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☆上原先生の言葉「人間の感情構造」「英才児の 観察」 から教育全体を考える

駿煌会ラインの載せたことなのですが、カテゴリーは「教育」としました。
英才児に関する上原輝男先生の言葉ですが、実はこれは「教育全体」に対しての重要な示唆です。決して英才児に限った話ではないということを踏まえてお読みください。


2019.07.14 日曜日
朝 虚空
先日、メールで紹介された上原先生の言葉です。

(昭和62年)「人間の感情構造は、この世に生きるためにあるのではなくて、あの世との交信するために感情構造はあるのだ」
 
 

(昭和62年 福井六呂師温泉)英才児の1年生3人の作文をよんだ先生のことば、
「焚火」なり「遠足」なり「国語の時間」いずれにも共通することが見だされるような気がする、

(中略)自分の視界の中にそれが入ってくる、そのときに凡人と違うっていうことが出てくるっていうふうに思うんです。簡単に言うと長いんですね。目を止めてから目が離れるまでが長いってことですよ。焚火を見た、そうすると焚火から目が離れるまでが非常に長いんです。僅かな時間かもしれないけれど、僅かな時間の中に本当に克明にそれが見えるっていうわけですね。言ってみればね、これは結論を急ぎすぎてるかもわからないけど、個人性すらないんですよ現象を見てるんです。

一般的な言い方をしてしまえば観察してしまうんです。観察するから長いんです。(中略)もう1年生以前からこういう習性がついているからものを見るときには、こんな姿勢が出てくるんじゃないかなと思うんです。

 そうそう、きょろきょろなんてする必要がなくなってくる。物自体が変化する。変化にこちらの目がついていくだけですから。そういう意味でこちらの意識ではなく物自体についていく。個性個性というけれども、実は個性が捨てられているからっていうことになるのではないか。
 

・・・・彼らは決して人間関係を取り結ばないから、絶えず自分の世界にいる。



これらをふまえて別のところで書いた文の一部です。
金曜日にやりとりしたこととも関係が深そうなので、転載しておきます
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英才児にとって、通常の「作文」は科学者のような視点での「観察結果の報告文」というのが主眼なのだと・・・そこに個々人によって、をれらを踏まえての想いや感想やイメージを付け加える度合いの違いが加わるんだ・・・そんな風にきちんと位置付けて考えるとスッキリと整理できるのではないかと思いました。

イマジネーションの世界が大事、基本、人間のベース・・・それは私も全く異論はないことは再三申し上げているわけですが・・・どうしても「イマジネーションがすべて」という想いが強いと、「思考」とか「知識」が作文に入り込んでくると、イマジネーションの世界にブレーキをかけてしまうものという対立構造でとらえてしまう・・・でも上原先生の視点をきちんと踏まえて考えてみれば、やはり両者は全く対立などしないものだということがはっきりすると思うんです。

「夢か現実か」ではなくて「夢も現実も自由自在に入れ替える」そういった境地に高学年以降は・・・という先生の言葉も、「直線的」「平面的」に二つの世界を行ったり来たり自由に切り替えられるように、とつかまえてしまうと、やはり根本的には両者を対立概念としてとらえていることになってしまう。

でもそれを・・・・例えばこのところよくコバルトブルー君が卍マークの回転に例えているのですが・・・両者が同時に回転することで もつれあって (これも量子論の「量子もつれ」から取り入れている言葉です。「君の名は。」の紐がもつれあって時空が・・・というのとも関係ありそうです)ととらえると、どちらも表裏一体で発展していくもの、という構造がみえてきます。

昨年の英才児たちの作文でいえば、あのように「生命」や「宇宙の振幅」について自分がとらえている知識も含めて、自分が意識できていることを「観察」し「主観を交えないような構えで報告(記述)」できている。だからこそ、あの授業のような場では宇宙とも共振していけるようなイメージ運動が発動できる。

「どちらも自由にできた」ととらえるのか、「あの説明的な作文があのように書けたからこそ、イマジネーションも深まった」ととらえるのかは、英才児に限らず、教育全体のカリキュラムを考えていく上であいまいにしてはならないことだと感じています。

(それがやはり通常の教育現場では中学校や高校以降にこそものを言うのではないかと。Nanba先生が学会で発表されたことの裏付けにもなるではないかと)

この前も書きましたが、こうしたことは特に変わった視点でも何でもないと思うんです。

そこれそ自分の感性・自分の世界こそが生命である 芸術家の方々が、デッサンなどの訓練をカチッと行う・・・だからこそ独自の世界を生みだせる・・・それと全く変わらない。
でも国語だと何だか急に両者は相いれないもの同士とみてしまうのは奇妙なことです。

そんなことをふまえながら先ほど、別の英才児の子の作文をひっぱりだしたのですが・・・5才の時の作文でも、まさに上原先生の指摘された 観察 ということがはっきりと見てとれますね。

そんな視点で、あの中2のツボ作文なども読み返すと、また違った中学生の実像がみえてくるかもしれません。
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