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☆「江戸庶民の発想」から③ 諷虹・虚空やりとり-1「混沌」・・・魔女・たそがれ時 (2019,02,09~)

☆2019年2月9日 諷虹・虚空
ラインのやりとりでの切り込み方の傾向について
虚空 昨日の「川の流れのように」タイプと、「川の流れを自ら作る」っていうタイプがあるのかもね
諷虹 自分は「合気」かもしれないですね。10の力で来たのを違う方に流す・・・水門を開け閉めしてせき止めたり違う方に流したり・・・
虚空 自分はさ、例えば自主制作映画を作っていた頃なんかは市川崑とか小津安二郎に憧れていたこともあって、厳格に構図とかを優先していた・・・だから川の流れ方も方向もすべて決めるみたいな。でも学校で撮るようになってからは180度ひっくりかえったね。それこそ川の流れのままに・・・自然(じねん)に・・・。
授業なんていうのも原則としてはそんな感じだったかな。意図的に制限を加えての場合は極端に規制したけどね。
*コバルトブルー「光の混沌」とラインで発言
諷虹 混沌っていうと普通は「光と闇」が混ざり合ってという感じですよね
虚空 でもこの流れだと、光そのものの混じり合い
諷虹 なんだか、混沌の元である光と闇自体も、いろいろなものが混じり合って光と闇になっているような・・・素粒子論のような・・・
虚空 次元の圧縮のイメージもあるかな。M理論の・・・。
諷虹 GAのアニメ最終回に出てきた ヘクセンケッセル・・・魔女の大鍋。あれも結局いろいろなものを煮込んでカオス状態になっている。
虚空 それも次元の圧縮でいえば、鍋の中は様々なものがるけど、遠くから見れば「ただの点」・・・
諷虹 (元ネタのコミックを持ってきて)・・・外国の慣用語で大騒ぎとか混乱という意味
(別サイト)http://tabi.chunichi.co.jp/blog/majyo/2015/01/003276.html
旅をすれば、喉も渇くし、お腹も空く。このあたりで一休みして、魔女の料理に舌鼓といきたい。魔女の料理といえば、ヴァルプルギスの夜の宴では塩なしパンや腐ったチーズが供されたと言い伝えられている。これは遠慮したい。ヴェアニゲローデの大通りに「ヘクセンケッセル」という名のレストランがある。ヘクセンケッセルとは毒草や蛇、蛙などを入れてぐつぐつ煮込む魔女の大釜、つまり阿鼻叫換のことをいう。容易に想像できよう。同じ通りに「ハルツブルート」(ハルツの血)というレストランもある。グループでシェアして何皿か食べれば、お腹の中はまさに魔女の大釜状態。
虚空 たしかに小さい頃にアニメとかで魔女がイッヒッヒと笑いながら大鍋に怪しげな材料を一つ一つ入れている場面っていうのは「エー」って思いながらも楽しんでいたね。
諷虹 さっきヘクセンケッセルでパッと思いついたのは百鬼夜行のイメージだったんですよ。妖怪っていろんなものがいるじゃないですか。それが一気に来るようなイメージが。ですが、「ヴァルプルギスの夜」では
(以下、サイトの解説)
古代ケルトにはバルティナあるいはケートハブンと呼ばれる春の祭りが5月1日にあり、この祭りの前夜がヴァルプルギスの夜などと呼ばれ魔女たちがサバトを開き跋扈(ばっこ)するなどと伝えられていた。ケルト人たちは1年を暖季と寒季の2つにわけ、暖季を迎えるこの日を、寒季の訪れる11月1日のサァオインあるいはハロウマスの祭り(ハロウィンの由来になった行事)とともに季節の変わり目として大切にしていた

(中略)歴史的なヴァルプルギスの夜は、キリスト教到来以前の異教の春の風習にちなんでいる。ノース人の風習では、ヴァルプルギスの夜は『死者を囲い込むもの』とされていた。北欧神話の主神オーディンがルーン文字の知識を得るために死んだことを記念するもので、その夜は死者と生者との境が弱くなる時間だといわれる。かがり火は、生者の間を歩き回るといわれる死者と無秩序な魂を追い払うためにたかれ、光と太陽が戻るメーデー(5月1日)を祝うことにつながる。
 
諷虹 日本でもそうじゃないですか。死者と入り乱れるお彼岸とかも「暑さ寒さも彼岸まで」って季節の節目。なんか共通している。お盆・ハロウィン・ヴァルプルギスの夜・・・
その夜は死者と生者との境が弱くなる時間
 
虚空 それが毎日ということになると「黄昏時」っていうことかな。千と千尋のあの冒頭シーンだって黄昏時だもんね。それのスペシャルが彼岸がお盆となるわけだよね
 
諷虹 「逢魔が時」・・・付喪神とか、ゲゲゲの鬼太郎の夜は墓場で運動会、っていうような住み分け
 
虚空 今西進化論のキーワード、出た!(住み分け)
諷虹 「誰そ彼」・・・シュレーディンガーっぽいですかね。観測できなくなる。
虚空 人がいるのは分かるけど、誰なのかは分からないレベルの暗さ。いるようでいない、いないようでいる。まさにあの世とこの世が交錯する境界領域の時空世界
 
諷虹 まどマギでワルプルギスの夜を最強の魔女と位置付けて・・・その時間軸のラスボス、シメということじゃないですか。それがやっぱり死者と生者の入れ替わり・・・新たな時間軸に旅立つ・・・まどかもほむらも
虚空 全人類もだよね・・・
諷虹 それの境界にワルプルギスの夜を置くというのがね。

ちょっと話が変わりますが、ドラクエで死んだ仲間を蘇生させるのは教会なんですよね。
虚空 そういうようなイメージって西洋の教会にあるの?
諷虹 ないんじゃないですかね・・・
(サイト解説)
本編ではDQ2以降(およびリメイク版DQ1)に登場する施設。イメージとしてはキリスト教カトリックっぽいが、実際には違う宗教のようだ。【神父】や【シスター】が奥の祭壇に立っており、話しかければ「生きとし生ける者はみな神の子~」といったような言葉と共に対応してくれる。
主には、仲間を生き返らせたり、毒の治療といった不利な状況を改善してくれたりする有り難い施設。但し、蘇生などには寄付金が必要。
因みになぜ教会で治療をするのかというと、ドラクエのモチーフとなったゲームのひとつである『ウィザードリィ』にて毒や麻痺などで負傷した仲間を教会に連れて行き回復していた事から。
 
虚空 日本古来の霊魂観っぽい部分は感じられるね。肉体は器、そこかから魂が出て行ってしまったのなら、呼び戻せばいいじゃない、という古代日本人にとってはごく自然な発想。
 
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☆「江戸庶民の発想」から② ラインやりとり-2「混沌」「雌雄同体」(2019,02,05~)

2019.02.05 火曜日
07:32 虚空
土曜日に「主体と客体」の転換、さらには自由に入れ替えて発想できる・・・という話もでました。(http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/211/ より記録)
以前社会人クラスでも話題にしたことがある(心理学で有名な)「図と地」の問題とも多分からみそう。・・・「壺」か「向かい合った顔」か

土曜日にはアニメ「ヲタクに恋は難しい」に出てきたBL好きの女性同士の「攻め・受け」論争が「主体」と「客体」の逆転の例として出ました。
これまで社会人クラスの頃も含めて話題になった項目をざっとあげると
・「雌雄同体」・・・カタツムリに関しての上原先生の疑問 戦車のイメージも雌雄同体?

・「日本人はハリウッド的なマッチョは好みではない・・・中性的・病弱なのに強い が好み 沖田総司 バガボンドでの小次郎 吉岡清十郎」(ジャニーズ系。韓流スター) 

・アニメ等々にみる稚児への意識の名残りや「BL・百合」 江戸の「恋」意識
など・・・
どちらが主体でどちらが客体なのかが未確定、あるいはコロコロと変化している状態が「混沌」とも言えるかな?
*この問題と「第三項理論」や「江戸庶民の発想法」(多次元構造の同時進行)・・・それらの関連が「宇宙との共鳴」の基礎の一つとなるんじゃないかと
09:10コバルト
スゴイ??色々繋がってきましたね!
塾考してみます。
11:10コバルト
とても曖昧(カオス的)な事があるというを認める事って、一般的に言っても難しいところですね。
だからスタートラインまでに立つ所まで果たしてができるのか??
だけどそれを理論化や数式化する試みは面白いですね。
人間思い込みで勝手に自滅していく人がいるのも事実、いつまでも残像を絶対視して真実を見ようともしない事ばかり、だからこの曖昧さというのは、あながち真理なのかもしれないですね。
安全安心安定(幻想、幻覚、幻影)(得体の知れないもの)を求めてしまっている現代では、なかなかこの感覚には抵抗があるんだと思いますが、やはり世の中は荒れた環境であって不安定なんだと認識する視野はあった方がいいのかなと感じます
特に選挙なんかは、それの表れで選挙中と選挙後では大概の人間は変わってしまいますから。
21:22 虚空
行動の仕方の是非はともかく、幕末の若者も学生運動が盛んだった頃の若者も「自分も世の中を変える責任をになっているんだ!」という気位を抱き行動に移していたわけですよね。歴史として名が残っていなくても、そんな若者が山ほどいた。
政治家も命がけの責任と覚悟をもって取り組む人が今よりずっといた。
それがどうして今の世の中のようになったのか・・・それを嘆いてもしかたない・・・少数でも行動に移す・・・
「ブレがない」というのもいい面悪い面両方あるわけですが、態度を変える基準が「自分の利害」にあるのか、本当の意味で世の中にあるのか(その場合の世の中っていうのは、自分とも一体感を伴っての世の中)にあるかで、だいぶ違ってくるようにも思います。

☆「江戸庶民の発想」から① ラインやりとり-1「”自分”が複数混在」(2019,02,03~)

2019年2月3日 日
09:09 虚空
T・K先生からのメールの中に、「江戸研究」などでも知られる田中裕子先生の話題がありました。(江戸時代の「色恋」意識の著作は私も持っています)
江戸庶民の発想を「自分の中の複数のアバター」という観点から考察されています。

アバターって数年前に話題になった「サマーウォーズ」でも出てくるネット社会では一般的な用語なのでしょうが・・・ちゃんとした意味を調べたことはありませんでした。
⇒「化身」という意味で、ネットワーク上の仮想空間でのユーザーの分身のこと。
以下メールの転載(部分)です
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1月11日の朝日の記事が目にとまりました。
法政大学の田中優子総長の朝日教育会議における基調講演、記事の見出しに「自分の多様性 社会を変える」
「江戸時代 文化を深めた『複数の私』」とあります。
 法政大学は「ダイバーシティ宣言」を掲げた。多様性を認め合う社会。そこへ向かっていくための一助として
「複数の個人」、すなわち「アバター」というものの存在に注目してほしい。
 本日は「江戸文化とアバター」と題し、江戸時代を現代世界へ通じる社会としてとらえ、未来を考えたたい。
そして、アバターの具体例がいくつも出てくるのですが、
 最たるものは落語だ。落語家は一人で何役も演じる。例えば「粗忽長屋」。
熊五郎が行き倒れた「自分の死体」を抱き上げ、「抱かれているのは確かに俺だが、
抱いている俺はいったい誰だろう」。奇妙な落語だが、人が簡単に分裂しても平気な世界。
江戸らしい。
 
とあります。・・・・・
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
この記事内容をみて郡司先生の江戸庶民の認識法・・・私が勝手に「多次元構造の同時進行」と名付けた・・・を思い出しました。
ああいった観点からすると、当たり前に複数の人格を同時に進行させることができたような、あるいは「パラレルワールド」を意識世界で同時に並べていく・・・というような5次元以上の(?)発想法を普通にとれていた日本人と、第三項理論との関連は興味深いです。
郡司正勝 遺稿集
P73  [江戸の発想]
 歌舞伎の作品を補綴(ほてい)したり演出しだしてから、もう十本ほどになる。
 私がどうも腑におちないのは、必ずといっていいほどに、劇評に、筋がよく分からないとか、テーマに明解を欠くとか、わかり難いという評が焦点になっていることである。・・・
 いったい、どうして江戸時代の庶民が創り出した大衆劇である歌舞伎が、今日の最高学府を出たインテリにわからないのであろうかということである。・・・こういうとき、私は、あなたは教養があり教育がありすぎて解らないのでしょうということにした。
 
 歌舞伎狂言の構成は、仕組むといって、いくつもの世界を、時代の違う世界を、同時に組み合わせて綯い交ぜ(ないまぜ)にして作劇する。江戸時代の奇才鶴屋南北などになると、四つも五つも世界を組み込んで「筋からみあって新しい」と評されるほどである。まァいってみればTVのチャンネルを何分かごとに切り替えて見るようなもので、これに有機的関連性をもたせ、最後には一つに纒(まと)まって決着がつくこうしたのを上々とする。 
 こうした構造を芸術の基準としている、その構造が理解できなければ、おそらく絶対にわからないであろう。近代の学校教育は、西欧的理念と方法によったものだから、はなはだ合理的科学的で、そうした教育がすっかり身についているインテリにとって、こうした江戸の文化の構造や発想様式は、習いもしないし、生活にもないとすると、もう体質的に受け入れられなくなっているのである。日本人も、まったく西欧人なみの頭脳になっていて、すでに江戸人とは異質の人種になっているのではないか。
 江戸人の目は、いくつもの世界を、同時に一緒にみることの能力があった。トンボの眼のように、複眼的構造は、同時に、いくつもの事象をうつしとることができる。あるいは、それは封建時代に生きる者の生活の知恵であった。右か左かを分明しては生きてゆかれなかったこともあろう。なまじい教育のある者にとっては矛盾として受け入れられないものを、おもしろしとして、そこに見るべきものを見た世界構造。それが歌舞伎の構成であった。
 江戸歌舞伎は、テーマを四つも五つも一つの作品に盛り込み、鵜匠の手綱のように、その捌き方の技術を、ほれぼれと舞台で鑑賞するような、そんな生活基盤の美的基準がもうなくなってしまったのかと考えこまざるを得ない。
13:03 諷虹
粗忽長屋は演目名は聞いたことありましたが、実際どんな話なのか知らなかったのでこれを機会にいくつか聞いてみました
 https://www.youtube.com/watch?v=rgeluktyNQo
 今貼ったのは個人的に波長の合う落語家さんのものです(42分とありますが、実際は24分です。)
このようなそそっかしい人間が勘違いして、勘違いして・・・といつの間にかとんでもないことになっていってしまうという話の作りが「村の英雄」っぽいなと思いました。
枕で「オレオレ詐欺」なんかを例に出していますが、思い込み・・・一種の錯覚のような感覚、その人の中で「そうなのかなぁ」→「そうなのかも」→「そうに違いない!」となってしまっていると全貌が見えなくなっていってしまう。簡単なことでさえ気づかなくなってしまう
しかし、それを客観的にみると(語り手視点・視聴者視点)滑稽に見える・・・というところがここ数日話題にしている「主体からみた客体」なんかにつながるのかなぁ・・・って感じです
この手の話だと「主体が捉えた客体」(勘違いしている人がとらえている状況)がいかに狭い領域になってしまっているのか、狭まってしまっているのかというのを面白がっているということなんでしょうかね
そして、村の英雄はそんな風に狭まって狭まって・・・いったものが一気に解放され伝説として語り継がれていったという結末につながった?(圧縮と解放)
この「粗忽長屋」は自分はいったいどんな状況なんだ?と当人が当人を客観視するという次元の変化が起きたところをオチとしているので非常に哲学的というか、「これだけ粗忽な熊ならどんな風に状況を飲み込むんだろう」という広がりを想像させるようなオチなのかなと思います
18:32 虚空
ここで「村の英雄」が再浮上ですね!
落語の動画も観ました。
確かに「私」ってなんだろうという・・・。
夢の中の自分と、そういう夢をみている自分とが割と区別されている場合と、されていない場合があったりして・・・

子どもなんかは尚更でしょうが、自分も子どもの頃から今でも、生涯の中で最も何度もみる夢は「火葬場」そして「葬儀」に関する夢だということは何度かみなさんにもお話している通りです。
自分が火葬される夢、自分の葬儀の夢も何度もみているし。
葬儀のお手伝いをしていてハッと気が付いたらそれは自分の葬儀だったという夢もみているし。
そんな時に、夢の中であっても、この落語と同じような感覚に陥っていることはありますね。
2019.02.04 月曜日
07:41 コバルト
この動画を見て思ったのが、人間のも持つ一番古い記憶にしても大体3、4歳かららしいのですが、脳の成長など科学的な部分を抜きにして、そもそもそういう自我の確立はどうやって発生するのかが気になります。
混沌の中にいる(ウルトラマンのタイトル)みたいな感じ?
https://youtu.be/hSgBCi-1yQE
07:45 虚空
混沌をそのまま認める」かどうかも違いとして現れるんでしょうね。
自我の確立 なんていう立場からすると混沌状態はダメ となってしまうんでしょうけどね・・・
ウルトラマン本放送でこのOPと出会ったのは幼稚園の年少組の頃ですが、その頃から強烈に印象に残っています。
当時はモノクロテレビでみていたので、それこそ墨流しのような混沌から文字が浮かび上がってくる感覚。
余談ですが、ウルトラマンの先行番組としての「ウルトラQ」のOPがカラーとして使われて、そこから「ウルトラマン」と出るというのが今考えてみると面白い流れだった気がします。
さらに余談ですが字幕に「金城哲夫」と出たのも感慨深いものがあります。もちろん会ったことはないですが、上原先生の愛弟子であり、円谷英二氏に彼を紹介したのが上原先生だ、という因果・・・まさかあの幼児期にみていたシリーズの生みの親の師匠と出会って・・・なんて思いもよりませんでしたから。
この主題歌の歌詞って東京一作詞とありますが、円谷英二のお子様でウルトラマンシリーズのメイン監督だった円谷一さんの作詞家ペンネーム。

多分金城哲夫さんと一緒に作詞プランをねったと思うのですが、金城哲夫さんが学生時代に上原先生を通して学んだ折口先生の発想がとっても色濃く反映しています。
一番は「まれびと論」・・・救いの神が異界からやってきて幸をもたらす(なまはげ・お正月様⇒サンタクロースや水戸黄門)
二番は「ライフインデキス(生命の指標)
っていうような感じです。
13:44 コバルト
ウルトラマンは命を2つもっているんでしたっけ?
混沌をふまえると自我ってそもそもとても曖昧なものかもしれないです。
夢の世界って自分以外にもなれるし、それに自我を保ったまま好きな夢をみるという事を何度もチャレンジしましたが、夢を見ている最中に夢を見ている事を自覚したことは、ほとんどない気がします。
精神にある程度の衝撃(プレッシャー)を与えれば自我なんてすぐ吹っ飛んでしまうでしょうし。
ゾーン(超集中)に入っている時なんて自分が自分じゃない感じでもあるから。
16:42 虚空
光の国から迎えにきたゾフィーが命を二つ持ってきていて、その片方をハヤタに与えます。(この頃はウルトラ兄弟という設定がなかったので、ウルトラマンとゾフィーとは初対面という感じでした)
ここで興味深いのは「命」と「魂」とは別々にされているということです。
新たな命を与えられたハヤタはウルトラマンとして戦っていた期間の記憶はなくなったものの、それ以前の記憶はあるわけですから。
日本人の魂は入れ替わる・・・という折口先生の発想の大前提でも「肉体は器」だから魂は入れ替え自由だと。
このあたりも日本人が考えてきた「自分」ということを考察する手掛かりになるかもしれませんね。

☆「道」と「自然(じねん)」④  諷虹・虚空やりとり-3 「人間の特性・魅力」「やらせに神経質すぎる?」等々 

諷虹 AIがその頃にあったらどうなっていたでしょうね
虚空 今はまさにあるわけだよ。で、どんどん人間の領域に踏み込んできている。だからこそさNHKのAI入門番組のキャッチフレーズじゃないけど「人間って何だ?」というのが問われる時代。人間らしい「自然)じねん」さを本気で追求しなければならない時代。

それなのに逆にAIに学ぼう、頼ろう、っていう方向にばかり世の中は暴走している。教育界もそうだと思う。
それこそ「主体」と「客体」が逆転している。人間の脳を模倣してAI研究というのが出発点だったはずなのにね。

だいたいさ「共振」「共鳴」なんていうことから類化性能も発揮して「宇宙レベルまで」なんていう発想の仕方をAIが獲得するのはいつなのか・・・本当にそこまでいけるのか。

それを子ども達は馬鹿みたいに場数をふまなくても生得的にできているイメージ世界を持っているし、知性や論理性を獲得して以降は、そこからさらに飛躍できる。ディープラーニングなんてしなくてもね。
諷虹 アニメ演出で上手に嘘をつく感覚っていうのもね。
あと今の「やらせ」に敏感な世界っていうのも何なんでしょうね。演出っていうことが浸透していないんですかね。
虚空 映像なら真実、っていう錯覚が長く続いたからね。写真雑誌だってそういうことでしょ。「ダイエットの前・後」写真もね。
今だったらちょっとPhotoshopなんかの使い方をおぼえれば合成写真も痩せた写真も簡単に出来てしまうしね。
今まで信じていた映像に裏切られたという感覚があるのかもね。

でもさ、同じ映像素材だって編集の仕方やBGM・ナレーションのつけかたでどうにでもなる。映像編集を長い事やっていたから、それは本当に痛感していた。
だから世の中が「やらせ」で大騒ぎしているのはどこか冷めた見方をしていたかな。ドキュメントだって、作為がなくても番組としてまとめた以上は演出意図は必ず入る・・・これは宿命。
諷虹 かつてはテレビが真実と思われていたんでしょうけど、今は怪しいものが多いネットの方が真実と思われているような・・・

虚空 それはさ、もしかするとネットは「素人が投稿」しているから真実・・・テレビ局のような「加工」はされていないという思い込みがあるのかもしれない。素材のまま。
諷虹 そう勝手に思い込んでいるだけじゃないかな・・・・・。勝手に自分の中で虚構を作って、勝手に裏切られたと・・・
虚空 アニメで自分の思い通りの展開にならないと激怒して、っていうのもそうかもね。
諷虹 世界の中ではプロレスでも「八百長です」って公言しているけど、それでも熱狂して観ている
虚空 アニメやドラマだってシナリオや演出家の作った世界を楽しんでいるんだからさ、目くじら立て過ぎない寛大な気持ちっていうのもね。

諷虹 最近は誰が悪者なのか分かりにくいのが多いじゃないですか。そういう意味ではリリスパは勧善懲悪・・・昭和気質っていうかな・・・。
虚空 根底には普遍的なものがあった上で表面的にはいろんなアレンジっていうのとさ、中身がカラッポでみかけだけ奇をてらうっていうのは別物だからね。
人間の魅力だってそうじゃない?見てくれだけ体裁をとりつくろってもさ・・・。
「盾の勇者の成り上がり」なんて観ていると主人公たちの根幹はかなりガチ。昭和のある時代に一世を風靡した市川崑監督の「木枯らし紋次郎」っぽいとろこがあるからね。
ヒロインはいい意味での「かあちゃん」気質にどんどんなってきているしね。最初は「奴隷と主人」という関係だったのに・・・
諷虹 ルパン三世にもありますよね。次元のセリフで「今回ばかりは降りるぜ。付き合いきれない」なんていっていて、ピンチになるとやっぱり来てくれる・・・。
虚空 紋次郎も次元もどっちもクールだしね。見た目は明らかに情が薄いというか・・・でも見えない部分には優しさが隠れている・・・今風にいうとギャップ萌え???
諷虹 ギャップ萌えというか・・・それも演出なんでしょうけどね。「今回ばかりは」が何回あるんだろうって・・・。それに頼り過ぎているのか・・・お約束になってしまえばいいんんでしょうけどね。

今ふと思い出したんですけど北斗の拳の「雲のジュウザ」・・・誰にも縛られないような雲のような存在・・・「かぶき者」と解説サイトでは紹介されていますね。
重要な役割を果たしたわけではないけど、キャラの魅力だけで読者のハートをつかんだ、って書かれていますね。また「笑顔」についても触れられていますね。
⇒俺は食いたい時に食い、飲みたい時に飲む
俺はあの雲のように 自由気ままに生きるのよ
防具があってはそこに油断甘えが生ずる!!
我が拳の真髄は背水!
我が拳は我流!我流は無型!無型ゆえに誰にもよめぬ!
おれは雲!おれはおれの意志で動く
⇒彼の行動が人々を惹き付けるのは、そこに「笑顔」があるからだ。彼はとにかく笑っていた。死を覚悟した後も、そして死んだ後も笑っていた。その笑顔は一つではない。ユリアを忘れるために作られた偽りの笑顔。虚無を彷徨う己自身への呆れにも似た笑顔。ユリアと再会し死を享受した覚悟の笑顔。そしてラオウの秘孔に打ち勝ち、己の自由を貫き通した事に対する勝利の笑顔。あらゆる場面で様々な笑顔を浮かべるからこそ、ジュウザの行動には魅力と凄みがあるのだ。
http://www.geocities.jp/hokuaniken/chara/hokuto/main/juza.html
虚空 バガボンドの武蔵の境地だね。

このキャラの説明を読んでさ、駿煌会にあてはめたら志向が似ているのが二人思い浮かんだ・・・
諷虹 ジュウザについてどう思ってるでしょうね。・・・・

☆「道」と「自然(じねん)」③ 諷虹・虚空やりとり-2 「川の流れのように」から「老子の 道・自然」へ

諷虹 歩くということも自由だけれど、山あり谷あり・・・でもその地形っていうのがない
分「空」は自由って感じが強まりますよね。微分積分の発想じゃないですけど、空から見ると球体に見えても、地上では平面、あるいはさっき言ったような地形がぐちゃぐちゃあってとても球体だとは思えない・・・
虚空 明日ちょうど朝から雪なんていう予報だから・・・
諷虹 ああ、あの道ですね。(葛西先生からの新聞記事)
虚空 道をすべて雪が隠してしまう。
諷虹 『川の流れのように』の歌詞も・・・・だいたい「美空ひばり」っていう芸名からして(本名 加藤和枝)・・・「陸海空」っていう感じですよね。
美空ひばり きちんと歌ったものとしては最後の映像とされているもの https://www.youtube.com/watch?v=d_Ns_B23LT0
歌詞検索
知らず知らず 歩いて来た
細く長い この道
振り返れば 遥か遠く
故郷が見える
でこぼこ道や
曲がりくねった道
地図さえない
それもまた人生
ああ 川の流れのように
ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように
とめどなく
空が黄昏に 染まるだけ
生きることは 旅すること
終わりのない この道
愛する人 そばに連れて
夢探しながら
雨に降られて
ぬかるんだ道でも
いつかは また
晴れる日が来るから
ああ 川の流れのように
おだやかに
この身を…
虚空 「でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生」っていう言葉が初めて意識にひっかかってきた。
だいたいこの歌ってさ、美空ひばりのことは詳しく知らなかったんだけど、ドキュメンタリーをみたら、この歌はほとんどステージで歌ってないんだってね。もう体が限界の時期で。それでも代表曲のようになっているっていうのは・・・・。
余談だけどさ、美空ひばりが他界したのってかなりお年を召してからだと勝手に思っていたんだけど・・・
諷虹 52歳ですね。 (ネット検索)石原裕次郎も52歳ですね。普通の人がもっと長生きしての人生よりもすごい52年間ですね。
虚空 それが驚きだったんだよね。今の自分より若い年齢だった。その最期の頃のドキュメントだったんだけどね・・・。病と闘いながら壮絶な最期だったわけだけどさ・・・自分もこの数十年ずっと・・・でも美空ひばりの足元にも及ばない。薄い人生。
諷虹 東京ドームのこけら落としコンサートの名称が「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」っていうのもね。
虚空 「荒野のコトブキ飛行隊」から「美空ひばりの不死鳥伝説」まできたね。こんな風に話がつながっていくのも、ある意味では知識とかに変に縛られないで話をつなげていっているからだろうね。それこそ「ああ 川の流れのように おだやかに この身を…」のごとく流れに自然にのって話を展開していったら・・・いつもそんな感じだよね。
諷虹 (劇場版 ガルパン で)継続高校の時に「風」って話題にしましたよね。道行とかとも結び付けて。あの頃から下地はあったんだと思いますね。
虚空 この前のダンデリオンさんの事から話題になった「自然(じねん)」とか、今回の「老子が嫌わなかった「智」って
『老子』全編を通じて忌み嫌われている『智』とは、宇宙・自然・世界・時間(じかん)・空間(くうかん)・人間(じんかん)(『人間(にんげん)』とは本来は「人間(じんかん)」です)の力動的(ダイナミック)な均衡(バランス)をつかさどる「道(みち)」の「徳(はたらき)」をゆがめたり狂わせたりするような、 利益に偏(かたよ)った「智」なのです。
での「智」とは逆の「智」・・・「川の流れのように」のような発想だと「自然(じねん)の智」っていうことになるんじゃないのかね。
諷虹 (ネットで震災復興にまつわる多重下請け問題のサイト。)
虚空 茨城県や千葉県だってそれなりの被害を受けているし、今でもあちこちに傷痕は残っているけど、世間的には被災地扱いされていない。それは宮城や福島と比べると微々たる被害だろうというのもあるんだろうけど、もう一つ言えば「旨味の少ない地域」だからとも言えるよ。もっと遠慮なく言わせてもらえれば「下請けの多重構造ができる余地がほとんどない」地域。膨大な予算が組まれたといっても、本当に救いが必要な人たちが援助されているなんていう実感が全然もてない・・・何年たっても。

今でもいわき市方面にいけばあちこちで護岸工事とかしているけどね。そういった工事が茨城なんかではほとんど行われていない、っていうのはやっぱり本音では旨味が少ないからという見方だってね・・・。そりゃ表向きは被害の大きかった地域優先ということなんだろうけど、純粋に予算が復興にまわっているかというと、かなりの金額が何もしてない人たちのところに転がり込む構図。

まあこれは復興に限らず公共事業などの世界では半ば常識になっているけど。
諷虹 やっぱり「富と名誉」の問題ですよね。
虚空 コバルトブルー君の紹介してくれていたサイトにからんで「仕事」「働く」っていうことについてラインに書いたけどさ、もともとの文字から考えれば「仕事」は「(他人や社会に)仕える事」、「働く は傍の人たちを 楽 にしてあげること」

それをお互いにそういう精神でやっていたからみんなが幸せになれた、という感覚。
これも「共鳴」し合うっていうことだと思うけど。
老子様の真意は不勉強だから分かっていないけどさ・・・・

コトブキのメンバーも仕事の命令として出撃はしているけど、自分たちの気の流れというのを犠牲にして命令に従っているという感じではないよね。
諷虹 だからこそカレーうどんとかパンケーキの恨みっていうのがね
虚空 正義云々よりも私情がかなり混じる。でもそれだから単に職業的な傭兵以上の活躍ができる・・・
諷虹 だからこそマダムに雇われている「月夜の用心棒」であっても・・・
虚空 マダムの手足ではないよね。規格外というか、厳格にコントロールしようとしたら優れた能力を発揮できないということを承知しているよね。

教育でもさ、教師の思い通りに子ども達を自由自在に操ることが出来るというのが専門性っていう見方も強いけど、それではいつまでたっても指導者の枠から出られない。

だいたい出たら怒られるしね。「勝手なことをするな!教えた通りにやれ!!」って。それで「指示待ち症候群」とか「安易にやり方を教えてもらう」という構えの子を大量生産している。高度経済成長期のオートメーション工場社員を育成する価値観を、そのままひきずっているような教育論だと思うよ・・・・。