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諷虹・虚空 児言態50周年 振り返り②(2018年10月30日)

『生態研究としての授業 ~様々な意見の重ね合わせからみえてくるもの~』

重ね合わせ」というのは駿煌会の中での大事なキーワードです。量子論や原子構造なんかの入門者には大抵出てくる「存在確率」で、一つ一つではランダムなバラバラの点にみえるものが、重ね合わせていくと濃淡という形で全体の構造が見えてくる、というものです。
上原輝男氏が(生態研究としての)授業とは「個々のナマの意見をどんどん出してもらって、それを交通整理すればいいだけなんだ。それで各自が自分の今を位置付けられれば、勝手に次の段階に進んでいける」・・・このことを諷虹君などは「余白」という言葉で盛んにこだわっています。
いろいろな教室でよくみられることに、いわゆる「勉強が出来る子」として教師が期待する回答をしてくれる子ばかりが活躍している授業、他の児童は「どうせ言ってもとりあげてもらえない」「授業の邪魔をするだけ」というのがありますが、昨年諷虹君と参観した3年生・5年生・6年生での数学の授業ではそういう雰囲気が皆無でした。教師自身が粘り強く意見を聞き届けようとしてくれていすり、他の児童も異なる考えや、数学的には間違った解答に対してでも見下すような姿勢が感じられませんでした。
「英才小学校の授業」というとガチガチの進学塾のような雰囲気、なんて勝手に想像している方々もいらっしゃると思いますが、とっても人間的でした。
そうした参観の経験が二人の背景にあるということでお読みください。

虚空 今回の子供らの様子をみて素朴に思ったのはね、最後の数分間にAIだの何だのって盛んに言い出したじゃない。で、授業後の感想を聞いたらお昼抜きでもいい、とかこのまま夜中までやっててもいい、とかさ・・・。
でね、研究授業じゃなかったとしたらさ「この中で最近のアニメをよく観る人いる?」なんて聞いたらさ、中にはここでくっちゃべっているようなことをポンポン出してくるやつだってきっといたと思うんだよ。
あとで葛西先生に聞いて惜しかったな、と思ったんだけど、あの一番前の女の子・・・あの子が「次元」について作文を書いていた子なんだって。「n次元」なんていう言葉を使って書いていた子。
それが今回その子は「神の道が・・・」っていう文を書いていた。馬の絵から。いやー、惜しかった。それを知っていたら授業中は無理だったにしても、終わったあとにとなりの部屋でインタビューしたかったね。
4次元というくらいだったらドラえもんとかの知識で使う子は結構いるけどさ、n次元なんていう一般化した言い方を使いこなしてるなんてね。
でもね、ああいったAIがどうのこうのだって現代の知識だよね。でもそれを一人の男の子が口にしてさ、それに対して他の子が次々と反応したわけじゃない。そういう連鎖反応がパパって起きる。去年の数学もそうだよね。
あれが「知識や論理が今まで未開発だったイメージ運動に火をつける」・・・それが聖徳の子たちは特に意識させるようなことをしなくてもバンバンできてしまう。英才児と言われるような子でなくたって、ちょっとそういうのを分ける必要はないんだよ、っていうことに気づいてもらうような授業なんかをすれば、自然にできるようになるよ。・・・っていうことを考えて言い続けてきたし、それを今回の雑誌の原稿にも書いたわけだよ。
諷虹 AIの事ですけど、それを最初に言いだした子はそれなりにパソコンにも精通している子なのかな、って。でも他の子は自分の感覚に正直というか・・・。もしこれが大人だったら専門家が言っていると自分はそれに対してはもう口出ししない。
虚空 それはこの前にもくっちゃべって「素人ならではの自由な発想 縛りのない発想」だよね。地元の事情に精通した氏神様だけではなく、事情を知らない外部からやってきたまれびと(来訪神)とどちらも大事という、あれ。
諷虹 一人一人の専門性が溶け合って世界が広がっていく、っていうことなんですよね。
虚空 須貝先生が互い同士の緊張感を伴うような関係から新たなことが生まれてくるということを盛んに強調されているし、難波先生から紹介のあったU字理論でも、そういったことがあるんだと思うのね。自分の殻を打ち破って想定外の自分と出会う。あるいはこの前から(諷虹君がこだわっている)余白と言っている部分に目を向ける・・・「添加」っていうことだって、自分が意識していなかったことや受け入れを拒否していたことを受け止めることで世界が転換していくということだしね。
それだって「想定外」とは言っていても、それは今までの自分の意識では想定していなかったというだけで、本当は自分の無意識世界に内在していたわけだけどね。ないものは出てこないんだから。ただ、どうしても人間は意識で自分を縛ってしまうから、素直に感情やイメージ運動の流れるままに、というので出てくるものだけに限定していると、結果としては非常に狭い意識世界でしか人生を送れないということになる危険があるわけだよ。
(18号・19号に書いたことに込めた想いをしばらくあれこれと語る)
(懇親会で難波先生とのやりとりについてあれこれと語る)
諷虹 (児童が絵を選んだ基準に色のあるなしの問題があったと思う、という話)
虚空 今の話なんだけどさ、もうちょっと上の段階になると色の少ないのを進んで選ぶような玄人っぽいのが出てくるかもしれない。水墨画のような世界だよね。色数が少ないからこそ無限の色が感じられるっていう。今季の「色づく世界」(主人公の女性は色が感じられなくなっている)でも夜景の写真を撮る場面があったじゃないか。モノクロで撮ると、って写真部員に勧められる場面。色のない世界になってしまったから感情も動かなくなってしまった、とマイナスの要因ばかりをあの子は気にするようになってしまっているけど、実際にモノクロ写真っていうジャンルはあるわけだよね。
諷虹 モノクロ映画も
虚空 そう。で、日本映画の全盛期に作られたモノクロ映画なんてすごいもん。心理描写が画面からガンガンくるのはモノクロ映画。だから市川崑なんてカラー映画の時代になっても「銀のこし」っていう手法でモノクロっぽいのを撮ってるよ。「おとうと」とか水谷豊主演の「幸福」だったかな。色の鮮やかさが邪魔になるって。この前の会で中川さんが実践発表した水墨画だって見かけ上は色がない世界だったわけだよ。
今回の指導案で「景色」っていうことにもふられているけど、その景色っていうのだって人間はどうつかまえて、イメージの世界を持っていくのか。
だからあのアニメでも「色を失っているから自分はダメだ」じゃなくて「色を失っているからこそ見えてくる世界がある」っていうトランスフォーメーション。
諷虹 難波先生と話していた時に駿煌会っていうことから、コバルトさんが「駿」=「旬」というキーワードを出していたんで・・・難波先生のお話で中高生になってくるとどうしても題材が難しくなってきてイマジネーションの転換が起きにくいっていう話が出ましたけど、そこの中高生とか大人になっても惹きつけられるのは「旬な話題」とか、自分の中のマイブームのようなこと。エネルギー密度が高いのは興味関心があるものなのかな、って。
虚空 そういったいろんな話、ちゃんと思い出して記録しておいて・・・何もしないとただの酔っぱらいのおしゃべりとして消えていってしまうから。もったいないよ。
(宿泊したビジネスホテルでテレビをつけてみたらちょうどもののけ姫の放送が始まった瞬間だった という話題。両極端なことが錯綜する世界、どうしたら共存共栄できるのかというのがテーマになっているアニメがちょうどピッタリはじまったというのは、何かあちらの方々からのメッセージがあったのかも、という話)
(児童の後半の発言についての確認後)
諷虹 無秩序っていうか流体的というか、混沌・カオス・・・・難波先生のイマジネーションの話が非常に面白かったんですけど、「非常に今回の授業は謎だったでしょ」って。無茶苦茶なこともいっぱいあるけど、でもそれでいろいろなものが生まれる、って。それ聞きながら京都の理路整然とした街並みって保守的な思想というか伝統を重んじるということにつながるのかな、って思っていたんですよね。
虚空 そうなるとね、上原先生が「型」とか「構造」とか「様式」「儀礼」にこだわり続けて・・・それこそあの舞妓さん芸妓さんの・・・あの時のお茶屋のおかみさんが言っていた「型というのは縛りではない」っていうのとつながるんだと思う。
(中略)
諷虹 あの授業での家出の話も面白かったですよね。(中略)馬の絵から家出の話がでたんですよね? 馬が行先はっきりしているのに対して、自分は行先がはっきりしていないとう対比であれが出たのかな、とかね。でもその馬が歩いているところも「道なき道」っていうのもなかなか深いところなのかな、とかね。
あとは「馬の絵で世界をつくりだした人が多い、って・・・物語文を書いたというか、オリジナルストーリー。
夕日はどっちかっていうと写実的というか、帰る人がいるんだろう、とか「現実モード」と「夢モード」がうまく分かれていたのかな、とかね。
身近なモチーフだとああいった日常的なものが出やすくて、ああいう神秘的な世界のだと夢世界にひきずりこまれるのかな、とか・・・「写真だから現実」っていう発言も面白かったからメモっているんですが。馬の方が現実なのか写真だから現実なのか・・・
虚空 写真は現実を撮ったもの、っていう先入観だよね。でも写真だってそこには作者の意図が入っているとか・・・そのあたりのせめぎ合いの話になっていたじゃない。
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