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☆上原輝男先生語録  原爆関連

前半は虚空が別サイトで紹介している「上原輝男先生コーナー」からの転載です。

後半には、先生の被爆体験を綴られた小説「忘れ水物語」の「追い書き」全文を掲載しています。

ちょうどゆうべ中3の家庭教師の時間に、英語で「 
A Mother's Lullaby 」というのをやったこともあり、この追い書きの中の「幼い心」「子守唄」という記述に改めてハッとさせられました。

この英文、児言態が「夜のくすの木」と称して何度も研究授業を行っている文章の英訳ものです。

こちらで全文と訳を閲覧できます。(東京書籍版 ニューホライズン3年)
 
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原爆について(16,8,6追記)
*広島で被爆された先生からは、当時の話を時折伺いました。その中の一部をご紹介します。

 やられて、すぐに立ち上がって防空壕に行こうとするでしょ、その時、防空壕に蜘蛛の巣がはってあってそれを払ってそこに入った。それをしたのをよく覚えていたんだね。
 原爆は蜘蛛の巣すら払えなかったんだよ。(平成六年合宿)
*平成5年合宿研究授業『イメージの停滞からの脱出・イメージの再出発  時間・空間の拡大化とイマジネーションの転換  』にて。六年生の児童に対して)
始めのお話
 ・・・「井の中の蛙」という諺知ってるでしょう。・・・人間というものはなかなか今住んでいる場所、今住んでいる時間、そういうものがなかなか分からない。そこから外に出た時に初めて分かる、というようなことなんですよね。

 (『意識の転換』と板書)
 意識を持っている、この意識が転換する。がらっと変わる。そういうのを『意識の転換』という。
 今日の授業をやって意識の転換が出来る様になるかならないか・・・こういうことを今日はやってもらおうと思っている。・・・
 おじさんの体でもって、おじさん自身が体験したことで、意識の転換を起こさないわけにはいかない事にぶつかったの。それを少しお話しますね。・・・
 (原爆の体験談)
 ・・・おじさんは広島の駅へ向かいました。切符を買うために駅へ入る五~六メートル手前でした。・・・この時にドンだね。そしておじさんは倒れたというよりも倒れなくちゃいけないと思って身体を防いだ。 

ところがその時おじさんの意識は、日常君達が今、君達の意識が普通に働いていると思うけれども、普通の状態ではなくなった。逆上というのわかる?気分が逆上してしまう。あるいは興奮してしまう。上がってしまうわけだ。普通の状態でなくなってしまう。意識が。転換を起こし始める。
 
今、甲子園野球やっているね。初めて甲子園に行くとピッチャーが上がっちゃって、どこに投げていいのか分からないというような状態、時々起こす。・・・原爆でやられるんだから、当然逆上して訳分からないという状態になる。

・・・おじさんはもはや広島の駅に切符を買いに行ってるなんてケロッと忘れてしまっている。そしてそこが広島の駅前であるということも分からなくなった。なぜ分からなくなるかというとねそれは道が道でなくなる。道がつぶれたから。・・・建物は壊れてしまって、だから当然広島の駅はそこにあると思っても見えない。

・・・今乗ってきた市電は既に倒れている。横になっている。そうすると大変なことが起こったということすらも分からない。人間というのは。
 この場所が広島の駅前だという認識ができない。今君達は北東小学校のこの教室に今いると思っている。だけども次の瞬間に君達は「ここどこ?」ということが起こりうるんだよ。今、丁度四十一分。君達は四十二分にもここにこうしているって思ってるだろうけれども、今ここで原爆が一発、バンといったらここにいることすらわからなくなる。そういう体験をおじさんは持った。

 もう一つ言っておこう。自分のとなり、見て御覧。その人は男の人であるか?女の人であるか?わかるだろ。原爆が一発落ちたら分からなくなっちゃう。・・・怪物の中にいるようなもんだよ。自分の顔だけ見られないから自分だけ人間の顔だと思っている。ところが回りはみんな怪物なんだね。そういう状態が起こった。だから、まとめるよ、最後に。

 人間の意識はなんという頼りないものだろう、とおじさんは思った。ここが広島の駅前であるということすらもわからない。隣にいるのが男か女かそれすらもわからない。こんな状態になりうる。

 人間の意識って何が本物なのだろう、とその時考えた。

 今日、君達にはこれから『意識の転換』ということを勉強してもらう。じゃ、先生かわるからね。



もっと当時の様子を詳しく語っている記録もあるのですが、先生はよく
「人間っていうのはおろかなものだよ。だからさ、原爆がいかに恐ろしいかとか、どんなに悲惨だ、なんていうことを伝えたってだめだよ・・・。
それよりも伝えなければならないことは・・・・・」
この「・・・・」の部分を正確に記録したものがどこかへいってしまったのですが、たしか「そうした愚かな状況の中でも人間が失わなかったもの」というような話だったと思います。それであまり生々しい内容の話は今回は載せませんでした。

先生がその後日本人の無意識の世界を探り、子供の心の奥底にある「純粋な世界」を探る研究に進んでいったのも、そうしたことと決して無縁ではなかったのでしょう。

乱れた世の中で子供達もマイナス面ばかり表に出てしまう現代だからこそ、純粋な子供らしい姿を追求したページにしたいわけです。

*H16,8,6追記
それよりも伝えなければならないことは・・・・・」という事の一つについて、先生の執筆した私小説ふうの小説「忘れ水物語」のあとがきにありました。(最後に後書きの全文を掲載)
(丸木夫妻の原爆の図をみて)丸木氏が、木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねばならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。

・・・以後、馬歳を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。

しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残されねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった。
そんな時、ふと、巻頭に揚げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。
忘れぬる あしたの原の 忘れ水  
行くかたしらぬ わがこころかな
・・・忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいんだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。・・・・・

*H21,8,6追記
人間の感覚なんていい加減よ。・・・原爆にあって、やっとの思いで防空壕へ歩いていったわけさ・・・そうしたら一人のおじいさんがいて、背中のところの服が燃えてるのよ・・・でもじいさんは火がついて燃えているのが分かんないで平然としているのね。だから僕が言ってやったのよ「じいさん、背中が燃えているよ」って。そしたらじいさんが僕の方をみながら「あんたもでっせ」って・・・。で、足を見たら僕の足にも火がついてて足が炭のようになってるの・・・。でも言われるまで火がついているのも全く気がつかなかった・・・・。

それで火を消してちょっとしたら、そのじいさんが小さな声で「いてっ」って言ったのね。それを聞いた瞬間僕にも痛覚がよみがえってきて、足に激痛を感じるようになった。(中略)

最後まで戻らなかったのが嗅覚ね。実家に戻って意識不明が続いて・・・意識が戻ってから何日かしたある日、ものすごく臭いのよ。何だろうこの匂いはと思っておふくろに聞いたら「今までこの匂いが分からなかったの!」ってビックリしてた。僕の体から出ている匂いだったのね。・・・

人間って不思議だよ。嗅覚がないと汚いものも汚いって感じなくなるんだから。
*常識がくつがえされた時にトランスフォーメーションを起こすのか、という問いに対して
 そうだよ。なにしろ常識を早く作りすぎたのがいけない。まず常識派をつぶさなくちゃいけない。つぶすのは簡単だよ。僕なんか絶対常識についていかれんもんね。何としても、もう意地でもついていかないもん。 だって原爆をみている人間が何で常識になんかついていける。・・・こうやっているけど、次の瞬間、アッと言ったらもうこれ消えるんだよ。・・・
 トランスフォーメーションを起こすのは『今までの構え』を捨てる時だとも言えるよ。だから『構えの構築』とは『イメージの構築』と言ってもいい。

:*築地小劇場関係の原爆慰霊祭で、供養の為に突然話 しをするように言われた時の事)
 「お前の思った通りに言えばいいんだ。」って言うから、第一声『原爆は美しかった。』って言ったの。 まわりの反応、キョトンだよ。キョトンどころか、はった先生は「もう何を言うか、このバカ!」っていうような表情。思った通り言え、っていうんだもん。原爆は美しかった、って俺だけだろうな。・・・
 
僕はキザで言ってるわけでも何でもないのね。一瞬でしょ。だから、今言える事は「心身離脱」があったのではないか、って。そうでないと、あんな事、シャーシャーと言えないよ。離脱してたんだと思うよ。それで正直に言え、っていうから・・・。
                (平成七年合宿)
*2019年7月12日 T・K先生のメールで紹介されていた言葉

意識のベースをさぐる、今回もそのようなテーマになるのかもしれませんが、聖徳で「イメージ世界の雪になる」(平成8年)の授業をした折の先生の話です。子どもたちは時間経過あるいは空間の限界などの意識が非常に鈍い結果に終わった。その結果を受けて、
具体的なイメージを起こしてもらう刺激のために言いますと、私が原爆にやられて、小説まがいのものを書いたのは、広島から私の郷里、兵庫県なんですが、広島から帰ってくるその中に放り込んでいるんですね。えぇ、だから今まで、かっこいい言葉を使っているのは母体回帰というような言い方をされますね。

人間のイメージの一番の基本になっているのは母体回帰、母の胎内に帰ろうとする、母の胎内から出てきてまた胎内に帰ろうとする、そういう原則を持っているのかもしれないという気もするのですね。

それからもう少し思い切った言い方をすると、母胎に帰るということはまた闇の世界に帰っていく、だからその作品読んでみると不思議に明るいこと書いてないんですね。
*「忘れ水物語」   追い書き  (上原先生御自身の被爆体験を綴られた小説)

 いざ出版するとなると、この作品の性根のようなものからいって、そうすることが適当であるのかどうか迷ってしまう。
 深くて長い。それでいて、明暗の分かたれぬ以前の薄明と沈闇の、未発の状態でいることが。いまだに正しいように思えてしまう。

 原爆のことを書こうと思ったのは、その傷跡がまだ傷跡とも固まらぬ頃であった。正しくは、書こうなどという意志からよりも、興奮のうわごとを書きつけていたというべきであった。
 そして、その頃、二つの作品を見て、以後、私は筆を折った。
 映画”原爆の子”と、丸木夫妻の”原爆の図”であった。
 世評はいずれも大反響があったが、私は、映画では身震いするほどの嫌悪感を抱き、絵画の前には不思議に素直になれた。人間が破壊されているのに、破壊されない人間が、破壊された扮装をすることに憤りさえ思ったのを忘れない。これ以上の凌辱があるだろうかと思い。人間の愚かしさをつくづく思った。それに較べて、丸木氏が、木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねぱならぬこと、後世に伝えねぱならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。ただし、そのような筆の持ち合わせが、私にあろうはずはなかった。
 折しも、原民喜が、原爆はカタカナでなければ書けぬと言った。私はいまでも、名言であり、箴言だと思っている。

 以後、馬齢を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。
 しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残さねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった
 そんな時、ふと、巻首に掲げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。

  -別れぬるあしたの原の忘れ水
    行くかたしらぬわがこころかなー

 木作品が、自伝的であり、私小説ふうたのは、決して意図したことではない。ただ、思いに従うことによってのみ、別れても、別れ離れることのない昨日があしたに続いていることに気付かせられたことによる。
 忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいのだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。なぜ、人は子守り唄を唄って、幼な子を寝かしつけるのであろう。なぜ、その眠らせ歌が子守りであるのか。子守り唄には時代かない。また、場所も特定ではない。むしろ時間を捨て、特定場所から遊離することによって。幼な子は夢の中に安らぎを得ることを、人は承知しているにちがいない。

 八月六日、午前八時十五分、私は、広島駅頭に在った。しかし、その時、その場所を、私の知覚は見失った。意識を失ったわけではない。一瞬のうちに、人を包んでいる環境が様変わりするとどうなるか、人は立っている位置すらが分からない。いつ、どこで、何を、のすべてが断絶されて。ここを確定することが出釆ない。建物は建っていて普通であり、戸外であれば、人は歩いていて普通だのに、その普通がなかった。また、爆撃なら、爆撃による破康の過程を見て、人はそう認融し、人の死傷も、傷つき倒れる過程を見て、悲惨の情が喚起されるのに、その過程がなかった。私が習い憶えた知覚の中には、その光景を読み解く能力はなかった。
 この時、私は助けを呼ぶ声を耳にしていない。なぜか。被害の意識が持てるのは、非被害部分を見出した者だけに限られる。
 人は、ただ、うめき、泣いた。いや、ただうめき泣いている物が、どうにか、人であった。
 修羅の巷に、焼け爛れ、腐乱した五体を遺棄して、魂は既に拉致されていた。遠い遥かな妣の国に旅立ちしたかのように、在りし日の記憶が、求めもしないのによみがえった。
 ひょっとすると、死神の招きにあっているからこうなのではないかと思わぬでもなかった。しかし、そんな思いよりも、次々とあらわれる在りし日の在りし姿の方が、私を魅きつけて離さなかった。
 いまでも思う。あの最中、私は左手の甲の異様に膨れ上がったのを、焼けなかった方の右手の平で押しつけ、膿汁をしぽり出していた。そのことを、全く平然と無感動に行い得たのは、ひたすらに妄想の中にあったからではなかっただろうか。現代人は、それを妄想という。しかし、私たち先祖の人々は、それをよみがえりと言った。よみがえりを死からの蘇生などというのは、現代人の錯誤である。よみがえりとは、果たして過去の記憶の再生をいう言葉であるかどうかを、私は疑う。私にとって、決してそれは妄想ではなかった。また断じて過去ではなかった。もし、魂という言葉が使えるならぱ、魂それ自体に働きがあって、未生に帰る作用のあるのを、よみがえりと人は曾ってそう実感していたのにちがいない。
 私はひたすらに、懐郷心にかられていた。人がかく生きたということは、この懐郷心からの遠ざかりをいうのであろうか。人の生命には終焉がある。その終焉があるから、刀折れ矢尽きるが如き生き方を人はかく生きたというのであろうか。その終焉の折に、人は振り返って思う過去の時間が人生だとしたら、あのひたすらな限りない懐那心は一体何であるのか。たとえ、それが死に近い生命体の末期現象だと言われようとも、私にとって、あれは、決して終焉どころか始まりであった気がする

 原子爆弾とは誰が名付けたのか、私は知らない。私だけがではない。原子とは何かを説明出来る人は、専門家以外、そう多いとも思えない。私は音の似通いからばかりではなく、原子に原始を思ってしまう。原子爆弾は、人間を原始に返してしまう爆弾であった。それは人間にとって瞋恚と悔恨との咒符にはちがいないが、それ以上に、逃がれられぬ咒詛の中にしか生きられないことを思わせられた。
   昭和六十二年原爆の日を前に
                            上原輝男
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☆「ことば」「学び」の本質に向けて  7,22以降のラインやりとりから

☆2019年7月22日
02:52 虚空
先ほどツイッターに載せた、ブログアップ等々に関するコメントです。
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☆上原輝男先生の言葉 
「人間の感情構造は、この世に生きるためにあるのではなくて、あの世との交信するために感情構造はあるのだ」(昭和62年)

昨年10月の授業テーマ「宇宙との共振・共鳴」をさらに拡張していく方向で駿煌会のやりとりが続いていますが、その根拠にもなる言葉です。
☆「この人生、夢か幻か・・・」 先日紹介したダンデリオンツイッター記事よりのラインやりとり記録。
現代人が忘れてしまっている古来から日本人も大切にしてきた生活感覚。
こうしたことを失っているから、現代社会に様々な歪みが生じていきているとも言えるでしょう。  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/374/

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09:33 コバルト
https://joshi-spa.jp/921464?display=b



14:30 虚空
現実世界は幻のようなもの・・・と心の底から信じ切れたら・・・作り笑いではなくて、本当に笑えていたら・・・体は「あれ?別に病気でもなんでもないのかな?」っていい意味で勘違いして・・・本当に病的な状況は消えてしまう、なんていうことがあり得るのかもしれないですね。
海外でも「笑い」によって不治の病が治ったという報告があるようですが・・・・

ただ、「そんなわけない」と思いがら「でも一応やってみるか」ではなかなか効果はでないでしょうね・・・。
でも心の底から信じられないうちは実行できないというのでもいつまでも実行できないでしょうね・・・。
そこが古典芸能の世界で今でも残っている「型」の文化なのかもね。
無我というか没我の状態で型を整えていく修練をひたすら積む・・・そのうちに意識しなくても演ずる対象が憑依してくる・・・演ずる相手の神仏であっても・・・っていう感覚。
日々ストレスとかイライラ・絶望だらけの自分はなかなか到達できない境地ではありますが・・・。

(でも、母の身元確認の頃、イカ娘で思わず笑ってしまって、ハッと我にかえって、何かが変わった気がした・・・なんていうのは、こんな境地を垣間見る事ができたのかも????)



15:18 コバルト
一時の事であっても一瞬病気じゃない自分が存在した!っていうのは大きな救いですよね。
大事なのは、いかにそこを広げられるか。
全てを諦めてしまわない事、それこそが和戦なんです。
きっと病名や強烈なトラウマって強烈な自己暗示になってしまうんです!
ある意味病名の宣告ってトラウマなんですね。



15:23虚空
だから・・・明らかな器質の場合は慎重な対応が必要ですが・・・今の教育現場で様々な大人の思惑通りにならない子どもに対して様々な病名をつけることを疑問視しているんです。
そうレッテルをはることで指導を放棄できるかのような場合だってあるから。

無論、そういう傾向に精神がなってしまっている時に、無理強いが逆効果になることだってあります。

でも、それを現段階での事実として配慮しつつ、成長の可能性を信じて普通に関わっていくのかどうか・・・その違いが表面的には同じようにみえても全然違う結果をもたらすと思うんですよね。

もしかしたらそれが大きく花開くのは何年もたってからかもしれないんだけど・・・でもバタフライエフェクトのようなことはおきます



19:08 コバルト
今5年生の子供の宿題を一緒にやっているのですが、問題の意味が最初チンプンカンプンでした(笑)
図の(え)に対して面に漢字の(面)を書けばいいの?メチャクチャ難しいじゃん!ってなってしまい完全なナゾナゾ状態。
そしてプリント勉強って一度思い込んでしまった事からなかなか抜け出せない地獄絵図に陥ってしまうんですね。
懐かしいですが、解けたとしても只の作業という感覚しかなく、やはり大っ嫌いです。
 死んだ勉強です。



19:16 ヒマワリ
面え に平行な面って 面い でいいんでしょ?



19:17 コバルト
そうだよ(笑)


19:48 ヒマワリ
いい頭の体操だなぁ?
自分が今こういう宿題やったら、きちんと解けるのだろうか…


21:28 虚空
何を問おうとしているのかが分かっていると混乱はなくなっていくんだけどね・・・それが分かっていないと、特に大人ほどいろいろな可能性を考えてしまって逆に難しくなることがあります。
頭の体操の問題も、よくできた問題などは、いろんな知識を学んでいる方が難しくなることもあるし。
知識とか大人の知恵というのが「毒にも薬にもなる」ということですね。


こういった位置関係をとらえる問題って、「物事を構造的にとらえる」基礎を養うためのものというねらいで行うんだ、とすれば誰にとっても大切な学習なんですよね。

でもそういったことが感じられないような教え方(小学校や中学校ではそれが普通ですが)ばかりされているから、「こんなことを勉強して何の役に立つの?」っていうことになっちゃう。

この前の社長さんたちとの時にも話しましたが、時折諷虹君と「松下村塾みたいな場を作れたらいいね」という時に「親子一緒に」と言っているのも、そういって視点で大人が学び直すことも人生の知恵を増やす上で大事だと思っているからです。

 Nanba先生が高校生や大人などに対してごんぎつねなどの小学校教材を行うというのにも、そういって意義があるのかな????


 自称、学校の国語なんて大嫌いと強い拒絶反応を示し続けている中3の50円玉君・・・理数とアニメなどを結び付けてのとか、三匹の子ブタなどを通しての国語ではノリノリですが・・・本棚に先週などはなかった何やら新しい本が何冊もあって・・・

それが「理数」と「哲学」を結び付けた若者向けの本とか、哲学者を少女姿にして漫画風にした哲学の入門書・・・。
量子論がらみのもあって・・・どうやら土曜日の内容をもう少し突っ込みたいと思い始めているようです。
よく分からないままも一応全部目は通したとか言っていましたから。
好奇心って、やっぱり大事だなと思いました。



22:08 虚空
極上のみたらし団子画像・・・と思ったら・・・
https://news.goo.ne.jp/article/dailysports/trend/20190722071.html
たまたま目にしたこの記事・・・最後の方に書いてある「おいしそうな絵を描くコツ」というのが、まさにデジタルとかバーチャル全盛の今の世の中に対しての大切なメッセージです!



2019.07.23 火曜日
02:07 虚空
先ほど、駿煌会のツイッターに載せた記事です。
児言態が研究授業で扱った教材、通称「夜のくすのき」と呼んでいるものの英文が中3の英語の教科書(東京書籍版 ニューホライズン)に
A Mother's Lullaby  という題名で載っています。原爆投下時の悲劇を描いています。
読み物教材なので飛ばされてしまうことが多い教材です。

今年家庭教師で教えている中3とも読んでいるのですが、昨日の場面がちょうど投下直後の場面。Many people lost their lives, and many others were injured.They had burns all over their bodies.
京アニのことがあったので、いつも以上にかなり辛いものがありました。

次回から読んでいくところが悲劇の核心部分。毎回一緒に読んでいて涙が出そうになるのをこらえているところなのですが・・・今年はこらえきれないかも・・・
(英文と対訳はこちらのサイトにもあります。
(link: http://rumic10.blog.fc2.com/blog-entry-26.html) rumic10.blog.fc2.com/blog-entry-26.…)


09:54 コバルト
プレッシャー(重力)がある中からでしか本物の問いは得られない。
ただ出来た!だけでは自己満足だったり、他の人を満足させれたりと狭い反応社会だけになってしまうのですが、本物の学びとは問題そのものとの対話なんです。
問題と自身の関係性を見出すことが凄く大事なんだと思います。
やはり構造が違うんです。
どうしても普通に起承転結スタイルでは対話は呼び起こせない。
ピカソ(序破急スタイル)みたいな問い?



13:31 虚空
国内の芸術家でその精神を貫いた一人が 岡本太郎 だと思います。
2019.07.24 水曜日
04:54 虚空
昨夜ブログアップしたことに関するツイッターです。
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☆京アニ放火事件 ラインやりとり②:  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/375/

先日ブログアップした記事(link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/369/) の続きです。
続報のニュースをみるたびに、大変な現実を次々と突き付けらる想いです。
#京都アニメーション #京アニ

☆上原先生の言葉「人間の感情構造」「英才児の 観察」 から教育全体を考えるをブログアップしました。
表題にもありますが、英才教育という限定された分野の話ではありません。すべての教育問題を  考えていく上での基礎となる発想です。(link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/376/
いつもご覧になってくださっている方々からすると、今回の2つのブログ記事はかなり短いので、すぐに読めると思います。

虚空の体調の関係でブログアップするものがかなりたまっていますので、今度はまたドーンとした分量になってしまうと思いますが・・・今後ともよろしくお願い致します。

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2019.07.25 木曜日
07:25 虚空
先ほどブログアップした記事の紹介ツイッター記事です。
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☆「感情やイメージ」のオン・オフ能力  現代社会の歪み改善のカギ?
と称して7月15日以降のラインやりとり抜粋をブログアップしました。
  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/377/

上原輝男先生は中学年での「論理思考」「言語操作性」の授業の必要性を盛んに強調されていました。
同様に上原先生がいつも強調されていたのが「現実世界は幻のようなもの」という古来からの日本人の世界観。

これは「成果主義」や「競争原理」などのような現代の主流の考え方の背景にある「目に見える世界が価値の絶対基準」という世界観とは真逆のものです。
もしかすると、京アニ放火のような、昨今様々な形で相次いでいる「身勝手な言い分による」凶悪な事件や、人間関係の歪み等々も、そうしたコントロール能力が未発達であることに大きな要因があるかもしれません。
(やりとり内ではそうしたことへの言及はほとんどないですが・・・)



2019.07.27 土曜日
11:53 コバルト
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/16837782/
引用です。

ゲームデザインはプレイヤーの体験をデザインすること。だからこそプロダクトをつくるだけではなく、体験自体のテストを経なければ、実際のプレイに耐えるゲームは絶対に完成しません。
それでも、実際にリリースしてから「このルールの方がいいのではないか」「こんな遊び方もできるのではないか」というアイデアが、プレイヤーから沢山出てきます。それらの意見を版を重ねる時に取り入れることもあります。そうしてどんどんゲームを面白くしていくのです。
大事なのは、自分が取り組んでいるゲームのルールを理解し、所持しているカードが「選択肢」なのか「可能性」なのかを見極めること。そして、その2つの使い方を見誤らずにプレイしていくことだと思います



 駿煌会のやりとりを含めて、言ってみればこういうのって虚空先生の授業スタイルなんですよ。
今度の聖徳学園でのやりとりでこういった重ね合わせを起こして、駆け引きの中で可能性を見出せる瞬間を期待しているんですね。



14:03 虚空
それを大いに期待しています。
サイゼリアの時もそうですが、目先のことではなく、根本に関してそれぞれの経験を通して、膨大な時間の考察を蓄積している事実・・・それは昨年10月以降のブログアップの量をみえても明らかだし・・・・(やりとりの全部を載せているわけではないけど、それでもすごい量だよね)


2019.07.29 月曜日
00:23 虚空
ブログアップのツイッター記事です
・諷虹・虚空のやりとりを一気にアップしたのですが・・・どれもが相当な分量でして・・・しかもあまり知られていない今期アニメが中心の話題も多く・・・
でも、上原輝男先生の発想や日本古来の神話的思考などが具体的に考察されているともいえます。是非めげずに目を通して頂けると有難いです。

・金城哲夫氏 × 上原輝男先生 対談にからんで (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/378/
「先入観の壁」  ということから始まってはいますが、それを打破するための「心意伝承」であり「観察眼」であり「論理性」であり「構え」ということです。

・☆金城哲夫氏 × 上原輝男先生 対談にからんで 「理数の発想とからめて」:  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/379/) 
また、上原先生の「意外性」ということに関しての指摘に関しての話題が最近よく繰り返されます。これは単にお話作りだけではなく「真のコミュニケーション」=共感・共鳴の基礎だと位置づけてます

・「まちカドまぞく」からの心意伝承的考察①:  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/380/
特に後半は「日本神話」との関連で考察が進んでいます。
神話というと、どうしても政治的に利用されてきたという歴史から誤解されがちですが、古代日本人の直観した、まさに現代に生きる示唆が満載です。

・余談ですが、虚空の父は古事記研究をライフワークとしていました。単に読み物ではなく「現代に生きる知恵」として。
そんな私が玉川大学に入学して初めての講義が上原輝男先生の「文学」(必修)で講義の内容が「古事記」であったというのには非常に運命的なものと感じました。

・「まちカドまぞく」からの心意伝承的考察② 上原語録「母胎回帰と闇」「観察力と世界の拡張」:  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/381/
このところ児言態のT・K先生とずっとやりとりしている事について、かなりまとまった内容が後半に展開されます。
そこの部分だけでも読んで頂けると核心が感じて頂ける???

・おうち作文をよみながら  ~英才児の特性 から考える 教育全体への視点~:  (link: http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/382/
後半、セーラームーンの破滅の戦士のベースに日本神話があるという話題にもなっています。原作者は高校で地学部、大学は薬学部といわゆる理系ですが、文系もすごい!
どちらもというお手本です!

☆2019,5,17 諷虹宅やりとり③ 「歪んだエリート意識」について

虚空 中身が問題なのにね・・・。
聖徳の子なんていうのは、一般の進学特訓児童っていうのとは違うじゃない。本当にいい意味で子どもっぽい。この前ラインにも書いたけど、いわゆる田舎の子に一番近いと思うよ。特にエネルギーにおいて。


諷虹 そもそもエリートって何なんでしょうね。自分で自分をエリートっていえるのはどういう心境なのか。その根源って何なのか・・・・。
それは親の影響もあるんでしょうね。親の教育が必要。
エリートっていう言葉に対してどういったイメージをみんなが持っているのか・・・。
自分は小さな人間とか鼻にかけている悪役っぽいイメージ

 
虚空 やっぱり他人を見下すっていうのが多いからじゃないかね。


諷虹 見下している時点でエリートじゃないんでしょうね。真の指導者だったら見下さない。中途半端な、、エリートの成りそこないがエリートになってしまっているんですかね。

虚空 特に今の日本はね。「エリート=特権階級」でエリートには許される、っていう変な感覚があるじゃない。

諷虹 バガボンドでも武蔵は高い山があれば登ろうとする・・・でも又八は佐々木小次郎の名を語ったり・・・ズルして安易に手にいれようとする。
相対的に上か絶対的に上か・・・


虚空 昔さ、エリート官僚が特権をふりかざして豪華な接待を受けるのが世間で批判されたことがあった。、厳しく禁止すべきという世論が高まった時に、あるテレビ局が東京大学の学生にインタビューしたら、結構多くの学生が「それは困る。せっかく自分らが官僚になった時に、そういう想いをしたいからこれまで頑張ってきたのに」って。

勿論そういった回答をした学生のを中心に編集して放送していた可能性もあるけど、でも実際に高級官僚になったりしている人の態度をみているとそれが本音かな、なんて思ってしまう。それでも日本が潰れないのは普通の官僚が頑張っているからなんだけどね。


諷虹 今、上級国民っていうのが話題になっていますね。池袋の事故なんかで。


虚空 でもさ、それって教育現場でもあるからね。先生のお気に入りの子が特権意識を持って振舞ってしまうのは。
本当は、真のエリートだからこそ率先して困難を引き受ける姿勢が問われるわけだよね。イギリスだったっけ?

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 ノブレス・オブリージュ(仏 noblesse oblige):「高貴さは社会的責任を伴う」といったことを意味する。貴族は、その社会において、ある程度有利で影響力をもつ立場にいる限りにおいて、必然的に、社会全体の福祉に対する責任を担っているという考え。

貴族以外でも、財産的に裕福になった商人、起業家、また企業自体(CSR、メセナなど)、あるいは単に知識人、文化人、などについても当てはめて考えられ得る。

この言葉自体が用いられ始めたのは、米国であって、そのような概念を言葉にして訴えたりする必要性が出てきた、英国黄金時代のピークがずっと過ぎ去ってから、よく用いられるようになったようである。

また、この概念の実際を示すエピソードとして(適切な事例とは思わなのだが)、一次大戦時に、オックスフォードとケンブリッジの学生が志願兵として戦場へ赴き、学生全体の1/3が、死傷によって戻ってこなかったという事実がよく紹介される。
 
虚空 教育者だってね、本当にエリート意識を持った先生だったら「どんな子でも連れてこい。他の先生が面倒をみきれないという生徒でもちゃんと相手してやれる」っていうくらいじゃないとホンモノじゃないと思うんだよ、極端な言い方だけど。
だから最初に勤めていた町での教育委員会主催のシンポジウムで私立学校の先生が得意げにいろいろと素晴らしい教育実践を話していたけど、聞いていた公立の小中学校の先生たちはしらけていたからね。あんたらは都合の悪い生徒は不合格にして、都合のいい生徒ばかりを集めているんじゃないか、って。

あんたらが面倒みきれないって排除した生徒らを公立学校では分け隔てなく受け入れて面倒を見ているんだ、って。もしも公立のようにいろいろな生徒がいる状態で、そういう教育実践が出来たって言うならすごいと思うけど・・・なんて言っていたよ。

そりゃ私立の先生には、きちんと世間的に認められるような結果を出せなければ成り立たない、っていう公立とは違う厳しさがあるのは承知の上でだけどね。 


諷虹 大学でこれからの先生は教えるだけじゃダメなんです、って言われたけど、それは無理なんでは、って思うんですよね。今までの先生だって教科を教えるだけでもアップアップしていたのに、なんで若い先生が教えるだけじゃない教育が出来るのか。そういう志を持つのは大事でしょうけど。
 
 
 

☆2019,5,17 諷虹宅やりとり② 人間ならではの力

虚空 結局今日の話を一般化すると「デジタルとアナログ」ってことにもなっていくんだろうけど・・・「人間ならではの部分」って何なのか、とかね。
録画だけしてまだ観ていないんだけど、AIロボットがどんどん人間の職場に入り込んできて、こんなことまでロボットが肩代わりできるようになったの、っていう風に加速している、って。それで人間がどんどん失業している。
人件費の節約・・・それによって、普通の人たちの普通の生活が脅かされている時代。
これからますます「AIでも出来ない分野」の力を人間が人間として会得しなければならない時代だと思うよ。
それが相変わらず高度経済成長期の教育・・・与えられた機械的な作業を早く正確にこなせるのが優秀な人材・・・っていう発想は捨てないとね。もっとも歪んだエリート主義で、人間らしい主体性に目覚めた一般人が増えてしまっては困るから、そういうホンモノの教育をされては困る、なんていう本音も見え隠れしているけど・・・。
でも、これからの時代、ネットとか映像とかスマホばかりで幼い頃から過ごしていた子どもなんて、AIロボットに太刀打ちなんて出来ないだろうね。
昭和のアニメなんかでも単に懐古趣味っていうんじゃなくて素朴な味わい・・・緻密過ぎない分、視聴者の想像力による補正も要求される。モノクロ時代なんてまさにそうだよ。どんな色なのかな、なんていう想像力が常に同時に働いていた。
今よりも脳がフル稼働して観ていたんだと思うよ。
情報量が多ければ多いほど、その処理に脳は追われてしまって、自分で補正する余地なんて生まれない。観る側が完全に「受け身」になってしまう。乳幼児の頃からそればっかりやってたら・・・ましてや言語的にも「英語漬け」なんかになっていたら・・・。

この前中学生に「植民地」のあたりの授業をしたんだけど、自国の言語が軽視されるのは本当に屈辱だったわけだよね。それが今の日本では「自ら植民地されたかのような言語教育」をしている。英語教育が絶対ダメとは言わないけど、やっぱり幼児とか小学生には早すぎると思うよ。喜ぶのは教育産業ばかり。


諷虹 深みっていうか・・・補正する意味でいうと「短歌」とか「俳句」ってそうですよね。短い文で心情とか情景を想像させる。


虚空 そういうことばっかりを1000年以上やってきた民族なんだからね。そういった日本人のDNAがスナップ写真を撮る習慣になっている、ってよく言われるけどさ、映像になってしまっているから、想像力の量が減ってしまっている。


諷虹 今ちょっと思い出したんですけど「本日天気晴朗なれど波高し」これが名文として名高いんですよね。「各員一層奮励努力せよ」はなんだか今読むと知波単学園ばかり思い起こしてしまいますが。
(解説文)
https://setsuyaku.ceo/post/411/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2%E3%83%BB%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E4%B9%8B%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E7%9F%AD%E3%81%84%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A7%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B
戦時中の情報伝達は、朝鮮半島と日本間など日本周辺に張り巡らされた海底ケーブルを利用し、モールス信号で行われていた。
 最前線と大本営の間では、情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であったが、伝えられる情報量は1分間で20数文字と限られていた。
 そのため最前線にいる指揮官には、短い言葉で「より多くのことを的確に」大本営へ伝える必要があった。
 この分野で天才と言われているのが、司馬遼太郎作「坂の上の雲」の主人公となった秋山真之(あきやま さねゆき)である。

本日天気晴朗
 まずこの文章は日本海海戦当日(5月27日)に、対馬沖の天気が視界良好でとても良いことを伝えている。更にはロシア艦隊と戦うには絶好の日であること、日本艦隊は戦う準備が十分に整っていることを本部に報告している。
ナレドモ浪高シ
 情報が詰まっているのは後半である。この言葉は単純に波が高いことを伝えるだけではなく、どのような作戦を行うかまで伝えている。つまり波が高いことにより「機雷」が操作しにくく、かえって自船を傷つける可能性もあるため、日本が得意とする戦艦による砲撃戦の展開を本部に連絡しているのだ。
 天気、海戦の可否、戦術に至るまで戦いに必要な全ての情報を、真之は「本日天気晴朗(せいろう)ナレドモ浪高シ」という言葉に込めた。
 同海戦で海軍元帥の東郷平八郎が、Z旗で艦隊総員へ伝えた「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という言葉も、真之が作ったものである。
 たったこれだけの短い言葉で、艦隊の士気は大いに上がったと言われている。



虚空 確かにこういったのを文学的な表現でなく、事実を説明っぽく伝えたら、士気なんてあがらないだろうね。

諷虹 敵が傍受して、この意味が見抜けるか。ロシア語に翻訳したらどうなるのか・・・・

虚空 そこを単に暗号っていうのでもなく、っていうのがミソなんだろうね。これだって、多分一旦は抽象化した上で、類化性能を発揮して、具体的な文として味付けしている。
 
解説文続き
 現代社会においてコミュニケーションツールには様々な選択肢があるため、私達は相手に一度で伝える情報量を意識しにくくなっている。
 しかしながら日本語はとても便利で、漢字・ひらがな・カタカナの3つを駆使すれば、短い言葉でより多くの情報を伝えられるようになっている。
 俳句に「5・7・5」という制限があっても、様々な名句が生まれるのが証である。
 もし一生懸命に相手へ伝えているのに伝わっていないなら、短い言葉に多くの意味を持たせることを意識してみよう。
 今よりも1つの言葉1つの文章に、相手は注意してくれるようになることだろう
 

諷虹 今季やっている川柳少女もね・・・主人公は無口だけど・・・短い文の中に如何に情報量を込めるか、っていう

虚空 あのヤンキーのお兄ちゃんも話言葉ではすっかり五七五だもんね。

諷虹 ラップでも5文字7文字を意識した韻は日本人受けしやすいみたいな話をどっかで聞いたような

虚空 心霊現象のラップ音もこっから来てるのか・・・。

虚空 英語とは異なる言語体系の日本語をラップっぽくするんだから大変なんだろうね。

諷虹 吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」・・・本人は日本初のラップって言っているようですが・・・

虚空 あれも方言だからラップっぽくし易かったんだろうね。
動画サイト https://www.youtube.com/watch?v=e0ZmPYp4r8o
 
若い時の動画と年齢がいってからの動画を見比べる。

虚空 こうやって見比べると、年取ってからのは上手に歌っているっていう感じで・・・若い時とは違うよね。

Wiki解説
吉は1977年(昭和52年)に最初のヒット曲「俺はぜったい!プレスリー」を発表した後、ヒット作に恵まれない低迷期が続く。アメリカのLPレコードでラップ音楽に触れ、そこから着想を得て作った[2]。本楽曲を各レコード会社に売り込むも、全て断られてしまう。最終的に千昌夫が数百万円で吉から原版権を買い取り、この千の支援により1984年(昭和59年)11月25日に本楽曲がリリースされた。

反響[編集]
吉幾三本人が後日語ったところによると、歌詞の「テレビもラジオも電話もガスも電気も無い」など自虐的な部分が、発売当初は出身地である青森県北津軽郡金木町(現:五所川原市)から「うちはそんなに田舎じゃない」と猛抗議を受けたという。また、日本中の小さな農村から「ふざけるな!!」「オラたちの村をバカにしてるのか!?」と凄い数のクレームが押し寄せてきたとも語っている。しかし、彼自身の幼少期は本当に歌詞の内容と近いものだったという[3]。一方で、曲の全国的大ヒットを喜ぶ人も地元に多くいたという。

「レーザーディスクは何者だ?」と歌詞にあり、後日製造元のパイオニアから「レーザーディスクの宣伝になった」ということで、吉にレーザーディスクの再生装置と一部の映像ソフトが贈られた[8]。その後しばらくの間「レーザーディスクは化け物だ!」と歌詞を変えて歌っていたという逸話もある。また、『夜も一生けんめい。』でゲスト出演していた吉が同曲を披露した時には、当時のスポンサーのパイオニアにちなんで「レーザーディスクはパイオニア!」と歌っている。
 

虚空 この歌が受けた精神的な背景って何なんだろうね・・・ただの田舎をバカにしたコミックソングっていう意味で受けたわけじゃないよね????

諷虹 当時どういう社会だったかは知らないですけど・・・東京への出稼ぎっていうのがどう受け止められる時代だったのか・・・。今の東京へ行くと、昔の東京へ行くの違い。働くというイメージが今より強かったのか。今の「東京の会社に勤める」っていうのと、当時の「東京の会社に勤める」っていう違い

虚空 「東京」っていう言葉の響きの魔力・・・・「東京のお土産だよ」っていうと単に都会のお土産とは違うイメージ。

諷虹 ひかねえですね(のんのんびより)

虚空 のんのんにはそんな空気が残っているよね。のんのんびよりの気持ちで吉幾三の歌を聴けばいいのかもね。

諷虹 上洛の感覚なんですかね。それが明治以降は皇居が千代田区にあるから・・・上京っていうのが。

虚空 今でもその名残が上り電車下り電車だからね。

諷虹 山になっている

虚空 自然と東京人が上から目線。

諷虹 八十亀ちゃんがそうですね。勝手にコンプレックスで自分を下にみてしまう。ひかねえは自分が東京暮らしをしたことで、自分も上になった気分。で、蛍は自然に上に見られてしまう存在。新幹線でなく飛行機・・・。

虚空 上には上だよね。
 

☆2019,5,17 諷虹宅やりとり① 肉体の超人化

ブログアップの機会を逃していたやりとりです。3回に分けて掲載します。
*アニメ「異世界カルテット」について
この時点ではまだ児言態雑誌2号の金城哲夫氏・上原輝男先生の対談記事はまだ話題にあがっていませんが、そういうこととも関連した内容です。

虚空 あれだけ異なるアニメを一つにしても違和感がないのは、教室のクラスメートってしたからだよね。クラスだからいろんなやつがいてもおかしくない。

*最近のアニメの続編の作りかたについてのあれこれ
虚空 やっぱり人間が描けていないとドラマとはいえない。ドラマがないから心がゆさぶられない。そういうシナリオを書くことができる若手も育っていない

*ガルパンやことぶき
諷虹 荒唐無稽

虚空 嘘をつくのが上手なんだよ。ベースはきちんとしているから。仮面の忍者赤影であれだけハチャメチャやってもベースはきちんとした本格東映時代劇だったから

諷虹 少林サッカーも、少林寺のふところの深さ・・・なんでも在り得ちゃうんだろうなっていうことで受け入れてしまう。
動画で試合シーン

虚空 マトリックスの少林寺版っていう感じだね。

諷虹 中国雑技団の要素とか・・・あといろんな映画のパロディは入っていますね。

虚空 香港映画はほとんど観てないけど・・・キョンシーズなんかもそうだよね。

諷虹 ヨーロッパなんかの人からすれば、これくらいの在り得ないことだって、東洋人ならあり得るだろう、って思っているんでしょうね。日本のだと忍びなんかの忍者とか、陰陽師なんかのイメージがあるから。

虚空 西洋だと「魔法」の力が必要になるのかな?ハリーポッターみたいに。
超人的な肉体で、っていうのは東洋系。

諷虹 身体能力を頭脳でカバー?錬金術とかね。

虚空 仮面ライダーだってもとは改造人間・・・風の力を受けて、っていう設定もそうだけど、基本的に改造人間って、自然界の昆虫とか動物のパワーと人間とを合体させることで、超人的な能力を、っていう設定。基本は身体能力の延長なんだよね。

少林寺映画はほとんど観てないけど、テレビで観てあれは面白いなって思ったのが・・・何だっけ・・・(ネット検索)カンフー映画の金字塔『少林寺三十六房 』
魔法とかそういんじゃなくて、鍛えぬいて超人的な能力を会得している。
*動画サイトで一部視聴
虚空 これもあれだよね・・・一見関係なさそうな特訓・・・自分は拳法を習いにきたのに全然拳法は教えてくれない。でもそうした関係なさそうなことがすべて役にたってくる。関係なさそうなものだって、繋がってくるっていう実例。

諷虹 仲間になった者たちのそれぞれの長所を合わせていくんですね。・・・やっていることはガルパンですね。

虚空 重ね合わせ・・・量子論的にいえばね。相補性の原理。

諷虹 CGがあったらどこまですごいことやったんでしょうね

虚空 初期の仮面ライダーもそうだけど、CGじゃなくて基本的にはスタントマンとかが実際に動いていたんだよね。この少林寺の闘いシーンも、生身の人間が演じている。もちろん段取りで動いているにしてもね。
そこが、魔法とかじゃなくて、人間が鍛えることによっての延長で、誇張している。そこが魅力なんだろうね。
初代ウルトラマンでもさ、毎回ミニチュアを手間暇かけて作ってぶっ壊す。それがチャチであっても、でも本当にモノを壊しているのは事実だし。
あとは撮影側の緊張感。NG出したらえらいことになるわけだから。撮影だって常に危険が伴う。実際に仮面ライダーで藤岡弘はバイクシーンを自分で演じていて、とんでもない骨折事故を起しているし、スタントマンが撮影中に首の骨を折って死亡している。
高いところから水に飛び込む場面も人形じゃなくて生身の人間が飛び降りていた。さすがに崖の上から落ちる時は人形を落としてたけど。
*「荒野のコトブキ飛行隊 外伝 大空のハルカゼ飛行隊」動画視聴
虚空 これもそれぞれの持ち味で役割分担がちゃんとしてるんだね。これ脚本は誰?

諷虹 横手さんですね。