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☆ライン記録「くらげがらみ」①  ~「古武術」⇒「寅さん」~

古くは日本神話にも登場する「クラゲ」・・・・・

ラインやりとりでもしばしば「クラゲ」と関連づけての考察は飛び出します。

その中から今年になってからの主なやりとりを6つに分けて紹介します。

2020.01.14 火曜日
18:41 虚空
ちょうど今、平成28年10月14日に「コバルト・ヒマワリ・諷虹」の3人がたぬき邸に来て、忍術の基礎修行である「虚空の技」をしていた時の動画をみていました。
自分を「完全に空っぽ」にすることで、「相手や周囲のことが理屈抜きで察することができるようになる」という技。
途中雑念が入ってきてしまうと、とたんに結果が悪くなっていく様子が記録されています。
「瞑想」とか「負の気を捨てよう」とか思っても、様々なことがあるとどうしても「迷走」状態になる・・・・そこを突き抜けるには???
神話でいえば、黄泉の国にどっぷりと浸かることを突き抜けて・・・ということなのでしょうが・・・・。
*このDVDを観返すきっかけは、フト上原先生の「かぶき十話」を読み返した時に、日本人の「負」に対する構えに関しての記述を読んでもことでした。
20:26 コバルト
瞑想は迷走でいい気もしますけど。
意味を考えたって何も始まらない、意味を考える脳を持たないクラゲ(海月)のように漂いつづける。
何億年も姿を変えず生き続けたクラゲみたいな生き方、それ自体が生きるという事に繋がるなら、からっぽって凄い事なのかも。
「フーテン」(風来坊)こそ生きると言うこと?
行き先は風が教えてくれる。
22:57 虚空 クラゲナスタダヨエル・・・・・
2020.01.15 水曜日
00:05 コバルト
たまたま今日フーテンの寅さん特集を観ていました。
監督や共演者もひな壇に座っていて色んなやりとりをしていたのですが、やはり行き着くところは「人情」になっていました。
寅さんは定職に就かず、露天商をして日銭を稼いで食いつないでいるヤクザ者。
でもなぜみんなの愛されキャラになったかというと、人情という心の「あたたかみ」をもっているから。
細かいところは置いておいてもらって、先生の生き様の中には寅さん要素があると感じますよ。
人間としての基本姿勢が。


00:42 コバルト
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/17663741/


 たまたま見た記事、感情に流された決断は自然に逆らった行為、麻雀でもそうですが牌の声を聴かなくなり、自分自身から湧き上がってくる声ばかりを優先してしまうと、どんどん自分の居場所、存在を見失っていってしまう。
これが悪い意味での迷走になってしまう。



05:54 虚空
自分自身から湧き上がってくる声・・・・深層からの声には耳を傾ける必要があるわけですが・・・現実世界に汚染されている表層からの声にばかり耳を貸してしまうと大変なことになってしまう・・・
と言葉ではいえますが、どれが深層からの言葉で、どれが表層からの言葉なのか、判別ができないことも多々ありますよね。
08:29 コバルト
濃いか薄いの違いが瞑想と迷走なるんだと思いますね。
よく思いつくのがバガボンドでの瞑想(冥界、没入)をよくやっていた幼少期に山の中でこっちか?こっちに行きたいのか?と目を閉じながら刀の聲(こえ)を聴ける状態。
自身をカラッポにした所から始まる。
肉を斬らせて骨を断つなんて言葉がありますが、これは無我(器化)になった状態でしかなし得ない所業。
「我」を持つ内は肉に刃が触れるだけでも恐れるもの。まして斬られるなんてもってのほか。
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☆「競争原理」の幻想④ ~現代人の目先の価値観は通用しない~

先のやりとりから少し間をおいてのやりとり記録からの虚空発言抜粋です。

アニメ「群れなせ!シートン学園」に登場する生き物の中で、ひときわ異質な存在として登場するのが「ナマケモノ」のミユビ。

いわゆる現代人が考えるような意味での「弱肉強食」「競争原理」からいったら、真っ先に自然淘汰されてしまっていてもおかしくないような存在。

でも、自然界の中ではしっかりと生きている種なんですよね。

上原輝男先生は「世界定めの3つの軸」・・・「時間・空間・人間(ジンカン)」を「意識転換のカギ」としましたが、今期アニメでいえば「恋する小惑星」が主として「時間・空間」について、「群れなせ!シートン学園」が「人間(ジンカン)」(種同士の相互間系)に対しての拡張につながっている内容だと思っています。

補足)このアニメ内ではオスは本来の動物の姿で制服を着用している、メスは少女キャラとして擬人化して描かれている・・・という描き分けがなされています。

☆2020,01,24 諷虹宅④
虚空 「恋する小惑星」で「時間・空間」のスケールが今の人間社会のものとはまるで違う、っていう今日の冒頭の話ともつながっているんだけどさ、「ナマケモノ」の時間スケールとかね・・・それぞれの動物によって違うじゃない。食べ物とか習性を超えてのね。

そうした全く異なる基準の時空の軸でそれぞれの生き物たちが共存している、っていうのが自然界だ、っていういことをきちんと描いているよね。
注)「恋する小惑星」を通しての考察ブログ記事
http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/452/ からの4つです

最初は「弱肉強食の精神」っていうフレーズだったから、そういった争いを通してのストーリーになるのかな、って思っていたけど、今のところは異種カップルの話だよね。肉食獣の王者ライオンがインパラの娘に惚れるとか・・・。

異なる座標軸をどう統合させて共存共栄をしていくか・・・っていうのが毎回予想のはるか斜め上をいく展開だから・・・・。
今回の生徒会長の設定にしてもね・・・・。

現代人が考える「弱肉強食」「自然淘汰」ではなくて、藤岡先生の師匠である今西先生の進化論の世界だよ。

今風の考え方でいったら、それこそこのナマケモノのミユビなんて真っ先に滅んでしまうような存在だし、現代社会の発想からしたら「何も生みださない、価値のない存在」ということになってしまう。ほとんど動かないでずっと木の枝にぶらさがって生きているわけだからね。
でもちゃんと自分の生きる領域を持っている。別にナマケモノにどういった存在理由とか価値があるのか、なんて人間が判定しようとするのなんてナンセンスだと思うんだよね。
なんだかさ、今の世の中って、すぐに「何のために?」とか「何かの役にたつの?」とか言い出すよね。で「意味がないような無駄なことならやらない」って。

でもさ、それこそ人類が人類たるゆえんって、生き抜くためだけからいえば必要のないことばかりだろ。アニメだとかネット社会なんてまさにそうじゃない。だって人類の歴史の中でそういったものが登場したのなんて本当につい最近のこと・・・そんなものがない時間の方がとんでもなく長かったわけだよね。

無駄なことが精神も発達させた・・・だからそんなにめくじらたてて、何の役に立つのか なんて考えない方がいいのかもしれないよ。純粋経験の観点からいっても。

それとさ、この前も話したけど東日本大震災で東北のあちこちでライフラインがとまってしまっていても、年配者なんかが特に動じなかったって・・・・「昔の生活に戻っただけ」って言いきっていた。
それに近い感覚は自分の中にもあるよ。特に昭和後期からものすごく世の中が変化したけど、そうした変化する前にもそれなりに生活していた経験はあるから。
だから「そんな生活なんて考えられない」っていうようには思わないよね。だってちゃんと生活していたんだから。

そういう意味では「絶対に必要」なんて信じて疑わないものだって、怪しいものなんだからさ。
補足)このやりとりの後で放送された運動会のエピソード
まともに動けるわけでもないナマケモノが、少しでもみんなの役に立ちたいと考えて、群れ対抗の運動会で頑張る内容。ミユビが所属しているのは人間を含めて異種の集まっている「料理部」。
ナマケモノはそれなりに泳げるということを生かしたエピソードを、映画「ロッキー」風に描いています。
5 運動会
http://anicobin.ldblog.jp/archives/56400989.html

☆「競争原理」の幻想③ ~「共存共栄」は建前でしかないのか?~

*2020年1月11日 やりとり続き

諷虹 最初の「弱肉強食」の時に「神聖な檻」っていう言葉を使っているところが気になっていて・・・。
今の学校教育でという話でいうと・・・ちょうど中3生が自習をしていて(塾)「ディベートって何ですか?」っていうから解説をしたんですよ。論点をはっきりさせて順序だててはっきりとさせていくみたいな・・・それが国会とか民主主義の基本のようになっているじゃないですか。
結局「武力」よりも「弁論」みたいな。それが学校の中とか、表社会の中とか・・・。
でも実際問題、論がたっても、拳銃やナイフには負けてしまう。そういうところが「神聖なる檻」という絶対のものではない。
学校で習ったルールが社会では通用しない部分があるよな、って。
その点ではシートン学園ではティラノサウルスという絶対力を持った担任がいるから、狂暴なクマがいてもちゃんと力で押さえられて、秩序が守られている。
それがあったからギルガメッシュの話とも自分の中ではつながった。

虚空 建前で言うとさ、公民とかで習う国会とか選挙で選ばれた議員の役割、っていうのと現実とはかなりズレているよね。

国会が「これが日本で一番の重要な会議なんだよ」なんていって、小学生に国会中継をみせられるかっていうと、とんでもないじゃない。

「建前とかきれいごとなんてナンセンス」っていうことが正当なこととして堂々と語られているのが今の日本。

江戸とか明治の頃は、もう少し理想論を本気でという気運が残っていたと思うんだけどね・・・いい意味での「大馬鹿者」が若者にも年配者にも多かった。
諷虹 「神聖なる檻」ってある意味で理想郷ですよね。

虚空 その中で教えられる「弱肉強食」だってあくまでも自然界の大きな秩序としてのだよね。だから弱い立場が滅んでいいというのではない・・・そこを普通の感覚での弱肉強食ととらえたら、あのアニメの見方を間違えちゃうのかもしれない。

諷虹 ヤンキー漫画の学校みたいですよね。番長クラスしか残らない。
ヤンキー漫画のクラスって、強者しか残らないみたいな感じで描いていますよね

虚空 でもさ、そうなると残った中でもちゃんとまたランク付けの争いが始まるわけだよね。

諷虹 藤岡先生の言葉にも「ヤ―さんに刺されるかもしれない」っていう言葉がありますけど、「かたぎには手を出さない」とかありますよね

虚空 はなまる幼稚園の組長の娘幼児の言い方だと「素人には手を出すな」だよね。
でも今は、素人とかだからこそ餌食にされる。クラスのボスとかが、弱い者いじめを平気でやる・・・多人数で寄ってたかって。

でもかつてはそんなみっともないことをしたら恥だという感覚がしっかりとあったんだよね。「恥の文化」っていう形でさ。
だから「卑怯なこともしない」って。

諷虹 一般に手を出すキャラってチンピラじゃないですか。組長が一般人に手を出さないのは、部下に上納金とかを要求しているから一般人には手をだす必要がないからなのかもしれませんね。カースト制・・・

虚空 レールガンの学園都市なんてまさにカースト制だよね。だから最も科学が発展している最先端の町、というわりにはかなり治安の悪い区域もあって、危なそうなのがウヨウヨしているように描かれているもんね。

今日のこういう「共存共栄」とか「進化論」の話・・・これは年末の「日本の組織論」とか「発達障害とギフテッド教育」の事とかに全部つながってくると思うんだよね。

参考)実際にアニメ「群れなせ!シートン学園」は異種同士の交流が主たる内容になっている・・・
もちろんギャグ要素たっぷりなので、実際の自然界ではありえないエピソードも多々あるが・・・(ライオンがインパラに恋をする 等々)


そういったテーマの話が盛りだくさんのアニメが今、放送されているということに時代の流れ・・・制作している方々の願い・・・が反映されているように感じています。
第2話 ,ナマケモノ 猫
http://anicobin.ldblog.jp/archives/56319142.html
第3話  インパラ
http://anicobin.ldblog.jp/archives/56350274.html

☆「競争原理」の幻想② ~藤岡先生による「生物界の実相」解説~

*2020年1月11日 やりとりの続き

虚空 自然淘汰とか弱肉強食とか成果主義っていうことで、それがいつもテーマになっていたアニメとして「とある科学の超電磁砲(レールガン)」のことを思いうかべてたんだけどさ・・・・ちょうどゆうべアニメ3期の放送もあったこともあって。

あれもレベルとかランクづけでという・・・・でも、分かりやすいのは佐天さんがらみのエピソードだけど、能力者じゃないから発揮できるというのが描かれるだろ。
最強の能力者が単独でもダメ・・・いろんな人達が力を合わせる。
あるいはさ、当麻とアクセラレーターの「最強と最弱」の戦いだって、単なる実験動物扱いだった妹達の力も借りて勝つわけだよね。

そういう意味でやっぱり能力のあるなし・能力のランクを超えたどの存在にもそれぞれに意味があるという「共存共栄」を描いている

さっき中学生に藤岡先生の言葉もちょっと紹介したんだけどさ・・・藤岡先生の師匠の今西錦司先生の提唱した通称「今西進化論」

学会では相手にされていないようだし、根強い反対論者も多いんだけど、「住み分け」がキーワードの進化論なんだよね。

だから単に強い弱いとかではない。
優れたものだけが残って役立たずが淘汰されるのではない。
それぞれに意味があるという進化論。
ネット検索 コトバンク
京都大学名誉教授の故今西氏による生物の進化論で、「棲み分け進化論」と言われる。

これは、生物は棲み分けを可能とする方向に新たな種が発生し、もとの種と対立しながらも補いあうように共存するというもの。これにより多様な種が展開され、棲み分けが密度濃く塗り重ねられることによって生物は進化を遂げるという。 

この、棲み分けをしている集団を「種社会」と呼び、種社会を構成している個体は、変わるべきときがきたら一斉に変わるとされる。

諷虹 ギルガメッシュの事の解説でこんなのがありますね。

ネット検索
かつてのウルクにはどんな人間にも役割があって代わりは居なかった、奴隷さえも必要な存在だった。しかし現代は人が多すぎる、個人の変えなどいくらでもきく、だから余計な人間を間引こうというのがギルガメッシュの目的、貧しさよりも個人の存在価値が高かった。

虚空 それで中学生に「理科で習う弱肉強食はどっちに近い?」って聞いたんだよ。そしたら「共存の方だろう」ってね。
参考
実際に中学3年生の理科の内容には、自然界の大きな循環・生物相互の関係が従来よりも多く記載されています。
それから藤岡先生が児言態に語った記録の一部を紹介した。
(平成3年 4月6日 藤岡善愛先生を囲んで 「上原輝男研究室」にて)

『こういう具合にして、今日我々が本当に描くことの出来る生物の世界のイメージというのは「共存している」ということこそ軸になっておるという問題です。
 

で、そこでマア一つだけひっかかりますのは、何故いまだに競争をしてですね、生存競争を通して進化するという考え方になるのかというときに(中略)ヘビから上手に逃れた蛙がですね、子孫をよおけ残すことによって一層優れた蛙になっていきおるというイメージがあるわけです。

ところがどの蛙がどのヘビに食われるかという個体を特定するのでなければ、そこそこのヘビがそこそこの蛙と食っている、というだけのことでありまして、そういう関係を通してヘビという方と蛙という方が共存共栄できているわけです。

つまりヘビの方はエサがなければ暮らしていけない。蛙の方はある程度食われてくれなければ人口が増えすぎて困るわけですね。で、勿論ヘビは蛙だけ食っているわけではないですけど、まあ、話を簡単にするということです。で、そいういうことでお互いに食われる方はですね、食われる事によって人口調節をしている。で、食う方は食う事によって自分の種の生存を確かにしていく。

ところがこいつはまたそいつを食うものが片一方にいるわけです。それを天敵と呼んでいるわけですけれども、そういうので、お互いに天敵がたくさんあってネットワークを作っている。そういうのが生物の世界なので・・・この頃は生態学の知識がこの頃普及してきたのでこれは先生方も御存知だと思いますけれども・・。

 そういうネットワークができているというのは、ですから、個体の話ではない。一匹ずつの話ではない。一匹ずつの話をすると私というこの一匹はどっかのオオカミに食われるかもしれない。あるいはどっかのヤーさんに殺されるかもしれない。

だけれどそれは特定の個体に注目しすぎるから、そこにいかにも問題が大きいように見えるわけですけど生物の世界のあり方という立場かれ見れば、そういうことをすることによってお互いに人口調節が出来てて、そうして生物の世界全体としてバランスを保っている、という状況がある。

だから個体で食うか食われるかということにあんまりこだわるとですね、生物の世界ちゅうもののイメージは持ちにくくなるんだ、という具合に考えて頂きたいのです。つまり生物の世界というのはお互いにそれぞれの生存がどのスピーシスもお互いにこう・・・食われるという事も含めて持ちつ持たれつをしている

 で、そういう例はいっぱいありまして、時間があればまたそういうお話しはいたしますけれど、マア、最初ですから生物の世界をどうみるか、どんなイメージとして持つかという時に、生存競争の問題ではなくて「共存共栄」の問題なのだと・・・

もちろん共存共栄という時に「ワア嬉しい」ってニコニコしているイメージは別に持つ必要はないのでして、要するにお互いにこう持ちつ持たれつでそれぞれが一緒に生存が継続できるという、そういう問題ですから。』

虚空 ちょっと引用が長いけど、これが藤岡先生の遺言がわりの話の時の一部だから。この話を聞いたのは平成3年の4月6日なんだけど・・・それから30年近くたっても、全く改善されていないどころか、ますます藤岡先生の懸念が悪化していると思うんだよね。

☆「競争原理」の幻想① ~「弱肉強食」の実相は?~

「競争原理」「成果主義」が理想的な社会を実現するためのカギという発想の根拠として、しばしばあげられるのが「弱肉強食」「自然淘汰」等々の進化論的な発想です。

優れたものだけが勝ち残っていくわけだから、後のものほど優れている・・・という理屈。

よくあげられる例が、いい加減な業者はつぶれていくから、優れた業者ばかりが残って、消費者にも有益、という類のこと。
同様に、人間においても、優れた人たちが世の中を動かしていくのだからいい世の中になるという・・・


しかし果たしてそれが本当なのか?

世間が期待するような現実的・物質的な結果を出せない存在は「価値がない」「世の中にとって邪魔」なのか?

平成3年 4月6日 に児言態が大変にお世話になったイメージ研究の第一人者であられた藤岡善愛先生が 「上原輝男研究室」にて語られた内容は、まさにその部分への問いかけでした。

今期アニメの中に「群れなせ!シートン学園」というのがあるのですが、そこで描かれているテーマがまさに藤岡先生の問いかけに直結するような内容・・・ということからの語り合い記録です。

*2020年1月11日 諷虹宅
虚空 さっきの中学生・・・たまたま理科の過去問のことから生態系がらみの話になって・・・で、教材に使ったのがたまたまカバンの中に入っていた「群れなせ!シートン学園」。
あの冒頭のセリフから「弱肉強食」っていうことの本来の意味を考えた。

参考)「あにこ便」より第一話のセリフ&あらすじ
http://anicobin.ldblog.jp/archives/56285781.html
《ここは様々な動物が共に生活する動物たちの学園。絶えず異なる種族間の争いが起こる中、生徒たちが弱肉強食の精神を育むための神聖なる檻》
虚空 このセリフを3つに分けてこのアニメの世界定めをつかむことからやったんだけど・・・・
①様々な動物が共に生活
⇒じゃあ、どう生活しているのか?

②絶えず異なる種族間の争いが起こる
⇒この種族というのが、何を表しているか?
そんな実態の中で、この学校はどのような教育目標を掲げているのか?

③弱肉強食の精神を育むため
って、こういうステップをふんでいるわけだよね。

で、「今の学校教育はどういう目標だと思う?」って聞いたら「みんな仲良く」って答えてた。

ただね、「実質はどうだろうか?」って。もちろん教育基本法でも学習指導要領でも学校の掲げている教育目標でもそういった理想が掲げられているけど、世の中の本音はどうか?
それこそ「競争原理」「成果主義」で「結果が出せないものは滅びろ」「ダメなやつが淘汰されて、優れたものだけが残るから素晴らしい世の中になる」ってそういう幻想ばかりが宣伝されているわけだよ。

つまりね、実質「人間の学校」も「私立シートン学園」と変わりない、っていう痛烈な皮肉をこの冒頭のセリフには込めているんじゃないかって。

ただ、そうは言っていてもね、このアニメでよく出てくるキーワードが「群れ」だけど・・・特に異なる種族間で仲良くなれるかどうかというのが大きなポイントになっているよね。
その「種族」を「グループ」に置き換えて、人間の学校の人間関係に置き換えてみると、これも相当皮肉って描かれているように思うんだよね。

食堂での同じ種族ばかりで小さくまとまっている・・・群れをなしている・・・というところとか、欲しいメンバーの奪い合いとか。
あとは馬の群れに入れてもらおうとした狼娘が、奴隷のような扱いを受けている場面。そして仲間に入れてもらうためにはそれを受け入れるしかないと、本人も思っている・・・これなんて、まさにパシリとか、いじられキャラとして一応群れの中にいていい、っていうのと同じだろ。
でも、その一方で狼の群れに入ってやろうという人間とか、シマウマがロバの仲間でも気にしませんわ、っていうとりまきのウマ娘たちも描かれているというのがね。
だいたいそんな感じでさっきは終わった。

それで「弱肉強食」のことになったんだけど、電子辞書で調べると、いくつかの国語辞典によって微妙に違いがあるんだよね。

同じ「犠牲」っていう言葉をつかっていてもかなり印象が変わる。
電子辞書より
・広辞苑
(弱いものが強いもののえじきとなる意)
弱者の犠牲の上に強者が栄えること。「ーの世の中」

・明鏡国語辞典
弱い者が強い者のえじきとなること。また、弱い者の犠牲によって強い者が繁栄すること。

・故事ことわざ辞典
力の弱いものが強いものの犠牲となって餌食となること。また、弱いものが強いものによって滅ぼされること。

・四字熟語辞典
弱い者は強い者のために滅ぼされること。また、強い者の繁栄は弱い者の犠牲によって築かれること。

・言葉の作法辞典
弱者の肉が強者の餌食になること。弱者が犠牲になり、あるいは搾取され、強者がますます栄えること。「弱」と「強」とが対になっている四字熟語なので、「強」を「共」とはできない。「弱肉共食」では意味が通じない。

虚空 中学生にこれらの意味の大きな違いを聞いたら「滅ぶ」という言葉に注目していた。
「犠牲」が、犠牲の上に繁栄があるというように、弱い方にも大切な意義があるというニュアンスのと、弱い者は滅ぼされてもしかたがない、あるいは滅ぼしてしまえというようなニュアンス。
進化論の「自然淘汰説」なんかからいえば、弱者は滅びるべきという考えだから、今の世の中でいえば、老人とか障害をもったひとは税金の無駄遣い、邪魔者っていうような本音を抱く人がそれなりに出てきちゃうわけだよ。
学校でも結果を出せない学校には予算を回さないとか、潰れてもいいなんて為政者が平気で言う。

でも、踏み台という意味ではないにせよ、「必用な存在」という意味合いが残るかどうかは決定的に違う。

諷虹 この言葉が言われた時はどういう状況だったのかは分からないけど、現代だったら食物連鎖のことをふまえるかどうかにもかかわる。
イリオモテヤマネコとうさぎなんかでもそうですが、ウサギが完全にいなくなったらヤマネコも死に絶える・・・そうすると、ウサギを弱者と言い切れない部分。
そうすると犠牲的なニュアンスになるのかな、って。

「Fate/Zero」でのギルガメッシュのセリフにありましたよね。
私利私欲のために人を殺したいけど、自分が王だった時には人そのものが少なかった・・・今は雑種にあふれている・・・というようなセリフ。正確には覚えていないですけど・・・

虚空 自意識過剰だよ、こいつは

諷虹 でも一番「王様視点」とも言えますよね。
あと進化論としての弱者は「アリとキリギリス」のような意味での弱者かな、って。