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☆「恋する小惑星」から ~「地学的時間イメージ」と「ふるさと」意識

このブログなどの運営側の長期通信障害の影響でただでさえ、昨年末から更新できないでいたブログの更新がさらに長期空白になってしまっていました。

やりとりはだいぶたまっているのですが、とりあえずコンパクトにまとまっている話題として、今期アニメ「恋する小惑星」を通してのやりとりを中心に順次紹介したいと思います。


このアニメ、小惑星をみつけたいという幼い頃からの夢を抱いている二人の女子高生が主人公なのですが、入部した地学部が天文だけではなく、地質分野の先輩たちもいらっしゃるということで、岩石や地層の話題も満載。(というよりは地質の方が目立っている?)

ちなみに私(虚空)は、天文も地質の方も、理科的な知識は子供の頃からスルーでした。天体写真をみたり、綺麗な石を拾って集めたり、なんていうことは小学生の頃からしていましたが。

大人になってからは「天体」や「砂や石」の画像を撮って自己のホームページに載せていた時期もあります。こちらも体調の関係などですっかりやらなくなってしまっていましたが・・・

今回のアニメでそうした古い頃からの虫がうずきだしています。

やりとりでも出てきますが「日常」の現実対応意識とは全く違う時空の流れを持っているのが天文や地質の世界。


そういったイマジネーションの世界を呼び覚ましたい、そしてトランスフォーメーション(意識の転換)を起こし、新たな「世界定めをしたい」という気持ちが私の根底にはあります。
2020,01,24 諷虹宅でのやりとりから
 
恋する小惑星 原作のセリフ (一巻 P89)
『数万年ぶりに表に出てきた化石かもしれないんだから、一体何者なのか見定めてあげたいじゃない』

注)アニメ第二話の放送前のやりとり
第2話「河原の天の川」にてこのセリフが登場・・・このタイトルからも分かるように「日常」と「宇宙感覚」との交錯などが、現在の大きな関心事となっています。
⇒あにこ便で静止画つきで主なセリフや流れが確認できます
http://anicobin.ldblog.jp/archives/56298108.html

諷虹 この前でた星が何万光年離れているというのもそうですけど「時間差」ということについて・・・これがテーマの一つなのかな、って。
この主役二人も、幼い頃の約束をはたすことをずっと思っていて、思いがけずに再会して・・・そういう時間差。


虚空 物理的な意味での時間もあるし、イメージ上の時間もあるよね。「差」を生じさせるものには。


諷虹 ちょうど読んでいるところだったんですけど、地学部の部長が太陽系で一番好きなのは「月」って・・・・
「人間が降り立った一番遠い場所」「でも地球からは一番近い星」

虚空 どうしても今は「おうち」とか「ふるさと」とかの事と自然につながっちゃうんだけどさ。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」とかいうのと同時に「原風景」なんていうと最も身近な自分の内側にある、ってなるじゃない。
もっともそのあたりの感覚は駿煌会の若手メンバーが生まれ育った地域の感覚とも違うと思うけどさ。ふるさとイメージの世界のような田舎の真っ只中で暮らしているからね。
辞書的な意味では大都会で生まれても、そこが「ふるさと」ということになるんだろうけど、日本人の原風景の「ふるさと」とはズレてしまうんだろうね。
まあ、これも今の日本人にどの程度あてはまるかは分からないけど・・・・。


ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
「小景異情(その二)」詩集「抒情小曲集」(大正6年9月)


諷虹 東京に来て夢破れた というような・・・・「花の東京」っていう言い方がありますけど、田舎にいるときには東京にあこがれて、東京にでると田舎に帰りたくなる・・・
宇宙飛行士なんていうのもこういう気持ちもあるかもしれないですね・・・猛烈に宇宙に憧れていても、宇宙にでると地球に戻りたくなるような。
宇宙に暮らすとなると人間には無理なんじゃないですかね。


虚空 ガンダムなんていうのはそういう部分もツンツンするのかもね。


諷虹 重力に魂をひかれた人間たち、っていう表現をするんですよね、ガンダムでは。地球に残れるのは上流階級。移民させられるのは下層階級。
宇宙にいった人も地球に帰りたがっている


虚空 宇宙戦艦ヤマトだって有名な主題歌の冒頭は
「さらば、地球よ、旅立つ船は 宇宙戦艦 ヤマト」
だったからね。

そして「必ずここへ 帰ってくると」って・・・。そして沖田艦長は地球を目前にして絶命する。「望郷」なんだよね、ベースにあるのは。


諷虹 アルマゲドンなんかもそうなんですかね、観てはいないんですけど。
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☆「事実」に関する日本人の意識の偏向性 ~真実よりも先行するイメージ~

今年の「ネット流行語 100」で、駿煌会でもたびたび話題にしてきた「まちカドまぞく」に関するある流行語についての、2019年12月20日の諷虹・虚空やりとりです。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1912/16/news137.html

この受賞に関して、上原先生が「かぶき十話」などの著書で盛んに強調されている日本人のイマジネーションの世界が端的にあらわれているように思いました。

こうした日本人古来の特性は現代人の中にも根強く残っているわけですが、それが形だけ西洋的な発想をどんどん導入してきた明治以降の世の中の動きに対して、精神的・社会的な歪となってきている、というのは十分に再検討される必要があります。

それなくして「知識教育」「論理」「外国語」等々のカリキュラムを教育現場や家庭教育にねじ込んでいくと、さらにとんでもない問題を引き起こすことは必至だと私(虚空)は考えています。
上記のネットでの解説サイトから
「では、なぜ二次創作によって生まれた言葉がこんなにも広まりを見せたのでしょうか。それは、「ものすごく原作で言ってそうな感じのするせりふだったから」です。

原作で言ってないだけで言ってる説
前述の通り桃は逃げ出そうとするシャミ子を鍛えまくるのですが、「ちがうよしかたないんだよ」「町とシャミ子のためだからだよ」と諭すシーンが数多くありました。そんな数多くあるせりふの中の1つとして「シャミ子が悪いんだよ」がありそうな気がして仕方ないのです。

あまりにも言っていそうな気がするため、ネット上では「原作とアニメで言ってないだけで言ってる」「たまたまそういうシーンが描かれていないだけで言ってる」「言ってるけど原作とアニメでカットされただけ」「言ってないというのは原作者の勝手な解釈」という新解釈が広まる始末です。

アニメでは鬼頭明里さんが桃の声を担当したのですが、一度アニメを視聴した人であれば脳内再生が余裕でできてしまう謎の説得力があります。こうして「二次創作で百合っぽいことをしているシーンのせりふ」「でも原作でも言っていてもおかしくない自然さ」の2つがいびつな合致を見せ、「シャミ子が悪いんだよ」はネットミームとして1人歩きを始めます。」)

虚空 こうした意識が上原先生がこだわっていたところと通じると思う。
歴史的事実よりも、大衆のイメージの方が先にあって、そちらの方に引き寄せられるという感覚。
それこそ12月でいえば、忠臣蔵の真実に関する新たな説が出てきても、大衆は受け付けないというようなね。「こんなの忠臣蔵じゃない」って。
極端にいえば「史実」の方が「ウソ扱い」になる。
だから歌舞伎にしても、アニメにしても、その時代の大衆の好みというか、イメージの偏向性が表れるという点で心意伝承の資料になるということなんだね。


諷虹 この記事にこんな言葉もありました。

さらに、最初に「シャミ子が悪いんだよ」の二次創作イラストを投稿したユーザーも、「伊藤いづも先生の誰にもネガティヴな印象を与えないコメントに膝を打った。こういう人だからこそシャミ子や桃みたいな優しい女の子を描けるんだろうなと感じました」とコメント。
こうして「シャミ子が悪いんだよ」はその語感に反して誰も悪くない、全てを平和に包み込む2019年のアニメを代表する言葉となりました。おめでとうシャミ子、ありがとう「まちカドまぞく」。こんなにもみんなの心に優しい気持ちが広がっていったのも、シャミ子が悪いんだよ……。

虚空 こんな平和な時空への願いが本当に広まってくれるといいんだけどね・・・ 今年は京アニのあんな事件もあったしね。
ダメ押しのようにあったのは新幹線内の殺傷事件の判決で被告人が望み通りに無期懲役の判決が出て万歳三唱をしたとかね。
身勝手だらけの世の中に、いい加減嫌気をさすような風潮が出てきて欲しいものだよ。このままで本当にいいのかな、って・・・。

☆鳥瞰の距離感② ~「時間」にも適用してみたら~

2019年 12月21日 諷虹・虚空やりとり

*ちょうど駿煌会連歌部にNanba先生からの歌が投稿され、次の順番の諷虹君が歌を詠むための参考に、ネットで「脱皮」関連についてあれこれと調べていました。


そこから発展して、「いい具合の距離感」を「適度に過去を振り返る」ということに置き換えて考えてみました。

諷虹 今解説を読んでいったら「空蝉」だとかのことが出てきたんですが・・・やっぱり無常観とかにつながるんですね。
虚空 この前、乳飲み子がいる教え子たちの別のラインで、若いママさんたちが「正直言ってこのまま可愛い赤ちゃんのままでいてくれたら」っていうやりとりがあったんだけど、脱皮を喜ぶ側面と、しないで欲しいという側面とがあるよね。
今回の「放課後さいころ倶楽部」の最終回もそれが大きな柱になっていたけどさ。
あと、本人の中でも「巣立ち」を早くしたいっていう気持ちを持たない場合も増えているような気がするよね。ニートなんてそうじゃない。昔「ピーターパン症候群」っていう言葉が流行ったけど、それが中年以降も続く傾向が強まってる。
「脱皮」っていうのを上原先生流にいえばトランスフォーメーションっていうことになるんだと思うんだけど、今の教育現場っていうか、子育ての中で「トランスフォーメーション」・・・構えの変革・・・を実感できることがどのくらいあるか。
かつての「通過儀礼」なんていうのを持ち出すめでもなくね。
もうじきまた成人の日がやってきて相変わらずの光景が繰り返されるんだろうけど、どこが成人なの?・・・下手すると「今日からは堂々と酒も飲んで好き勝手やっていい日」っていう勘違いがひどすぎる。
脱皮とか巣立ちなんていうのとは逆行しているよね。
ましてや「無常観」なんていう感覚なんてね。


諷虹 「Nanba先生 15 恥も一緒に 煤払いかな」 
に対して最終的に
 
「16 空蝉や 脱皮し羽得て 大空へ」

って詠んでみたんですけど、空蝉って虚しいイメージのが多いんで、なんとなくプラス思考で詠んでみようかな、って。

ある漫画で自分の抜け殻を親にとっておくようにと言われて「観たくない(脱皮しながら成長する爬虫類の獣人)から捨てる」っていうのがあったんですけど・・・過去の自分なんて観たくない、って。
注)ある漫画=境界線上のリンボ(上巻)P95からのやりとり
虚空 上原先生なんてそういう感覚に近かったかもね。「それはもう過ぎたことだ」っていって、過去の栄光にもしがみつこうとしていなかったからね。「はい、次」ってさ。
「もうわかった」というなら、それはもう済んだことなんだから、って。それで次々と新たな課題をみつけて探求していた。

過去に縛られるっていうんじゃなくて、自分の変化のプロセスを概観する、っていうのはそんなに悪いことじゃないし、自覚は大事だけどね

諷虹 スラムダンクで桜木花道がシュート練習をするのに最初は自分のひどいフォームをビデオでみるのがありましたよね。

虚空 おのが下手さを知りて一歩目・・・だっけか?

(正確には「下手くその上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目」 安西先生


虚空 これも、言い方は変だけど、割と最近の経過を客観的に振り返るという点では、きのうのいい具合の距離感での鳥瞰と通じるよね。
英語だと過去形は日本語以上に距離感のイメージを伴うっていうけど、それがちょうど「ふるさとを概観する程度」の時間的距離の鳥瞰による観察。

諷虹 そうすると「抜け殻」とか「足跡」とか「軌跡」とか「轍」とかもみんなそうですよね。

虚空 さっきの漫画にもそんなセリフがあったけど「過去の積み重ねのエッセンスが凝縮している」ようなものだもんね。
積分と人生経験の関連にもなる・・・・。

36句で完結した連歌を通しで読み直してみる時も似たような感覚だよね。
途中途中では最初から読み返さないで、最後に通しで読み返すと、その期間が凝縮されている。一人の世界だけじゃなくて、このメンバーのイマジネーションのキャッチボールでふくれあがった世界がね。

それは10月20日に初めて連歌をやった時にも感じたけど、あれよりも長い期間をかけているから、最初の頃のを忘れているじゃない。だからこそ読み返しのインパクトはあると思うよ。


諷虹 今、英語の過去形の距離感についてありましたが、逆に未来形だとどうなるか・・・不確定性のゆらぎの観測になるのかな?って。
過去のことは確定したことのふりかえりだけど、未来は確率的な可能性・・・未来を量子論的に観測しているのかな、って。

虚空 大西先生(NHKで有名になった ハートで感じる英文法の講師)いわく、英語には本当は未来形はないんだそうだ。
一般に未来の助動詞とされる will は「意思」を表す助動詞。もう一つの be going to  は、その状態に向けてまさに今進んでいます、っということだから現在形なんだよね。
そうなると、未来が未来として「確定している」という感覚ではないよね。


諷虹 一巡先を見る園城寺怜(咲に出てくる特殊能力をもつ麻雀選手)ですね。

ネット解説
前述の通り一巡先を見る能力を持つ。詳細は以下の通り。
・見えるのは「能力発動時」の一巡先の全員の打牌ならびに和了結果。行動を変えた場合、その結果は見えない未来を変えると、2巡程度経過するまで再使用ができない
・普段の行動から逸脱しているほど未来が曇る
・その気になれば2~3巡先まで見えるが、意識を失いかけるほど大きな負担がかかる。

上記により考えられる影響は、
1.次巡ツモで和了り牌を予見した場合、リーチ一発で2飜を上乗せできる。但し、鳴きで潰される事がある為確実ではない
2.誰が何を切るかが見える為狙い撃ちが可能
3.他家の和了が見えた場合、自分が鳴くか、他に鳴かせる牌を打てばツモずらし可能。また差し込みで大物手潰しも可能
4.一巡目で裏目を引くことがない為、聴牌速度が向上する
5.能力発動中は(差し込まない限り)放銃しない
虚空 もちろん「咲」はあり得ない能力者たちの特殊な麻雀の世界を描いているわけだけど、「先を見る」とか「かならずこうなる」っていう能力者が多いよね。で、それが通じない相手が表れて・・・っていうのが見せ場の一つだと思うんだけど。
「絶対こうなんてあり得ないんだ」・・・「あっても確率的なものなんだ」、って。
その象徴が原村和のデジタル打ちとか、姫松高校なんて・・・・多少特殊能力があっても、オカルトじみた度合いは少ないでしょ???
オカルトじみた力を持っているメンバーほど、それが通用しない局面で激しく動揺して、崩れるじゃない。
それって、丸暗記中心の勉強で定期テストなんかでは絶対的な自信を持っていた子が、ちょっとひねった入試問題で総崩れになるのにも似ているよね。

諷虹 それでも、さらにそれを上回る想定外のが決勝とかでは出てくるっていう気はするんですよね。(まだ連載途中なので実際にどう描かれるのかは分からない)

☆鳥瞰の距離感① ~ふるさと意識とのつながりから~

2019年12月20日  諷虹・虚空
*KS先生から送って頂いた「武蔵野樹林」 Vol 2 2019春号 の「縄文の武蔵野」という鳥瞰図をもとにしたやりとりです。

「オオタカの視点」で描かれたというその絵から「いい具合の距離感」という風に「ふるさと意識」の方向で話がふくらみました。

「高台」とか「丘」とかに集中する意識の問題にも通じているのではないか・・・・玉川学園創立者の小原國芳先生が「玉川の丘」と盛んに口にされていたのも、何故「丘」と呼べる土地を理想の学校の敷地として選んだのか・・・そんなことにも関係しているのではないか、という発言もあります。

前半は諷虹君の通っていた中学校のすぐわきにある「大串貝塚ふれあい公園」との関連で「串」「櫛」という言葉についての考察が続きます。

そこから鳥瞰の話に戻っていくのですが、何をもって「いい具合の距離感」と言っているのかは、具体的なやりとりをお読みください。

諷虹 (文字が細かくてまだ読めていないといいう虚空のために文章を音読してくれる)

 縄文的な生活が何故日本は続いたか 日本の豊かな環境 農耕に頼りきる必要があまりなかった 気象変動で稲作も受け入れた  自然の価値を現代人は忘れている・・・・

上の絵からいうと・・・「オオタカの視点」の水辺なんですね。遠くにみえるのが富士山で・・。武蔵野がこういうのっていつの話なんだっていう・・・


虚空 自分も子どもの頃は武蔵野台地の上に住んでいたんだけど、畑が結構多かったし、川も流れていた。
学校の近くには、それこそ縄文土器のかけらが拾えるというので知られていた場所もあったしね。


諷虹 私も思ったんですけど、ここいらへんも大串貝塚とかで縄文の名残は残っているんですよね。ダイダラボウのあたりにも縄文の住居跡が再現されたところもあるし。

(公園内の様子画像)
http://precious.road.jp/ibaraki/ookushi.htm

虚空 茨城町も土器が結構出てるんだよね。涸沼とか涸沼川の影響なのかな?


諷虹 大串貝塚の説明にこんなのがありますね。

個人サイト・・・https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/5ce8ed0e765610639a3cf751b2792786
「「常陸国風土記」那賀郡の条に、「平津の駅家の西1~2里のところに、大櫛という岡がある。昔、巨人が居て、岡の上に立ったまま手を伸ばして海辺の砂浜の大ハマグリをくじって(ほじって)食べた。その貝殻が積もって岡となった。

元は「大朽」といったが、「大きくくじった」というところから今は「大櫛之岡」と呼んでいる…」というような記述がある。この「大櫛之岡」が「大串貝塚」の台地とされ、その近くに古代官道の「平津」という駅家があったと推定されている(「平津」駅家は現・水戸市平戸付近に比定。)。これにより、「大串貝塚」は、文献に記録された貝塚としては世界で最古のものとされる。

*諷虹 「櫛」についてもネット検索


ウィキペディア「櫛の文化」
櫛の文化[編集]
日本語の櫛(クシ)[編集]
日本語では櫛は「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(くすし)」や「聖(くしび)」との音の共通性から呪力を持つものとして扱われた[3]。他方では女性が髪を梳くことから女性格の象徴的な物品としても扱われた[3]。

語の読みからは「苦死」に通じるため、道に落ちている櫛を拾うことは「苦と死を拾う」ことにつながり、縁起が悪いことと忌み嫌われる。どうしても拾わなくてはならない時は、足で踏んでから拾う。贈り物にするときは、忌み言葉として「かんざし」と呼ぶ。そのほか「94」を「くし」と読む語呂合わせから、櫛を大切に扱い、人々の美容への認識を高めてもらおうと、日本の全国美容週間実行委員会が9月4日を「くしの日」と定めた。


櫛の呪力[編集]
日本では古来、櫛は別れを招く呪力を持っているとされ、現代の日本人でも櫛を贈答品にしたり、気軽に貸し借りしたりするのを嫌がる人は少なくない。一方で、魂の宿る頭に飾るものであることから、自らの分身として旅立つ人に手渡しもした。

『古事記』には、伊邪那岐命が、妻の伊邪那美命が差し向けた追っ手(黄泉醜女)から逃れるために、櫛の歯を後ろに投げ捨てたところ筍に変わり、黄泉醜女がそれを食べている間に逃げることができたという記述がある[3]。同じく『古事記』で大蛇を退治しに出向く須佐之男命は櫛名田比売を櫛に変えて自分の髪に挿した。

天皇は斎宮として都を旅立つ皇族の少女を見送る儀式で、「別れの櫛」を手ずから髪に挿し、別れの言葉をかけた。彼女たちは身内か天皇に不幸があるまで都に帰ることはできず、巫女であるため任務を解かれるまで恋愛もできない。櫛を挿す儀式には俗縁を断つという意味があるとされる[3]。逆に成人式に当たる「髪上げの儀」では、大人社会への仲間入りの象徴として櫛が少女の髪に挿される。この儀式の直後に婚礼を済ませることもあった。

ドイツ童話の中には『白雪姫』のように、櫛が女性の生命活動を一時的に停止できる(気絶させたり、金縛りにしたりする)黒魔法の道具として登場することもある。
古代中国の一部の呪術者の中には、『捜神記』の于吉のように体を洗わず、髪に櫛を入れないことで雨乞いをする者もいた。



諷虹 団子の串じゃなくて、こっちの櫛の方がお洒落ですよね。

虚空 団子の串の方は・・・貫いているイメージだよね


諷虹 象形文字のようですよね。


*ネット検索「串」
象形。重ねた貝をひもで連ねた銭さしの形にかたどる。


虚空 価値あるものを貫いているイメージかな?

それの大々的な土地だったから「大串」っていうのもあったのかもね。
・・・風土記の記述とは違うけどさ。


諷虹 デジタル大辞泉の解説なんですが・・・ 
デジタル大辞泉の解説
くし【串】
《「櫛(くし)」と同語源》
1 魚貝・獣肉・野菜などを刺し通して焼いたり干したりするのに用いる、先のとがった竹や鉄などの細長い棒。「串を打つ」「串を刺す」


諷虹 バーベキューなんかのイメージがあるからどうしても肉が真っ先に浮かんでしまいますが、最初に書いてあるのが「魚貝」なんですね。

やっぱり「貝」が出てくるんですね。「貝」と「串」の関連性。
つまようじの感覚ですかね。


虚空 恵みを連ねる道具っていうのが根元にはありそうだよね。


諷虹 団子なんても縁起のいい食べ物っていうイメージがありますよね。鹿島神宮とかいい感じのパワースポットでも串団子とかなら売っていますしね。
「だんご三兄弟」なんかも触発されるものがあったんでしょうね。 

虚空 そういうことをふまえて、こうしてオオタカ視点での鳥瞰風景をみると、まさに「豊かな自然の恵みに囲まれている」っていうのが実感できるよね。
そういう意味では「台地」とか「丘」っていうのは大事な場所なのかもね。
山ほど平地から離れていないから、具体的なん恵みが見えるという意味で。


今、フト思ったのは、玉川学園。創立者の小原國芳先生が理想の学園を作るための場所探しをしていて、気に入った場所だったらしいんだけど、「玉川の丘」っていうことを随分言っている。校歌の中にも「この丘に我らは集い」なんて入っていたしね・・・。
「丘」だったから「理想の学校の地」としたのとも関連ありそう????
理想の学校の構成要素というかね、構造が見渡せる感覚。


諷虹 大串貝塚にしても現代人的な価値観で住んでいる場所を選んでいないですよね。単純に水や食べ物で選んでいる。
「東京は住むところではない」っていうのも、そうした直観がある。


虚空 まあ東京っていっても奥多摩もあるし小笠原諸島もあるし・・・。
ただ所謂東京都内でも「皇居」「明治神宮」「新宿御苑」とか別世界もあるけどね。


諷虹 こういう絵でみると、人間も「動物感」がありますね。この辺にちっちゃく描いてある犬だとかの四足歩行の動物とかと行動原理は変わらない。
江戸時代の絵だと子どもが遊んでいる様子が描かれていたりもしますが、この絵にはないですよね。みんな食料をとったりしている

虚空 これもさ、山から見下ろしていたというのでは人間の営みは分からないよね。いい具合の距離感だからこそ、人間と自然との関りだとか、人間も動物と通じる存在という

諷虹 ヘリとかからの空撮だとカメラマンが構図を決めちゃうじゃないですか。ドローンとかもそうですよね、操縦者の意識がはいる
でも、飛んでいる鳥の視点だと、自然に目に入ってくる感じ
虚空 作為が入らないっていうこと?

諷虹 まあそうですね

虚空 そうするとこれも「純粋経験」への道かな???


諷虹 これはオオタカの視点という想定だから・・・。ここに富士山を描いているのなんかはちょっと(笑)

虚空 本当に鳥の視点になりきればなりきるほど、意識を離れるから純粋経験に近づくんだろうね。

まさに上原先生が言っていた「英才児の観察の構え」に通じるかもね。
諷虹 それこそ木の実とか動物の死骸とかも観ているわけですよね・・・


虚空 子どもの視点ってそうだよ。学校から家までの通学路について作文を書いてこらったときに、ここにはカラスの死骸がある、とかみんな書いていたもんね。

諷虹 ここにはどんぐりがいっぱいあるとかね・・・


虚空 分校で家庭訪問の時に、「何か目印はあるか」って聞いたら「近くに牛がいます」って答えられたことがある。社会科的な目印とは違う意識なんだよね。

諷虹 地図とかもね、つまらない記号化ばかりになっているんですかね。そういう羅列ばかりになっちゃう。
それこそ方程式を立てる時に必用な情報だけにしているのと同じ。余計な情報はどんどん切り捨てる。


虚空 それを3年生の算数でやったわけだよ。余計な言葉が沢山入った問題文で、式をたてるのには必用ない言葉を消す、っていう授業。あんなに喧々諤々になるとは思わなかった。もちろん議論にはなると思ったから3年生にとってちょうどいい課題かと予想しての授業だったわけだけどね。

地図でいえば、子どもが「宝の地図」なんかを自作したりするじゃない。あれはちょうどその中間なのかもね


諷虹 まちカドまぞくで吠える犬が地図に描かれているのとか
(コミック 1巻 トップにある「まちカド MAP」)

主観的マップですよね。漫画の上で意識にひっかかってくるところが目立つように描かれてますよね。


虚空 まさにそういうのが書き込める距離感の地図・・・それをイラストにするとこの縄文武蔵野の鳥観図だね。

よく博物館とかでジオラマがあるじゃない。あれがちょうどこんな感じの距離感だよね。江戸博物館もそうだったでしょ?


諷虹 ジオラマって自分で距離感が作れるじゃないですか。近づいたり離れたり。プラモデルとかミニチュアとかってそういうのがありますよね


虚空 まさにオオタカの視点だね。自由に視界の枠を変えられる。


諷虹 ダイダラボウの像って奈良の大仏より大きいんですね。そうか台座も入っているからか・・・。

虚空 あの公園の場所だってちょっと小高い場所だよね。
「おうち」意識からの広がりで「ふるさと」「世界」「宇宙」っていう広がりも去年からずっと話題になってるけどさ、「ふるさと意識」っていうのがこの「いい具合の距離感でみおろす鳥瞰」なんだね。個々の営みとその地域全体との関わり方の構造がみてとれる・・・まさにこの武蔵野の鳥観図はふるさとの世界だよね。


諷虹 大串公園の近くに折居神社っていうのがあるんですね。武甕槌命を祀っているとか祀っていないとか・・・


*麻雀アニメ(漫画)「咲」との関連
虚空 このところ体調の関係で寝付けないから「咲(麻雀アニメ)」を見直しているんだけどさ・・・あいかわらずルールも何も分からないままなんだけど・・・あれって結局「山や川を見下ろしながら全体像をつかみながら」っていうことなんでしょ?


諷虹 そういう風になるのは中級以上だとは思いますけどね。最初のうちはやっぱり自分の牌のことしかみないでやると思います。


虚空 少なくともあのアニメのキャラたちは全体像をつかみながらやっているじゃない。
そうするとね、それもさっきの「ふるさと」を感じ取れる「いい具合の距離感での鳥瞰」だと思うんだよね。感じとるだけじゃなくて、「構造そのもの」をつかまえる「観察」の構えでね。


諷虹 自分も今年の4月から咲の原作をガッツリ読み直しているわけですけど・・・この作者は今採用されていない「古役」をいっぱい描いているんですよ。
昔の古役はもっと美しさを見立てていた節があるんですよ。それを意識した牌選びで描いているんだな、って。(月・槍・鳥などのイメージ)
非常に情緒がある・・・趣きのあるのが昔の古役での芸術点のようなものだったんですよね。和歌のような・・・今は単に自由詩になっているような。
今はもうなくなっているんですけど・・・。

☆アニメ「少女歌劇☆レヴュースタァライト」より⑩  ~秘められたる可能性~

先の「(舞台)少女」という言葉に伴う純粋な意識についての続きです。もちろん「少女」限定ではなくて「子ども達」「若者たち」全体に伴っている意識についてです。


さらに拡大すれば、職場や家族などの人間関係でも実年齢からくる「上下意識」を如何に取っ払って、互いを尊重し合えるか・・・という日本古来の組織論にも関わる内容です。


少女歌劇の⑩としていますが、実際には別のアニメ内のやりとりを中心にして考察しています。これもここだけ読んだのでは良く話ならないと思いますので、アニメ内のセリフのやりとりは読み飛ばしてくださって結構です。




*2019年11月30日 諷虹宅
アニメ SHIROBAKO(シロバコ) での 第三飛行少女隊 最終話のアイデア 希望の存在 キャサリンの妹
⇒「舞台少女」と通じる
第23話「続・ちゃぶだい返し」

監督は社長に呼ばれました。
社長「監督ってさ、どういう仕事だと思う?」
社長「目的地に向かってみんなを導くのが監督なんだよね」
木下「自覚してます」
社長「そこにたどり着ければいい仕事をしたという高揚感と満足と誇りが手に入るはずだ。みんなそう信じて惜しみなく働いている。人生の多くの時間を作品に捧げている」
木下「…」
社長「監督が目指す場所は最後に作ってる人も見ている人も幸せになれる場所じゃないかな。ほら言ってたじゃない。ウィンウィン」


*原作者と対面
野亀「私もまだありあが立ち直るのか別の道を選ぶのか決めかねているのです」
木下「第三飛行少女隊のテーマは少女たちにとって飛ぶということはどういうことか、ではないでしょうか」
木下「強大な敵、圧倒的な戦力不足、迫りくる世界のタイムリミット」
木下「それでも何度でも飛び、何度でも戦う」
木下「その果てに訪れる世界に希望を持っているのです」
木下「ありあは仲間たちとともにそこにたどり着かなければならないのです」
木下「仲間がいるから戦えるんです。だから主人公には、ありあには絶対飛んでほしい。仲間を信じて。それが僕がたどり着きたい最終回なんです」

木下「野亀先生にとって三女とはチームの団結ではなく、個人的な死と再生の物語なのかもしれませんね」
野亀「ほぅ」
木下「だからありあは責任感や罪の意識では飛べない」
木下「ありあが自分自身で飛ぶ意味を見つけられないとダメなんですね」
野亀「そのとおりです」
木下「夢や希望と無縁で孤高のありあが飛ぶ意味」
野亀「その何もないところがありあのかかえる問題でもあるわけで……。あっ!」
木下「ありあに夢や希望が生まれればいいのかもしれませんね!」
野亀「もしくはそれを与えられる存在!」
木下「ありあがキャサリンとの約束を果たすというのは? 生まれたての子牛を見ようという」
野亀「子牛だけでは弱いです。木下監督。もっと何か、誰か…」
木下「キャサリンの両親!」

野亀「いや、もっと希望の光になるような…妹とか!」
木下「キャサリンの妹!いいですね!」
野亀「仲間の死を経て出会った新しい命。純粋な少女。少女が住む美しい故郷」
木下「そのすべてがありあにとって守りたい存在となる」
野亀「私は今、初めて自分の作品が他者によって作られることに希望と面白さを感じました」


*そしてアフレコが始まります。
音響監督「じゃあ牧場のシーン、本番いきます」
ルーシー「はぁ…はぁ…」
ありあ「?」
ルーシー「あの!もしかしてやっぱりありあさん?」
ルーシー「おねえちゃんから時々聞いてたとおり。あ、私キャサリンの妹です。ルーシーです」

ルーシー「どうしてここへ?」
ありあ「子牛を見に来た」
ルーシー「子牛」
ありあ「キャサリンと約束したから」
ルーシー「じゃあこっちです!」

ルーシー「おねえちゃんは遠いところへいってしまったけど私はずっとここにいようかな」
ありあ「なぜ」
ルーシー「ありあさんたちが戦って守る世界で私はたくさんの子牛を育てるの!」
ありあ「私たちが戦って守る世界…」
ルーシー「それが私にできること。それが私の夢だから」

ルーシー「ありあさん?」
ありあ「戻る。このすべてを守るために」
ルーシー「ありがとうありあさん。今、私…」
ルーシー「少しだけ」
ルーシー「夢に近づきました!」
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虚空 こうした必然性なんだよね。キャラにリアリティを感じるとか、命を吹き込む、っていうのは。それを監督や脚本やスタッフがどれだけ意識しているか。
それがないと制作者のご都合でキャラを動かすことになっちゃう。
「えくそだす」の「アルピンはいます」の会議もそうだったけどね。

大胆な言い方をすればね、職場とか学校の集団をどう考えるか、授業をどういったスタンスで行うか、っていう事と全く本質は変わらないと思う。
上に立つ者の都合だけで強引に決められてしまっていくのか、こうした必然性も大切にされていくのか。

そして監督と原作者のやりとりのように、最初は水と油で、どっちにするかという二者択一ではなくて、どっちもより上の境地になれるような話し合いやまっとうなぶつかり合い。

対立は破滅とか互いの潰し合いっていう現代の風潮とは全く違う世界があるっていうこと。やっぱり水島監督も昭和世代といえば昭和世代だから、若い時には青春ドラマだってみていたと思うんだよね。それを少女キャラでやることによって、より未来への夢を感じさせることが出来る、っていうことかな?

どうしても昭和の青春ドラマって、男が中心だったからね・・・汗と涙・・・時には拳で分かり合う、っていうような。
そんなことが昨日からの「舞台少女」に通じてくるのかもね。
さっきの伊丹映画の話もそうなんだけど、必然性を大事にしている制作現場って、実写でもアニメでも「舞台少女」の要素がたくさん含まれているかな。
職場でも学校でも家庭でもね。


諷虹 今日、ガルパン劇場版のコミカライズを読んでいて思ったんですけど「戦車道」っていうのもそうですよね。道だから今まで歩んできたところも、これから進むところも、っていう間だから「道なかば」っていう。未完成っていうかな、完結はしてない


虚空 流儀とか戦法とかが「決まった道」と考えていたチームは大洗に破れているんだよね。道半ばだから、素人も含めてみんなで道を開拓していこう、って思うのかね。あるいは劇場版のように、各校の隊長さんたちが飛び入り参加の急造チームでも、大洗の戦法に従う、じゃなくてそれぞれの持ち味がいつのまにかうまく噛み合うような雰囲気をみほが持っていたことで、ああいう風になったわけだよね。
それだってそれぞれの必然を大事にして、途上なんだからみんなでどんどん作っていこう・・・って。即興で。
「こうすれば絶対勝てる」とか「こうするべきだ」というように未来への道を既定路線のようにしてしまうと、やっぱり柔軟性を失って、ちょっとこけたら総崩れ。それがあんなに取り乱した黒森峰は初めてみた、なんていうやりとりになっているよね。


諷虹 劇場版の序盤をみていると、福田があれだけ知波単に染まっていたのが、最終章であんなに変化している。それもね


虚空 まさに福田は少女だよね、生き様な。


諷虹 いちばんちっちゃく描かれている・・・はじめての夜戦が怖いとか。


虚空 今の世の中って「少女」っていうと余計なイメージがベタベタくっついちゃっているから、下手に使うと誤解されちゃうのが残念なんだけどさ。