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とある魔術の禁書目録III 第六話を通して「稚児」について考える

参考サイト http://anicobin.ldblog.jp/archives/54418367.html

(虚空)

冒頭からこれでもかという具合に残虐なシーンの連続で、観ていてさらに辛いものがありました。
「うちのメイド」の今回の感想にも触れましたが、特殊な世界においては特殊な精神状態になっていなければやっていけない、という部分があることは確かなことです。ただ、どれだけ特殊な状況で、きれいごとが通用しない世界であっても、基本として人間である以上はもっとも素朴な大原則が譲れないものとしてある、ということも中盤に描かれていたような気がします。(回想シーンに出てきた当麻セリフに影響されたのところなど)
高校教師でありながら警備員の一人という肩書をもつ黄泉川愛穂先生(私は じゃん先生 と呼んでいます)があのような極悪な行為に及んでいる若者に対しての状況になりながら自分にとっては直接の教え子ではなくても「守るべき若者」という姿勢に命がけで徹している場面では、フト上原輝男氏の「稚児には庇護者がつく」という説を思い出しました。

牛若丸(義経)には弁慶がついている、というようなことです。
特殊な宿命をおびている、強い影響力がある・・・そんな子ども(若者)ほど理不尽なことや様々な試練にさらされて心身が脅かされる・・・それを守る存在。
それほど目だって特殊な子どもでなくても、感性や想像力や発想力が豊か・・・夢の世界を簡単には捨てない・・・そういった傾向の強い子ども(若者)ほど現実の生活は生き難くなってしまう、というのもアニメなどでしばしば描かれていることです。

人の心を感じ取る力・・・思いやりも含めて・・・が強ければ、それだけ他人の悩みも自分の痛みとして感じ取ってしまい、苦難をますます増やしていていってしまう。

先々を深く考える傾向が強ければ、それは今のような先の見えない世の中では不安ばかりがつのり、将来に対して絶望的になってしまいがち・・・・

これらすべては、人間として豊かな力を持っていればいるほど、この世的には生きていくのが辛い状況に追い込まれて行ってしまうということです。

でも日本古来の発想からいえば、それは「この世(現実)モード」ではなく、生まれる前にいたあちらの世界・・・極端な言い方をすれば「神様モード」に近い子ども。(神様の常識は人間にとって時には非常識ですから。目先の利害などは気にしない、お金などの目にみえる物質に絶対的な価値を見出さない等々)

子どらしい子どもほど、あちらの世界の名残を残しています。

それがさらに特化すると日本人の意識の根底にある「どんな子どもでも神(あるいは神の使い)」という意識になります。七五三などはその名残の行事ですから。

3世代以上の家族生活があたり前だったかつての日本ではおじいちゃん・おばあちゃんが子ども達の庇護者だったわけです。

「常識をすぐにわきまえる」ということが要領よくすぐに出来ない子は、親や教師からしばしば他と比較されて「ダメな子」というレッテルをはられてしまいます。それを守ってくれるのはおじいちゃん、おばあちゃん。

だから昔話でも、汚らしい子どもを理屈抜きで年寄りが守る・・・なんていうパターンが多い。そしてそういった子は時として神様の化身であったり、この世的な富をもたらす特殊能力を持っていたりする。(でも現世欲にまみれた大人が、それを期待して守る真似をすると、あっというまにそうした力を無効化して去って行ってしまうわけですが)


今回のでそうした稚児として最も強い力を発揮したのがラストオーダーだったと言えるのでしょう。
あれだけの破壊力を有していたダークマターの若者も、この世の素粒子を超越しているんだと豪語していた割には、学園トップのアクセラレーターに対して自分はバックアップの存在であるとこだわっていた。いわば意識レベルでは全く超越できていなかった。それが敗北とつながったと。
でもそんなアクセラレーターの暴走した破壊力も、純真な笑顔をふりまくだけで戦闘能力も防御能力も全くないラストオーダーの前では無力化されてしまった。
ラストオーダーはあの場面で神格を得ていたわけです。
「うちのメイド・・・」なんかもそうですが、「幼い子どもを特別視する」という意識は、単なる「少女趣味」「幼女趣味」と片付けてはならないことが、こうしたアニメの裏側にたくさん潜んでいると考えています。
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