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☆和太鼓の音 ⇒ 共鳴 ⇒ 古典にふれる意義 2018,12,21 諷虹・虚空 ④

諷虹 「音色」っていうと「太鼓の音」・・・ふんどし姿の男が荒々しく叩くっていうイメージが自分にはあります。
虚空 ふんどしじゃないけど、能登輪島の御陣乗太鼓なんて日本海の象徴みたいなものだね.海岸の岩場で荒海をバックにしているのが似合う太鼓。
ネット検索 中世に入ると、田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛した。戦国時代になると、戦国大名達が自軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓が興る。人間の心臓の鼓動に太鼓の鼓動が「シンクロ」することによって自らを鼓舞する性質があるという説もあり、戦における太鼓の使用はこの説に従えば有効な活用法であったと言える。
諷虹 前回のほら貝とも通じますね。
ネット検索 歌舞伎での太鼓
江戸時代、歌舞伎が隆盛すると、下座音楽に使われ、効果音として取り入れられた。下座音楽における太鼓の使用方法は、打ち方によって表現する情景が高度に体系化されている。例えば細めの桴で細かく叩くと雨の音、布を巻いた桴で弱く柔らかい音を低く響かせると雪の音、それらの合間に別の桴を水平に宛て、鼓面の震えを拾ってビリビリという音をたてると雷や雪崩の音を表現するといった具合である。また幽霊の出現など、本来ありえない音響を抽象的に表現する場合にも用いられる。
 
虚空 笛は霊魂を呼び寄せる、太鼓は生命力をアップさせる・・・能楽はこの世ならぬ存在を舞台に見える形にするわけだから、笛や太鼓のお囃子部隊が重要になってくるわけだしね。
能でなくても田植えでの芸能だとか、雛祭りの五人囃子・・・囃す=生やす 生命の誕生、発露・・・
 
諷虹 太鼓の音って昔からかわらないじゃないですか。当時と同じ音を聴くことができる。体感がシンクロするわけですよね。クラッシック音楽や落語や古典もすべてそうですよね。当時から現在。
 
虚空 そこに古典に接する意義があるわけだよね。「役に立つ」とかじゃなくて。この前難波先生が紹介していたイベントのテーマでもあるわけだけどね。
⇒シンポジウム:古典は本当に必要なのか
2019年1月14日(月祝)14:00-17:30 明星大学28号館204教室
否定派
猿倉信彦(某旧帝国大学教授)
「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」
前田賢一(某大手電機メーカーOB)「古文・漢文より国語リテラシー」続く
 
諷虹 現代語訳じゃやなくて、当時の音・・・素読でないと意味がない。共鳴できない。
 
虚空 現代語に置き換えられない感覚っていうのがほとんどだろうしね。入門時から受験に向けての文法偏重の高校古典教育なんていうのは古典を嫌いにさせるようなものだからね。確かに文法の知識もなければ受験ということではなくても、辞書をきちんと引くことすらできないというのは認めるけど、最初は共鳴のような部分から入って、あとで必要感に応じて文法はやればいいんじゃないか?
 
諷虹 一番最初に歌舞伎をみたときにそうでしたね。何を言っているのか所詮理解できないんだから、そのままの言葉の調子で観ていればいい、って。落語を小さい時にみた時もそうでしたね。話の意味はわからなくても語りの調子をきいていた。
大人のオジサンが若者の音楽が分からない、っていうのはこの感覚になれないからですかね。
 
虚空 もしかすると若者の方がひどいかもよ。趣味じゃないアニメなどを見もしないで糞アニメだと酷評するのなんてみていると。
 
諷虹 あるネットで興味があるとかないとかで議論になってましたね。自分が興味あるなしではなくて、ああ、この人はこのアニメに興味があるんだな、と受け止めればいいだけの話なのに。
 
(一部引用)https://twitter.com/sodamasahito/status/1075329375740948481
曽田正人『Change!』3巻発売中!? @sodamasahito
 
何かを死ぬほど好きになった経験のある人間は、他者が夢中になっているものを理解できなくても「興味がない」なんてことはわざわざ言わない。
「俺にはわからない”何か”があるんだろうな」とただ思うのみ。
それは素敵な事だと思う。
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☆「見えない世界に実体」という発想 2018,12,21 諷虹・虚空 ③

虚空 見えないから「ない」ではなくて、見えなくてもそこに本質・本体がある、っていう発想だから、それを「垣間見」する工夫をいろいろとしたんだろうね。でも垣間見だから見え過ぎてもいけないし、ずっと見えていてもいけない。
和服女性の魅力と通じるのかな????
諷虹 あとは影、光ってみえないじゃないですか、でも影でそれを感じる事ができる。その光が「波動」であり「粒子」であるという物理の発想をいれると面白くなってくる。スリット実験でも「影を作ってくれる」というのが重要。(相補性の原理)
虚空 現世はまさに「現し世」・・・投影の世界だね。
諷虹 虹もすごいじゃないですか。プリズムを通すと無色の中に七色が隠れているっていう・・・七福神。
虚空 国によって七色とは限らないようだけどね。(物理学的には無限の連続色だが、7という数字に対する信仰からニュートンなどが七色としたりして定着)
諷虹 そもそも私は諷虹という名を名乗っているわけですからね・・・もっと虹について理解しておかないと。
虚空 七つ道具とか・・・アンコウの七つ道具とか弁慶の七つ道具。
自分らの世代だとレインボーマンとか。あれで自然からの御利益をすべて受けているようなイメージ。
諷虹 七味トウガラシ・・・一味もあるけど、1か7ですよね。
この間も8が話題になりましたが、八だと末広がりの永遠性とか・・・。8だと無限ループ。でも7だと見えない世界を体現している数字。七福神とか隠れている光の色とか。七味もある種の隠し味のようなのがあるじゃないですか。
あとは「七つの大罪」(聖書)
⇒ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
七つの大罪(ななつのたいざい)Seven deadly sins
キリスト教において,他のもろもろの罪の原因となると考えられた7項の罪。これは初期キリスト教の修道生活の考え方に由来する。 (1) 虚栄あるいは尊大,(2) 貪欲,(3) 法外かつ不義なる色欲,(4) 暴食および酩酊,(5) 憤り,(6) 嫉妬,(7) 怠惰をいう。
諷虹 これらも目にはみえないもの。常に人間の中に渦巻いているけれども、現象として現れる。
幻の「ムー大陸」「アトランティス大陸」っていうのも見えない大陸ですよね。(ネット検索で大陸伝説の地図をみて)こうしてみると図式化した時の「空白部分」に何かあったとしたかったんですかね。
同人活動もそういった部分があるじゃないですか。そういったことがないのに、IFストーリーを展開する。自分達で隠れた部分、描かれていない部分。点と点をむすびつけている間にどんなことが隠れているかの想像力。

☆「箱庭・洲浜」永遠を閉じ込める 2018,12,21 諷虹・虚空 ②

諷虹、この前の日曜日、あるイベントで大洗水族館へ。待ち時間に魚たちをみる。
諷虹 ひさしぶりに生き物をまともにみたという気がして・・・。(画像をみせてくれながら)これがガルパン水槽ですね。プラモとアンコウの組み合わせ。塗料も生物には影響のないのを使って。(ピンクのアンコウ)
クラゲとかもね、イルミネーションとかよりも綺麗な光り方とかするじゃないですか。
結構何時間でも観ていられそうな水槽がありましたよね。絵画を飾るのとは違う趣。動的な箱庭。つねに動いている
虚空 同じ瞬間は二度とない。
諷虹 (画像検索 箱庭)こういう箱庭は逆に一瞬を閉じ込めている感じですよね。
「ししおどし」なんかはどうなんですかね。
検索・・・害獣を追い払う (鹿威し)が元・・・後に「風流」としてのグッズになる。
諷虹 静けさの中の音でありながら動的な部分がある。やっぱり音なんですね。縁側の風鈴と同じ感覚。流水の音とししおどしの「コン」という組み合わせ。花火の音と風鈴の音のセット。縁側でながめている時とか。かすかに祭りの音も聞こえてきて・・・。
音の動力源になっているのが流体じゃないですか。水にしても風にしても。
うまく言語化できないですが、変わらないものの中に、こういってものを置いて、流体的に動くものもある、というような。
虚空 枯山水も同じ発想かな。動かない石を使って、流体を表現しているんだから。
諷虹 今思ったんですけど、手水舎・・・どんなに小さな神社でも水を流してたりするじゃないですか。他にも龍の口から水が出ているような感じのものとか。
ネット⇒手水の起源は、神道に由来し、聖域を訪れる際に周辺に流れる河川の水や湧き水で身を清めていたことにはじまる。その名残は、伊勢神宮の御手洗場などで見られる。時代が変化するにつれ、河川の水質が汚染され、清流や湧き水の確保が困難になったことから、それに代わる施設として手水舎が併設されるようになっていった。
諷虹 水冷式パソコンなんていうのも、そういったことに惹かれている部分があるんでしょうね。なんだか心臓の血管をイメージしているようで・・・(画像検索の中のある写真をみて)それを利用して金魚飼ってるのとかかえって故障の原因になりそう。
画像検索 
虚空 やっぱりこの前も話題に出したあの祝詞「極めて汚きも溜まりなければ穢きとはあらじ内外の玉垣清く浄と申す」の精神だね。
諷虹 水っていうことですね。空冷式だと風ってみえない、感じる事はできても観ることはできない。それで神道的な部分ってありますけど。でも水冷式は水の流れがみえるというところがギミック的に面白い・・・見てて飽きない。
見えないからこそ風鈴とかなんですかね。触覚だけでなくて聴覚も。
さっきの箱庭の話なんかも、永遠的に固着している部分と、囚われない部分。盆栽とか植木とかも同時に庭の中に植えているというのは・・・。
虚空 盆栽だって、みかけはちっちゃくても数十年物だったりする。時間の凝縮だよね。
諷虹 神社の古木
虚空 そうなるハズの木をちっちゃいサイズにしてしまうわけだろ。
*「盆栽」についてネット検索
諷虹 やっぱり箱庭ですね。そういう意味では。
シュミレーション・・・パソコンでやってくれますが、人間って自分の手の中でその後の予測をしたくなるような心ってあるんでしょうね。ニュートンの運動方程式のように。(微積による因果関係)
虚空 上原先生がいつも話題にしていた「島台」「洲浜」・・・結婚式でも絶対欠かせないものだったが、その名残がウエディングケーキじゃないかと。
そうした島のミニチュアをどうして必要としたのか。
諷虹 ちょっと凝った和菓子みたいですね。飾り和菓子。
虚空 島だし、洲浜の洲だって中洲っていうことの洲だしね。
諷虹 島って海というか流体の水に囲まれている。卒業式で「みなさんもこれから社会の荒波にもまれていくわけですが」という挨拶がありますが・・・カオスのような混沌があるわけですよね。そこに出ていく。
結婚もそういった困難に立ち向かっていく・・・世間の荒波に・・・。
何で荒波なんですかね・・・。冬の日本海側のイメージですよね。太平洋では荒れ狂う波っていう感じはしない。

ゲゲゲの鬼太郎 6期 ☆第33話 から「約束」「誓い」について

参考サイト http://anicobin.ldblog.jp/archives/54455354.html

「狐の嫁入りと白山坊」・・・虚空 記

「約束」ということについて深く考えさせられる回でした。
妖怪ギツネの白山坊が娘を奪いに来るのを助けてほしいという父親からの依頼でやってきた鬼太郎。でも実は父親が以前、娘が18歳になったら嫁にやるということを条件に白山坊に助けてもらったということが明かされ・・・鬼太郎は「約束があった以上は介入できない」と父親を突き放します。(詳しくは参考サイトをご覧ください)
そんな鬼太郎が冷たいというように娘に同情する猫娘たちは言いますが・・・私もどちらかといえば鬼太郎の考えに近いですね。
無論、娘さんにしては自分の知らないところで勝手に父親がした約束であるし、戦前の発想ならいざ知らず、現代社会の風潮からすれば、親のした約束と自分とは関係ないというのがあたり前かもしれません。
そういった点では猫娘さんたちの同情する気持ちも分かりますし、娘さんも気の毒だとは思います。
鬼太郎だって、心の底では娘さんが気の毒には思っていた事でしょう。
問題はこの父親の構えです。自分が助かりたいがために娘の将来のことも考えずに白山坊の力を借りて財を得たにも関わらず、いざ娘を差し出さなければならなくなったら、白山坊が極悪な妖怪と偽り、鬼太郎に退治を依頼したわけですから。
しかも過去の約束が明らかになっても、謝るどころか、お金はいくらでも出すから娘を助けてくれという始末。
人間として不誠実極まりないです。
江戸時代の暮らしについて書かれた本の中に、「約束を守る」ということについて江戸庶民は非常に厳しかったというようなのを読んだことがあります。約束も守れないような人間は一人前の信用ある人間として扱われなかったと。
特筆すべきは「酒の席」だとか「口約束」だとかの、現代では「破って当然」「そんなの約束したうちに入らない」と平然とした態度がまかり通っているようなことに対してこそ、厳しかったということです。
口約束や酒の席の約束だから破ってもかまわない ではなく そうした約束こそ大事であり、それも守れないような人間は全く信用に値しないとされたそうです。
地位や身分が高かったり、大きな商売をしているような家の場合は尚更。それを幼い頃からたたきこまれたそうです。
これは現代人が見習わなければならないことの一つだと思います。
今回の場合は、証文まであった・・・鬼太郎が怒ったのは、それにも関わらず約束を破ることに対して娘が可愛いのだから当然である・・・自分達に同情してほしい・・・そういう甘ったれた父親への姿勢だったのではないでしょうか。
今回はアニエスの言動も興味深かったです。
このブログ記事のテーマからは外れますが、まずみんなが娘さんを助けようと準備しているときに「すみません、私なんかのために」といかにも日本人らしい言葉を発したことに対して「その言い方やめてくれる」とたしなめた場面。日本人の「謙遜」の文化には不慣れな西洋妖怪からしてみれば、せっかく助けようとみんなが努力しているのに、肝心の本人が「私は助かる価値のない人間です」というような言動をするのは我慢がならなかったのでしょうね。
もう一つの場面は、娘を西洋妖怪から命がけで守ろうとした白山坊に頼まれて娘を連れて逃げるところ。この時点で絶対に必要な指輪が娘の体内にあるから、今この娘を殺して指輪をとりだせば、世界を救うことができる・・・一人の犠牲で大勢が助かる・・・そんな想いがアリエスの頭によぎるわけですが、最終的には娘を助けます。
どうしてかというのは想像するしかないのですが、その一つにはやはり「約束」ということに対しての白山坊の命をかけた真摯な態度、そしてその白山坊に託されたというのもひとつの約束であり、それを破ることはたとえそれで世界が救えても、何か大事なことが欠けてしまう・・・そんなことがよぎったのではないでしょうか?
白山坊の命がけの姿勢は「約束」だから守るというようなレベルを超越していました。
上原輝男氏は著書「心意伝承の研究」の「犠牲論」の説に「誓いは血交い」というようなことを書いています。盃をかわす際に血を混ぜるなんていうのもそうだし、そもそも昔の様に結婚までは純潔を守る・・・初夜に初めて・・・というのもまさに「夫婦の血交い」だったのではないでしょうか。
体中が傷つき血を流しながら娘を守る白山坊は、まさに結婚の誓いをしていたとも言えましょう。
最後には「約束だから守る」というのではなく、本当に誠実であるということで喜んで娘さんは白山坊に嫁ぎます。父親もそれを認めます。
単にこれはアニメであり、作り話であるとは片付けられない内容がつまっていた・・・賛否はあると思いますが、考えてみる価値のある内容がふんだんにあったと思いました。

とある魔術の禁書目録III 第六話を通して「稚児」について考える

参考サイト http://anicobin.ldblog.jp/archives/54418367.html

(虚空)

冒頭からこれでもかという具合に残虐なシーンの連続で、観ていてさらに辛いものがありました。
「うちのメイド」の今回の感想にも触れましたが、特殊な世界においては特殊な精神状態になっていなければやっていけない、という部分があることは確かなことです。ただ、どれだけ特殊な状況で、きれいごとが通用しない世界であっても、基本として人間である以上はもっとも素朴な大原則が譲れないものとしてある、ということも中盤に描かれていたような気がします。(回想シーンに出てきた当麻セリフに影響されたのところなど)
高校教師でありながら警備員の一人という肩書をもつ黄泉川愛穂先生(私は じゃん先生 と呼んでいます)があのような極悪な行為に及んでいる若者に対しての状況になりながら自分にとっては直接の教え子ではなくても「守るべき若者」という姿勢に命がけで徹している場面では、フト上原輝男氏の「稚児には庇護者がつく」という説を思い出しました。

牛若丸(義経)には弁慶がついている、というようなことです。
特殊な宿命をおびている、強い影響力がある・・・そんな子ども(若者)ほど理不尽なことや様々な試練にさらされて心身が脅かされる・・・それを守る存在。
それほど目だって特殊な子どもでなくても、感性や想像力や発想力が豊か・・・夢の世界を簡単には捨てない・・・そういった傾向の強い子ども(若者)ほど現実の生活は生き難くなってしまう、というのもアニメなどでしばしば描かれていることです。

人の心を感じ取る力・・・思いやりも含めて・・・が強ければ、それだけ他人の悩みも自分の痛みとして感じ取ってしまい、苦難をますます増やしていていってしまう。

先々を深く考える傾向が強ければ、それは今のような先の見えない世の中では不安ばかりがつのり、将来に対して絶望的になってしまいがち・・・・

これらすべては、人間として豊かな力を持っていればいるほど、この世的には生きていくのが辛い状況に追い込まれて行ってしまうということです。

でも日本古来の発想からいえば、それは「この世(現実)モード」ではなく、生まれる前にいたあちらの世界・・・極端な言い方をすれば「神様モード」に近い子ども。(神様の常識は人間にとって時には非常識ですから。目先の利害などは気にしない、お金などの目にみえる物質に絶対的な価値を見出さない等々)

子どらしい子どもほど、あちらの世界の名残を残しています。

それがさらに特化すると日本人の意識の根底にある「どんな子どもでも神(あるいは神の使い)」という意識になります。七五三などはその名残の行事ですから。

3世代以上の家族生活があたり前だったかつての日本ではおじいちゃん・おばあちゃんが子ども達の庇護者だったわけです。

「常識をすぐにわきまえる」ということが要領よくすぐに出来ない子は、親や教師からしばしば他と比較されて「ダメな子」というレッテルをはられてしまいます。それを守ってくれるのはおじいちゃん、おばあちゃん。

だから昔話でも、汚らしい子どもを理屈抜きで年寄りが守る・・・なんていうパターンが多い。そしてそういった子は時として神様の化身であったり、この世的な富をもたらす特殊能力を持っていたりする。(でも現世欲にまみれた大人が、それを期待して守る真似をすると、あっというまにそうした力を無効化して去って行ってしまうわけですが)


今回のでそうした稚児として最も強い力を発揮したのがラストオーダーだったと言えるのでしょう。
あれだけの破壊力を有していたダークマターの若者も、この世の素粒子を超越しているんだと豪語していた割には、学園トップのアクセラレーターに対して自分はバックアップの存在であるとこだわっていた。いわば意識レベルでは全く超越できていなかった。それが敗北とつながったと。
でもそんなアクセラレーターの暴走した破壊力も、純真な笑顔をふりまくだけで戦闘能力も防御能力も全くないラストオーダーの前では無力化されてしまった。
ラストオーダーはあの場面で神格を得ていたわけです。
「うちのメイド・・・」なんかもそうですが、「幼い子どもを特別視する」という意識は、単なる「少女趣味」「幼女趣味」と片付けてはならないことが、こうしたアニメの裏側にたくさん潜んでいると考えています。