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☆「日々の迷いに向かい合って」① ダンデリオンツイッター記事より

4月8日の「ダンデリオンツイッター記事」からのやりとりです。
私(虚空)などは、自分に卑劣な圧力をかけてきた人物たちにその都度反発はしていますが、時には諸事情で「逆らうことが許されない」という流れの中でずっと生きてきて破綻寸前の現在の状況になっています。
「人知を超えた・・・それこそ自分では思いつけないような意志」の存在があって、「こんな人生にも何か意味があったのかな・・・」(思わず過去形です)という可能性を微量でも実感できなければ、やってこれなかったと思います。(かなり危険水域ギリギリできていますが)
今回も先ずは「お話」⇒「意味内容」⇒「原文」の順での紹介です

【お話】勇敢とは「敢(あ)えて勇(いさ)む」と訓(よ)みます。突き進むにせよ後退するにせよ、ことさらに意思を働かせて行う人為(じんい)には、必ずプラス面もあれば、マイナス面も伴う。極力人為を排して、天即ち宇宙の摂理(せつり)に従うことが、絶対的な価値にたどり着けることになる。

そうしたことは実は、はるかかなたの、手の届かない高根の花であるのではなく、日常(にちじょう)卑近(ひきん)のところに遍在(へんざい)しているのだということなのでしょう。

コンビニでたまたま「三鷹の森ジブリ美術館」のリーフレットを見ました。そのキャッチフレーズに惹(ひ)かれて、思わず一部もらって来ました。「迷子になろうよ、いっしょに。」さすがだなあ、と思いました。森や山に入って方向とか目的地がわからなくなったり、旅先でも道に迷ったり、或いはどちらに行こうか選択に迷ったり、そうした非日常的なことや、日常卑近の生活の中でもあれこれ迷ったりするのが、生きている醍醐味(だいごみ)なのでしょう。

少なくとも、「迷う」のは悪いことばかりではありません。真摯(しんし)に努力しているからこそ、大いに迷うこともありますね。自分の意思や判断では決められなくなってしまう状況。何か自分ではないものに翻弄(ほんろう)されているような、世界そのものが遊働(ゆうどう)してどこかへ流されているような感覚。

それは案外、「天の道」が働きかけてくれている状況なのかもしれません。逆らわずに流されてみるのも一興でしょう。かえって勇気がいりますが…
【大体の意味内容】勇敢に立ち向かえば、直ちに滅ぼされることもあるし、勇敢に逃げれば、助かった命を何かに活かすこともできる。とはいえ、リスクはあっても立ち向かうことに利がある場合もあるし、助かって使命を全うしても、誰かにとっては有害な影響を及ぼされることあろう。

どちらにおいても、利害はそれぞれあって、天が何を憎むかは、我々には諮(はか)り知ることはできない。「天の道」というべき無為自然(ぶいじねん)の道理は利害を超えている。争うことなくしてよく勝つこと。つべこべ言わずとも、よく人々の期待に応える。招かずとも、人が寄り来たる。悠然と構えながらも、緻密(ちみつ)な計略を立てている。

このためには、ことさらに功績をひけらかそうとはせず、無為自然(ぶいじねん)に事は成るのだとわきまえ、そのように努力するものだ。この世に張り巡らされた天道の網は、広大無辺、おおらかにして、しかも水も漏らさない。

(老子道徳経 下編徳経7)
敢えてするに勇なれば、則ち殺、敢えてせざるに勇なれば、則ち活。此の両者、或いは利あり、或いは害あり。天の悪(にく)む所、孰(たれ)か其の故を知らん。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして自ずから来たし、?然(せんぜん)として善く謀る。天網恢恢(てんもうかいかい)、疎(そ)にして失せず。
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2月27日 学修塾ダンデリオン ツイッター記事転載

先ほどアップしたやりとり
☆「言葉の呪縛」からの解放 2019年3月2日  諷虹宅:  http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/243/
は、この記事の内容もふまえて語り合っています。

(老子道徳経68)善(よ)く士たるものは武ならず。善く戦う者は怒(いか)らず。 善く敵に勝つ者は与(とも)にせず。 善く人を用うる者はこれが下と為る。 是(これ)を不争(ふそう)の徳と謂(い)い、是を人の力を用うと謂い、是を天に配すと謂う。...古(いにしえ)の極(きょく)なり。
【大体の意味内容】 立派な武士は、決して武張(ぶば)った態度を取らない。すぐれた戦士は、怒(いか)りを顕(あら)わにしない。よく敵に勝つ者は、相手が望む戦闘パターンに巻き込まれたりはしない。 上手に人を使用する者は、その人に対してへりくだり、謙虚に対応する。
これを「不争の徳」すなわち他人と争うことなく敵味方ともに合わせ呑(の)むような仁徳というのである。またこれを、「人の力を活用する」つまりその人が、「誰かの命令に従って仕方なく労働する」のではなく、自ら進んで力を尽くそうという意欲や身体能力を発揮しやすい状況を整え、活(い)かすことなのである。こうしたことを総じて「天に配す」といって、人間同士の矮小(わいしょう)な論理をぶつけ合い消耗しあうことなく、天の摂理・原理といった大いなる合理性にすべてをゆだねてしまうことだ。それこそが太古から働く「道・徳」の極致である。
【お話】 二〇〇二(平成十四)年にサラリーマンでありながらノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏がNHKスペシャルで取り上げられていました。自分の「業績」に疑問を持ち、受賞後も「自分に何ができるのか」と十六年間苦しみ続けてきたとか。
「一滴の血液でアルツハイマー等、あらゆる病気を早期発見する」という技術を確立するべく、名もないけれど可能性を秘めた若手研究者たちを発掘しては雇用(こよう)し、共同研究に取り組む、そんな歳月だったと言います。そうして遂に、アルツハイマーの早期発見を可能にするタンパク質を発見したのです。
これが医療の現場に実用化されるようになれば、治療の革命・革新(イノベーション)が起きるのは間違いないそうです。 「スマホとかSNSといった技術革新(イノベーション)が日本から起こらないのはなぜか」とアナウンサーから質問された田中氏の答えが素晴らしい。
「イノベーションというのは奇抜(きばつ)なことをするのではありません。 本来の意味が、『関係なさそうな事柄を、それまでとは異なるやり方で新しく結び付けること』です。 従来の地道な努力や失敗を否定するのではなく、そうしたことに新しい解釈(かいしゃく)を加えて、何か発見できれば、それがイノベーションなのです。 私自身が失敗だらけの人間ですし(笑)」 「天才ならこんな失敗しないだろうなということを、私は素人だから犯してしまう。でも素人だから、自分の愚かしさに気づかずやり続けてしまうんで、そのおかげでたまたま新しいことを発見できてしまった。
それが私のノーベル賞だったんです。」 と。受賞によって広がった人脈や学会へのかかわりを通じて、埋もれたままの若い才能たちに協力を呼びかけ、「部下」となってくれてからも最大限、敬意を払って盛り立ててきたそうです。つまり田中氏は受賞後こそ旺盛に、地べたに這(は)いつくばうようにして研究活動に邁進(まいしん)してこられた。 感動しました。 「次の『シーズ(種)』を育てるのも、先達者の務めなのですね」とアナウンサー。でも田中氏の穏やかな表情は、(私は『先達』ではなく、彼らに「友人」になってもらったんですよ)と語っていました。
研究を成し遂げるのも、自分ひとりの力ではできない。 柔軟な発想を持ち、失敗を恐れず、根気よく取り組める若い力ができるだけたくさん発揮されてこそ、ほんとうの成果が得られると、田中氏は知っているのです。 老子の言う、「人の力を用う」であり、「天に配す」ことなのでしょう。

☆「道」と「自然(じねん)」① 「学習塾ダンデリオン」ツイッター記事

やりとりのきっかけとなった 2019年 2月4日 「学習塾ダンデリオン」ツイッター記事の転載です
「お話」では東日本大震災のことなども例に出されています。
(老子道徳経 下編徳経65)古の善く道を為す者は、 以て民を明らかにするに非ず、将に以てこれを愚かにせんとす。 民の治め難きは、其の智の多きを以てなり。 故に智を以て国を治むるは、国の賊。...智を以て国を治めざるは、国の福なり。 此の両者を知るは、亦た稽式なり。常に稽式を知る、是を玄徳と謂う。 玄徳は深し、遠し。 物と与(とも)に反(かえ)る。 然る後乃(すなわ)ち大順に至る。
 【大体の意味内容】 往昔(おうじゃく)の、「道」理を善く体得した者は、それによって人民を明敏にしたのではなく、むしろ凡愚であるかのように配慮した。人民で治めにくいのは、自分の利に敏く、「道」理を無視した知識をやたらと振りかざす者たちである。だから功利的な知を重視した政治は、国を害することになる。そのような理知を振り回さずに国を治めることが、国家にとっての幸福につながる。この二つのことをわきまえることが、「稽式(けいしき)」すなわち「法則を稽(かんが)え実践すること」になるのだ。 言い換えれば、この世を成り立たせている「道」理を稽え、その「道」理に従った生き方を実践しようとする努力である。 常にこの「稽式」を知るべく修行すること、これを「玄徳」という。「玄徳」とは「玄(くろ)」くて深く、そして深淵(しんえん)なる生命の「徳(はたら)き」である。 万物が皆そこへと帰還するような、根源である。そのようにして我々は、「大順」つまり「大いなる自然(じねん)への順応」の境地に至るのである。
【お話】この章はよく誤解されます。「愚民(ぐみん)政治(せいじ)」を説くもの、つまり「民衆を愚かな存在にして、支配しやすくするべきだ」と主張していると決めつけられることがあります。しかしそのような浅はかでくだらない考え方とするのは、『老子』全体を読んでいない者の独断に過ぎません(もちろん、「愚民政治」を実行しようとする不届きな権力者や大富豪はたくさんいるので要注意ですが)。 
『老子』全編を通じて忌み嫌われている『智』とは、宇宙・自然・世界・時間(じかん)・空間(くうかん)・人間(じんかん)(『人間(にんげん)』とは本来は「人間(じんかん)」です)の力動的(ダイナミック)な均衡(バランス)をつかさどる「道(みち)」の「徳(はたらき)」をゆがめたり狂わせたりするような、 利益に偏(かたよ)った「智」なのです。
たとえば、東日本大震災で広範囲にわたって街が破壊され津波で流されてしまいました。この後、被災地域の復興のため30兆円規模もの巨額の金額が用意されます。世界第3位の経済大国日本の国家予算のほぼ3分の1に当たるとてつもなく大きなおおきなお金ですが、 被災した人々はきちんと救われたと言えるでしょうか。 到底そんなことはありません。

復興で発生する利権に群(むら)がる大手ゼネコン(general(ゼネラル) contractor(コントラクター)の略:大手の総合建設業者)によって、 放射能汚染も受けている現地での復興作業に伴う危険から、通常よりもはるかに割高の料金が国に請求されました。たしかに危険な現場で働く人々には一応割増賃金は支払われたものの、それでもはるかに高い利益を企業が得られるように計算されていて、まじめな労働者やボランティア、何よりも一番救援の必要な被災者の方々には、そこまで豊かな配慮が届かず、 手を汚さない大企業ばかりが「焼け太り」しています。
「焼け太り」とは火事などで保険金や見舞金などを受け取り、かえって以前より金持ちになることですが、 大手業者自身は「火事」にも遭(あ)わず、よその災害でどでかく「焼け太り」できるので、 災害があると目の色変えて「復興」へ群(むら)がるわけです。こんな風に、不幸があってもそれを最大限利用して利益を得ようとする「智」をどう思いますか。ここに挙げたのはほんの一例に過ぎません。 別にゼネコンだけがずる賢いわけではありません。
日本の様々な分野で、世界中で、道理を無視し、バランスを稽(かんが)みない「智」の行使が当たり前の様に行われています。 2500年前の老子がこのような「智」を何度もやり玉に挙げて批判しているということは、同じようなことはそんな大昔から繰り返し行われていることも意味しますが、だからといってあきらめたり認めたりしてよいとは思えません。

また、自分自身がこうしたずる賢い「智」の行使者ではないと、断定することもできません。そのつもりはなくても、自分だって当事者かもしれないのです。 常に自己批判の精神も、持ち続けなければならないと思います。

☆「自然(じねん)」についてのやりとり① 「学習塾ダンデリオン ツイッター」原文

今回のやりとりの元になった 2019年1月30日 「学習塾ダンデリオン ツイッター」漢文とそれに関する解説文です
(老子道徳経 下編徳経64)合抱(ごうほう)の木も毫(ごう)末(まつ)より生じ、九層の台も塁土より起こり、千里の行も足下(そっか)より始む。為す者はこれを敗り、執(と)る者は之を失う。是(ここ)を以て聖人は、為(な)すこと無し、故に敗るること無し。執ること無し、故に失うこと無し。
民の事に従うは、常に幾(ほと)んど成るに於(お)いて之を敗る。終わりを慎むこと初めの如くなれば、則ち事を敗ること無し。是を以て聖人は、欲せざるを欲して、得難きの貨を貴(とうと)ばず、学ばざるを学びとして、衆人の過ぎたる所を復(かえ)し、以て万物の自然(じねん)を輔(たす)け、而(しこう)して敢(あ)えて為さず。
【大体の意味内容】その幹を両腕で抱えるほどの大木も、毛先ほどの小さな芽から生まれ、九層にも積み重ねた築山(つきやま)も、一杯の土の積み重ねから起こり、千里の道も足元の一歩から踏み出される。
効率的に事業を営もうとする者ほど、かえってそれをぶち壊しにするし、成果や利益に執着するものは、それを失うものだ。聖人は、ことさらなことを為(な)そうとはせず、故(ゆえ)にぶち壊しにすることはない。物事に執着することがない、故に失うこともない。
人民が、とあるプロジェクトに従事する際は、いつも完成間際になって、それを台無しにしてしまう。最後の仕上げを、開始した時と同じように慎重に、時間のかかることを覚悟のうえで進めれば、失敗することもない。
したがって聖人は何も欲しない、無欲である生き方を欲して、希少価値の高い宝を有難(ありがた)がったりはしない。これは成功するための方法を学ぶことではない。人間の行為として学習するということをなくし、道の徳(はたら)きに生かされている真実を「学び」として、人間中心的な生活態度を本来の在り方に復(かえ)すべきだ。万物に備わる「自然(じねん)の力」つまり「自(おの)ずからあるべき姿へと成り上がってゆく働き」を輔(たす)ければよく、殊更(ことさら)に何かを為(な)そうなどとはしない方がよい
【お話】「無為自然」を「むいしぜん」と読むのは本当の本当は間違いなのです。本来は「ぶいじねん」と読む言葉でした。人間の浅知恵(あさぢえ)で余計なことや、かえって有害なことをするのではなく、すべてのものには、そのものにおいての本来あるべき姿や、成(な)るべき相へと進む力が備わっている「自(おの)ずから然(しか)らしむる(おのずと、そう、あらしめる)」という意味で「自然(じねん)」と呼んでいました。これは生命あるものに限りません。

地球の自転や太陽光や熱の影響で空気の流れや水の循環が起こり、風や雨によって山や岩石がゆっくりと削(けず)られ様々に変貌(へんぼう)したりするのだって、その物たちに備わった「自然(じねん)」なのです。たまたまその場に存在したりそうした現象に触れたりすることも、そのものにとって宿命的な「自然(じねん)」にほかなりません。

明治になって西洋の様々な文化文明が入ってきて、日本語に訳せそうにない言葉もたくさん紹介されたので、漢字の組み合わせで「新しい日本語」が強引に作り出されました。「ネイチャー(nature)」もその内の一つで、もとからある和語では訳せませんでした。
「世界の中で人間から独立して存在する物、大地、岩石、天候、植物、そして動物」といった説明がされる言葉で、生き物や無生物などすべてを包括(ほうかつ)する言葉です。しかも人間とは切り離して考える物だから、ほとんど苦(くる)し紛(まぎ)れに一番近い「自然(じねん)」という語を借りてきて、でもそれだと当然人間も含んでしまうから、「自然(じねん)」とは区別する意味で「自然(しぜん)」と読ませるようにしたのではないかと思われます。

でもそうだとしても、やはり「exists independently of human being(人間から独立して存在する)」という「nature(ネイチャー)」の見方考え方は、私たちにとっては違和感ありますね。人間だって「自然(しぜん)」の一部ですし、「自然(じねん)」が備わっています

「無為(ぶい)自然(じねん)」は、決して「怠けていろ」という意味ではなく、また科学技術や文明と対立するものでもなく、むしろ「nature(ネイチャー)」と対立するものなのではないかと思えてきました。

万物の自然(じねん)を捻(ね)じ曲(ま)げるような営みをせず、私たち自身も含めた自然(じねん)を輔(たす)け、その力によって生かされるよう、努力すること。「今、私にどのような自然(じねん)が働いているか」感覚を磨いて冷静に受け止め、それに従って全力で生命燃焼することが大事なのではなかったか。