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☆ダンデリオンツイッター 「令和」は「霊和」より① 記事紹介

2019年5月6日 月曜日
「令和」は「霊和」ということがダンデリオンツイッターに投稿されていました。
「霊和」「零和」というように捉えての考察は駿煌会ブログでも紹介していますが、それとはまた違った切り込み方での「霊和」論です。

【お話】の後半の、万葉集をもとにした「令和」=「霊和」に隠された本義の考察・・・そこから「かぐやひめ」の話になり、最期はトランプ大統領の訪日の狙い・・・読み応え十分です。
おはなし ⇒ 大体の意味内容 ⇒ 元の文 の順に紹介します。



「令和」は「霊和」
お話
この「和光同塵」のイメージには、何かもっと積極的なとらえ方がありそうな気もしてきたのです。新元号が発表されてからもやもやとしてきました。


2019年5月1日から始まった新元号「レイワ」は「国書である『万葉集』を典拠とした」と主張されていますが、『万葉集』の歌人たちの文章は、多く中国の古典籍を範としていることは論を俟(ま)ちません。今回引用された箇所は、太宰(だざいの)帥(そち)大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で開かれた宴会で詠(よ)まれる梅の花の和歌群についての序文です。


その大伴旅人自身、『老子』や『荘子』の影響を多分に受けていたことは、学界ではすでに常識なのです。政府の発表でもその後のマスコミ報道でも、最初の一文しか引用しませんが、不思議と興味がわいてきて、この序文全体を読み、その後の和歌群を一通り読んでみました。主要箇所だけ引用します。


「初春の令月にして、氣淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薰(くん)ず。曙の嶺に雲移り、松は羅(うすぎぬ)を掛けて蓋(かさ)を傾け、夕(ゆうべ)の岫(くき)に霧結び、鳥は?(しらぎぬ)に封(こ)めらえて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきい)とし、言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(えり)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然と自(おのずか)ら放(ほしいまま)にし、快然に自(おのずか)ら足る。」(『万葉集』巻第五「梅花三十二首序」 下線筆者)



これも例によって「勝手訳」しちゃいます。
(初春正月は令(きよ)らかな霊気に満ちて、風は和(やわら)かにそよぐ。梅は鏡に映(は)える女の白粉(おしろい)のように白く、蘭は帯に珮(は)いた匂い袋のように薫(かお)っている。
夜明けの嶺に雲が移ろい、それはまるで松が薄絹(うすぎぬ)を蓋(かさ)としているようなありさまだ。やがて夕に山のくぼみから霧が立ち込めてくると、鳥は白(しら)絹(ぎぬ)にからめとられたように林の中をさまよう。庭園に何かひらめいているのは今年の蝶なのだろうか。空には去年来た雁が帰ってゆく。これは夢想の世界なのか、天を笠とし地が座席(しきい)となったようだ。

言葉は邸宅の内へ忘れ去り、胸襟(きょうきん)は立ちこめる霞の外へ開く。自分という一個の輪郭が曖昧(あいまい)になり、雲のごとく静かに淡然と解放されていく。それが何の違和感もなく、快然として充(み)ち足りた心地なのだ。)




いかがでしょう。「和光同塵」の「光」を「風」に、「塵」を「雲・霧・霞」と翻案しながら、老子の思想を何か明るい方へ換骨奪胎しているとは言えませんでしょうか。


覚えてますか、4月1日の新元号発表の際、漢字より先に「れいわ」という音を発声してくれました。「霊和」のイメージがぱあーっと広がりました。あれはいいことをしてくれました。
そのあと「令和」という文字を示されて、「は?」と、思い切り違和感を感じつつも、「まあ、妥当な画数か」と無理に納得しました。確かに「れい」で始まる元号は千三百年前の「霊(れい)亀(き)(715-717)」のたった二年間以来例がありませんし、「霊」では画数も多すぎるし何しろ日本だけでなく世界中が怖がるでしょうから、「令和」でカムフラージュしておく方がよいでしょう。

でもこうして全体を読んでみると、この元号の考案者の意図がなんとなく見えてきました。
結論から言うと、やはり「霊和(れいわ)」なのです。



繰り返しますがこの序文は、大宰(だざいの)帥(そち)大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅に集まって宴会を開いたときに梅の花に関する歌を詠みあった話、とされています。のどかでのんきな場面と思われるかもしれませんが、おそらくそうではありません。


武将としての功績もあった大伴旅人は、その武威を警戒されて、大和(今の奈良県)から遠く隔たった筑前国(今の福岡県)の大宰府の長官として、老年に至るまで中央政界からは遠ざけられます。藤原氏を中心とした、物部氏や蘇我氏のグループによる陰謀です。こうしてその旅人を中心として形成されたサロンは、『老子』の影響も受けた反権力、反政府の気概に満ちたものだったのです。


命あるものの全てが、その生命の輝きを発揮し始めるのが春です。そしてどんなに厳寒の中に在っても、その春の気を真っ先に感じ取って花咲(はなひら)く霊木が、梅です。


梅の開花に呼応して、雲がこの世の自然界を覆い、そうした霊気の中で、旅人たちもこの世の秩序から逸脱して霊的な存在へと昇華してゆく。一個の人間としてのちっぽけな輪郭が熔解して、宇宙そのものと共鳴一体となる。人間界の言葉を忘れ、この小さな身体を雲散霧消させようという境地は、確かに老子荘子の「道・徳」原理に通じると同時に、一切の権威・権力から自由であろうとする宣言でもあります。


同時に、これより後世の平安時代に成立した「竹取物語(かぐや姫の物語)」の元型がここにあったのだと思わされますこの梅の花三十二首のあと、関連する歌が挙げられますが、「故郷を思う歌」二首が、「雲に飛ぶ薬」をテーマにしています。この仙薬(霊薬)は、服用することで「雲に飛ぶ」だけでなく、變(お)若ちる、すなわち若返り不老長生するというのです。


「竹取物語」のラストシーン、かぐや姫が不老長寿の薬を天皇にプレゼントし、自分は月世界へと飛翔する仙薬を喫(の)んで、地球界でのことをすべて忘れてしまうという場面に、見事に受け継がれていたのだと気付かされました。反権力とは、既存の権力体制を否定することではなく、その権力体制を包摂する宇宙になること、すなわち「霊和」というダイナミズムなのでしょう。


現政府は、こうした背景(元号考案者の意図も含めて)を、全く知らない。新天皇も、そこまでは知らないかもしれませんが、おそらくは元号考案者の意図と同じ意図をもって、これからの「象徴天皇」のあり方を、追求してゆくのだろうと考えられます。上皇(平成天皇)が「沖縄重視」の姿勢を貫くことで政府権力と壮絶な戦いをしてきたように… 


今度トランプくんが日本に来て、新天皇皇后両陛下を手玉に取ろうとしています。もしかしたら、きちんと英語で対応する夫妻の、しかもトランプくんの過去の苦労をねぎらうお言葉に、七十歳越えた赤ん坊が泣きじゃくるシーンも見られるかも。となったら全世界が驚倒するでしょう、見物(みもの)ですね。


【大体の意味内容】
「道」は虚空のようなもので、働き自体は無限のものだが、これを利用しても何かで満たされるということはない。まるで底なしの淵(ふち)のようで、万物の根源といえる。それは、鋭くとがったようなところをくじいて、むしろ鈍いようなものとし、もつれからまったところを解きほぐす。高貴な輝きをおさえやわらげて、塵芥(ちりあくた)と同様になる。悠久の歳月をかけて湛(たた)えられた水のように存在する、何かなのであろう。例えば私という存在も、「誰の子」であるかというのは本質的には、わからないものなのだ。しいていえば、この世の造物主の、その先の宇宙根源の姿をかたどったものであろう。


【元の文】道は沖(むな)しきも、これを用うれば或(ま)た盈(み)たず。淵(えん)として万物の宗(そう)たるに似たり。其の鋭(えい)を挫(くじ)いて、其の紛(ふん)を解き、其の光を和(やわら)げて、其の塵(じん)に同ず。湛(たん)として存する或(あ)るに似たり。吾(われ)、誰の子なるかを知らず、帝(てい)の先(さき)を象(かたど)る。
 (『老子道徳経』上編4)
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☆「差別・偏見・決めつけ」① 東大祝辞に関してのダンデリオンツイッター記事

ネットでも話題になっていた今年の東大入学式祝辞に関してのダンデリオンツイッター記事をきっかけにしたラインやりとりです。
まずはその記事の転載です。

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☆東大祝辞の話題
「『弱者が弱者のままで尊重される』社会を求めて」
今年4月12日の、東京大学入学式の祝辞がネットで評判になりました。社会学者上野千鶴子氏の、静かで毅然(きぜん)とした語り口とは裏腹のセンセーショナルな内容に、テレビのワイドショーなどでも盛んに取り上げられました。が、誰もかれも、前半の「女性差別」社会への警鐘の部分について「別にそこまで言わなくても」(山口真由)、「女の幸せについて語るべき」(玉川徹)、「差別に対してどう戦うか語っていない」(木村太郎)などなど、つまらない批判が溢(あふ)れていました。
確かに、かつて「フェミニストの旗手」として、尖(とが)った論陣を勇ましく張っていた人と同一人物とは思えないほど、静かな気品に満ちた姿にも驚きました。しかしそれだけに、見えない真剣の切っ先を、聞く者の喉元(のどもと)に突きつけているような迫力もありました。
この祝辞のダイジェストをこの後にも載せたのでぜひご一読ください。東大生に限らず、未来へ向かおうとするすべての人々への応援の祝辞です。これは。
東大も性差別を行っていることを東大の入学式で語るということで、まず自己批判をすることから建設的議論が始まることを示してくれました。
そして学生たちに「(大学合格は)あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」と釘(くぎ)を刺します。周りの人々の応援があってこそのことで、努力が報(むく)われない人たちは、その個人が悪いのではないということ。
報われた人はまず感謝すべきだということです。次に「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」と諭(さと)します。「強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生き」るべきだからです。究極的に目指すべきこととして以下のように述べます。
「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」。これは「男女の差別の解消」というレベルにとどまるものではありません。『老子』の「堅強(けんきょう)なる者は死の徒にして、柔弱(じゅうじゃく)なるものは生の徒なり」という、「柔弱」であることの価値論にも通じます。
つまり、弱いものを排除せずにまあ共存するのを認めてやろう、という上から目線ではなく、強大さを誇ろうとするものほど馬鹿(ばか)丸出(まるだ)しの下等生物、と喝破(かっぱ)しているわけです。自分の卑小(ひしょう)さを認識し、未来という広大無辺の海へと乗り出していってほしい。
それは「正解のない問いに満ちた世界」であり、そうした世界を生き抜くためには「すでにある知」に頼らず「これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けること」が大事なのです。反省し、感謝し、驕(おご)らず謙虚(けんきょ)に、そして大胆(だいたん)に、共に生きましょう!
 

【上野千鶴子氏の東大入学式祝辞ダイジェスト版】
ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。
その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。
女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか? 
各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。。(なのに男子合格者のほうが多い要因として)女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。(また)「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspiration(アスピレイション)のcooling(クーリンング) down(ダウン)すなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊(き)かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。
これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。
4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。
そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?日本の歴史に同性愛者はいたの?誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓(ひら)かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証(あかし)です。東大には、在日韓国人教授、姜(かん)尚中(さんじゅ)さんも、高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲(もう)聾(ろう)二重の障害者である教授、福島(ふくしま)智(さとし)さんもいらっしゃいます。

あなたたちはがんばれば報(むく)われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶(おとし)めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。
大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。
知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ
平成31年4月12日
 認定NPO法人 ウィメンズ アクション ネットワーク理事長
 上野 千鶴子

☆「日々の迷いに向かい合って」① ダンデリオンツイッター記事より

4月8日の「ダンデリオンツイッター記事」からのやりとりです。
私(虚空)などは、自分に卑劣な圧力をかけてきた人物たちにその都度反発はしていますが、時には諸事情で「逆らうことが許されない」という流れの中でずっと生きてきて破綻寸前の現在の状況になっています。
「人知を超えた・・・それこそ自分では思いつけないような意志」の存在があって、「こんな人生にも何か意味があったのかな・・・」(思わず過去形です)という可能性を微量でも実感できなければ、やってこれなかったと思います。(かなり危険水域ギリギリできていますが)
今回も先ずは「お話」⇒「意味内容」⇒「原文」の順での紹介です

【お話】勇敢とは「敢(あ)えて勇(いさ)む」と訓(よ)みます。突き進むにせよ後退するにせよ、ことさらに意思を働かせて行う人為(じんい)には、必ずプラス面もあれば、マイナス面も伴う。極力人為を排して、天即ち宇宙の摂理(せつり)に従うことが、絶対的な価値にたどり着けることになる。

そうしたことは実は、はるかかなたの、手の届かない高根の花であるのではなく、日常(にちじょう)卑近(ひきん)のところに遍在(へんざい)しているのだということなのでしょう。

コンビニでたまたま「三鷹の森ジブリ美術館」のリーフレットを見ました。そのキャッチフレーズに惹(ひ)かれて、思わず一部もらって来ました。「迷子になろうよ、いっしょに。」さすがだなあ、と思いました。森や山に入って方向とか目的地がわからなくなったり、旅先でも道に迷ったり、或いはどちらに行こうか選択に迷ったり、そうした非日常的なことや、日常卑近の生活の中でもあれこれ迷ったりするのが、生きている醍醐味(だいごみ)なのでしょう。

少なくとも、「迷う」のは悪いことばかりではありません。真摯(しんし)に努力しているからこそ、大いに迷うこともありますね。自分の意思や判断では決められなくなってしまう状況。何か自分ではないものに翻弄(ほんろう)されているような、世界そのものが遊働(ゆうどう)してどこかへ流されているような感覚。

それは案外、「天の道」が働きかけてくれている状況なのかもしれません。逆らわずに流されてみるのも一興でしょう。かえって勇気がいりますが…
【大体の意味内容】勇敢に立ち向かえば、直ちに滅ぼされることもあるし、勇敢に逃げれば、助かった命を何かに活かすこともできる。とはいえ、リスクはあっても立ち向かうことに利がある場合もあるし、助かって使命を全うしても、誰かにとっては有害な影響を及ぼされることあろう。

どちらにおいても、利害はそれぞれあって、天が何を憎むかは、我々には諮(はか)り知ることはできない。「天の道」というべき無為自然(ぶいじねん)の道理は利害を超えている。争うことなくしてよく勝つこと。つべこべ言わずとも、よく人々の期待に応える。招かずとも、人が寄り来たる。悠然と構えながらも、緻密(ちみつ)な計略を立てている。

このためには、ことさらに功績をひけらかそうとはせず、無為自然(ぶいじねん)に事は成るのだとわきまえ、そのように努力するものだ。この世に張り巡らされた天道の網は、広大無辺、おおらかにして、しかも水も漏らさない。

(老子道徳経 下編徳経7)
敢えてするに勇なれば、則ち殺、敢えてせざるに勇なれば、則ち活。此の両者、或いは利あり、或いは害あり。天の悪(にく)む所、孰(たれ)か其の故を知らん。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして自ずから来たし、?然(せんぜん)として善く謀る。天網恢恢(てんもうかいかい)、疎(そ)にして失せず。

2月27日 学修塾ダンデリオン ツイッター記事転載

先ほどアップしたやりとり
☆「言葉の呪縛」からの解放 2019年3月2日  諷虹宅:  http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/243/
は、この記事の内容もふまえて語り合っています。

(老子道徳経68)善(よ)く士たるものは武ならず。善く戦う者は怒(いか)らず。 善く敵に勝つ者は与(とも)にせず。 善く人を用うる者はこれが下と為る。 是(これ)を不争(ふそう)の徳と謂(い)い、是を人の力を用うと謂い、是を天に配すと謂う。...古(いにしえ)の極(きょく)なり。
【大体の意味内容】 立派な武士は、決して武張(ぶば)った態度を取らない。すぐれた戦士は、怒(いか)りを顕(あら)わにしない。よく敵に勝つ者は、相手が望む戦闘パターンに巻き込まれたりはしない。 上手に人を使用する者は、その人に対してへりくだり、謙虚に対応する。
これを「不争の徳」すなわち他人と争うことなく敵味方ともに合わせ呑(の)むような仁徳というのである。またこれを、「人の力を活用する」つまりその人が、「誰かの命令に従って仕方なく労働する」のではなく、自ら進んで力を尽くそうという意欲や身体能力を発揮しやすい状況を整え、活(い)かすことなのである。こうしたことを総じて「天に配す」といって、人間同士の矮小(わいしょう)な論理をぶつけ合い消耗しあうことなく、天の摂理・原理といった大いなる合理性にすべてをゆだねてしまうことだ。それこそが太古から働く「道・徳」の極致である。
【お話】 二〇〇二(平成十四)年にサラリーマンでありながらノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏がNHKスペシャルで取り上げられていました。自分の「業績」に疑問を持ち、受賞後も「自分に何ができるのか」と十六年間苦しみ続けてきたとか。
「一滴の血液でアルツハイマー等、あらゆる病気を早期発見する」という技術を確立するべく、名もないけれど可能性を秘めた若手研究者たちを発掘しては雇用(こよう)し、共同研究に取り組む、そんな歳月だったと言います。そうして遂に、アルツハイマーの早期発見を可能にするタンパク質を発見したのです。
これが医療の現場に実用化されるようになれば、治療の革命・革新(イノベーション)が起きるのは間違いないそうです。 「スマホとかSNSといった技術革新(イノベーション)が日本から起こらないのはなぜか」とアナウンサーから質問された田中氏の答えが素晴らしい。
「イノベーションというのは奇抜(きばつ)なことをするのではありません。 本来の意味が、『関係なさそうな事柄を、それまでとは異なるやり方で新しく結び付けること』です。 従来の地道な努力や失敗を否定するのではなく、そうしたことに新しい解釈(かいしゃく)を加えて、何か発見できれば、それがイノベーションなのです。 私自身が失敗だらけの人間ですし(笑)」 「天才ならこんな失敗しないだろうなということを、私は素人だから犯してしまう。でも素人だから、自分の愚かしさに気づかずやり続けてしまうんで、そのおかげでたまたま新しいことを発見できてしまった。
それが私のノーベル賞だったんです。」 と。受賞によって広がった人脈や学会へのかかわりを通じて、埋もれたままの若い才能たちに協力を呼びかけ、「部下」となってくれてからも最大限、敬意を払って盛り立ててきたそうです。つまり田中氏は受賞後こそ旺盛に、地べたに這(は)いつくばうようにして研究活動に邁進(まいしん)してこられた。 感動しました。 「次の『シーズ(種)』を育てるのも、先達者の務めなのですね」とアナウンサー。でも田中氏の穏やかな表情は、(私は『先達』ではなく、彼らに「友人」になってもらったんですよ)と語っていました。
研究を成し遂げるのも、自分ひとりの力ではできない。 柔軟な発想を持ち、失敗を恐れず、根気よく取り組める若い力ができるだけたくさん発揮されてこそ、ほんとうの成果が得られると、田中氏は知っているのです。 老子の言う、「人の力を用う」であり、「天に配す」ことなのでしょう。

☆「道」と「自然(じねん)」① 「学習塾ダンデリオン」ツイッター記事

やりとりのきっかけとなった 2019年 2月4日 「学習塾ダンデリオン」ツイッター記事の転載です
「お話」では東日本大震災のことなども例に出されています。
(老子道徳経 下編徳経65)古の善く道を為す者は、 以て民を明らかにするに非ず、将に以てこれを愚かにせんとす。 民の治め難きは、其の智の多きを以てなり。 故に智を以て国を治むるは、国の賊。...智を以て国を治めざるは、国の福なり。 此の両者を知るは、亦た稽式なり。常に稽式を知る、是を玄徳と謂う。 玄徳は深し、遠し。 物と与(とも)に反(かえ)る。 然る後乃(すなわ)ち大順に至る。
 【大体の意味内容】 往昔(おうじゃく)の、「道」理を善く体得した者は、それによって人民を明敏にしたのではなく、むしろ凡愚であるかのように配慮した。人民で治めにくいのは、自分の利に敏く、「道」理を無視した知識をやたらと振りかざす者たちである。だから功利的な知を重視した政治は、国を害することになる。そのような理知を振り回さずに国を治めることが、国家にとっての幸福につながる。この二つのことをわきまえることが、「稽式(けいしき)」すなわち「法則を稽(かんが)え実践すること」になるのだ。 言い換えれば、この世を成り立たせている「道」理を稽え、その「道」理に従った生き方を実践しようとする努力である。 常にこの「稽式」を知るべく修行すること、これを「玄徳」という。「玄徳」とは「玄(くろ)」くて深く、そして深淵(しんえん)なる生命の「徳(はたら)き」である。 万物が皆そこへと帰還するような、根源である。そのようにして我々は、「大順」つまり「大いなる自然(じねん)への順応」の境地に至るのである。
【お話】この章はよく誤解されます。「愚民(ぐみん)政治(せいじ)」を説くもの、つまり「民衆を愚かな存在にして、支配しやすくするべきだ」と主張していると決めつけられることがあります。しかしそのような浅はかでくだらない考え方とするのは、『老子』全体を読んでいない者の独断に過ぎません(もちろん、「愚民政治」を実行しようとする不届きな権力者や大富豪はたくさんいるので要注意ですが)。 
『老子』全編を通じて忌み嫌われている『智』とは、宇宙・自然・世界・時間(じかん)・空間(くうかん)・人間(じんかん)(『人間(にんげん)』とは本来は「人間(じんかん)」です)の力動的(ダイナミック)な均衡(バランス)をつかさどる「道(みち)」の「徳(はたらき)」をゆがめたり狂わせたりするような、 利益に偏(かたよ)った「智」なのです。
たとえば、東日本大震災で広範囲にわたって街が破壊され津波で流されてしまいました。この後、被災地域の復興のため30兆円規模もの巨額の金額が用意されます。世界第3位の経済大国日本の国家予算のほぼ3分の1に当たるとてつもなく大きなおおきなお金ですが、 被災した人々はきちんと救われたと言えるでしょうか。 到底そんなことはありません。

復興で発生する利権に群(むら)がる大手ゼネコン(general(ゼネラル) contractor(コントラクター)の略:大手の総合建設業者)によって、 放射能汚染も受けている現地での復興作業に伴う危険から、通常よりもはるかに割高の料金が国に請求されました。たしかに危険な現場で働く人々には一応割増賃金は支払われたものの、それでもはるかに高い利益を企業が得られるように計算されていて、まじめな労働者やボランティア、何よりも一番救援の必要な被災者の方々には、そこまで豊かな配慮が届かず、 手を汚さない大企業ばかりが「焼け太り」しています。
「焼け太り」とは火事などで保険金や見舞金などを受け取り、かえって以前より金持ちになることですが、 大手業者自身は「火事」にも遭(あ)わず、よその災害でどでかく「焼け太り」できるので、 災害があると目の色変えて「復興」へ群(むら)がるわけです。こんな風に、不幸があってもそれを最大限利用して利益を得ようとする「智」をどう思いますか。ここに挙げたのはほんの一例に過ぎません。 別にゼネコンだけがずる賢いわけではありません。
日本の様々な分野で、世界中で、道理を無視し、バランスを稽(かんが)みない「智」の行使が当たり前の様に行われています。 2500年前の老子がこのような「智」を何度もやり玉に挙げて批判しているということは、同じようなことはそんな大昔から繰り返し行われていることも意味しますが、だからといってあきらめたり認めたりしてよいとは思えません。

また、自分自身がこうしたずる賢い「智」の行使者ではないと、断定することもできません。そのつもりはなくても、自分だって当事者かもしれないのです。 常に自己批判の精神も、持ち続けなければならないと思います。
        
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