんは共鳴できないんだよね、日本人でありながら。西洋的な発想というかものの見方になっちゃっているから。

諷虹 何かその「自己の拡大」っていうのがさっきから頭に残っているんですけど、西洋演劇は自分達が劇と一体化することでお客さんを引き込んでいくという感じだと思うんですけど、日本の歌舞伎とかって、自分が一体化していながらも、お客さんが盛り上がるところはお客さんの気持ちで演じるみたいな・・・お客さんはお客さんとしてそれを観て掛け声を飛ばしながら世界をつくっていく。
西洋演劇では掛け声とか入れちゃったら崩れちゃう。お客さんと劇は・・・

虚空 確かに「成駒屋!」とか、あれって役者の屋号だからね。全然違う人間を演じているのに、役の名前を叫んでいるんじゃないんだよね。

諷虹 役に成り切らないで戻ってこい、って言っているような不思議な感覚ですよね。

虚空 そういう感覚を同居できるんだよね。

Nanba先生 役と自分との行ったり来たりとみせるというところはあるよね、歌舞伎は。

虚空 本人もみせる。ベルサイユのバラを宝塚が初めてやった時、歌舞伎役者の長谷川和夫が演出して・・・練習の時に主役たちが怒られたって。
本編が始まる前のプロローグがあるんだけど、そこで幕があいた時からアンドレとオスカルに成り切っていたというので怒られたって。成り切り過ぎているって。

ヒマワリ へー

虚空 お客さんはあなた方を観に来ているんだよ、って。完全になりきっていたらダメなんだ、って。それでかなりビックリしたって。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::
(その言葉に関するものは見つからなかったが、「型」の演出に関してはいくつかありました)
参考 「ベルサイユのばらはミュージカル界の歌舞伎~古典の力。型の力」
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12186072209.html
主役、オスカル。原作ではその瞳に星が飛んでいる。少女漫画ですから。
「あの瞳の星を舞台の上で飛ばしなさい」
と言われ、呆然とする榛名さん。(初代オスカル役の方です)
けれど…初日に、彼女はちゃんと舞台上で目に星を飛ばすことに成功するのです。
客席からは「光ってる」「ひゃー」「キャー」の叫び声。
「目線を、二階席の手すりから一階席まで落とせ。そして『い‐二三番』の席を見なさい」
これが、長谷川さんの指示。
ピンスポットが絶妙に目に当たり、乱反射する角度までを計算しつくした演出。
…これは300本以上の映画を通して照明の当たり方を研究し尽くした長谷川さんならではの
技だったそう。
 「ちょっと感動したこと。」~タカラヅカ~
https://blogs.yahoo.co.jp/phjbd514/18663191.html?__ysp=44OZ44Or44K144Kk44Om44Gu44Gw44KJIOmVt%2Biwt%2BW3neWSjOWkqw%3D%3D
鳳蘭、「ベルばら」秘話を明かす
https://www.daily.co.jp/gossip/2018/04/28/0011206441.shtml
「右に3歩行って、2階の3番目の端のお客さまをパッと見て、そこから上手の一番前をすっと見なさいとか、そういう演出でしたね。形。様式の。長谷川先生がスターだったから分かったと思うの。エキスを全部タカラジェンヌに教えてくださった」「今の宝塚の、スターが出て来る前にチャンチャカチャンチャンチャ~ン!で、スター登場!っていうのも長谷川先生が最初に作った演出です。ものすごく客席を盛り上げてからスター登場、は長谷川先生の演出です」と、長谷川演出が後の宝塚に及ぼした影響の大きさを証言した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::

諷虹 確かに映画とかでも好みの役者さんが出ているから観るって

ヒマワリ そうだよね、

虚空 その役者さんが成っているかどうか

Nanba先生 歌舞伎も宝塚も似ているところあるよね。応援している俳優を観に行くっていうところがあるから。
逆に劇団四季なんかは徹底的に役者が消える・・・劇団四季だと役者名が分からない。

諷虹 展示されている絵画をみるのか、ライブビューというか描いている姿を見せるのか・・・そういう違いがあるのかな、って。一つの世界で。

Nanba先生 最終的にはどちらもおんなじだとは思うんだけど、自分がそこに入ってしまうんじゃなくって、出たり入ったりすること自体をみせるとか・・・・

そういうのを含めての「私」みたいなのを英才児は英才児は感じていると思う。平凡な大人はそこまでいけないのかもしれないね・・・統合されていない。

虚空 だからやっぱり上原先生は英才児に江戸庶民をみたんだと思うんですよね。
Nanba先生が以前「児言態の教育って近世の教育を復活させようとしているのかな」って・・・それは単に古臭い日本に戻そうというよりも、その頃の日本人の方がずっとすごかったじゃないか、って。

Nanba先生 各藩の藩校のようにやればね。だって藩校で教えられていたものは小さな自分を捨てるということで、要は自分を捨てるというのは自分を大きくしていっているわけじゃん。

諷虹 イメージなんですけど、例えば水戸藩校だったら「土地に根付いた知識」というか、農業が盛んだったら農業、海が近かったら漁に特化した内容だったり・・・段階をふんで大きくしていったのかな、って。

まずは自分の村の形で・・・世界を変えるくらいの大きな人材にするんだったら、そこからさらに広い視野・・・やっぱりいきなりは大きなサイズにはなれないから、雪だるまみたいに・・・藩校のように土地に根付いた教育で、次に日本の教育があって、それからグローバルになっていく。

虚空 それが「おうち」がベースっていうことだよね。国際教育の基本は郷土教育っていうのもあの当時から文部科学省も言ってはいたんだけど、今は「おうち」「ふるさと」「世界」っていう基本的な流れがおかしくなってしまった。

Nanba先生 各藩の藩校について一時期調べたことがあって、各藩の特有の勉強と同時に、中国の古典のような滅茶滅茶ユニバーサルのようなものも小さい頃からやられているんだよね。必然的にグローバルとローカルがつながるような教育をしているんだよね。
それってすごくないですかね。

四書五経なんていうのは当時でいえばもうグローバルスタンダードなわけよね。そういうのをちっちゃい時から教えつつ、自分たちの地域のことも。それはすごいシステムだと思うんだよね。

諷虹 素読っていうのは、あれはどっちなんですかね。自分がない状態なのか・・・文章と一体化するという意味では幽体離脱みたいな感じで・・・フッと。英才小では最初にやるじゃないですか。ストレッチというか体をほぐす感じで・・・素読でただひたすらに文章を読むという感じで、自我の没我感というか・・・

Nanba先生 素読は確かにちっちゃな自我は消えるんだけど、僕はあれは自我の柔軟運動だと思っていてちっちゃな自分を柔らかくしていく時に、グローバルスタンダードなことを読むということによって何千年もとべるということをやっているんだと思う。
それはヨーロッパがラテン語とラテン語文献をずっと手放さなかったのと全く同じ。ヨーロッパの国語はラテン語を学ぶということだから。それは東洋でいえば中国思想を学ぶということだから。

唯一違うのは、日本は中国語を日本語で読めるようなシステムを作っちゃったっていうところ。
ヨーロッパのどこの国がラテン語を英語読みできるようにしたか、って。ラテン語のまま読むわけじゃん。そこがすごい。

諷虹 ホームポジションが変ったという感じなんですかね

Nanba先生 そうかもしれない。

諷虹 中国時代じゃなくて、国風文化とか、日本語読みができた時代の・・・平安なのか・・・日本人が始まった時、みたいな

Nanba先生 そうそうそうそう。あくまでも中国の文献を読んで、そこでグローバルなものに飛んでいけるんだけど、一方でローカルだから。・・・それが素読によって何千キロも飛べると同時に、日本の古代にもとべる。

虚空 このまえ諷虹が言っていたミクロコスモスとマクロコスモスだね

Nanba先生 ちっちゃな自我が柔軟になっていくことを素読でやっているんだと思うんだよね。そうした中からいろんなものが入りやすくなるんじゃないかな。知識とか・・・。そして自分というものが大きくなっていく。

虚空 そういうところがさ、ヒマワリにしてもコバルト君にしても、素読はやっていなくても、アニメだとか数学のやりとりを聴いて、そのまんま受け入れて・・・

ヒマワリ そうだね。大きくなっている感じがするね。
なんだか新しいのがペターッてくっつくような感じだから。

Nanba先生 分かりやすく言うと「素直」なんだろうけど・・・柔軟にしていくというのは・・・。
でも単なる素直ではなくて、「大きくなっている」という感じ。
「おうち」っていうのも自己だと思うの。大きな自己になっていく。

虚空 のべつくまなく受け入れるっていうのとはちょっと違うよね。幅広くっていっても。
「人のいいなりになる」とか「洗脳される」というのとは違う、っていう意味で。
そのカギをにぐるのは、自分の無意識世界との経路の風通し具合じゃないかな。

(新興宗教がらみの話題から、現代人が人生においても、すぐに答えをおしえてもらいたがる傾向について)

ヒマワリ 人から教えられるような人生なんだね。

虚空 今の学校教育も同じじゃない。全部こうしなさい、ああしなさい、って段取りを教えて・・・失敗も挫折もしないように。
だから子どもの方も「そんなの教わってない」とか「どうしたらいいのか答えを早く教えて」なんてばかり言う。
司令塔がいなくなったらもうどうしていいかわからないんだよね。


Nanba先生 みんな答えがあるものばかりやってきたから、人生には答えがあると思っちゃうんだね。


虚空 答えなんてなくたっていいんだ、ないのが普通なんだ、って言ってくれる人がいないんだよね。


ヒマワリ 答えがみえていても、その答えに歯向かいたくなる人間はどうすんだろうね・・・ヒマワリとかコバルト君とかみたいな。
::::::::::::::::::::::::::::::

(児言態雑誌15号 おうち意識の構造図の話題)
虚空 ゆうべ、この図をみた瞬間にコバルト君が「ここんところは・・・」とかいろいろと熱く語りだしたんですよ

ヒマワリ さっきのNanba先生先生の話が「あれ、この図と似ている」って

Nanba先生 そうね、おんなじだね。

諷虹 「お笑い芸人は結局ここをネタにするのが一番受けるし、万人に笑いがとれる」って言っていたんですよね

虚空 それをね、この図はああなんだこうなんだとしゃべっていたわけじゃないんですよ。たまたまこのページを開いて「そういえばこれは以前おうち作文をもとにみんなで作成した構造図」っていった瞬間に、いろいろと言い出したわけなんですよ


Nanba先生 ああ、そうかー


虚空 教えられたから言えるとかじゃなくて、そこから何か感じたらそれを口にする。
だから洗脳なんてされないと思うんですよね。。虚空が言ったから「はいはい分かりました。先生の仰せのままに」なんていう態度はとらない。ヒマワリにしたってそうだよね

ヒマワリ そうだね。

虚空 むしろこっちが何か言ったって「でもですね・・・」ってすぐに何か言い返してくるもんね

諷虹 こういうのもあるんじゃないですか、ってね。

虚空 むしろ虚空の考えが及ばぬところを言ってやろう、っていう姿勢だもんね。
そういう風にスッと反応できる。

ヒマワリ 図に反応しちゃうね。

諷虹 さっきの自我が広がっている考え方をふまえると、これは自我が広がっていく過程だともとれますよね


Nanba先生 そうそうそうそう


虚空 だから意識のベースっていえるわけだよね。
ただ、英才小の特徴としてはこの辺(生理感覚)が作文には書いていないと。

Nanba先生 それはだけど違うんだよね。これはこういう風に閉じられた感じにはなっているけど、この「生命」っていうのが満たされていくんだよね。

諷虹 広がっていくということは・・・

Nanba先生 そこまでが生命。「生命」でもあるし「社会」でもある。この子たちはそいいうふうになっていこうとしているし、なっているんだよね。

虚空 現実意識の外側にイマジネーションの世界がドーンとあるんだけど・・・ヒマワリさんもそういう感じなんだよね。

上原先生がよくいっていたんだけど「イメージを先行」・・・「イメージをイメージを」っていうのはこういう意味で言っていると思うんだけど、それがここ(中心)がイメージなんだから、その外側はイメージにとって邪魔なんだ、っていう発想になっちゃっているんだよね

Nanba先生 ここを突き抜けて出てこなきゃあかんと思ってしまっているわけね。

虚空 でも英才児は突き抜けなければならない対象ではないんだよ。「論理」も「知性」も。それらもすべてイメージを豊かにする道具なのよ。

Nanba先生 柔らかいよね。満たされているし柔らかい。だから出やすくもなっているし、それが「統合」されているようにも見える。

ここにはもう「他人」も一緒に入ってくるので「私とあなた」ということがどんどん「同じ生命」ということにつながっている感じだよね。


諷虹 この前、戦後ワースト2位の選挙の投票率だったというのがね・・・愛国心とかいうのもこれが広がっていけば自然に「日本が苦しめば自分も苦しい」って考えるから、社会に対してとか政治に対してだとかに興味をもつことになるのが、ここで止まっちゃっているから「日本がどうなろうと、俺が生きていければいい」っていうようになっちゃっていると思うんですよね。
だから「生命」が広がっていっていないのかな、って。

虚空 一体感がないんだよね。「俺は俺」っていう「俺」は、すごいちっちゃい「俺」。


Nanba先生 それが逆にいえば、それが広がっていくようなきっかけを失っているんだよね。学校教育とか家庭教育でそれが奪われていったんだよね。

それがこの3人のやりとりでは「同じ生命の競合」っていうのがあるじゃん。「おうち意識」って結局「拡大された自己」のことだから。それがうまく出来ないままきてしまったのかな、って。それがうまく出来ないようにするのが「近代」というシステムだし。
日本でいえばかろうじて近世までが「自分」と「共同体」の幸せが、って。

虚空 やっぱり幕末なんかで若者たちが「にっぽんのために」って本気で動けたのは、「国家がリードする国家意識」ではなくて、本当に「内側から湧き上がってくる国意識」

Nanba先生 「社会」なのよ、ちゃんと。でも幕藩体制は作られたものというよりは、古代から作り上げられてたものをベースにされたところが多かったから。でも戦争中の日本は「国家」という人工的につくられたものによってやられたから結局壊れていくんだよね。

虚空 国民に言っていたきれいごととは全く別の下心があったわけだしね。

諷虹 天皇という象徴があってそれと共鳴しあうか

Nanba先生 それが近世まではそれがあったんやけど、近代以降は明治政府が天皇を利用するために「人工的な天皇像」を作っちゃったんだよね。


諷虹 それが今はゴチャゴチャになってしまっているんですね。


Nanba先生 神だとかいうことも近世まではそんなに言っていないからね。そういうのが一番こわいんだよね。


虚空 自分もよく神話の話を出すけどね、手あかがつきすぎちゃっているんだよね。日本神話といっただけでアレルギー反応がおきてしまう。

だからこそ去年の10月のがすごいと思ったのは、KS先生の書いた単元設定。
Nanba先生 うんうんうん。今回この辺が大きなポイントになるんじゃないの?
「大きな自己」みたいなものとか「生命」ということが、「おうち」という意識が満たされている感覚として、もうこの子たちは持っている。それがどんな風に言葉に表れてきて、それがどんな風に伸ばしていくのか。

諷虹 「おうち」ってさっきの話でいえば「自己の広がりの第一歩目」であり、そこで自分がおうちにまで拡張するから・・・拡張できたわけだから、じゃあ今度は「村」とか「国」って

Nanba先生 広がっていくよね。

虚空 前の石巻での単元設定のところで、「第4番目に問題とするのは空間・時間・人間関係の相関の中に世界観を得ているということである」・・・このことが今回の要になるんじゃないのかな、って。

その要というところで、この「世界」っていうのが自分は「あの世」も「宇宙」も含めての全ての世界と思っているんですよ。そこが「現実的な意味での世界」という常識的な見方とのズレがあって。

でもそれらを結び付けていくのが「共感」。

さっき、石巻の時の授業で上原先生に「虚空、あの話を授業でしろ」って言われて・・・(茶碗のエピソードをすることになった経緯)・・・そのところの授業記録をさっきファミレスでこの二人にも読んでもらったんですけど、その時に随分と共感してくれて・・・

ヒマワリ もう勝手に涙がポロポロでてきて・・・・

Nanba先生 ああ、そうなんだ

虚空 泣き出してね・・・

Nanba先生 あらまあ・・・

ヒマワリ 共感力高いね。

虚空 その私の話に対して石巻の1年生たちが「浦島太郎みたい」って言い方をしてくれて・・・。
1年生なりに「この先生の気持ちに共鳴しよう・共感しよう」って・・・それをすごく素直に出してくれた。
英才小の子はそういうことが「作文に書いていないからできない」じゃない。


Nanba先生 書かない

虚空 書かないだけ。
4年生の片っ方のクラスが「理想の家」ということをやたらと書いていて、なんかそういう方向に偏るような何かが書く時にあったんだな、って。
ただ、怪我の功名というかね・・・単なるこんな家に現実的に住んでみたいというような意味での理想の家じゃなくて、突拍子もないあり得ない家のイメージを書いている子が何人もいて。そのクラスの子たちだけが書いているといってもいいくらいなんですよね。

でもそれはそのクラスの子が特殊なんじゃなくて、それが英才児が「きっかけさえあれば、いろいろな形で書けるよ」証拠だと思うんですよね。

Nanba先生 そのきっかけの与え方が、もしかしたら公立校の子ども達は違うきっかけの仕方を与えないと出ないかもしれないね。ここが難しよね。
ここで数学で躾けられていたことって、多分大きいよね。

虚空 自分も2年生は担任したことが1回あるので・・・参観していてビックリしたのは、先生が特に投げかけなくても「一般化しよう」という発言がいくつも出てくるんですよね。与えられていた帽子の課題から離れて数理的に一般化しようとする子までいて。
もちろん完全な形では一般化できていませんでしたけど、そういう風にしようしようという意欲というかね、それが出てきていて

諷虹 私なんかは、これは母胎回帰につながるな、って・・・全部は出てきていないけどエキスというのかな・・・ほんの一ミリでもここに表れていれば、ちゃんと根元にはあるんだろうな、っていう安心感があって・・・ここにこれを書いているということは多分「ここからひっぱっていけばここにたどりつけるかな」とか・・・英才児に対する信頼感のようなものがあるんです

☆Nanba先生を囲んで Ⅱ-③  英才児の特性・・・自己の拡大と没我性

類化性能や数理的発想が、「人間としての器を大きく成長させることに、どうつながっているんだろう?」ということに関しての考察です。同じエネルギッシュな子どもでも、一般の子と英才児の違いはどこにあるのだろうか?ということも・・・・


そのカギの一つが「没我性」にあるのではないかという仮説が出てきます。



場所を移して、Nanba先生が宿泊するホテルのロビーを語り合いに使わせて頂きました。
虚空 たとえば私はちょっとだけ数学にも首をつっこんだけど、彼(諷虹)は大学で数学を専門にやった立場。
それでね、さっきファミレスであの6月の時の数学のプリントと作文を突き合わせてみたんですよ。

Nanba先生 わー、すごいすごいすごい。

虚空 そうするとね、「見比べてどう?」って聞いた時に諷虹なんかは切り口が違うわけですよ。それがすごく面白かったんです。

諷虹 リンク大、とかメモりましたよね。
(何人かのを丁寧にみる)
諷虹 きっちりと仮定からはじめてというような流れ・・・道筋のたてかた

虚空 そういう型が2年生でも増えている・・・普通の発達からいえば5~6年生くらいの段階になっている子もいる。

Nanba先生 すごいね、すごいね、
明日の合宿の時にこの作文って話題になるの?
この子たちなんだよね、10月に授業をするのは

虚空 ええ、それで思考面の発達もみてみたかったんで、数学の授業だったのもあって参観したんです。KS先生も一緒に。

Nanba先生 ちゃんとこういうことも話題になるかね?

虚空 私が話す時間もあるので、そこで話します。

Nanba先生 なるほど。

虚空 (数学のプリントに特徴ある答え方をしている子)この子だって数学ではこうだけど、国語とかは全く別というわけではないですよね。こういうこだわりは必ず出てきていると思うんですよ。それが数学だから出やすい部分っていうのもありますから。

諷虹 (別の子の作文で)「弟を持っている」ってすごく英文っぽいかな、って。have から来ているんじゃないかというように考えると、文章全体が英文を日本文にしたような雰囲気・・・

Nanba先生 「わたしが6歳だったとき」っていうのも「私が6歳のとき」っていうよね。「だったとき」っていうのは珍しいよね。
諷虹 こういう方向で英語が伸びていくのかな、って
虚空 英語頭なのかもね。小さい頃から習っているとか・・・・


(別の作文)
Nanba先生 数学のこうした形式論理と国語をつなげて考えるのは大事だよね
(落書きの二人 それぞれの違いの様子と作文、プリントの分析)

虚空 この子は複数のことを同時進行でいけてる・・・落書きをして面白がっても、そちらだけに暴走しない。ちゃんと数学も進めていたんです、きちんと切り替えて。
私がずっと上原先生の師匠である郡司先生が江戸庶民の発想といっていたこと・・・勝手に「多次元構造の同時進行」って名付けていますが、それをやれている子。
量子論でいえば「量子コンピュータ―」の「量子ビット」。いろんな状態を重ね合わせて同時に違った演算ができる・・・そんな頭の使い方だと思うんですよね。
:::::::::::::::::::::::::::::::
(参考 https://ferret-plus.com/9474 
実際には、もっと直感的に言えば、量子コンピュータの情報単位は、「重ね合わせ」により状態が2つ以上であり、0でもあり、1でもあり、2でもあり、3でもあるという状態になります。(中略)量子ビットは、例えばn量子ビットあれば、2のn乗の状態を同時に計算できることになります。先日アメリカ・ラスベガスで行われた「CES 2018」では、インテルが49量子ビットのテストチップTangle Lake(タングルレイク)を発表しています。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::


諷虹 「帰ったら手洗いうがいをして、ランドセルを空にして中にはいっていない状態にしておやつを食べます」って、ランドセルを空にしなかったら家に帰ったことにならない・・・

虚空 儀式だね

諷虹 ルーティーン (routine)かな、って。

Nanba先生  ルーティーンだね。

諷虹 私だったら家に帰ってパソコンのスイッチをいれたり、靴下を脱いだら落ち着ける。外行の格好をしているうちはおうち意識になれない。

虚空 どうしても英才小の子はそこに体感とか気持ちの記述をしていないから、どうしても表面的な事実ばかりをつかまえているように見えてしまうけど、実はそうじゃない。裏側にはある。でも、もしかしたらこの子たちは所謂作文にはそういったことを書くものではないと思っているかもしれないな、って。

Nanba先生 その部分をみつけていくのが多分私達なんだね。書いてないようにみえるところを。

(落書きと行き来できる子に関して)

虚空 いつも話すことですけど、あの6年生の数学で、図形の説明でどう言っていいのかわからなかった子が「トイレの便器みたいな形」って言ったときに、クラス全体がワーッと笑ったけど、でもすぐにそれを「数学用語」として受け止めて話し合い活動に自然に戻った。あの変わり身の早さの芽生えが、この子には出ていると思うんですよね。

諷虹 ほかの子もその言葉を使って話し合いをするんですよね

虚空 それはヒマワリとおんなじ。すぐに取り入れて使える。

Nanba先生 なるほど

虚空 さっきの便器の6年生も、その時にはもう数学用語だから大真面目な顔をして話し合っているんだよね。
多次元構造の、っていう部分でゆうべのやりとりで出ていたのは、Zaki小と英才小は何が違うかっていうと、ベースになっているエネルギーは同様なんだけど、Zaki小は「収束砲」・・・宇宙戦艦ヤマトの波動砲のようなかんじ。全エネルギーを自分の関心のある部分にグーッと収束させて、ドーンと撃つ。リリカルなのはでいえば「スターライトブレイカー」・・・なんていってもよく分からないと思いますが・・・。
英才小の子はそれがマルチというのかな・・・ここにもここにもここにも撃てるぞ、っていう感じでドーン。


*この日のやりとりの前日に行われた、諷虹君宅でコバルトブルー君やことりのおやつ君を交えてのやりとりでも、こうした点などについて語り合っていました。
☆「英才児の特徴を作文から探る」 ・・・日本語英語の違いなども交えて:  http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/397/


Nanba先生 何でそこが違ってくるんだろう?

虚空 これは諷虹と話したんですけど、「観察」の時の「没我」の違いじゃないか、って。
英才小の子は「主観」を生じさせる「我」を封印してる・・・美術でいうデッサンに近い。最初から「こう」って関心のあるものしか目に入らないんじゃなくて。デッサンって何でやるかっていうと、正確に描くだけじゃなくて、なるべく気が付いていないものまで発見するという意味があるわけだよね。

諷虹 あとは、自分の中に入れて自分の言葉として表現するのか、ここにあるものを「これはここにあってこういうものです」という風に説明できるのか・・・「自分の中に入れる」「だから伝えられる」んじゃなくて、「入れていなくてもこういう考え方がある」と言う風に。

虚空 それが高学年になると急に増えるんだよね。自分はこう思うけど、「こういう場合もあるでしょう」って場合分けをすごく使うようになってくる。英才小の子は。
Zaki小の子は自分の思いでワーって行く。

諷虹 集まらないもの、自分の中に入って来ないものは発射できない

虚空 だから自分の受け付けるものだけを収束させてバーンと撃つか

諷虹 その場にあるもので、その場のままで

虚空 Zaki小の子も感性はいいからいろんなことをキャッチはしてるんだよ。でもその中で自分の関心のあるなしで強力なフィルターをかけちゃうんだよね。関心のあるものを発射するエネルギーに変換してしまう。

諷虹 考え方の違う人の話と融合できるかどうか・・・

虚空 さっきの没我でいうと「我を忘れて夢中になってしまう」のがZaki小なの。余計なことを考えないんだよ。こんなことを作文に書いたら変かな・・・なんていう他人の目を気にする自分をオフにする。そりゃ担任したばかりの時にはナマを作文に書かない子だっているよ。女の先生に担任されたあとの子とかは特に。でも、書いていいんだ、って了解するとあっというまに書く。そこは最初に勤めた県南の子たちとは全然違っていた。
だから「うんち」なんかの話も平気でどんどん書けるわけだよ。女の子でも。
英才小の子は、自分の好みとかを一旦封印する傾向にあるんじゃないかなと思うんだよ。特に作文を書くというときには。
それはそういった指導をされている部分もあるかもしれないけど、「こういうこともある」「ああいうこともある」っていろいろな発見をしたり、違う考えを受け入れてそれをおもしろがっているところもあると思う。

ヒマワリ 位置づけができるのが英才小の子?

虚空 位置づけをしちゃうんだよね。さっきの立体マンダラみたいに。自分の意識世界を構造化できる。

諷虹 コンステレーションですね。

ヒマワリ コンステレーションだねー。図式化が頭の中で出来るんだね。

虚空 そうそう。それを感覚としてやっちゃうんだよ。論理もね。
だからね、Zaki小の子だって・・・・(雑誌15号に掲載されている るすばん ボットン便所探検作文 を読み上げる)
すごく丹念に観察した様子を書いているでしょ。こういうところは英才小的なんだよ。
コバルト君のこの前の生まれた時作文もそうなんだよね。周囲を観察している視点での描写ばかり。

ヒマワリ 面白いねー。最高やん!

諷虹 茨城県人の特徴として、興味のあることにはとことん熱中するけど、興味のないことには全然っていうのがありますよね

虚空 そうそう、

諷虹 改めて英才児というのを考えてみると、何でもできるという印象・・・万能型というか。それって興味のない分野でもそれなりに結果を出せてしまうから・・・オールラウンダーみたいな。自分の興味がないことでも説明できたりとか。自分の領域外も受け入れられちゃう。

虚空 もちろん鉄道マニアとか魚マニアとか、自分の興味関心にとことん忠実な子もいるけどね。
でも違う世界を否定はしていない。
今のネット社会だと、同じアニメでもちょっとでも考えが違うと叩きつぶそうとするやつが多いじゃない。それは英才児にはないような気がする。

諷虹 共存共栄

虚空 共鳴しあえる。

諷虹 共存・共栄・共鳴ですね。

虚空 それがね、ただ単に分母分子がひっくり返ったあとの普通の中学年高学年に早い段階からなっているな、じゃないと思うんだよね。それとは違う境地に到達できてる。それが上原先生が英才児の中にある意味での教育の理想的な到達点をみた気がした、っていうことだと思うんだよね。
英才児の研究をしたいというよりは、公立学校でもこういう風に統合していける子ども達を目指せれば、って。

諷虹 やっぱ勉強が嫌いだったら勉強できないですよね。
万能型でありながら、そこに自分の好きなことがあると・・・

虚空 「何故万能になれるのか?」っていうところに類化性能があるんじゃないかな、って思うんだよ。抽象思考に裏づけられた。
ヒマワリさんなんてそれをいつもやっているんだよね。だから虚空と諷虹のアニメや数学がバンバンでてくる話に普通についてこれちゃうし、自分でもすぐに取り入れて話として使えちゃうわけだから。

諷虹 完全にのめり込まないみたいな感じなんですかね。好みに合わなくても使えるものは使う。自分の流儀に反するものでも。

ヒマワリ 引き出しとしてもっている分には別に構わないもんね。

諷虹 この人は嫌いだけど、この人の考えはマアいいかな、とか。
一般の人だと「この人きらい」っていったら何をいっても全部否定じゃないですか。

虚空 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、だね。
上原先生が「英才児は個性がない」っていったのも「没我の一つの形をそういったのかな」って。
それは英才児が没個性で全員同じなのか、ってそういう意味ではなくてね。
「これは自分だ」っていう壁を作らない、という意味での個性がない。
そういうことも含めて、本当に丁寧に「英才児ってどういう子たちなんだろう」って話し合って、仮説をたてていかないと、どんなに授業のやり方を考えても、彼らにとっても意味のある授業にはならないとね。
あとこれは教頭先生と話した時にでたことだけど、「我々は英才児しかみていないから、お二人が驚かれていることに、そういうところで驚くんだ、と驚いています」って。
だから私と諷虹とで驚いたことをいろいろお話したときに、最初は何にビックリしているのかが本当に分からなかったって。

諷虹 そういう意味でいうと「すごい生徒を作ろう」っていう気でやっていないと言えますよね。自然に。

虚空 さっき出たことでいえば、英才児の成長の邪魔をしないということだと思うんだよね。

Nanba先生 それはすごいことだよね。ああいった学校だったら「英才児育成システム」なんていう方向に行きそうだけど。
先生たちは、実際にそんなことをやってもこの子たちには関係ない、って分かっているから。
ずーっとさっきから気になっているのは、成人発達の発達段階の研究から考えると、自己がどんどん大きくなっていく発想があり、最終的には宇宙が自分になる、みたいな感覚に発達するようです。だから地球が環境汚染でよくない状況になった時に、本当に自分自身が痛くなる、感覚的に。

諷虹 確かにそれはあるかもしれませんね。

Nanba先生 そういうところまでいっちゃうみたいなね。
この子たちの没我性というところがね、「おおきな自己を実現していくプロセス」なのかな、って。
夢中になるというのも「個」にこだわるんじゃなくて・・・・なんで多くのところに目がいくんだろう?っていったら、俯瞰的にというわけではなく、他者や周囲を一つの大きな自己として、そういう風に大きくなっていくという意味かな、と思って。
それが「統合」という言葉でもあるんだけど。

虚空 そういう時に「自分」「自分」なんて言えば言うほど

Nanba先生 ちっちゃくなっちゃう

☆Nanba先生を囲んで Ⅱ-②  「類化性能の発揮」を大人が邪魔しない

「類化性能」は、異なる物事を次々と関連づけさせる、全く違う世界を橋渡しする大事な能力です。

でも、それを発揮する子どもほど、とかく教室では「わかのわからない発言をいきなりしはじめる子」と否定されがちです。
特に昨今のような丸暗記のテスト対策授業「教えた通りにやりなさい」式では邪魔者扱いされかねませんし、子ども自体がそうした学校には拒絶反応を起こしてしまいます。

諷虹君と二人で英才小の数学を参観した時に、大いに感動したのはその点でもありました。世間的には「答えが一つ」と思われがちな「数学の授業」であっても、子ども達の自由な発想はきちんと保証されていましたし、それらを先生方が交通整理することで「数理思考」と「感情思考・イメージ思考」が相互作用をいい具合に起こして深まっていました。まさにこれが生きた数学なんでしょうね。

そうした類化性能の発揮の大前提になる大人側の構えに関するやりとりです。 

*尚、途中で「体感による類化性能」という言葉が出てきますが、これが明確に出てきた駿煌会のやりとり記事がこちらです。
「母胎回帰性」いろいろ 「体感」による類化性能:  http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/398/

Nanba先生 あのさ、これ潜在的に聞いてみたいと思っていて、今ふっと思い出したんだけど・・・虚空さんの教育は、公立小学校でやっていたわけじゃない。英才小の子たちとは一応違うじゃない。
でも無意識の層を厚くしたままここまできたんだとしたらよ、それは虚空さんのどういった教育が・・・それは小学校だけじゃないかもしれないけどね、何がこの人たちをこうしたんだと思う?

虚空 やっぱり「邪魔しない」っていうことだったと思うんですよ。

Nanba先生 ほー。なるほど。

諷虹 素直さを出せる・・・だから例えば富士山から天使の階段が折りている、にしても「宇宙が母胎」みたいな感じだよな、って・・・母胎回帰がそこに出ている、っていうことを言えるんですよね。
一昨日もそんな話で「水中と宇宙は近いから、羊水に浸かっている状態と宇宙にいる状態は母胎に近いのかな」って言ったんですけど。

虚空 重力の影響を受けるようになってしまったから、今のような現実意識になってしまったけど、受けなければ「胎内での感覚」と「宇宙での浮遊感覚」は同じになるんじゃないかってね。(注 こうしたことをその後「体感による類化性能」と呼ぶ)
Nanba先生 それはあるね。
虚空 だから富士山のところで天からはしごっていうのも、普通の人が考える母胎じゃなくて、とんでもなくスケールの広いところでつかまえているんだろうな、って。

Nanba先生 だって、キリスト教の「処女懐胎」は聖母マリアが孕んで天から降りてくるからね、子どもが。子宮なんですよ、地球が、宇宙が。完全にその感覚だよ。
それは今僕は自分の持っている知識でそうとらえたんだけど、多分そういう感覚があるのは、「邪魔しない」

虚空 そこでその「知識」がそういうことも確かにあるな、って自分の感覚と共鳴しあえば、それは新たな世界を拓いてくれるわけですよね。地下2階よりも深い部分の。

だからね、そこに私は「類化性能」がカギをにぎっていると思っているわけですよ。
だから「類化性能」にずっとこだわっていたのは、英才児だから普通は結び付けないようなことを結びつけていけるだろうと。それは数学的な抽象化能力と一体。
そうすると最も身近なところから、宇宙への振幅とかが起きる、っていう・・・・そういう発想から組み立てたつもりなんですけどね。
でもどうしても「類化性能」とか「抽象化」っていうと、思考であって、イマジネーションの邪魔をするもの、っていう壁が一般にはあって・・・

諷虹 さっきNanba先生が虚空先生の何がこういった結果を生んだのか、っていう話で・・・「類化性能がものすごくあるのかな」って思いましたね。家庭教師をはじめて間もなくの頃(中1)、類化性能と別化性能っていう話になって・・・自分の中でいろいろなことを学ぶ上で、常にありますね。あれとこれ、つながりそうだな・・・とか。それを常に意識して頭の中にしまっていた。
それが数学の抽象化とうまくつながってきているな、って。

虚空 ますますそれに磨きがかかっているもんね。量子コンピュータ―の番組をみながら麻雀アニメの咲の話に平気でとぶんだから。
そういう数学的な抽象化をコバルト君にしてもヒマワリにしても、常に使っているんだよね。こういうおしゃべりをしているとき。

ヒマワリ 数学用語なんて知りもしないのに

虚空 でもその使い方がとっても自然なんだよね。それは本質を直観的にパッと感じ取れるからなんだよね。知識や理解を超えて。

ヒマワリ なんなんだろうね。

虚空 すごく自然に使っているよ。

ヒマワリ 共鳴なんだよね・・・「コーヒーコーヒー」みたいに近づいていくんだよ。

虚空 極限値の発想をそうやってつかまえてるんだもんね。まさに数学の生活化。

諷虹 猿真似じゃない。ちゃんと自分の中で

Nanba先生 そうそう、自分の中でね。すごいよね、この人たち

ヒマワリ やっぱりそれが類化性能なのかもね。それを聞いて、自分に近いのをすぐにみつけて、それで核を、芯をとらえた時に「ああ、こう使えばいいんだ」ってすぐに分かるから。

虚空 そしてね、テスト数学とか受験数学を拒絶していた分、「学校で習う数学」ということに囚われないから、いろんな場合に広げていけちゃうんだよ。

ヒマワリ そうだねー。

諷虹 やっぱり、自分の中で持っているものと何かくっつかないかなということを模索して、これだ、って言う時に

Nanba先生 それってもしかしたら求めてるのか、そういう感じを

諷虹 毎週先生とやりとりしている時に、10年くらい「こんなこと考えてなかったな」っていうことがポンって復活したりするんですよね。

Nanba先生 それって産婆術だね。

虚空 考えてみるとね、諷虹とのやりとりは週に2回。そして一回がだいたい4時間とか長いと5・6時間。それを何年間もやっているわけですよ。特に高校生以降は。それでもネタが尽きないんですよね。

諷虹 私もそうですけど、先生も「それで思い出したんだけど」って・・・そういう感じで以前はなしたことが初めての感覚でどんどん出てくるんで・・・

虚空 それは彼らの言葉が自分の中から引っ張り出してくれるんで・・・

Nanba先生 そうだね。お互いに引っ張り合っているんだね。
ライブ性があるから、ラインとかブログとかだと絶対分からないよね。やっぱり空気感が違うから。ここに居てここで聴いているとすごくいいんだけど、文字になったのを読むとアレっ?ってなるよね。

ヒマワリ 嫌になるよね、あのブログ

虚空 そりゃ自分だってあの分量を載せるのはね・・・

諷虹 どんな風に発言しているのか、っていうのを脳内再生しながら読むと読みやすいんですがね。

(Nanba先生先生なりにここのやりとりを分析して様々語ってくれるものの、周囲の雑音でうまく聞き取れず)

Nanba先生 で、それを生みだしているのは「邪魔をしない」ということか。
自分も学んでいるという感覚だもんね。。

虚空 全然教えようなんて思っていませんから。分からないフリをしているわけでもないし。
だから英才児の作文を読む場合でも、2年生を担任した時でも、そりゃ計算の仕方とかの技能面は「教えてあげる」という感覚はありましたけど、基本的には対等とか向こうの方が上。だから聞く側。

Nanba先生 聞く側だよね。

虚空 だから私の基本的な授業スタイルは、白紙の短冊のようなのを大量に用意しておいて、子どもらの発言を片っ端からマジックで書いて、黒板に磁石ではりつけていく、っていうスタイルだったんです。
それから例の現実世界・意識世界・無意識世界の図(最近児言態でキノコ図と呼ばれているもの)にそれぞれの発言を位置付けて構造化する話し合いを中心にしていった・・・上原先生の「子どもの本音の意見を交通整理していく」というのに徹していたんですよね。
そうすると、表面的な意見だった、それは現実世界の部分なんだ、っていう意味付けがはっきりとみえてくるわけですよ。
誰の発言も意味を持ってくるというのが子ども達にも感じられる。無駄にならない。
そういうことを視覚化していっただけなんです。
2年でも3年でも4年でも6年でも基本はそういうスタイルでしたね。

Nanba先生 そういうのが子供の思考も生み出すんだね。読解レベルも含めてね。

虚空 どうしても子どもって「多数決」で考えてしまうわけですよね。誰の意見が正しいのか、とかね。
だからみんなの意見と違うことを発言するのに抵抗があるじゃないですか。
でもね、こうした授業を重ねていくと「空白」に目を向けるように自然になっていくんですよね。

Nanba先生 なるね、確かに。

虚空 ああ、あそこはまだ出ていない。まだ誰も見つけていない何かが隠れているかもしれない・・・とかね。

だから諷虹君なんかも「空いているところこそ何かがある」っていうことを去年の英才児たちの作文分析でも盛んに言ってくれていたわけですけど・・・

Nanba先生 そこはそうよ。あるんだから。

虚空 意識化されていても言葉として出てこないのは、こっちの聞き方に問題があるか、それともこの人たちには話しても無駄と感じられてしまっているか・・・

諷虹 そろそろ出ますか・・・場所うつして・・・
****************************************
(移動中の車内 帽子の話題 諷虹に似合う帽子は 等々)
ヒマワリ タバコと同じなんじゃない? 内と外で。帽子をはずすことで構えをかえる。

Nanba先生 そういう発想がすごいよね。やっぱ賢いな。
この能力をもう少し社会に役立てられないかな。いつも思うのよ、この人たちのやりとり・・・無駄に消費していってしまっているだけのような気がして。
*****************************************