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☆2019,5,17 諷虹宅やりとり① 肉体の超人化

ブログアップの機会を逃していたやりとりです。3回に分けて掲載します。
*アニメ「異世界カルテット」について
この時点ではまだ児言態雑誌2号の金城哲夫氏・上原輝男先生の対談記事はまだ話題にあがっていませんが、そういうこととも関連した内容です。

虚空 あれだけ異なるアニメを一つにしても違和感がないのは、教室のクラスメートってしたからだよね。クラスだからいろんなやつがいてもおかしくない。

*最近のアニメの続編の作りかたについてのあれこれ
虚空 やっぱり人間が描けていないとドラマとはいえない。ドラマがないから心がゆさぶられない。そういうシナリオを書くことができる若手も育っていない

*ガルパンやことぶき
諷虹 荒唐無稽

虚空 嘘をつくのが上手なんだよ。ベースはきちんとしているから。仮面の忍者赤影であれだけハチャメチャやってもベースはきちんとした本格東映時代劇だったから

諷虹 少林サッカーも、少林寺のふところの深さ・・・なんでも在り得ちゃうんだろうなっていうことで受け入れてしまう。
動画で試合シーン

虚空 マトリックスの少林寺版っていう感じだね。

諷虹 中国雑技団の要素とか・・・あといろんな映画のパロディは入っていますね。

虚空 香港映画はほとんど観てないけど・・・キョンシーズなんかもそうだよね。

諷虹 ヨーロッパなんかの人からすれば、これくらいの在り得ないことだって、東洋人ならあり得るだろう、って思っているんでしょうね。日本のだと忍びなんかの忍者とか、陰陽師なんかのイメージがあるから。

虚空 西洋だと「魔法」の力が必要になるのかな?ハリーポッターみたいに。
超人的な肉体で、っていうのは東洋系。

諷虹 身体能力を頭脳でカバー?錬金術とかね。

虚空 仮面ライダーだってもとは改造人間・・・風の力を受けて、っていう設定もそうだけど、基本的に改造人間って、自然界の昆虫とか動物のパワーと人間とを合体させることで、超人的な能力を、っていう設定。基本は身体能力の延長なんだよね。

少林寺映画はほとんど観てないけど、テレビで観てあれは面白いなって思ったのが・・・何だっけ・・・(ネット検索)カンフー映画の金字塔『少林寺三十六房 』
魔法とかそういんじゃなくて、鍛えぬいて超人的な能力を会得している。
*動画サイトで一部視聴
虚空 これもあれだよね・・・一見関係なさそうな特訓・・・自分は拳法を習いにきたのに全然拳法は教えてくれない。でもそうした関係なさそうなことがすべて役にたってくる。関係なさそうなものだって、繋がってくるっていう実例。

諷虹 仲間になった者たちのそれぞれの長所を合わせていくんですね。・・・やっていることはガルパンですね。

虚空 重ね合わせ・・・量子論的にいえばね。相補性の原理。

諷虹 CGがあったらどこまですごいことやったんでしょうね

虚空 初期の仮面ライダーもそうだけど、CGじゃなくて基本的にはスタントマンとかが実際に動いていたんだよね。この少林寺の闘いシーンも、生身の人間が演じている。もちろん段取りで動いているにしてもね。
そこが、魔法とかじゃなくて、人間が鍛えることによっての延長で、誇張している。そこが魅力なんだろうね。
初代ウルトラマンでもさ、毎回ミニチュアを手間暇かけて作ってぶっ壊す。それがチャチであっても、でも本当にモノを壊しているのは事実だし。
あとは撮影側の緊張感。NG出したらえらいことになるわけだから。撮影だって常に危険が伴う。実際に仮面ライダーで藤岡弘はバイクシーンを自分で演じていて、とんでもない骨折事故を起しているし、スタントマンが撮影中に首の骨を折って死亡している。
高いところから水に飛び込む場面も人形じゃなくて生身の人間が飛び降りていた。さすがに崖の上から落ちる時は人形を落としてたけど。
*「荒野のコトブキ飛行隊 外伝 大空のハルカゼ飛行隊」動画視聴
虚空 これもそれぞれの持ち味で役割分担がちゃんとしてるんだね。これ脚本は誰?

諷虹 横手さんですね。
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☆「観察」という構え ⇒異文化を認め包み込める力

英才児の観察力という上原輝男先生の指摘からのやりとりもずっと続いています。


コバルトブルー君が小3の時(H7,3,21)に書いた作文の話題や、名実況中継と言われた人たちのことなどから始まって、先日も話題にしたサバイバル状況を描いたアニメ「ソウナンですか?」から最終的には「異なる考え」「異文化」を認め、尊重し、取り込む姿勢についてまで発展しています。


サバイバルに限らずですが、異なる食文化への構えは最も身近な「食」という感覚だけに、広い視野へ突き抜ける大きなカギをにぎっています。
まさに「おうち意識」が「意識のベース」であり、根源であるということ。


このように自分と異なる考えに対しての許容力・包容力は現代社会において格段に低下しています。

それが「邪魔者は排除」として凶行に簡単に及んでしまうことにもなっているわけですが・・・「成果主義」「競争原理」もその背景にはあるのではないかと考えています。



2019年8月2日 諷虹宅
虚空、熱中症による頭痛、諷虹バイト疲れ(90分×5コマ)
*塾バイトの思い出等々・・・(虚空、学生時代の塾のバイトで、今でいうヤンキー達の集まる中3クラスを担当した時のエピソード、等々)

*コバルト「おかあさんのおなかのなか」作文
諷虹 なんつーか、メガネをかけた医院長とか、ステレオタイプ・・・実際の記憶なのかイメージなのかという部分で・・・テレビの影響とかでかいのかなとか思いますけどね。
舞台設定とかね。

そういうことからすると昨今のアニメって、女の子とか男の子しか出ないじゃないですか。
こういうステレオタイプみたいなイメージの形成に齟齬が発生するんじゃないのかな。


虚空 恋愛観なんてそうだよね。昔だったら互いに好きということが分かっていたり、三角関係のもつれとか意地悪とかが定番だったけど、今はサラッとしているのが多いもんね。
超鈍感だったりね。
「月がきれい」とかでは三角関係がでてきたけど、こじれなかったしね。


諷虹 シロバコのアルピンが何が好きじゃないですが、高木さんの西方も少女漫画が趣味じゃないですか。そこも妙に納得できてしまう・・・あれをバイブルにしているようなことがね。ヒロイン属性みたいなのがあるような


虚空 ナマの人間関係から形成される「人間観」とか「人生観」じゃなくて、アニメやゲームやネットの書き込みをそのまま受け入れての見方・考え方だね。
昔だったら「これはお話のこと」と区別できていたのができなくなってきている。
兆候はだいぶ前からあったけどね。

いい例がさ、知り合いの子役経験者が「憎まれ役」を演じていたら本当に性格の悪い人間だと思われて批判がたくさん寄せられたって悩んでいた。
あれは役の上でのことなんだ、って思えないんだよね。今の人達は。

あとはストーカーまがいの人達がよく都合よく使っているのが「いやよいやよもいいのうち」という漫画やアニメ。本当に嫌がられていても、都合のいい世界を作ってしまう。
今回の京アニ放火もそういった傾向が極端だと思うよ・・・予想だけどさ。

この作文ね、もう一つ思ったのは、この前から出ている「観察」視点。

だいたいコバルトブルー君の作文ってイメージや感覚が書かれていることが多いんだけど、この作文の中にはそれがないんだよね。知識とか何かでみたものの影響であるかどうかは別にして、それを赤ん坊という目で周囲を観察している。目に映った様子を淡々と記述している感じだよ。


諷虹 それ聞いて思ったんですけど、古舘伊知郎の実況・・・あの人のフィルターを通しての状況。その場のノリできいていると共感性を生むようなことばなんだけど、自分ではそんな実況できないな、っていうような。
実況が面白い人ってそれがあるよな、って。

競馬の実況でも「すげーな」って思える人がたまにいますけど、スズカをみて「沈黙の日曜日」なんていう言葉がスッと出てくる、っていうような。
ネット検索「古舘伊知郎」実況名言
①(ボブ・サップに対して発言した名言)この肉体はワシントン条約違反だ!!
②(アンドレ・ザ・ジャイアントに対して発言した名言)一人民族大移動!
③(スタンハンセンに対して発言した名言)ブレーキの壊れたダンプカー
④(ハルクホーガンに対して発言した名言)現在によみがえったネプチューン
⑤(若松マネージャーに対して発言した名言)悪の正太郎君! 悪の羊飼い!

虚空 こういう共感を得るようなキャッチフレーズがポンポン飛び出してくるというのだって、基本は「観察」だよね。そこに語彙力がからむ・・・言語操作性


諷虹 これも深く考えていうわけじゃないですよね。その場のライブ感、臨場感をそのまま残している。2~3日考えて思いついた言葉じゃなくて。
写真みたいな感じですよね。

虚空 その写真っていう例えがすごく的確だと思うんだよね。「観察」っていうことからも。
最初から決めてかかっていると、自分のフィルターを通したものだけがキャッチされて非常に偏った実況になっちゃう。多くの人の共感は得られないよね。
むしろ、幅広く事実をつかまえる。そこに印象深い言葉をくっつけている。

だからこそ実況を聞きながら「新発見」とかね・・・それほど気にしていなかったことが「なるほど!」って思える。

それが英才児の根底にある姿勢だと思う。
*動画 野球の名実況
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19842025
虚空 今のさ、「何故あそこでインコースのストレートを使わないのか・・・使えないのか・・・使いたくないのか・・・使う度胸がないのか・・・・」っていうところもね、何かに決めつけるだけの実況じゃなくて、いろんなことが想定できるというのを、ある意味で論理的に場合わけをして話しているよね。

論理性を自然に使っている・・・この前のことり君もそうだったけどね。

自分の意識世界を自ら拡張できる・・・・他人の異なる考えでもスッと無理なく取り入れて・・・添加していける。
こうした能力の育成って、今の教育に最も欠けている部分だと思うよ。
折角の論理性も、きちんと自分の思いを伝えるため・・・というコミュニケーション能力でというのが全面に出過ぎているような気もするしね。
今の風潮からすると、持論を相手にきちんと伝えて、冷静に話し合う・・・っていうんじゃなくて、持論を押し付けるための方便にばかり使うようになっちゃう。

うちのあの親戚がそうだから。他人に対しては法律とか世間の常識みたいな正論をぶつけてくる。でも自分は平気でそれとは違うことをする。それを他人に指摘されると「そういうもんじゃないんだ」なんて言い出すからね。

それは結局は「他人を自分の思い通りにコントロールしたい」っていうことだから、自分に都合いい場合だけ正論を相手にぶつける。でも自分が不利になると「世の中は理屈じゃないんだ」なんてね。

本当にただの我が侭。ガキの屁理屈。
でも今の学校教育の論理性は、そんなことばかりを発達させてしまうような気がする。身勝手な論理で自分の世界を正当化して、放火をするようなね。


*競馬の実況動画


虚空 いつも思うんだけど、あんなにいろいろな馬の名前を出しながら複雑なレース展開を実況するって、どれだけレース前に準備しているのかな、って。どんな展開になるかっていうシナリオなんてないわけじゃない。その時にね、想定外の馬が差してきた時に「あれ、あの馬は何ていう名前だっけ」なんて紙をみていたらあっというまにレースは終わっちゃうもんね。


諷虹 競馬だとゴール前などでは状況を実況していますが、ゴールの瞬間にこういうアナウンサーのナマの言葉が出てくる


虚空 そう考えるとさ、前に「オマワリサン」っていう馬の出てくる実況をみたじゃない。単に客観的に馬の名前を実況する以上の工夫を入れていたのよ。
https://www.youtube.com/watch?v=10-3MRH6DhM

https://matome.naver.jp/odai/2139242494422940701/2139242595923284503

補足 
競馬中継 モグモグパクパク
https://www.youtube.com/watch?v=UEbAuv5K2N0

面白い名前の馬と変な競馬実況まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2139242494422940701



自分はさ、放送委員会を担当することが多かったから、運動会の実況の練習も係りの子にしてもらったことがあるよ。過去の運動会のビデオとかみせながらぶっつけ本番でやってみ、って。
考えてしまうタイプの子は、どうしてもうまくいかない。考えているうちに状況がどんどん変わっていってしまって、それに追いつかない。

でもスッとできる子もいる。それはやっぱり「観察」なんだよね。網膜に写った通りに口が動く。

そこに気の利いた言葉を使うかどうかは語彙の問題とかもあるんだけど、まず実況って「実況」だから、観察した事実をなるべくそのままつかまえるのが大前提だよね。

それが英才児は特異。

今回のコバルトブルー君の作文も想像なのか、何かの映像でみたことなのかは分からないけどさ、でも分娩室にいる赤ん坊である自分の網膜に写ったことを淡々と実況して文にしているわけだよね。それに伴うイメージや感情を切り離して「事実」を書いている。



諷虹 このあいだ、プロレスのことが好きなお笑い芸人のコーナーで、パウンド(ポンド)とキロとでどっちが好きか、っていうのを聞かれてパウンドだ、って。
キロだと自分と比べて考えてしまうけど、パウンドだとすぐにはピンとこない。プロレスラーが「得体のしれない人間」「プロレスラーって非日常」・・・想像力を掻き立てられるからポンドだと。


虚空 そういう意味では本場のアメリカ人よりも、得体のしれない感を日本人は楽しめているかもね。向こうの人はポンドで重さの実感が伴って聞いているだろうからさ。
そうすると、意味がきちんと伝わるように敢えてしないことも、大事な言語操作性っていうことだよね。

上原先生なんてさ、研究授業で普段使わないような言葉をガンガン子どもたちにぶつけていた。「どういう意味ですか?」って聞き返されても教えなかったもんね。「考える」と言い渡す。これなんかも今の教育関係者がじっくりと考え直してみる価値のあることだよ思うよ。

成果主義だと、どうしたって「分かったか、分からなかったか」の二者択一になるから、「きちんと意味を理解させる」のが教師の役目、ってなっちゃうけどさ。


諷虹 得体の知れなさなんて「量子論」的ですよね。日本人のあいまいな返事ってあるじゃないですか。余白的な部分とか。


虚空 だから量子論っていうのは古代日本人の発想と通じるっていうかね・・・相性がいいんだと思うよ。
だいたいさ、量子論の結果をどう解釈するか、なんていうことはいまだに決着がついていないことだらけなわけだよね。でも事実として認めないと素粒子の世界も半導体の設計もなりたたない。


諷虹 「おまえはアメリカ人かよ」っていう言い方をよくするんですが・・・0か100か、っていう両極端しかとれないたとえで・・・アメリカ人がすべてそういうわけじゃないと思いますけど・・・


虚空 それはね、ゆうべ高校3年生の かうと君 とも話していたんだけど「小さな恋のメロディ」のこと。
制作された本国イギリスや、公開されたアメリカでは全くといっていいほど話題にならなかったのが、自分が中学生の頃の日本の若者には幅広く受け入れられて大ヒットしたわけだよね。でもその映画が昭和の終わりごろになってくると教え子たちに観せても面白がらない。もう認識法は「イギリスやアメリカ」風になってしまっている、っていうことだよね。
それはこの映画に限らず、あらゆる部分で感じる事だけどね。


諷虹 カリフォルニアロールが日本の心だと思われてるみたいなもんですかね。寿司が大好き、っていいながら実質はこれをさしている。これが寿司だと思っている。
日本人からすれば「それは寿司じゃない」って。


虚空 一部回転ずしでは「サラダロール」なんていって出すところもでてきているけどね。
やっぱり言葉の二面性。「言葉をとっかかりにしてさらに広がる」のか「言葉が縛りになるのか」
外国人観光客向けのパフォーマンスで本来の形とは違う演出をする寿司屋や天ぷら屋がふえてきている、なんていうのもテレビでやっていたけどさ・・・海外の店ならともかく、わざわざ日本にやってくる外国人は「本場ではどうなのか」を確かめたいっていうのもあると思うんだよね。だから「外国人向けにこういうのもつくれますけど、伝統的なものはこれです」ってきちんと示した方が喜ばれるんじゃないの?

そりゃ口に合わない場合だってあるだろうけど、だからこそ「異文化を尊重する」姿勢にもなっていくと思うしね。

日本人の「ふところの広さ」を実感してもらうためにも大事なんじゃないの。
来年のオリンピックに向けてますます外国人向けというか「外国人受け」というのが増えそうだから尚更ね・・・・。

そういう意味では今放送中の「ソウナンですか?」っていうのはさ、サバイバルっていう枠を超えて大事な内容を含んでいると思うんだよね。

サバイバル状態じゃなくても、昆虫を食べたりヒトデを食べたりっていう国や地域はあるわけだからさ。それを自分達が普段食べないものを食べているというだけで人間じゃないみたいな差別感覚を持つ人っているじゃない。「よくそんなもん食べるね」なんてさ。

だいたい、日本人が普通に食べている「タコ」や「イカ」だって、食べない国の方が多いって言うじゃない。あのイボイボが気持ち悪いって・・・「悪魔の魚」だとかね。

だからたこ焼きなんかをかじってタコの足が入っていた、なんていうのは、コロッケとかの中に巨大なミミズとか昆虫が入っていた、っていうのと同じような生理的嫌悪感を抱く、なんて解説されているのをみたことがあるよ。
ハリウッド映画で「パイレーツ・オブ・カリビアン」にタコ船長が出てきたけど、あれって日本人が観ている以上におぞましくて気色悪いキャラなんだと思うよ。あんなタコの足がヒゲになってニョロニョロ動いているのが巨大スクリーンに写し出されるっていうのは。

来週はいよいよ罠にかかったウサギを食べるエピソードらしいけど・・・それだって狩猟生活を送っていた頃だけじゃなくて


*「もやしもん」コミック10巻 
「隣の席の女の子は あの誕生日のお祝いを "こんなの日本式じゃない"って言われたいかしら?」
 「マリーもここに来る人達も"この日本"を楽しんでるじゃない」


虚空 でもさ、これって逆に日本人だって相当ステレオタイプで各国のイメージを持ってしまってるよね。本国の実体とはずれているような。

教え子にアフリカの都会の映像とかみせた時にも心底驚いていたからね。歩いている人たち以外の近代的な建物や道路の様子は、都心の銀座とかとたいして変わらなかったから。
でも「アフリカって草原とかばかりじゃなかったの?」って。それから服装もね。普通にみんなが洋服をきていたのを驚いていたよ。

だからお互い様といえばお互い様。
もちろんこれだけネットも普及しているんだから、実情に近いイメージをお互いに持つというのも大事なことになっていくと思うけどさ。

でも今の日本はさ、同じ日本人同士でも自分の基準からちょっとでもずれていたら受け付けないで排除にかかる。自分の意識世界は修正しないで、他人には自分の常識を押し付けるからね。
アニメ感想なんてみてそうじゃない。

ソウナンですか?でウニやヒトデを食べるエピソードだって、ウニは高級食材で、ヒトデは限られた地域の人した食べないとか何とか言ったって、どっちも食べる習慣がない国の人からすれば「どっちもどっち」・・・あんなトゲトゲの奇妙な形の生き物の中のオレンジ色のトロッとしたのなんて、よく口に言えられるね・・・ってなるよ。

もっと身近な例だったら、水戸名物の納豆。あんな腐ってヌルヌルベタベタのものをおいしそうに食べるのなんてどうかしてる、って、日本国内だってそう思う人がそうとういるじゃない。

食文化って、それこそ「衣食住のおうち意識」と直結するような「意識のベース」。
それを認め合えるかどうか・・・別に好きにならなくてもいいけどだ・・・が、異なる立場を認め合って共存共栄していくそれこそベースなんだろうね。

だから昔・・・平成3年に・・・最初の学校で国際教育をベースにした全校集会を企画したことがあったけど、国際教育だからって外国の文化云々というのを全面に出そうとはしなかった。
「食」とか「身近なところにいる昆虫」とか・・・そういうのを出発点にしたよ。

もうあの当時から「虫なんて嫌い」っていう雰囲気が「清潔志向」と相まってどんどん広がってきていたから。そうすると「地球は人間だけのものじゃない」って環境全体のことが叫ばれていたけど、虫嫌いの子ども達にしてみれば「虫なんていなくなった方がいい」って思っているんだから、本音では「人間の住みやすい地球にして何が悪い」って思っているよ。それじゃ心に響く国際教育になんてならないと思っていたからさ・・・。

トトロなんて、サツキもメイも身近な昆虫とか生き物とお友達、っていう位置づけじゃない。ナウシカにいたっては、腐海の森に住むあんな奇妙で恐ろし気な巨大生物とも交流しようというような女の子だもんね。
気に入らないものの存在は許さない・・・っていうのが傲慢さで留まっていない・・・実力行使で排除という行動に出る・・・それは今後ますます加速するんじゃないの?
(君の名は 鑑賞回数)
虚空 この前ある番組で新海誠作品が大好きだっていう若者が、ドヤ顔で「君の名は も3回も観ましたから」と語っていたけど・・・今はさ、一度観て知っていれば内容の細かい部分とかテーマとかそういったことまですべて分かった、っていう風潮が強いと思う。
これもやっぱり「成果主義」「競争原理」の悪影響もあると思うんだよね。「すぐに分かった」「繰り返す必要なんて自分にはなかった」というのが評価基準になっちゃっているから、パッと分かることが大事にされてしまう。実際には表面的なことしか分かっていなくてもね。

過去に担任したクラスで同じ学年であっても、例えばトトロをみせるなんていうときに「もうそれ観たことあるよ」と冷めた反応のクラスもあったし、「あっ、それ面白いんだよね!」ってワクワクしながら観るっていう雰囲気のクラスもあった。

知っている=分かっている じゃないし、知っていたらもうツマラナイというのもね・・・。
実際にまどマギの劇場版にしてもガルパンの劇場版にしても映画館で10回~20回観たというファンは沢山いたし、観るたびに新たな発見がある、っていうのだってね・・・。

でもパッと分からないと自分が「ダメな人間」という事実を突き付けられるような気になる人間は、難しそうなのは最初から拒絶するからね。理解しようとしないで頭から「こんなの分からない」って避難するだけじゃなくて、それを「面白い」っていう人達を頭ごなしに否定したり、よってたかって潰しにかかる。

気に入らないものっていうか「自分のマイナス面をさらけだす要因になるものはすべてこの世から消してしまえ」っていう構え。

本当にコワイ風潮だよ。

☆ダンデリオンツイッター記事 「自分の存在」「他人にとっての自分」・・・おうち意識もからんで

7月26日にアップされていた 2つのダンデリオンツイッター記事に関しての 諷虹・虚空やりとりです。

「おうち意識」が意識のベースとなる一つの理由にもつながっています。

駿煌会でよく出てくる「添加」という構えとも深く関わっていきます。
そうした構えが全くとれない人間が「身勝手な屁理屈」で自分を正当化し、「京アニ放火事件」などの凶行に及んでしまうんだと思います。

2019年7月27日 諷虹宅
*ダンデリオンツイッター記事 その1

(孝経 礼記)
身體(しんたい)髪膚(はっぷ)之を父母に受く、
敢て毀(き)傷(しょう)せざるは、孝の始なり。(孝経)
玉琢(みが)かざれば器と成らず。
人學ばざれば道を知らず。(禮記)

【大体の意味内容】
 私たちの骨や肉体、髪や皮膚などは、父母の身体を受け継いで生み出された結晶である。(父母はまたその父母たちから、その父母たちもさらに前の父母たちからと、はるかな太古の人々の身体を受け継ぎ続けてきている。
いかなる災害をも乗り越えて生き延び受け継がれてきたこの身体は、存在しているということ自体、奇跡である。)
この身体を、努めて養生し、毀したり傷つけたりしないことが孝行すなわち親、祖先に尽くすということになる。
(目の前の親に孝行することも大事だが、自分の身体を大事にすることが、今現在自分の身体を形作っている祖先の遺伝子を大事にするということになる。
それはそのまま、これから生まれる子孫の身体を大事にすることでもある。
祖先の遺伝子、私たちの身体、それは次の新しい命のもととなる、宝玉なのだ。)
宝玉の原石は、丁寧に、根気よく磨かなければ、宝器とは成らない。
人も、丁寧に、根気良く学ばなければ、我々自身がこの宇宙においてどのような存在であり、いかに生きるのがよいのかという、「道」理を知ることはできない。
(多くの原石を同じように磨いたとしても、すべて異なる輝きや外観、機能を持った器物となる。
まったく同じという器物は一つもない。
人もそれぞれの身体・精神を磨くことで、みなが違った光を放ち、異なる役割を担って、それぞれにとって最高の活力を発揮して生きてゆくことになる。
つまりすべてのひとり一人には、それぞれの身体・精神にふさわしい「道」の原理があるのだ。)

【お話】
日本人の死亡原因として一番高いのは何か?
癌(がん)?交通事故?自殺?
じつは、人工(じんこう)中絶(ちゅうぜつ)なのだそうです。(沖田(おきた)×華(ばっか)著 マンガ『透明なゆりかご』)
いろんな事情があるでしょう。
人工中絶は、その女性にとっても危険(リスク)があるので、重い決断によるものです。
軽率に非難することはできませんが、事実として、生を享(う)けながら、この世に生まれることができずに死んでしまった人(赤ちゃんになる予定だった人)がたくさんいた、ということです。
私たちは「幸運にも」生まれてきて今現在まで生きている。
このことは、まずは両親のお陰です。
学修塾ダンデリオンの入会オリエンテーションで必ず確認していることですが、
まずは両親に感謝しましょう。
自分の誕生日には「産んでくれてありがとう」と感謝しましょう。
自分の誕生日に「おめでとう」とお祝いをしてくれたり、プレゼントしてくれたりする人々への愛情に、心から感謝しましょう。
そのように祝福された自分は、それでどう生きるのか、厳粛に考えましょう。
「君がなんとなく生きた今日は、昨日死んでいった人たちが、 どうしても生きたかった大切な明日だ」
アメリカの先住民族(インディアンとか呼ばれてしまっていた人々)に伝わる箴言(しんげん)だそうです。
「赤ちゃん」になれなかった人々も含めて、生と死の森厳な交錯の上で、かろうじて私たちは生きていますし、私たちの身体に太古からの記憶や遺伝子が息づいていて、それを未来につないでいく。
自分が精一杯生きることもそうですし、あたらしく子どもを産む形であったり、自分の子どもではなくても新しい生命を支えていく形で。
存在していること、生きていること、なんて神秘的なのでしょう。


諷虹 『この身体を、努めて養生し、毀したり傷つけたりしないことが孝行すなわち親、祖先に尽くすということになる。』
この意識は希薄になっているとは思いますね。

自分の体は自分のものという意識・・・自分の意思も・・・どっかにあるのかな、って。
遺伝子情報的に考えると「血は争えない」みたいな考え方をするのも薄くなっているかな・・・親と考え方が合わない。時代が違うというのもあるんでしょうけどね。

今って、昭和とかと比べると生活基盤が全然違うからそういう考え方の齟齬が発生するのかな、って。江戸とかの方が荒れているようで、そういった価値観は変わらない時代だったのかな・・・。今は10年で世代間ギャップというかジェネレーションギャップって出てくるような・・・

やっぱり親が子どもの生き方をみて、「自分もこの年齢でこの年代に生きていたら」って考える必要があるのかな・・・逆(子供が親を)もまた然りですけどね。
自分の親が今の自分の年齢の時に子どもがいたって考えるだけでもゾッとしますからね。


虚空 フルーツバスケットでしばらく先になると出てくるけど、ネズミの由紀(男性キャラ)が幼い頃から母親の圧力をうんと感じて育ってきて、苦手意識を強くもっていたんだけど、高校になってフト「こんなに小さかったんだ」って思う場面があるんだよ。

ずっと見上げていた頃のイメージが意識世界にあり続けていたのが、ひっくり返った瞬間。

同じフルーツバスケットで、この前アニメに出てきたヘビさんとラーメン屋でしゃべっている場面。透がお母さんの言葉を紹介するところ

『でもお母さんは言っていました。”自分が親になって初めて親の気持ちが理解できた”って。
だけど本当に理解しなくてはいけないのは、忘れてはいけないのは子どもの頃の自分だって
初めて逆上がりができた日や初めてたくさん怒られた日のこと。子どもの頃 感じた気持ちをちゃんと忘れずにいれば、大人になっても親になっても理解し合える
100%とは無理でも歩み寄ることはできるって。』

母『だって そう考えた方が楽しいしね』
子どもが親に歩み寄るのは大きくなってから。やっぱり子どもの時は親が子どもに歩み寄っていかないとね。これは教師もだけど。


諷虹 レールガンの木山先生・・・子どもが苦手な理由をいろいろ言っていましたよね。
子供は嫌いだ。デリカシーが無い。失礼だし、悪戯するし、論理的じゃないし、なれなれしいしすぐに懐いてくる。…子供は、嫌いだ」
https://www.nicovideo.jp/watch/sm15142688

虚空 でもやりとりの中で共鳴しあっちゃったわけだよね・・・。
木山先生の奥底にあった母性のようなものが目覚めた。

これもさ・・・「おうち感覚」が「意識のベース」っていう一つの表れ方かもね。


諷虹 誕生日を祝うシーンとか・・・「人間的」イベントっていったらいいですか。
大人になるとあまりやらないようなこと・・・嫌いなものを我慢して食べるとか


虚空 あのあたりのシーンは子どもの方がお母さんじゃない。

その先に、実験の場面での

「怖くないか?」
「全然、だって木山先生の実験なんでしょ?先生のこと信じてるもん」

という邪気も疑いも全くない態度があったから、罪の意識も強烈に芽生えたわけだよね。子どもが親に無条件に頼る・・・全幅の信頼を寄せる・・・それが人間関係の原点として記憶にあるかどうか・・・・
そうなってくると、ダンデリオンツイッターの最後のことばともね・・・・。


諷虹 そういう意味では、今放送中の「とある科学の一方通行」でアクセラレータにとってのラストオーダーですよね。


虚空 悪党の中身がしっかり保護者になっているよね


諷虹 母親であり、唯一の女性キャラのようになっていましたよね。


虚空 同じ岡本信彦がやってる「うちの娘」だって、ある意味でそうだよね。もともとはガチの冒険者だったのが、あんな親ばか丸出しになって・・・それを引き出したのはラティナだもんね。子どもを守るためにはいとわずというのは、どちらにも共通してる。
しかも今回のうちの娘はあの超シリアスな場面。校長に抗議をする場面がアクセラレーターっぽくなっていったじゃない。いつブチ切れてもおかしくないくらい。

(動画チェック)
虚空 親というより奥さんじゃない・・・嫉妬している。

諷虹 ファミレスのシーンも・・・

虚空 ラストオーダーとアクセラレーターの言語観の違いがよく出てるね。
(機材の故障で観られなかった虚空)
*ラストオーダー「おいしいものはみんなで食べた方がおいしいし、家族はこうするんだよ」
エステル=ローゼンタール「素晴らしいご馳走だ。こんなにも素敵なもの、私の周囲にはなかった。じゃあ私も(とラストオーダーにあげる)家族はこうするんだろ」
*エステル=ローゼンタールに女性としてのたしなみを説く

諷虹 ラストオーダーが一番常識人っぽい回は珍しかったな、って。


虚空 これもやっぱり人間関係の基本だよね。しかもそれをミサカネットワークで他のミサカたちも学習しているわけじゃない。まさに「おうち」が意識のベースで、そこから深い人間性への目覚めになっていっているよね。

アクセラレーターなんて、このあとやがて、ラストオーダーを守る一心で結果的には世界の破滅を命がけで防ぐことにもなるわけだしね。

あまりいい例じゃないけど・・・第二次世界大戦の時の軍部だって、この意識を利用したわけじゃない。国を守る=大切な家族を守ることになる 式の発想。世界戦略だって「家族」のイメージだよ。

昭和の頃の企業のイメージだって家の延長・・・。
日本を支えてきた意識のベースが「個人」じゃなくて「家」。
それは天皇制もそうだろうし、もっと遡れば「天照大神」が日本のお母さんのイメージだもんね。

西洋だと「父なる神よ」だけど、日本だとやっぱり「母なる大地」とか「マリア信仰」とかそっちに偏っていくんじゃない?


諷虹 そういう意味では働き方でも独身の割合も増えているから「無理して働こう」という気にはなれない・・・金よりも自分の時間、とか。


虚空 子どもが産まれるのを喜ぶというより、自分の自由を奪う存在・・・邪魔者って。
だからさっきの木山先生やアクセラレーターのように、母性が引き出されることはない・・・そんな悪循環だよね。

だから子どもにとって一番怖い場所・・・安全が保証されない場所が自分の家。恐怖の相手が親。これじゃあ人間社会は根底から崩れるよね。

京アニ事件みたいなのはますます増えるよ・・・っていうかあの事件も始まりじゃなくて、途中経過だしね。
あの事件があったから、尚更この言葉がね・・・

「君がなんとなく生きた今日は、昨日死んでいった人たちが、 どうしても生きたかった大切な明日だ」
アメリカの先住民族(インディアンとか呼ばれてしまっていた人々)に伝わる箴言(しんげん)だそうです。
この言葉がものすごくグッときてしまう・・・・


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次の記事
7月26日 ダンデリオンツイッター ②
(荘子 養生主篇第三―8)
吾が生や涯あり、而して知や涯なし。
涯あるを以て涯なきに随う、殆(あや)うき已(のみ)。
已(のみ)にして知を為す者は殆うきのみ。
善を為さば名に近づくことなからんや、悪を為さば刑に近づくことなからんや。
督に縁(よ)りて以て経(つね)と為さば、以て身を保つべく、以て生を全うすべく、以て親(身)を養うべく、以て年を尽くすべし。
【大体の意味内容】
私たちには生涯、つまり生命の涯(がけ)という限界があるが、ひたすら理知でものごとをコントロールしようとすることは危険極まりない。
善行に勉めれば、名誉に近づくであろう。
悪行を為せば、刑罰に近づくであろう。
(理知的に計算ずくで名誉や刑罰を受けることは、真逆のことの様でいて実は両方とも自然の道理に反した危険を伴う。知性にはそのような涯はない。
限りある身でありながら、無限のことを追い求めるのは、危ういことだ。
子どもを溺愛して自分の思いどおりにすることと、虐待することとは、両方とも子どもを自分の好きにできる所有物とみなしている点で、同じ危険な心理から来ている。)
身体の中枢神経を「督(とく)」というが、表面的な善悪に偏らず、深い中枢の「督」に従うことを常とすべきである。
それによって身体を安全に保つことができるし、人生を全うすることもできる。
さらに心身を養生することにもなり、本来の寿命を尽くすことができる。
【お話】
岩手県の大船渡高校野球部で、最速163キロの速球を持つエースピッチャー佐々木朗希選手が、甲子園出場をかけた県大会決勝に出場せず敗退したニュースが、日本中に衝撃を与えています。
猛暑の中の連投になってしまうことで、監督さんの判断で起用しなかったとか。
非難、憎悪の的になることを覚悟の上での決断だったようです。
私は基本的に大賛成です。
PL学園の桑田投手(巨人入団)や横浜高校の松坂投手(西武ライオンズ)の連投を見ては、プロでの選手生命は長くないだろうと想像はつきましたし、この件についてはアメリカの様な投球制限を設けるべきだとずっと思っていました。

だから、今はまだ、見るからに筋骨(きんこつ)の出来上がっていない、佐々木投手の華奢(きゃしゃ)な体を守ろうとした大船渡高校の国保陽平監督の「英断」には、称賛を惜しみません。
ただ、甲子園大会というハイレベルなステージでの経験は、どの選手たちにとってもその後の人生への貴重な資源となることも否定できません。

将来はおそらく日本のプロ球界、そして大リーグで活躍するであろう佐々木投手にとっても、高度な経験を積むことにはなったはずです。

それだけに、県大会や甲子園大会の過密スケジュールの改善が望まれます。
高野連や、関連企業の利権を守るためにアスリートを護ろうとしない強欲な大人たちには猛省を促したい。
国保監督は米国アリゾナ州のサマ―リーグ(選手として自分を売り込むチャンス)に参加した経験を基に、選手を守る思考法を身に付けたそうです。
いつまでも動かない高野連とは別に、今後は独自のルールを設定し、高校生の身体を護る起用法で大会に臨み、禍根を残さない形で勝ったり負けたりしてほしい。

肉体を壊さないことも大事ですが、ひりひりするほどの熱い勝負に完全燃焼したいという心を潰さないことも肝心。荘子の言う「督」は、肉体的なものだけでなく、魂の中枢として表現されていました。若者たちの魂魄(精神と身体)の「督」を監み、それを最大限に発揮させること。
それこそ「監督」としての率先垂範になるのでしょう。
虚空 このだいたいの意味内容、という中の
『子どもを溺愛して自分の思いどおりにすることと、虐待することとは、両方とも子どもを自分の好きにできる所有物とみなしている点で、同じ危険な心理から来ている。』
これが表裏一体っていうのは大事な指摘だよね。

諷虹 この原文の
『吾が生や涯あり、而して知や涯なし。
涯あるを以て涯なきに随う、殆(あや)うき已(のみ)。 』 
分かる気がする・・・原文のままの方がなんか・・・。
完全に全部がわからないから逆に分かる気がして・・・分かりやすい。

(声に出して読みながら)そうだよな、って。
必要不可欠なものではあるけれども、本質的には違うものだから、注意して扱うべきところもある・・・万能じゃない。

それこそ道徳の教科書にかいてあるような場で、100点に近いとされる答えがあったとしても、その答えを選択することが、必ずしも正解とは限らない。
トロッコ問題とかあるじゃないですか。どっちも正解じゃないけど・・・正解を求めること自体がナンセンスなような。

サイト紹介「トロッコ問題」
トロッコ問題とは、2010年に亡くなった哲学者フィリッパ・ルース・フットが提唱した「人間が道徳心から生まれるジレンマにどう対処するのか」を見るための倫理学の思考実験。線路上を走るトロッコが制御不能になり、そのまま進むと5人の作業員が確実に死ぬ、5人を救うためにポイント(分岐点)を切り替えると1人の作業員が確実に死ぬという状況下で、線路の分岐点に立つ人物(自分)はどう行動すべきかを問うものです。

決して考えることが無駄ではないわけですけどね・・・そこが。


虚空 自分の出した結論がベストと決めつけるかどうかの違いかな。他人の意見を「それもアリだね」って添加できるかどうか。英才児はそれが容易くできてしまう。
その秘密はどこにあるんだろうね?????
そんなところも10月の授業で浮き彫りに、っていうのは個人的な関心なんだけどね。


諷虹 他人の意見を取り入れすぎる、周りに流されすぎるのも問題


虚空 取り入れる=従う じゃないよね。それもアリか、っていう柔軟性。
最終的には自分の心の内に従って、最初に考えた通りにする場合があったっていいんだよ。ただ、一つしかないものだから、それを実行、っていうのと、いくつもあったけど、やっぱりそれを実行、っていうのは全然違うんじゃない。


諷虹 劇場版の知波単と最終章の知波単との違いですね。「吶喊」の場面・・・
スラムダンクの流川もそうですね。パスか攻撃かっていう・・・選択肢の幅が広がったと相手に思わせるだけで違ってくる


虚空 咲にもあったよね・・・宮永をビビらせた・・・


諷虹 加治木さんですね。恐怖を植え付けておくのもいいな、っていうやつですね。
テニスの王子様でよくでてくるのが、「緩急」。パワー一辺倒の選手がちょっとゆるいボールを織り交ぜるだけで、威力がかわらないボールでも非常に効果的になる。
野球のチェンジアップもそうですね。

そういうのも一種の波みたいのがありますね・・・バイオリズムのような。
山と谷の関係・・・


虚空 それがさ、例えば今回の高校野球の「みなさんが期待するドラマ」の基本パターンだよね。すごいピッチャーが苦もなく何度も連投して勝ったっていうんじゃなくて、ボロボロになっても一人で根性みせて投げぬいている姿を観たい・・・っていう。

監督さんにしてみれば、そういうファンへの配慮ではなく、本当にその選手の将来を考えての判断・・・みんなからブーイングがくるのは分かっていてもそちらを選んだわけだよね。

これさ、もし連投して投げぬいて勝った・・・でも肩を故障して甲子園に出られなくなった、なんていう展開になったらどうするんだろうね???
なんかさ、無理をさせた監督に対して非難囂々になるんじゃないの???


諷虹 叩ける要素はみんな叩く。どう立ち回っても叩かれる。
さっきのトロッコ問題と同じですよ。どっちが正解というのがないから、どちらでも叩ける。


虚空 で、叩いている自分達は傍観者であり、ジャッジマンなんだよね。一億総評論家時代、なんていう言葉も昔はやったけど・・・。


諷虹 まだジャッジしてる方がマシなのかもしれないですね。付和雷同というか。多い方につく。

世間に迎合するんじゃなくて、本当に自分の判断でジャッジしていれば、擁護するにしても叩くにしても、まだいいと思います。


虚空 トロッコ問題で今ちょっと思い出したのが、このはな綺譚で比丘尼様が柚に出した問題。柚は「どちらも救う」という発想を最後まで捨てなかったよね。選べない・・・どっちが正解か考えられない・・・という想いを突き抜けて。

コミック版のエピソード

虚空 基本は「自分一人で何とかしよう」じゃないんだよね。こうしたことの基本も「家族同士の助け合い」が出発点じゃないかな・・・柚が比丘尼様と親子関係のような生活を送ったり、此花亭で従業員一同が家族のような生活を送っていたことから湧き上がってきた知恵。


諷虹 個々の能力を最大限高めよう、という考えの元が今の社会の根本にあると思うんですよね。アイデンティティとか自分の専門性とかスキルとか・・・

そういうことがいつのまにか歪んで「自分一人で生きられる」「一人で生きている」という風になってしまっているのかな、って。
それが最初のことばにつながってくるのかな、って。

『この身体を、努めて養生し、毀したり傷つけたりしないことが孝行すなわち親、祖先に尽くすということになる。』
この専門性・・・例えば文系・理系で言えば、「親が理系だったから自分も理系」みたいな選び方って、親が学者とかでもやってない限りないじゃないですか。そもそも親の世代って大学行くこと自体が稀だから。そんな高等教育機関でそういった専門性を身に着ける事が万能感にもなるし、自分は一族の中で異端な存在である・・・っていうような意識も生まれるのかもしれないなって。

そうなるとますます自分は自分、一人っていう感覚が加速していくのかなと


虚空 それって前にNHKでやっていた人体Ⅲの遺伝子の中で紹介されていた両親どちらにもない突然変異の遺伝子が存在する、っていう話とも通じるよね。

あとは、もっと前にやっていた思春期の脳を解説した番組。

思春期特有の感情の乱れとか暴走が、脳を新たに刺激して、既存のものをいい意味で壊していく。それが人類が生き残り進化してきた原動力の一つだ、って。

だから、それ自体が悪いっていうことじゃなくて、親と違うことで子どもを狭い意味で判定して何とか期待通りに捻じ曲げようとすることじゃないの?

☆ウルトラマンの生みの親を交えての上原先生達対談 を読みながら 「教育の本質」へ迫る②

この対談記事の中で当初から最も気にしていた部分 

『教育的であるということは、内容ではなく形式である!!』
についてのやりとりが核心部分ですが、これはまさに現代の教育が最も誤解している部分。

「形式的な丸暗記」などと受け止めてしまっては全く上原先生の真意とは離れてしまいます。
「型」「様式」「儀礼」等々の本質と関連してきちんと考えなければならないテーマ。
それこそ先生の最も難解な著書「芸談の研究 心意伝承考」や儀礼等々に関する論文、あるいは折口信夫先生の「日本の教育は感染作用」という発想等々と照らし合わせながらみていかなければならないのですが、さすがに今回のやりとりはそういった学術的な側面からは迫れていません。
アニメ等々からの考察です。
もちろん、この2号対談記事の内容は、今後も繰り返し話題になると思います。


☆教育的であるということは、内容ではなく形式である!!

虚空 やっとサイゼリアの時から騒いていた核心の章にたどりついたわけだけど・・・
この見出しってすごいことだと思うんだよ。どうしても丸暗記型のテスト対策勉強って「内容」こそが大事とされているだろ。「これはよく出るからちゃんと覚えておけ」って。数学とかだって「解き方を覚えろ」だしね。

ただ、一つ間違えると「形式である」ということを「中身はどうでもいいから丸暗記させろということか?」と誤解されてしまう。
そうじゃないと思うんだよね。
分かりやすいのはやっぱり芸の修行。あの京都の舞妓さん・芸妓さんが水戸にきた時のお茶屋の女将さんに質問した時のやりとりもそうだったけど・・・。

それこそ「人知を超えた・・・常識を超越した」そういうものを会得するための知恵が「型」の文化だったと思うんだよ。
理屈であれこれ中身を考えても踏み込めない領域が問題にされている。

目先の「テスト対策が教育」という現代社会の常識では到底分からない境地の話が上原先生から出ていると思って読まないと誤解を生むよね。

諷虹 形式ということになるのかどうか分からないですけど、例えば国語で物語文をやるときに、さっきの演劇のようにそれぞれの登場人物のセリフを言っていくといろんなものが見えてくる、というのがあったよな、って。
社会で家内制手工場と機械化された工場の違いを、高専の授業で芝居がかったことをした記憶があって・・・その時に「そういう気持ちなのかな」って経営者とか労働者にリンクできた。この立場だとこういう発想になって、こっちの立場だとこうなるのかな、って。
当時随分と熱くなった思い出があります。
⇒高専時代のノートを引っ張り出してきてふりかえる

虚空 俗にいう「憑依」の一種かね。
折口先生が「日本の教育は 感染作用 である」って言っていたような・・・
諷虹 (二進法などで躓いている生徒の話題)


虚空 二進法に入れないのってどうしても十進法から離れられない場合じゃない。
時々小学生にね、二進法の計算をいくつか書いて「このノリでいったら、次はどうなると思う?」って。そうすると結構できちゃうよ。
それは「このノリ」っていうことで「新しい約束を見つけよう」って思うから。それを自分でみつけた後で「それを0と1の二つの数字だけの世界だから 二進法 っていうんだよ」とあとで言葉をくっつけてやるとスッと入る。
それを最初から「二進法をやるよ」なんていうことばから入ると変に構えちゃって・・・壁を作っちゃってなかなかその世界に入れない。
異世界モノでRPGになまじ親しんでいると、それとは違った約束を入れている「いせスマ」には入りにくなった若者が多かったようにね。
(マイナスの計算 ノリで約束をつかませる のと 規則の丸暗記 との違い)

諷虹 ゆゆ式でもありますよね、調べたことを「これはお酒の席で決めたのかな」なんていうのが


虚空 実際にもそうじゃない。物事を深く考える子の陥りやすい落とし穴って「深読みしすぎる」っていうこと。その裏には深い理由があったんだろう、とかね。
でもそんなに深く考えていないで「やくそく」されて定着したものだってあるんだよね、いくらでも。だから「背景もきちんと考える」って勧めても、深い理由がない場合だってあるんだよ、っていうのも同時に教えておく必要はあるよね。


諷虹 使われる文字も習慣でそう使うものとかもね。わざと「イロハ」を使うとか「甲乙丙」と使うとか

『上原  
うん。たとえばね。善をすすめなければいけないと一全懸命になっている子どもがいるとするでしょう。すると、このときに、悪をにくむわけですよ。しかし、善と悪との二つを考えるようになってくるでしょう。そうすると、いままで、一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。

 だから、やっぱり、人間のものの見方がどんどん変革されてくれば、それは(人間性が高まるということが)できてくることだと思う。
 さっきの映画の話にしても年寄の方は、映画の場面がとらえられなかった。子どものほうは。そのしくみを見てとった。そこに写されているものは、人間生活でしょう。
 そのしくみがどうなっているかがわからない方の人間の人問性が高いと言えるか、それよりも、しくみがわかるほうが、人間性がわかっていける可能性をずうっともっているって言えないでしょうか。』

諷虹 「一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。」っていう部分ですよね。


虚空 丸暗記だったら、それでオシマイなんだよね。

でも見方が増えるということは、同じ見方を他の分野にもやってみる・・・それによって新発見を自分でして「新たな世界の構築」の連鎖反応ができるようになる、っていうことだよね。
「ものの見方」が増えることを、さらに「知識・概念」まで拡張したのが駿煌会で使っている「添加」だと思うんだけど。
だからさ、この「添加」っていうのは今後是非広めたいと思っている。
「構えの変革」を自ら起こしていく原動力にもなる。それこそ「添加」による「意識世界」や「イメージ運動」の変化からくる「興味関心」「感動」がエネルギー源になってね。

『上原
 そうですよ。それは、ものの見方の仕組が、変わってきたということです。感動する仕組の構造が変わってきたということなんです。

 だから、その構造を変えてやることが必要なんです。作品のテーマなんかをいくら強調したって、子どものイメージには、先生は、あの作品をたいへんほめたということしか残らない。

 そして。そののち「ああ、先生の感動したことは、こんなことだったんだ!」と気がついたときは、それは、その仕組がわかったというときなんですよ。』

諷虹 「構え」ということで・・・これが私の最後の大きいメモなんですが・・・

『上原
 それはね。われわれは、こういう盲点を持っていると思う。内容と形式を分けて考えるとき、形式は内容の容器でしかないという悪いくせを持っているんですよ。

 形式こそ智恵なんでね。

 実は、それは容器(いれもの)でも、なんでもなくって、最も、生(なま)の智恵だと思うんだ。内容を問題にするってことは。その智恵を問題にしているんでね。』


諷虹 結局「型」とか「構え」っていうのは「容器」っていう風に置かれているわけですよね、ここで。
例えば安いグラスに高い酒が入っていたら、「なんでこんな安いグラスに・・・」とか思いそうですが、案外高いグラスに安い酒(飲みなれた、ありきたりなもの)が入っていたらそのグラスが良いものだと気付かない可能性があるのかなって。
中身が高価な時に初めてその外側、「容器」・「型」に目がいくけれども、中身がありきたりだとあまり関心がない部分・・・ミスディレクションみたいな。重要な部分なのに焦点があまり合わなくなってしまっている・・・


虚空 無意識に「ふさわしいもの」っていうイメージのリンクがあるのかもよ。
だから服装でも小物でもいいものを持って、「それを持つのにふさわしい人間になれ」っていうような。襲名の感覚もそうだろうけど。
ただ、それが今は高級ブランドものを持つだけで人間が完成したかのような・・・自分がいい酒に熟成しているかのような自己満足になってしまっているんじゃないの。
努力もしないで。


諷虹 努力すれば成功するとは限らないけど、成功した人間は必ず努力している・・・これも成功したという中身があるから初めて外側の構えとかどういう努力をしてきたかという容器の部分に目がいく


虚空 アメリカの訴訟社会の風潮がどんどん流れこんでいる一つの表われかもしれないんだけど、何でもかんでも他人のせいにする風潮・・・昨日から話題になってるバスの運転手に土下座を要求した中年男のもそうじゃない。居眠りして降りる停留所で降りられなかったのは起こさなかった運転手のせいだと激怒したと。それでバス会社がその停留所まで送ろうと配慮してくれたんだけどおさまらなくて運転手に土下座を要求した・・・

こんなことをやっていて、何でも損害賠償とかの風潮になっていったら、基本的に大人として自立できる人間力だって自らつぶしていることになるよね。
年齢相応の肉体にリンクしない人間。
そのくせ早期教育とかは不自然なくらいにうるさい世の中。

諷虹 人事を尽くして天命を待つ・・・これも結局「器が出来ていれば中身が」ということですよね


虚空 それが今は何もしないで天命を待つ・・・棚からぼたもちだよね。


諷虹 2代目経営者なんてそうなのかもしないですね。中身だけ譲渡されて


虚空 「あれは2代目の器じゃない」なんていう陰口があるもんね。

自分も「器化」ということばはよく使ってきたけど、それはやっぱり日本舞踊の家元の知り合いとか、京都のお茶屋の女将さんとかの話からの発想もそうとう入っているから「日本人の知恵」として位置付けてはいたけどね。


諷虹 だからこそ『教育的であるということは、内容ではなく形式である!!』
昨日のまちカドまぞくでも、魔族でありながら「みんなが仲良くなれますように」って。魔族の器ではないですよね。


虚空 器にふさわしいものを引き寄せる、っていう部分と、器は出来ているんだけど、どうしても自分にしっくりくる中身の感覚と一致しないというのもあるんだろうね。

「性同一性障害」なんていうのもそうなのかもしれない。もっとも日本人は魂に関してはな性別の経験は魂によって違うという見方だから「障害」でもなんでもなかったと思うけどね。これまでとは違う肉体に初めて宿った魂が違和感を覚えてしまうっていうのは何も特別な感覚じゃないから。それは自分のようなラフな恰好ばかりしている人間が、ある日突然かしこまったタキシードなんかを着たら違和感というか着心地の悪さばかり感じるのと同じだと思うから。

そのあたりの「型」と「中身」のことはもっと丁寧に考えていった方がいいかもね。

*シロバコでの「人に教えるのは勉強になる」というセリフから
虚空 これはさ、小学生に教えた時に痛感したよね。建前が通用しないから。
逆に変に物分かりがいい中高生が「分かった」っていう反応をしてくれる方がコワイよ。


諷虹 改めてみると、あの人数が全部が全部相互に作用している感じがありますよね。


虚空 それなんだよね・・・だからさ・・・いま 改めてこれをみていてさ・・・京アニのことが浮かんできてちょっとね・・・・。
あの会社は本当に珍しいくらいに社員みんなが家内制手工業のように作っていた会社だっていうじゃない。それがこんなに一度に仲間を失ったっていうのはね・・・・。
重要な地位とかなんかじゃなくて、どのポジションの人も大事っていう本当の組織。


諷虹 あの平岡も腐ったミカンじゃないですけど、腐った会社にいたから腐ってしまった

虚空 最初から京アニのような会社に入っていたら随分人生が違っていた男だよね。
まあ、水島監督としては、一度絶望して腐ってしまったようでも、志がかすかに残っていればいくらでもやり直しのチャンスはあるんだ、っていうことを描きたかったんだろうけどね。

諷虹 平岡が更生する一番のきっかけは、高梨太郎じゃないですか。他に立派な人はたくさんいるけど。

虚空 最もダメ社員のように描かれているけどね。無責任なお調子者。でもこれが水島監督がモデルっていうことなんだから、その経験を生かしたっていうことなんだろうね。
あんな太郎をクビにしないで仕事を与え続けていた周囲の功績ともいえる?

諷虹 さっきはどちらかというと努力もしないでという傲慢な方でしたけど、努力はしているけど、消極的な考えでまだ器ができてないと自分で判断しちゃうタイプの人間も・・・
虚空 作画監督補佐とかキャラデを引き受けるなんてまだ早いっていう場面だね
諷虹 ある意味「うぬぼれないといけない」わけですよね。器ができあがっていると。機が熟していると思うタイミング。
虚空 そこがね、まだちょっと襲名には早いかなというところで襲名させることでその名に追いつかせようという知恵なのかもよ。
ただ、自分が最初から諦めていたら入り込まない。
そこがさ、あの作画監督の女性も示していた「引き受ける以上の責任」という覚悟じゃないのかな。最終的にはね。
諷虹 それによって得るものがいっぱいあるという部分。演じてみてわかること・・・いろいろな立場になってみて初めてわかるようになること。


虚空 本当に努力してきた人達は、自分もそういった経験を経てきているから、真の意味で「思いやり」とか「優しさ」があるよね。態度としてはものすごく厳しい時はあっても、裏側にはその人を全肯定する気持ち。
だから失敗そのものをダメとは言わない。失敗から学び取ろうという姿勢がない時ことこそが問題、って。
それはやっぱり「型」・・・「型」を「形式」としかとらえていないと、単なる容器っていう上原先生の指摘・・・でも「知恵」としてつかまえると「形式」とか「型」は「構え」っていう言葉に言い換えた方がふさわしいのかもしれない。


諷虹 付与するものが感じられますね。
「構え」っていうことは、「構えている人がいる」っていうことですよね。単なる「器=モノ」じゃなくて「人」がいる。そこに「思考・感情」っていうのが並んでくるのが自然になってくるんじゃないですかね。

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諷虹 最後の最後、ここに「ぬえ」ってメモしたんですけど・・・
『上原 
仮に一枚の用紙に犬なら犬を納めるとするでしょ。するともう一つの観方だからね。だから、おとなだと、その犬を中央におくか、端におくか、端においてその犬が体半分、用紙からはみ出していてもいいのか、そして、画面から切れていても。その犬の全体は子どもに見えるのかどうか、おとなにはわからない。そういうことをわれわれは謙虚に考えてやらねばとさっき言ったんだけど、いまの話は、描き手が子どもでしょ。だから、子どもが自由に自然に筆をとったものだとすれば、それ以下の年齢の子ども達には抵抗が少なかったかもしれないと言えるね。』
諷虹 既成概念からの脱却のようなことだと思うんですよね、ここは。

ぬえ
『平家物語』などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足が狸、尾は狐になっている。さらに頭が猫で胴は鶏と書かれた資料もある[1]。

諷虹 かといって荒唐無稽すぎない絶妙なバランス


虚空 そこが前にでていた「意中性・的中性」のことだね


諷虹 桃太郎のことで出てきたやつですね
この記事の最後、

郷右近
やっぱり切断と継続ということですか・・・(後略)

さっきの微積の話じゃないですけど、鵺だって部位ごとに切り貼りしているわけですよね。
それによって新たな次元というか発想というところにたどりついている。

虚空 フト思い出したんだけど、仮面ライダーの怪人の名前、ゲルショッカーでは「二つの生物のかけ合わせ」、デストロンでは「生物と機械のかけ合わせ」になっていたわけだけど、これもただデタラメにくっつければいいというものじゃなかったと思うんだよね。

特にデストロンのが分かりやすいと思うけど、子どもながらに「なるほど」と思えたかどうか・・・。「カメバズーカ」とか「テレビバエ」・・・


諷虹 上半身が人間で下半身が魚なのか、上半身が魚で下半身が人間なのか・・・


虚空 人魚はなじみだけど、逆のがあったじゃない・・・鯖かなんかの


諷虹 えんどろーですね。「鯖魚人」https://twitter.com/iruka_hoshizora/status/1093475481549037573?s=20


虚空 あの生足は気味悪かった。

☆ウルトラマンの生みの親を交えての上原先生達対談 を読みながら 「教育の本質」へ迫る①

「子どもの目をT・V作家と子ども雑誌編集者と語る」の記事。広島大学リポジトリ 

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/45035/20180306135326102493/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_2_35.pdf

少しずつ読みながら語り合ってきたやりとりをブログアップ 

http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/369/   以降 してきましたが、一応今回で記事の最後までざっとふれることができました。

最初は 「人間の世界認識法」について再確認。これは最近話題になっている「英才児の観察力」ともつながる重要な部分です。

サバイバル生活を描いた今季アニメをもとに「数理思考」の問題もとりあげているのですが、これも上原先生が中学年では「論理思考の訓練」「感情やイメージと切り離す言葉の世界の修練」を盛んに強調されたことと深いつながりがあると思っています。
2019年 7月26日 諷虹宅
*児言態雑誌2号の テレビ番組等々があたえる「子どもの世界認識法」「意外性 と 意中性(的中性)」 に関する話題の続き

虚空 ストーリー4コマって複雑なコマ割はする必要ないわけだよね。

諷虹 ただ、描くスペースが限られているというのはありますね。あと、強調したい場面・・

虚空 そこは基本やっぱり起承転結なんだろうけど・・・
でもね、自分なんて子どもの頃の4コマはやっぱりサザエさんとかいじわるばあさんで、それぞれ独立。ストーリー漫画はいろんなコマ割りタイプ。
もちろん今だってそういうストーリー漫画は普通にあるけど、でも4コマ系の雑誌中心にみている人間からすると、物事の括り方が4コマの倍数っぽくはなるかもね。
長編小説を読まないで、ショートショート系のばかりとかもそうかもしれないけど。
映画だってかつては2時間半くらいの劇映画は普通だったけど、今の観客はもたないとか。
昔のソビエト映画なんて5~6時間のもざらだった・・・


諷虹 ガルパン最終章に慣れ過ぎたから、普通の映画でも長く感じるようになっちゃいましたね。天気の子なんかも・・・


虚空 劇場版ガルパンは普通に長かったけどね。(119分)
まあ、そういう自分も2クールアニメがすごく長くて充実していると感じるようになってきちゃっているからね。1クールのリズムの染まってしまってる。
鬼太郎とかは100話くらいやっていてもだいたい一話完結だからね。サザエさんとかちびまる子とかアンパンマンもそうだよね。
でもガンダムとかはストーリーが続くっていう感じじゃない。


諷虹 ・・・毎話毎話前をチェックしててみるわけじゃないですよね。長編小説を読むのもそうですけど、流れがつかめなくなる。


虚空 朝とか昼の連ドラなんていうのは一応毎日少しずつだから記憶に残りやすいだろうけどね。
以前、誰だったか・・・単発もので評判をとっていた脚本家が大河ドラマか連ドラか何かの脚本を担当した時に、話のリズムに慣れなくて大変だったとか・・・。


諷虹 パッケージがしっかりしていれば、途中でみたって大丈夫ですけどね。キルミーベイベーとかイカ娘とか・・・。久しぶりに途中をみてもついていける


虚空 それは単独4コマの延長のような感じだからだろうね。それでネタは一応完結しているような。昔だったらうる星やつら・・・


諷虹 最近のだと「ソウナンですか」ですよね。


虚空 それで思い出したんだけど、このところずっとことばと感情・イメージを切り捨てる話ばっかりしているじゃない。
サバイバルを生き抜けるかどうかもそれがポイントだよな、って。
概念として「タンパク質」とかを摂取できるもの、と思えるかどうか


諷虹 それにある意味じゃ一番「潔癖な生物」じゃないですか、女子高生って。


虚空 それでタイプの違う人間を配置しているでしょ。先が読めるといえば読めるんだけど、それこそ「的中性」と、それを上回る描写でみせているよね。


諷虹 まちカドまぞくも的中性のある作品ですよね。


虚空 だいたいさ、決まり文句でオチをつけるタイプはそうだよね。「これで勝ったと思うなよ」ってなるわけだから。
水戸黄門だってそうだよね。あれ、何回か「ひかえおろー」がなかったのがあったけどすごい違和感があったからね。あれだけみんなマンネリだと批判するからスタッフもそうじゃないのを作ってみたんだろうけど、不評だったようだし。

マンネリで先が読めるというので有名だったのが「大映ドラマ」って呼ばれていた作品群だけど・・・あれも「またかよ」とか「こんな偶然起こるわけない」ってこぼしながら、でもみんな観ていたわけだよ。自分は観ていなかったけど・・・・。


諷虹 今思ったんですが、この「マンネリ」には負のイメージ、マイナスイメージがありますよね。例えばですけど、アニメ版のひだまりスケッチとかはマンネリとは言わないじゃないですか。「お約束」・・・みんなが待ち望んでいる展開。
でも、マンネリはみんなが飽き飽きしている・・・何も得られないし、何も感じられない・・・そこまできてしまったら、何か変化を起こした方がいい状態
そもそもマンネリって何なんですかね・・・・

ネット検索
マンネリの意味
「マンネリ」は「マンネリズム(mannerism)」の略で「新鮮味や独創性がないこと」という意味の言葉です。
もともと「マンネリズム(mannerism)」は芸術の分野で使われていた言葉ですが、今日では一般に広い意味で使われます。
「退屈する」や「飽きる」というような意味で使われることも多いです。
例えば、付き合いはじめは楽しかったカップルが、時がたつにつれて新鮮味が失われ、退屈したり飽きたりしてくることを「マンネリ」と言います。
デートの時に相手から「マンネリだよね」などと言われた場合は、なにか別の新しいデートプランを模索する必要があるでしょう。
マンネリの語源はイタリア語の「maniera(マニエラ)」で「芸術家の手法」という意味の言葉です。
偉大な芸術家の手法を変化させることなく伝えていたことが、いつしか「新鮮味がない」を意味する「マンネリズム(mannerism)」になったようです。
虚空 上原先生の言っていた「保存と伝承は違う」にも通じるかもね。


諷虹 例えば、のんのんびよりで誰かが転校するなんていう展開は誰も望んでいないじゃないですか。それはただのぶち壊し。


虚空 ゆるゆり2期とか劇場版宇宙海賊だよね・・・いつも同じ例をだすけど


諷虹 新しいことをすればいいわけじゃない・・・かといってずっと同じでいいかどうかというそこのさじ加減。


虚空 ひだまりスケッチもね、最初は時系列無視で描いていたんだから、その路線でも良かったと思うんだよ。それがだんだん学年の一年間を追って、卒業とかになってきちゃったから、主要キャラを卒業で出せなくなった。ひだまり荘の家族イメージが崩れた。


諷虹 作る方は大変だと思うんですけどね。昔、らきすたっていう作品で、入学当初は敬語交じりの堅い文章でメールのやりとりをしていたのが、いつからこんな感じになったんだっけ・・・ってエピソードがあったんですけど。
そういう意味では時系列バラバラだとここで宮子がこう言うのは違和感あるか?とか一言一言に注意するようになるのかなって


虚空 それももっていきかた次第だよ。そこれこそ今週の高木さんみたいにすれば観ている側も混乱しないだろうしね。
それにしても2年生ということで高木さんのからかい方も凝ってきたよね。裏の裏の裏をかくような。
ただ、あれも裏側には「西方君が大好き」っていうのがみえみえだから微笑ましく見てられるんだよ。あれが本当に悪意をもって「西方をいじって楽しんでいる」だったら嫌な女の出てくる胸糞悪い話になって、自分なんて絶対みないから。嫌な過去を思い出すし。
実際に高木さんが最初に放送されるときに、観るかどうか迷っていたもん。嫌なアニメだったらどうしよう、って。

*再び2号対談の話に戻る
虚空 さっきの話は、やっぱり上原先生のこれだよね。

上原
 そうそう。たいへんおもしろいところだと思うな。私は浸画家の才能と言うのはテーマなり、内容的なものをどう配分するかというのではなく、新しい形式を見つけることだと思う。

さっき言った起承転結とはちがった、転々承々か何か知らないけれど、何か他のパターンを見つけることであり、そうしたときにこそ内容が盛り込めたというのだと思う。それを期待したいんです。

テンポが早くパンチがきくのを子どもが好むというのは、何かものの見方の一つの型をそこで習得したことだと僕は思っている。いままでストーリー性しかなかったのが、別の見方ができはじめたと考えたいんだ。だから、次の手がうてるのであれば、漫画やパンチのきいたものを与えるのも教育的に見て決してかまわないと思う。人間の新しいものの見方ということにおいてね………

 この雑誌を始めたのもそのような考え方があったからなのです。空間とか時間というんだって、これは人間がつかまえたわれわれの世界の構造を、時間空間というとらえ方をどこかで覚えてきたわけでしょう。

 だから、この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法を、われわれ新しい人間はつかまえていかなくてはならない。だから、もはや、物語内容にヒューマニズムがあるとか主題がどうであるかという問題は、陳腐でしかない。むしろ、それは、非教育的な内容しかないというようなこと問題でないと思う。もっとたいせっなものがあると思う。

 たとえば、子どもに修身の教科書の内容をどんどん入れれば子どもは、すばらしくなるかというと、決してなりはしない。それよりも、ものの見方という新しいパターンを創造していくことのほうが、新しい人間を作りあげる上でたいせつなのではないだろうか、今日は、聞かせ役ではなく聞き役のはずだった(笑)だから、お二人の試みを具体的に聞かせて下さい。

 たとえば、九時ちょうどに人間が殺されるというドラマがあるとする。あと十分ある。しかしテレビでは時間制約のために場面転換が行なわれている。そのようなときに、どんなテクニックを使うかが聞きたいのです。

 そのテクニックを示すということは、そのようなものの見方を指導していることと同じであると考えるのです。それが子どもの能力とかけ離れていれば、子どもはそこに不可解を感ずる。それは絶えず苦方していることでしょう。
諷虹 『この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法』っていう部分。
「四次元・多次元」ってメモしてあるんですけど、3次元から4次元にということなんですかね。

虚空 逆じゃないのかな・・・寸断するんだから次元が一つ下がる。それを再構築して元の次元に戻す。

スルメでイカを分析して、また元のイカにもどる、ような。


諷虹 寸断して次元が一つさがることで、逆に次元を一つあげる・・・微積の感覚なのかな・・・。微分がわかることで積分が分かる、というように。一つ下げることでも形がいろいろと変わるじゃないですか、定数項が消えるとか。不定積分のC・・・積分定数。何をいれてもいい

虚空 元の式の数値から解放される、っていうことね。


諷虹 ここは注目しなくてもいいんじゃないか・・・本質はここにあるということが見えるようになる・・・寸断することで構造がみえるから・・・次元があがる


虚空 「観察」っていうのがデッサンのたとえでいうと「ものを観る力のアップ」・・・「新たな発見があるということ」だよね。決めつけや思い込みから離脱できる。

そうした得られた新鮮な感動が新たな美を見いだすことや、作品を生み出す原動力。

英才児の「観察報告型」の作文と「イマジネーションどっぷり型」の作文は表裏一体関係なんだろうよね。だからあの3年教室の掲示物みたいに、同じ子が緻密な飛行機のイラストと生き生きした恐竜のイラストを描いていた。


諷虹 我々も戦車にどっぷりはまったり、馬にはまったり・・・そういう部分は似ているかな、って。

虚空 だからNanba先生も言っていたじゃない。駿煌会メンバーも英才児だね、って(笑)
だってコバルトブルー君にしたってヒマワリフクロウさんにしたって、アニメや数学とかの理系と結び付けての話はバンバンしてくるもんね。
*「サバイバルを生き抜く」・・・「感情・イメージ」をオン・オフする基礎としての「数理思考」

虚空 またさっきの話になるけど、生命の極限に追い詰められた状況でも、ものをいうのは抽象化能力だよね。下手に感情やイメージが豊かだったら生き抜けないよ。


諷虹 カエルを逃がす程度の余裕はある


虚空 本当に極限の空腹状態になったら食えるだろうけどね。
でもそれはやっぱり、感情やイメージと切り離せた状態になるから。
ただね、そうした極限で「人間としての理性」をテーマにしたのが市川崑監督が映画化もした「野火」。南方の島で食料がない極限に追い詰められた日本兵の残党が原住民をサルと称して食べる、食べないの話
以前、ここで聞いた「東京喰種」にもそういったやりとりがあったよね。


諷虹 あそこが一番面白いやりとりでしたね


虚空 ああいった部分も、生活感情と密接な数理思考だよ。
実際に「ソウナンですか」のサバイバル姉ちゃんのセリフはそういうのばっかりだろ。どう処理すれば飲料水とか食料になるのか。


諷虹 そこで「割り切る」っていうじゃないですか。小数点以下で割り切る場合を割り切るというか・・・整数では割り切れないで余りがでる。少数まで拡張すれば循環小数でないかぎり割り切れる。

あと、1/3と1/9(=1/3÷3)みたいに0.33333333・・・ってなるものを、0.11111111・・・って永遠に割り続けることができる状態・・・これも割り切ってるって言えるのかどうか。有理化した無理数も同じですね。割り続けることができる。

無限に続く小数、割り切れていない数ですが、永遠に割り続ける、っていうような機械的な作業に落とし込めているという点では割り切れているような気もしますが・・・


虚空 サバイバルで割り切る場合でも、どうしても感情にひきずられる時は「置き換え」を行うじゃない。

「〇〇の味のようだ」とかね。本当に割り切れていないけど、割り切れた気分にさせる。「カエルは鳥のささ身肉のようなもんだよ」とかね。実際に知らないで食べたら大抵の人はそう思うと思うよ。ワニのもも肉もそんな感じだった。もっともあれは何だかしらされずに食べさせられて「何だと思う?」って聞かれたんだけどね。そう聞いてくるからには普通の食材ではないんだろうって思って、当てたけど。向こうはビックリしていたよ。そういえば「イルカ」をご馳走になった時にも一口で当ててビックリされた。「食べたことあるんですか!?」って。初めてだったけどね。


諷虹 この前サイゼリアで食べたエスカルゴも「貝だよな」って。(諷虹・コバルトブルー・虚空の3人が初挑戦した時のこと)


虚空 そうだよ。それをなまじ「カタツムリ」とか「デンデンムシ」なんていう名前にこだわるから、余計な感情がまとわりつく。


諷虹 「認識している」仕方ですよね。食料として認識しているかどうか。家畜に名前をつけるかのような


虚空 銀の匙の豚丼ね。
一度話したことがあると思うけど、うちのじいちゃんが生きていた頃、みんなで焼き肉をやって・・・牛タンを食べたじいちゃんが「これうまいな」ってバクバク食べていたんだけど・・・「これ、何の肉だ?」っていった時にみんなが「牛だよ。うしのベロ」って言ったら、急に顔色かえて口から出してしまった。それでもう絶対食べなかった。
今思えば「ベロ」っていう言い方もまずかったんだろうね。


諷虹 そう考えると焼き肉の部位は食材として定着していますよね。


虚空 そうだね、焼肉屋で「心臓ください」とか「大腸ください」とか言ったらね・・・。なんだか「魔女」になった気分になっちゃう。

「テッポウ」なんて・・・これも食べたことはないけど、早い話が直腸だから、そうとう排泄物に近いものがつまっていたわけだけど・・・・
自分もタンとかはそれなりに納得していたけど、以前さばく前の豚のモツがビニールに入れられているのをもらったことがあるよ。そんな沢山じゃなかったけど、その中に、どうみてもこれは「ベロ」です、っていう状態のタンが入っていた。それこそ表面もそのままのザラザラ感で。ちゃんとさばいて薄切りにしたけど、ちょっと焼いて食べる時に、さすがに元の姿が頭にチラついた。

諷虹 鳥をバードじゃなく、チキンっていうのも・・・


虚空 人類は衰退しましたのチキン・・・加工済みチキン・・・あれがおぞましく感じたのは、切り離されたハズのイメージが不自然な姿でくっついちゃうからだよね。
バタリアン(ゾンビ映画の一種)の肉屋のシーンもそうだよね。おぞましいと感じる根元は何だったのか。

諷虹 理科室の人体模型が動き回るのもその一種ですよね。


虚空 中途半端だから余計に感情がくっついた時に不安定になるんだろうね。理科室の定番だって「人体模型」の方だろ。「骨格模型」はそれほど怖がらないよ。肝試しにつかった時にもね。
葬儀での火葬だって、入れる時にはみんな大泣きしていても、骨になってでてきたらまず泣いている人はみたことない。あれはまさに割り切れた状態。入れる時は眠っているようにも見えてしまうからね。
*対談記事に戻る
金城
 僕は、シナリオを書くとき、こんどは、どんなテーマでやろうかと思い、そして、素材を考え、だいたい、話を四つにわけて、個々のシーンを組みたてるのです。そして、コマ割りをしているのです。その場合、一つのシーンが続くとは限らず、場面を転換させ、同じ会話でも電車の中で銀座の町というように絶えず、画面を流していくのです。この辺に子どもの感覚とピタリくるものがあるように思います。


諷虹 これがよくわかるのはエヴァンゲリオンだと思うんですよね。エントリープラグ内とか、エヴァと使徒が戦ってる様子とか、心の中とか、指令室とか、戦闘シーンが次々と切り替わる。ガンダムなんかのロボットアニメでも操縦席と、外のロボット同士が向かい合ってるカットが何度も切り替わりますしね・・・ガルパンなんかも戦車の中と外を描いていたり、観客席の他校の人視点だったり。いろんな人の視点の重ねあわせみたいなのがある。

それがごった煮になった状態なのが、まどマギの魔女結界の中なのかな、って。


虚空 この前から話題にしている市川崑の犬神家の一族で、それに近いシーンがあったんだよね。違う時空が同時進行で重なり合っていく・・・それが当時は新鮮な手法だったわけだよ。

で、あの当時の中高生とか大学生だった世代で犬神家に刺激を受けて映像作家になった人が結構いたわけだけど、今話にでたエヴァの庵野監督もまどマギの新房監督も、どっちも市川崑の犬神家に影響を受けた人だからね。

市川崑っていうのは「映像の魔術師」なんていう異名もあったくらいで、いってみれば「時間とか空間」をデザインしていく、っていう感覚の映像作りを結構するんだよね。
それもさ、日本の古い伝統的な素材ほど生きた。ものすごく古臭いものが新鮮にみえた。
金田一映画の魅力の一つが、古い日本の風景をハッとするような新鮮な気持ちでみせたこと。
それは上原先生の
『上原 そう。子どもが喜べばいい………それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれればならない仕事だと思う。』

『上原 それなんですよ。だから、モンタージュというのは、いつも継続と切断をやっているわけだ。子どもは全く、切断、切断、ではわからない。かといって、継続、継続では退屈を感ずる。その継続と切断の新しい何かを、子どもが見つけつつあるというふうに思いたいなあ。』
にも通じているかもしれない。だから何十年もたった今でも受け継がれている。

黒澤明なんかもそうなんだろうね。


諷虹 ここに「郡司先生の江戸庶民の発想」っていうメモがあるんですけど・・・・

補足 しばしば虚空が引用している上原先生の師匠の一人である郡司正勝先生の言葉(郡司先生 遺稿集) 
P73  [江戸の発想]
 歌舞伎の作品を補綴(ほてい)したり演出しだしてから、もう十本ほどになる。
 私がどうも腑におちないのは、必ずといっていいほどに、劇評に、筋がよく分からないとか、テーマに明解を欠くとか、わかり難いという評が焦点になっていることである。・・・

 いったい、どうして江戸時代の庶民が創り出した大衆劇である歌舞伎が、今日の最高学府を出たインテリにわからないのであろうかということである。・・・こういうとき、私は、あなたは教養があり教育がありすぎて解らないのでしょうということにした。
 

 歌舞伎狂言の構成は、仕組むといって、いくつもの世界を、時代の違う世界を、同時に組み合わせて綯い交ぜ(ないまぜ)にして作劇する。江戸時代の奇才鶴屋南北などになると、四つも五つも世界を組み込んで「筋からみあって新しい」と評されるほどである。まァいってみればTVのチャンネルを何分かごとに切り替えて見るようなもので、これに有機的関連性をもたせ、最後には一つに纒(まと)まって決着がつくこうしたのを上々とする。
 
 こうした構造を芸術の基準としている、その構造が理解できなければ、おそらく絶対にわからないであろう。近代の学校教育は、西欧的理念と方法によったものだから、はなはだ合理的科学的で、そうした教育がすっかり身についているインテリにとって、こうした江戸の文化の構造や発想様式は、習いもしないし、生活にもないとすると、もう体質的に受け入れられなくなっているのである。日本人も、まったく西欧人なみの頭脳になっていて、すでに江戸人とは異質の人種になっているのではないか。

 江戸人の目は、いくつもの世界を、同時に一緒にみることの能力があった。トンボの眼のように、複眼的構造は、同時に、いくつもの事象をうつしとることができる。あるいは、それは封建時代に生きる者の生活の知恵であった。右か左かを分明しては生きてゆかれなかったこともあろう。なまじい教育のある者にとっては矛盾として受け入れられないものを、おもしろしとして、そこに見るべきものを見た世界構造。それが歌舞伎の構成であった。

 江戸歌舞伎は、テーマを四つも五つも一つの作品に盛り込み、鵜匠の手綱のように、その捌き方の技術を、ほれぼれと舞台で鑑賞するような、そんな生活基盤の美的基準がもうなくなってしまったのかと考えこまざるを得ない。

⇒虚空はこの江戸庶民の発想法を「多次元構造の同時進行」と呼んでいます。

虚空 それは上原先生のこの発言部分だね。
『上原
 うん。だからね。あれがだれが一番最初にやったか、僕は知らないけど、誰かが回想シーンとして、初めに持ってきたときには、たいへんびっくりしたんだと思う。ところが、人間というのは、あの形式で写されると、″ああ、あれは回想シーンだ″というふうに捉えることができてくる。やはり、映画芸術というのは、そういうものを見つけて行くのでなくてはいけない。特に、子どもに飽きられずにあたるというのは、それを見つけてゆくぺきだと思うのです。

金城
 このあいだ、スチーブ・マックイーンの’華麗なる賭け’という映画を見たのですが、画面が六つにわれ、別の空間で六人が、それぞれ違うことをしているのを一度に見せてしまうんです。それを年寄の人たちは、″いったいどうなっているんだ″とこそこそ話してる。その横で、お孫さんがついてね。中学生ぐらいかな。″あれはいま、一緒に同じ時間にああいうことが行なわれているんだ’と教えているんですよ。』
虚空 それこそ、まどマギあたりでも、この辺の展開の構造はややこしくなってきているじゃない。あとは化物語シリーズ。自分はオジサン世代だからなかなかついていけなくなっている。普通に回想シーンのカットバックくらいなら違和感はないけどね。


諷虹 あとは一つ前のここなんですけど・・・・
『上原
 あのね。こんどは、頭の中の場が動かなくてはいけない・・・頭の中の場が変わることがパンチになるんだと僕は思う。それが非常に変わってきているんではないかと思うんだけど、どう?』

虚空 このやりとりの頃はまだそれほど凝った映像表現っていうのはなかったからね。
劇場映画だったらシネマスコープとかで情報量の多い画面作りはできたけど、テレビはまだまだ画質も悪いし、画面比率も4:3だし、大画面テレビなんていうのもなかった。
今なんかでは通常のテレビ放送モノでも、相当凝った画面作りができるからね・・・この対談の頃には全く想定しなかった場面転換とかが行われているよね。


諷虹 普通にこれを読んで思ったのは「これも物理学っぽいよな」って。電磁誘導・・・磁場が動くことで電流が発生するとか、電流が発生することで磁場が動く・・・あれって電流が一定に流れている時は磁場は変化しない。

慣性の法則じゃないですけど・・・。さっきのマンネリ。
変化があるから連鎖反応で他の変動も起きる。その変動を起こさないように一定で流し続ける。止まっちゃっても変動は起きるわけですよね。


虚空 それは止まる時に、っていう意味でしょ。


諷虹 そうです、止まる瞬間に、ということです。地球の自転も、もし止まったらその止まる時が一番大変だろう、って。

それを「頭の中の場」としているところですよね。
演劇でも場面転換・・・・天気の子をみて思ったんですけど「真っ暗」なのを何度か入れていたじゃないですか。そこからパッと映像を切り替えるみたいな。
あれで、何か一区切りのモード切り替え


虚空 「暗転」とかいうお約束だよね。
歌舞伎なんていうのは演出テクニックでそれを貪欲に追求していた。だから西洋の演劇舞台とは全く違った舞台構造を考えたわけだよね。幕の使い方もそう。西洋の幕とは違った・・・時空を転換するための道具。単に一つの場面が終わりました・・・じゃないよ。一瞬で転換する。そこに「衣裳の早変わり」なんていうのも加えたから余計だね。
今でいう特撮を生の舞台でみせていたようなもの。だから日本では特撮モノも特化した。

よく映画と舞台の違いということで「時間の進み方」が言われる。ナマの舞台はリアルな時間での進行。でも江戸歌舞伎なんていうのは、それを現代の映像並みに自由自在にあやつろうとした。ゴーンと鐘の音がひびいたら数時間が経過とかね。さっきでた「お約束」だよ。

そのDNAじゃないの・・・最近流行りと言われている「2.5次元の舞台」って。西洋演劇は「額縁」って言われるけど、そういう感覚じゃない舞台作り。

歌舞伎をさらに遡って能からしてもね、ちょっと数メートル丸く歩いたら、それで諸国を旅したことにしちゃうしね。そんな感覚で舞台というのを考えていたから。決して人生のある部分を額縁で切り取ったかのような感覚ではなくてね。

時空のデザインということからいうと、黒澤明よりも市川崑の方がずっと思い切ったことをいろいろと試していたんじゃないのかな。

あとはね・・・ふだんの映画は割とオーソドックスな時間の流れて撮っていた野村芳太郎っていう監督の代表作「砂の器」なんかは、音楽会のシーンに様々な別の場面や回想シーンが複雑に織り込まれていた。


諷虹 落語だと、誰かのやりとりの合間に語りが入って、またポンととんでも違和感なくつながる。


虚空 今朝の番組で、まだ録画したものの冒頭だけしかみてないんだけど、NHKに山寺宏一さんが出ていたよ。一人何役ものアフレコをした話題とか。でもそのDNAにだって落語とかがあるかもね。


諷虹 少年漫画で時々あるんですけど、モニター室の場面。部屋の中で同時に他の場面をみることができる・・あれってテンションがあがる感覚。秘密基地でも、基地全体が見渡せる・・・脳のようなところ。そこにいればすべてが分かる。ワクワク感があります。
ボタン一つでギミックが発動するようなのもあって。


虚空 エヴァの描写にもあるよね。ゲンドウの背景にシンジの表情がモニタリングされているとか。00


諷虹 監視カメラの映像を同時にみるというのもやったことはないですが、面白いのかな、って。