忍者ブログ

☆上原先生の言葉「人間の感情構造」「英才児の 観察」 から教育全体を考える

駿煌会ラインの載せたことなのですが、カテゴリーは「教育」としました。
英才児に関する上原輝男先生の言葉ですが、実はこれは「教育全体」に対しての重要な示唆です。決して英才児に限った話ではないということを踏まえてお読みください。


2019.07.14 日曜日
朝 虚空
先日、メールで紹介された上原先生の言葉です。

(昭和62年)「人間の感情構造は、この世に生きるためにあるのではなくて、あの世との交信するために感情構造はあるのだ」
 
 

(昭和62年 福井六呂師温泉)英才児の1年生3人の作文をよんだ先生のことば、
「焚火」なり「遠足」なり「国語の時間」いずれにも共通することが見だされるような気がする、

(中略)自分の視界の中にそれが入ってくる、そのときに凡人と違うっていうことが出てくるっていうふうに思うんです。簡単に言うと長いんですね。目を止めてから目が離れるまでが長いってことですよ。焚火を見た、そうすると焚火から目が離れるまでが非常に長いんです。僅かな時間かもしれないけれど、僅かな時間の中に本当に克明にそれが見えるっていうわけですね。言ってみればね、これは結論を急ぎすぎてるかもわからないけど、個人性すらないんですよ現象を見てるんです。

一般的な言い方をしてしまえば観察してしまうんです。観察するから長いんです。(中略)もう1年生以前からこういう習性がついているからものを見るときには、こんな姿勢が出てくるんじゃないかなと思うんです。

 そうそう、きょろきょろなんてする必要がなくなってくる。物自体が変化する。変化にこちらの目がついていくだけですから。そういう意味でこちらの意識ではなく物自体についていく。個性個性というけれども、実は個性が捨てられているからっていうことになるのではないか。
 

・・・・彼らは決して人間関係を取り結ばないから、絶えず自分の世界にいる。



これらをふまえて別のところで書いた文の一部です。
金曜日にやりとりしたこととも関係が深そうなので、転載しておきます
::::::::::::::::::::::::::::::::
英才児にとって、通常の「作文」は科学者のような視点での「観察結果の報告文」というのが主眼なのだと・・・そこに個々人によって、をれらを踏まえての想いや感想やイメージを付け加える度合いの違いが加わるんだ・・・そんな風にきちんと位置付けて考えるとスッキリと整理できるのではないかと思いました。

イマジネーションの世界が大事、基本、人間のベース・・・それは私も全く異論はないことは再三申し上げているわけですが・・・どうしても「イマジネーションがすべて」という想いが強いと、「思考」とか「知識」が作文に入り込んでくると、イマジネーションの世界にブレーキをかけてしまうものという対立構造でとらえてしまう・・・でも上原先生の視点をきちんと踏まえて考えてみれば、やはり両者は全く対立などしないものだということがはっきりすると思うんです。

「夢か現実か」ではなくて「夢も現実も自由自在に入れ替える」そういった境地に高学年以降は・・・という先生の言葉も、「直線的」「平面的」に二つの世界を行ったり来たり自由に切り替えられるように、とつかまえてしまうと、やはり根本的には両者を対立概念としてとらえていることになってしまう。

でもそれを・・・・例えばこのところよくコバルトブルー君が卍マークの回転に例えているのですが・・・両者が同時に回転することで もつれあって (これも量子論の「量子もつれ」から取り入れている言葉です。「君の名は。」の紐がもつれあって時空が・・・というのとも関係ありそうです)ととらえると、どちらも表裏一体で発展していくもの、という構造がみえてきます。

昨年の英才児たちの作文でいえば、あのように「生命」や「宇宙の振幅」について自分がとらえている知識も含めて、自分が意識できていることを「観察」し「主観を交えないような構えで報告(記述)」できている。だからこそ、あの授業のような場では宇宙とも共振していけるようなイメージ運動が発動できる。

「どちらも自由にできた」ととらえるのか、「あの説明的な作文があのように書けたからこそ、イマジネーションも深まった」ととらえるのかは、英才児に限らず、教育全体のカリキュラムを考えていく上であいまいにしてはならないことだと感じています。

(それがやはり通常の教育現場では中学校や高校以降にこそものを言うのではないかと。Nanba先生が学会で発表されたことの裏付けにもなるではないかと)

この前も書きましたが、こうしたことは特に変わった視点でも何でもないと思うんです。

そこれそ自分の感性・自分の世界こそが生命である 芸術家の方々が、デッサンなどの訓練をカチッと行う・・・だからこそ独自の世界を生みだせる・・・それと全く変わらない。
でも国語だと何だか急に両者は相いれないもの同士とみてしまうのは奇妙なことです。

そんなことをふまえながら先ほど、別の英才児の子の作文をひっぱりだしたのですが・・・5才の時の作文でも、まさに上原先生の指摘された 観察 ということがはっきりと見てとれますね。

そんな視点で、あの中2のツボ作文なども読み返すと、また違った中学生の実像がみえてくるかもしれません。
PR

『日本と海外のズレ』『英語習得に先立つ感覚』『日常語で構えが変わる』 英国留学生の体験談

2018,12,28 4月から1年間の英国留学をしている社会人「英国紳士の武蔵」君(略称「英国紳士」)が一時帰国した際の虚空のやりとりです。
虚空 帰国のたびに毎回日本人と外国人のあたりまえのズレが話題になるじゃない
 
英国紳士 今思っているのはイギリスに十か月いて 最初は「何だこいつらは!」って頭にくることもあったけど、10か月たつと受け入れて気にしなくなってきています。
留学すぐの時はとにかく「言葉の壁」。「言葉になれる」ばかりで夢中だったのがある程度慣れてきたら「文化の壁」が気になるようになって・・・これが本当に大変でした。今はだいぶ慣れましたけど。

で、イギリスに慣れた状態で日本を考えると、日本って本当に変わっている国だと思います、正直夏休みをつかってルームメイトだった連中に案内してもらってイギリス以外にもフランスとペルーとメキシコにいったんですけど、大きな誤差ってなかったんですよ。もちろんイギリスと違う点もありましたが。
でも日本は真逆というか普通じゃないというか・・・いい意味でおかしな国。そういう国民が海外にいったら大変だと思います。
感覚的にヨーロッパ系に慣れていたんですね。だから日本に戻ってきて、ここ数日知り合いたちとも集まったりしているんですけど、ちょっと約束の連絡をとりあうだけでも「ものすごく気を使う」。こんなに大変なことを日本にいたときにはやってたんだ、って。外人さんって日本にきたら気を使うことにとまどうんだな、ってホントそう思います。
 
虚空 日本は昔から気配りの文化、だからね。今はそうでもないけど・・・。
 
英国紳士 だからそんなにしなくてもいいのに、って困っちゃう。むこうには「お客様」っていう感覚がないので・・・。

せっかく向こうのガサツな文化に慣れてきたのに、また日本に戻ってくると相手の細かいところなんかを気にする自分に逆戻りしてしまう・・・。
これって料理にもすべてに反映していると思うんですよ。だから向こうに戻る前にはバカ舌に戻してから戻ろうと・・・ファストフードとか食べて。繊細な料理なんかに慣れてしまったら大変なんで。
前回は変に気をつかって良かれと思ってやったことが裏目にでる話ばかりしたじゃないですか(遊ぶ約束をしても平気で無断キャンセルをする。帰国する友人を空港に見送りに行った時にお別れのプレゼントとして花束を渡そうとしたら「こんなのどうしろっていうの?持っていけっていうの?邪魔な荷物になるだけ」というようなことを露骨に言われて受け取ってもらえなかった 等々のエピソード)
こっちは今後も仲良くしたいからそんなに怒った態度をとらないで我慢したんですけど・・・自分が我慢することでその場の雰囲気を壊さないでみんなが楽しくなればいいなと・・・でもそれが海外はないんですよ。嫌なことをする立場もされる立場も、友達同士だったら謝れば翌日はすぐにOKOkって。
だからそういう風に「怒るなら怒る」とかストレートな態度をとるようにしたんです。
向こうは言葉や態度に裏側がない・・・日本人の心って見えない裏がある・・・。海外はそれがない。単純。日本語もそうですよね、言ったままの意味じゃないことが多いじゃないですか。いろんなことを考慮して察しながら話さないと会話にならないじゃないですか。文法だけ正しければいいかというと通用しない。
主語の省略とか語尾の一文字二文字でいろいろ変わるから。
でも、それは楽しいですよね。英語だと単語だけだけで済んでしまう。
さっきの「文化の壁」っていうのも日本語を話す時の極端な「気配りと丁寧さ」が「日本は普通じゃない」の主たる原因なんだなって。
文化を勉強すれば語学も身につくっていうのが体感としてわかってきました。
これだけはいえるのは、自分が接した範囲ですが、自分の接したいろんな国の人たちはイギリス寄りだと思います。
駅員さんに道をきいたら忙しいからダメと言われたけど、あとでみたら駅員さんは誰かと雑談してた。決して忙しくないのに。
夏の時のトラブルも腹たったけど・・・でも向こうではそれがあたりまえだったんだなって。
 
でも逆に海外だとその分仲間とか身内とか知り合いにはかなり手厚いです。日本は知らないお客さんの方が大事するような気がします。全然態度がかわりますからね。
 
虚空 人にもよるけど、他人にいい顔をして、という部分はある。骨肉の争いとかもね。
境界領域っていう線引き。その変化が起きたんだと思うのね。文化を受け入れるっていうのは。今はイギリスモードの方が「内」で日本の方が「外」ってなっているんでしょう。
 
英国紳士 日本が基準だなって思っていたら世界のどこへいったって変だ変だということになっちゃうと思いますよ。
 
虚空 幼児期から英語教育をしたら国際人だなんて本当に幻想。境界領域の柔軟性を幼児期とか学童期にはみっちりとやった方がよっぽど国際教育だよ。
 
英国紳士 イギリスいってだいぶ変わることができた、っていいながらも「人」ってやっぱり大きくは変わらないなって。他人との違いを受け入れる点で。具体的にいうと、海外で暮らしていて自分って変れただろうとか思っていたんですけど、例えば友達と約束して・・・結構自分ってつまらないプライドにこだわってしまうことがあったじゃないですか・・・肝腎なところはあまり変わらないな、って。
 
虚空 表面的には随分変わったと思うことに対しても、奥底ではそんなでもないかな、っていうこと?
 
英国紳士 そうですね。もちろん変わっているんでしょうけど、180度変わることってないんじゃないですか・・・そんなことないですよね。
 
虚空 それが起こり得るのが「憑依感覚」・・・よそからの魂がのり移ってきた・・・だから別人のごとく変わったと周囲が感じる。アニメで別人格に入れ替わるとか、そういう思春期の心の病をテーマにしたのが放送中なんだよ。(略称「青ぶた」ブログ記事でのアニメ感想を参照してください)今度最終回なんだけど・・・
それを魂の憑依なんていうとね、怪しい宗教みたいな話になって、教育の世界に持ち込みにくいわけだ。それを魂抜きにすると「世界定め」っていう考え方。「時間・空間・人間」の軸の設定の仕方が変われば自分にとっての現実世界か変わる・・・イギリスにいってまさにそれが起きたわけだよ。
 
英国紳士 それは良かったことですよね。いつも「自分が自分が」って言ってたじゃないですか。俳優に対しての執着がなくなってきたのも大きいと思います。自分の将来設計を深刻に重く考えていたのが・・・・それが一番大きいと思います。
 
虚空 それが「自分の常識からの解放」・・・信念っていうのは一つ間違えるとがんじがらめに自分で自分を縛ってしまうことになる。だから定期的手にそれを手放す・・・神話の禊の話なんてそれだったわけだよ。
 
英国紳士 そういうのをこれまでも話してきたじゃないですか。でも全然できていなかった。それが海外にいってかわった。知識としてわかっていても
 
虚空 他からの勧めじゃダメっていうことだよね
 
英国紳士 諦めたわけじゃないですけど、気が楽になっているんです。その方がいい方向に転びそうな予感がします。俺一人で何とかしてやる、っていうのがありましたけど、・・・・武蔵のように「俺の力で進んでいく」って。でもいい意味で 他力本願のようなところがだいぶ出てきましたね。
 
 
 
 
 

諷虹・虚空 児言態50周年 振り返り③(2018年10月30日)

『研究協議 シンポジウム』の内容から

諷虹 円卓でのやりとり(研究協議会)の時にも自分のメモした事がいろいろあるんですけど・・・・
「自分が読むのではなく書いたものを人に読んでもらうことを聴くことで世界が広がる」
「AIがキーワード」
「古代から伝承されているもの。同じ時代を生きる一人一人の共振・共鳴」
ここにね、君の名はPVってメモしてありますが、これは「前前前世」のことですね。この「前前前世」のPVって観たことありますか?歌っている人たちの。
虚空 ない
(動画検索 https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E5%89%8D%E5%89%8D%E5%89%8D%E4%B8%96+PV&ei=UTF-8&fr=mozff
諷虹 江戸にタイムスリプして、そこからさらに遡って・・・
虚空 心意伝承でも宮崎駿監督でも、こういううんと昔からの心のDNAなんていうような言い方をするからね。
諷虹 君の名はの本編は数年のタイムラグが結ばれるという感じですが、これは縄文時代の頃からのとかいう縦に長いつながりということで・・・それがAIのキーワードのところで出てきた蓄積とつながるんでしょうけど・・・
(さらにメモ書き)
「拡散していく方向でもアリだった。添加の連続で。」・・・一つにまとめていくんではなくてどんどん広げていく。
あと、イメージを語るっていう時に・・・これ誰かに話した気がするんですが・・・難波先生にだったかな・・・
イメージを語る時って、やっぱり「自分の中で却下するもの」ってあるじゃないですか。「これは理解されないだろうな」と思って言わないのとか選んでしまう。
虚空 他人に思われるか以前に自分の変な常識で切り捨てるっていうこともあるな。こんな発想が浮かんでしまって戸惑うとか、こんな発想が出てきた自部を認めない、許せないなんていうのも。石崎小なんかではよくあったよ。夢中になって書いたはいいけど、書き終えて夢から覚めたような気分で読み返したらとんでもないことを書いていて「先生、これ捨てていいですか」なんていうのも。特に真面目タイプできた女の子。
大丈夫、どんなことが書いてあったって、それであなたが変な子だなんて絶対思わないから、ってそのまま提出してもらっていたけどね。
諷虹 やっぱり「これなら共感されるだろう」って思えるものを出すから、本当にイメージを語る、って一言でいっても本当に深層心理、無意識から出てくるものと、意識世界にまでのぼってきたけど出さないもの・・・人前に出せるものそして出せるものだけが「イメージ」っていうことになるのかな、って。
で、それって現実に意識があるからそういう風にちょっと遠慮してというものになるけど、本当に、ここに「中2病」ってメモしてあるんですけど、自分のイメージを理解されなくてもいいから前面に出してしまうのが中2病の時期というか・・・そういう意味で中2病の時期は夢世界で・・・。
でも普通の人が語ってくれているイメージ世界っていうのはそういう「人に配慮した現実」なんじゃないかって。
クリエーターなんていうのもそういう傾向が強い人もいるんじゃないかって。観る側を意識して。
でも他の人に理解してもらえるかどうかっていうのは「共振・共鳴」なのかな、って。
他の人にも共感してもらってさらにイメージをふくらませて行きたい、っていう意味もあって膨らませていく・・・やっぱり他の人も響いてくれないと出す意味がないからどうしてもイメージを語る時ってそういうブレーキがかかってしまうと思うんですよね。
虚空 クリエーターなんていう仕事でなくても、それこそ子ども達にとっては絵や作文なんてそうだよね。自由にやっていいと言われても、正直にかいていいと言われても、だいたい周囲の大人には、そういったものほど否定されることが多いから。
教師になった頃、初発の感想をノートに書いてもらっていたんだけど、正直に書いてくれた子がある日半べそで登校してきて・・・お母さんにノートをみられてものすごく怒られたって。で、連絡帳を先生に見せなさいって言われた、って差し出されたんだけど・・・「こんな内容の感想を書いてしまってもうしわけありません。消させて書き直させたので、もう一度読んでください」なんていうことが書いてあったよ。
それ以来感想文でもイメージ作文や本音作文なんていうのは原稿用紙に書いてもらって、返却もしなかった。「思い出深い文章だからあの作文は返して」という要望が出たものはコピーをとって返す、っていうことにしていたけど、ほとんど要望はなかったね。
やっぱり子どもにとっては、夢中になって本音に近いものが出た作文ほど、恥ずかしくてとても後で読み直せない。あとは子供にとってはもうそれは過ぎた事、っていうのもあったのかもしれない。
全部の作文はとっておいてあるから、大人になって久しぶりに会いにきてくれた時なんか引っ張り出して見せることあるけど、まあビックリしているよ。こんなことを書いていたんだ、って。夢中になって書いたものほど、現実意識のところにひっかかっていないからそんなイメージ世界をもっていたことすら忘れているんだろうね。

子どもにしてみれば幼い時には夢中になって好き勝手にできていたことが、ある時期になると周囲に笑われたり、馬鹿にされたり、叱られたり、ドン引きされたり・・・そんなことで「思い通りにかいたりするのはいけない事なんだ」と思うようになってしまう。

それがひどくなると、本当の自分はおとなが認めてくれないようなものなんだ、っていう自己否定の心がどんどん強くなってきてしまう。
いい子を演じ続けている子なんてまさにそれだよね。だからある限界を超えてしまうと心が折れてしまう。
もちろん他人を意識することが必要な場合だってあるわけだけれどね。演出的な要素がからむ時なんて。教師だってそうだよ。興味を持ってもらえるように工夫して授業をするのは一種の演出だもの。そういうことからいえば普通の人間関係だって大なり小なり「演出」意識はからんでくる。迎合しすぎたり、受けるためなら何でもありという現代のSNSの風潮は行き過ぎだけどさ。
そんなバランスをうまく統合しようという方向・・・それこそ「超現実」に向けての構えだよね。
諷虹 須貝先生の話も分かりやすかった・・・なんて「分かった」なんていうのもあれですけど・・・・
虚空 個人的には「パラレル」のことは突っ込んで聞いてみたいとずっと思っているんだけどね。ここぜも随分前から使っていた言葉だろ。
(児言態や人間意識の図式化の話  )
虚空 何とかして立体モデル化できないか、っていうのはかなり前から児言態でも出てた。平成元年の頃の「あの子にこの子」で同心円図を使った時にも上原先生が「将来もっとコンピューターが普及したら、きっとこれも立体的に描いて、自分がどこに位置付けられるのかが表示できるようになると思う」なんて言っていたけど。もうそういった時代だよね。3Dアニメなんかのモデリングソフトを使えばできるはずだもの。
諷虹 (資料の図の向きをかえながら)こういう風にみると違った解釈もできますからね。
虚空 それもマウスで自由自在に画面上動かせるじゃない。単に平面的にグルグルまわすだけじゃなくて、裏からみたり斜めからみたり・・・
そうすると、さらにまたそれが刺激になって新たなイメージ運動が次々に起きるんだよね。こうみたらこうだけど、こうしたら今度はこうなって・・・って言う具合に。それだけで違ったものがみえてくる。
諷虹 ずっと以前からよく描いている意識世界の図って無意識が広がっているから下に広がった図なんですか?(虚空が小学生相手の授業の頃から用いていた通称「氷山図」のこと。今年の夏合宿で児言態の図として形が使われた時には 通称「きのこ図」)
虚空 昔読んだ潜在意識の本に「氷山」ってたとえていたからそう呼んでいたけど、本当は島って考えて方がいいのかもしれないんだよ。海水をとっぱらえばバラバラにみえる島も見えないところで全部つながっている、って。

ただ、この前も児言態で話にでていたらしいんだけど、無意識世界を地球っていうようなものにたとえてしまうと、閉じられた世界、有限な世界っていうイメージを持たれてしまう危険がある、って。それこそ無意識の奥深いところほど、ユングも言っていたようだけど、広大な宇宙意識のようなものともつながっている・・・だから宇宙との共振・共鳴が起こり得るって。それが今回の授業テーマだったんだから、まさに人間にとっての究極を50周年にして掲げての授業が行われたっていうことだよ。
諷虹 (向きをかえて)こうすると宇宙全体ともつながっているように見えませんか?
虚空 それがまさにあの「重ね合わせた壺」のイメージだよね。火山の大爆発の構造もそれだろう、なんていっていた。砂時計の形にも通じていて、両側が閉じていないって考えれば無限の過去と無限の未来が「今この瞬間に統合されている」という象徴になるだろう・・・とか、いろいろな発想が出てきたじゃない。

それであの時に(諷虹が)描いていたじゃない。上の方の広大なものと下の方の広大なもの、っていう絵。
夏の時点では「螺旋図」として描いていたけどさ。



あれもあれでちゃんと描けば抽象化である線だけだから、逆にイメージを限定しないでいろいろなことと繋げられ得る・・・類化性能が発動するスイッチになりうるんじゃないかっていうことでの提案だったわけだけどね。
あの時に自分が描いていた授業のイメージは「図式を用いることでの類化性能 イメージのさらなる広がり」っていうようなことだったから。
でも、今回みたいな「共振・共鳴」っていうこと点に刺激を与えるようなものもあってもいいと思うんだよ。
地下水脈が宇宙全体の広がりに響き合っている・・・そんなイラストも描けるといいんだけどね。
崖の上のポニョでのイメージボードだったかな・・・そこにも似たような発想だと思ったのがあったから葛西先生にも送ったことがあるんだけど。


諷虹 この氷山図というかキノコ図の難点は、どうしても下の方にしか無意識がない、って思われてしまう危険があるかな、って。
今回の授業って、切り込み方によって本当にいろんな方向に話が広げていける内容のオンパレードだったわけだよ。それだけの事を次々と子ども達が出してくれていたから授業をする側にとっては嬉しい悲鳴ってなるね。そりゃ大変だったと思うよ。

諷虹・虚空 児言態50周年 振り返り②(2018年10月30日)

『生態研究としての授業 ~様々な意見の重ね合わせからみえてくるもの~』

重ね合わせ」というのは駿煌会の中での大事なキーワードです。量子論や原子構造なんかの入門者には大抵出てくる「存在確率」で、一つ一つではランダムなバラバラの点にみえるものが、重ね合わせていくと濃淡という形で全体の構造が見えてくる、というものです。
上原輝男氏が(生態研究としての)授業とは「個々のナマの意見をどんどん出してもらって、それを交通整理すればいいだけなんだ。それで各自が自分の今を位置付けられれば、勝手に次の段階に進んでいける」・・・このことを諷虹君などは「余白」という言葉で盛んにこだわっています。
いろいろな教室でよくみられることに、いわゆる「勉強が出来る子」として教師が期待する回答をしてくれる子ばかりが活躍している授業、他の児童は「どうせ言ってもとりあげてもらえない」「授業の邪魔をするだけ」というのがありますが、昨年諷虹君と参観した3年生・5年生・6年生での数学の授業ではそういう雰囲気が皆無でした。教師自身が粘り強く意見を聞き届けようとしてくれていすり、他の児童も異なる考えや、数学的には間違った解答に対してでも見下すような姿勢が感じられませんでした。
「英才小学校の授業」というとガチガチの進学塾のような雰囲気、なんて勝手に想像している方々もいらっしゃると思いますが、とっても人間的でした。
そうした参観の経験が二人の背景にあるということでお読みください。

虚空 今回の子供らの様子をみて素朴に思ったのはね、最後の数分間にAIだの何だのって盛んに言い出したじゃない。で、授業後の感想を聞いたらお昼抜きでもいい、とかこのまま夜中までやっててもいい、とかさ・・・。
でね、研究授業じゃなかったとしたらさ「この中で最近のアニメをよく観る人いる?」なんて聞いたらさ、中にはここでくっちゃべっているようなことをポンポン出してくるやつだってきっといたと思うんだよ。
あとで葛西先生に聞いて惜しかったな、と思ったんだけど、あの一番前の女の子・・・あの子が「次元」について作文を書いていた子なんだって。「n次元」なんていう言葉を使って書いていた子。
それが今回その子は「神の道が・・・」っていう文を書いていた。馬の絵から。いやー、惜しかった。それを知っていたら授業中は無理だったにしても、終わったあとにとなりの部屋でインタビューしたかったね。
4次元というくらいだったらドラえもんとかの知識で使う子は結構いるけどさ、n次元なんていう一般化した言い方を使いこなしてるなんてね。
でもね、ああいったAIがどうのこうのだって現代の知識だよね。でもそれを一人の男の子が口にしてさ、それに対して他の子が次々と反応したわけじゃない。そういう連鎖反応がパパって起きる。去年の数学もそうだよね。
あれが「知識や論理が今まで未開発だったイメージ運動に火をつける」・・・それが聖徳の子たちは特に意識させるようなことをしなくてもバンバンできてしまう。英才児と言われるような子でなくたって、ちょっとそういうのを分ける必要はないんだよ、っていうことに気づいてもらうような授業なんかをすれば、自然にできるようになるよ。・・・っていうことを考えて言い続けてきたし、それを今回の雑誌の原稿にも書いたわけだよ。
諷虹 AIの事ですけど、それを最初に言いだした子はそれなりにパソコンにも精通している子なのかな、って。でも他の子は自分の感覚に正直というか・・・。もしこれが大人だったら専門家が言っていると自分はそれに対してはもう口出ししない。
虚空 それはこの前にもくっちゃべって「素人ならではの自由な発想 縛りのない発想」だよね。地元の事情に精通した氏神様だけではなく、事情を知らない外部からやってきたまれびと(来訪神)とどちらも大事という、あれ。
諷虹 一人一人の専門性が溶け合って世界が広がっていく、っていうことなんですよね。
虚空 須貝先生が互い同士の緊張感を伴うような関係から新たなことが生まれてくるということを盛んに強調されているし、難波先生から紹介のあったU字理論でも、そういったことがあるんだと思うのね。自分の殻を打ち破って想定外の自分と出会う。あるいはこの前から(諷虹君がこだわっている)余白と言っている部分に目を向ける・・・「添加」っていうことだって、自分が意識していなかったことや受け入れを拒否していたことを受け止めることで世界が転換していくということだしね。
それだって「想定外」とは言っていても、それは今までの自分の意識では想定していなかったというだけで、本当は自分の無意識世界に内在していたわけだけどね。ないものは出てこないんだから。ただ、どうしても人間は意識で自分を縛ってしまうから、素直に感情やイメージ運動の流れるままに、というので出てくるものだけに限定していると、結果としては非常に狭い意識世界でしか人生を送れないということになる危険があるわけだよ。
(18号・19号に書いたことに込めた想いをしばらくあれこれと語る)
(懇親会で難波先生とのやりとりについてあれこれと語る)
諷虹 (児童が絵を選んだ基準に色のあるなしの問題があったと思う、という話)
虚空 今の話なんだけどさ、もうちょっと上の段階になると色の少ないのを進んで選ぶような玄人っぽいのが出てくるかもしれない。水墨画のような世界だよね。色数が少ないからこそ無限の色が感じられるっていう。今季の「色づく世界」(主人公の女性は色が感じられなくなっている)でも夜景の写真を撮る場面があったじゃないか。モノクロで撮ると、って写真部員に勧められる場面。色のない世界になってしまったから感情も動かなくなってしまった、とマイナスの要因ばかりをあの子は気にするようになってしまっているけど、実際にモノクロ写真っていうジャンルはあるわけだよね。
諷虹 モノクロ映画も
虚空 そう。で、日本映画の全盛期に作られたモノクロ映画なんてすごいもん。心理描写が画面からガンガンくるのはモノクロ映画。だから市川崑なんてカラー映画の時代になっても「銀のこし」っていう手法でモノクロっぽいのを撮ってるよ。「おとうと」とか水谷豊主演の「幸福」だったかな。色の鮮やかさが邪魔になるって。この前の会で中川さんが実践発表した水墨画だって見かけ上は色がない世界だったわけだよ。
今回の指導案で「景色」っていうことにもふられているけど、その景色っていうのだって人間はどうつかまえて、イメージの世界を持っていくのか。
だからあのアニメでも「色を失っているから自分はダメだ」じゃなくて「色を失っているからこそ見えてくる世界がある」っていうトランスフォーメーション。
諷虹 難波先生と話していた時に駿煌会っていうことから、コバルトさんが「駿」=「旬」というキーワードを出していたんで・・・難波先生のお話で中高生になってくるとどうしても題材が難しくなってきてイマジネーションの転換が起きにくいっていう話が出ましたけど、そこの中高生とか大人になっても惹きつけられるのは「旬な話題」とか、自分の中のマイブームのようなこと。エネルギー密度が高いのは興味関心があるものなのかな、って。
虚空 そういったいろんな話、ちゃんと思い出して記録しておいて・・・何もしないとただの酔っぱらいのおしゃべりとして消えていってしまうから。もったいないよ。
(宿泊したビジネスホテルでテレビをつけてみたらちょうどもののけ姫の放送が始まった瞬間だった という話題。両極端なことが錯綜する世界、どうしたら共存共栄できるのかというのがテーマになっているアニメがちょうどピッタリはじまったというのは、何かあちらの方々からのメッセージがあったのかも、という話)
(児童の後半の発言についての確認後)
諷虹 無秩序っていうか流体的というか、混沌・カオス・・・・難波先生のイマジネーションの話が非常に面白かったんですけど、「非常に今回の授業は謎だったでしょ」って。無茶苦茶なこともいっぱいあるけど、でもそれでいろいろなものが生まれる、って。それ聞きながら京都の理路整然とした街並みって保守的な思想というか伝統を重んじるということにつながるのかな、って思っていたんですよね。
虚空 そうなるとね、上原先生が「型」とか「構造」とか「様式」「儀礼」にこだわり続けて・・・それこそあの舞妓さん芸妓さんの・・・あの時のお茶屋のおかみさんが言っていた「型というのは縛りではない」っていうのとつながるんだと思う。
(中略)
諷虹 あの授業での家出の話も面白かったですよね。(中略)馬の絵から家出の話がでたんですよね? 馬が行先はっきりしているのに対して、自分は行先がはっきりしていないとう対比であれが出たのかな、とかね。でもその馬が歩いているところも「道なき道」っていうのもなかなか深いところなのかな、とかね。
あとは「馬の絵で世界をつくりだした人が多い、って・・・物語文を書いたというか、オリジナルストーリー。
夕日はどっちかっていうと写実的というか、帰る人がいるんだろう、とか「現実モード」と「夢モード」がうまく分かれていたのかな、とかね。
身近なモチーフだとああいった日常的なものが出やすくて、ああいう神秘的な世界のだと夢世界にひきずりこまれるのかな、とか・・・「写真だから現実」っていう発言も面白かったからメモっているんですが。馬の方が現実なのか写真だから現実なのか・・・
虚空 写真は現実を撮ったもの、っていう先入観だよね。でも写真だってそこには作者の意図が入っているとか・・・そのあたりのせめぎ合いの話になっていたじゃない。

諷虹・虚空 児言態50周年 振り返り①(2018年10月30日)

印象が薄れないうちにやりたいという電話があって急きょ二人での会合です。
本当の会話では駿煌会メンバーのことも実名で話していますが、ニックネームにかえています。
これだけ読んで分かりにくい・飛躍しすぎていると思われる部分のやりとりには修整・追記しています。
全部読んで頂きたいのは山々ですが、それはとても大変だと思うので、特に強調しておきたい部分は色を別にしています。

『指導案 単元設定をふりかえって』

虚空 単元設定の理由ってどこの部分の事なんですか?っていう電話がコバルト君からあったんだけど・・・考えてみたらコバルト君とかは指導案なるものを見たことがないわけだからね。それからこれはヒマワリさんもそうだけど、一般的に普通の学校の先生が単元設定の理由をどの程度書いているのかも知らない。
(諷虹は)中学校の数学とはいえ教育実習で指導案を書いているから分かると思うけど、これは破格の長さだよね。
諷虹 だいたいこの児童観くらいじゃないですかね、全部合わせても。
虚空 そこまで書いてあれば相当丁寧だよ。それに内容にしたってもっと一般論だよね。だいたい自分の教育実習の時にもそうだったし、教師になってからも指導主事が来る時に書く指導案なんか「そんなの単元設定なんてどうでもいいんだよ。どうせそんなところは読まないんだから。(教師用)指導書を丸写ししな」って言われたもんね。
上原先生なんて大学の講義でも児言態でも「授業のやり方をどうしよう、なんて考える前に、先ず単元設定の理由をきちんと書く。ここに教育者としての実力が一番出てしまうんだから。・・・ここがきちんと書ければ、授業のやり方は自ずから整ってくるし、指導案通りに授業がいかなくなっても、ちゃんと指導すべきことはできるから」って何度も言われたもん。
まあ日本中探してもなかなかないんじゃない。こんなに詳しいのは。だいたい児言態のこれまでの指導案と比べたって数倍長い。
諷虹 とりあえず今の段階では教材観の最初くらいのところまでのことで書いてみたんですけど・・・(下書き提示 数学やアニメからの切り込み方で書いている)
虚空 こういう方向でいいよ。そういったそれぞれ独自の切り込み方がはっきりと出た方が・・・。そしてそれを最後に重ね合わせていった時に浮かび上がってくるもの・・・児言態の生態研究としての授業の仕組みと同じだよ。
こうやってアニメとか数学とか、あるいは今まで全く違う話題から考えてきたことが、今回の指導案や授業の内容とつなげられる、置き換えられる・・・そういう力こそが大事だと思うもん。類化性能だよ。あるいは数学ガールでいう違う世界に橋渡しをどんどんして「おおらかな同一視をする」っていう感覚。
こういう発想がとれていくプロセスを、駿煌会のサイトにもどんどん載せた方がいいのかな、って思う。
<あれだけ悲観的に考えたら科学を発展させようという意識もそがれるのではないかとも思います。>
虚空 このあたりなんて、前にも話した同じ手塚治虫原作のアニメでも「鉄腕アトム」と「ミクロイドS」の主題歌の発想が真逆になっていることにも通じるよね。
<”振幅”というとどうしても交流電流の波長、音の波長がイメージとして出てきてしまうのですが、この教材観を読むにプラスとマイナス・ハッピーエンドとバッドエンド・黄泉の国のイザナミとイザナギみたいなものでしょうか?>
虚空 ここだって、普通の感覚からいったらすごい飛躍だと感じるんだろうね。自分らは自然科学と神話を結び付けてなんていうやりとりはずっとしてきているから何の違和感も感じなくなってきているけどさ。物理学的な話が書いてあるかと思ったら、いきなり黄泉の国とかイザナギとか・・・
これがやっぱり大きな別々の世界をつなぐ架け橋になっての発想でしょ。
今回の授業の大きなテーマとして自分は「類化性能」ということに重点を置いていたの。
諷虹 やっぱこれも「振幅」
虚空 (様々なことを取り上げ結び付けている文章)面白いよ!
それでまた他の二人は二人できっと全く違う切り込み方や結び付け方をしてくるから。
(中略)
虚空 上原先生が生きていた頃だったら、授業のあとの研究協議ではまず単元設定からみての検証から入っていったんだよね。まあ今回は一般の参観者があれだけ大勢いたから、単元設定の吟味よりも授業の展開の方に話の力点がいってしまったのは仕方ない部分があるんだけどさ。
でもやっぱりそれだけでは児言態としての肝腎な部分が印象に残らないかな、って思って、ちょっと強引にしゃしゃり出てしまったんだけど、本莊さんに心意伝承の観点から発言して頂こうと提案したりしたわけだよ。
一般の人たちにはなかなか分かってもらえないかもしれない・・・思考やイメージや構えがどう関連しているか、なんていっても、そもそも「構えって何?」とか「思考とイメージや感情は別物じゃない?」っていうのが普通の感覚だしね。
でもすぐに分ってもらえなくても、児言態の考える教育は「心意伝承」という・・・・さらに一般にはなかなか分かってもらえない分野だけど・・・そいうことがベースにあって授業が設定されているんだ、っていう事は何が何でも印象付けたかったんだよ。「何だかよく分からないけど・・・でもそうなのね」でいいから。
時間がなかったからそれはできなかったけど、本当は時間がたっぷりとあったら、本莊さんの心意伝承の切り口ともう一つ、ということで(諷虹君も)指名して話してもらおう、っても思っていたんだもん。
っていうのはね、今回の葛西先生の指導案「思考」というのと「感情」という言葉が授業テーマに並んでいるんだよ。
でね、そういう視点っていうのはさ、自分(虚空)以上に(諷虹)はずっと今までしゃべってきているじゃない。アニメの話をする時だって、大学で習うような高等数学の事とどんどん結びつけてさ。
で、それが今回の授業では聖徳の子ども達にも出てきたわけだよ。マアこれ以上自分がベラベラ考えを言うと、自由に考察ができなくなるだろうからやめておくけどね。でも英才児は「思考と感情とイメージ」が統合された世界に生きている・・・これは去年数学の授業でもそうだったじゃない。
英才児ほどでなくたってそういう傾向が強かったクラスも何度か担任しているよ。
        
  • 1
  • 2
  • 3