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☆第三項理論に関するやりとり ③ 諷虹・虚空やりとり②「クリエイター精神 と ユーモア」

諷虹 そこにいくと「君の名は。」なんてあんなとっぴょうしもない話なのに、観ている人が妙に納得して観てしまうのは、なんなんでしょうね・・・
虚空 心意伝承のなせることなのかな・・・。あの紐の例え話だけで時空やジンカンの錯綜をすべて言い切っていたからね。あれだけで納得できる日本人の血。

日本人って「時空」っていうのは昔から不可分なものとしてつかまえていたと思うんだよね。西洋的にはアインシュタインがそれまで「時間」と「空間」は別々だと考えられていたことを「時空」という一つの概念にまとめた、っていうけどさ。
しかも時空に人間関係も含めているし。
もっともアインシュタインも相対性理論について質問された時に「好きな人と話している時と・・・」なんて人間という要素によって時間が伸び縮みする例えを出していたようだけど。
諷虹 陰謀論なんかで、いきなりSF的な要素が入ってくると、その瞬間に興味が失せる瞬間ってありますよね。それはいくらなんでも「盛り過ぎ」みたいな。
そこの線引きっていうのも人によって違いますよね。
虚空 それでもさ、日本人ってそういった錯綜が大好きだから、海外の人よりも突拍子もない話をまともにしてしまうんだろうね。ドラえもんとかがスッとうけいれられてしまう土壌なんかだって。
諷虹 日本人にはクリエイター精神っていうのがみんなにあるんですかね
虚空 それはもしかしたら和歌とか俳句の影響があるかもね。あれだって立派な文学作品なわけだからさ。ごく普通の一般民衆がある面で「作家」だった。
以前「擬人化イラスト」で海外の人が日本人の発想が極めて異質というような意見を言っている、って・・・ああいった差異がどこからもたらされるのか、っていうのがね。
そこに単に感性の問題だけでなくて「数学的な抽象化能力」と「類化性能」があると思っているんだよ。数式は使わなくても、立派に数学的な思考を日常生活に溶け込ませている。
その修練の一つが和歌や俳句のような短文学
諷虹 それに加えて「ユーモアセンス」・・・人を楽しませる意識みたいなのがあるのかな、って。前大学で外国人からみた江戸時代の人たちのことを講義でやっていたんですが、外国人が「日本人はどんな真面目な場でも突然笑いをとりにいくことがある」というのを嘆いていた、って。何でそんなことをするんだと。
クリエイター精神・・・二次創作とか、コミケとか・・・
虚空 自分も楽しませる側になりたい、ってこと?
諷虹 俳諧とかもそうだったと思うんですよ。
虚空 江戸時代の算額ブームもそうかもね。単に問題を出し合うだけではなく、第三者がみてハッとするような絵馬をぶらさげたい。それが神様もお喜びになる、っていう感覚かな。

もしかすると英才児っていうのはそういう意識が自然に働いているのかもね。
あの教室の掲示物なんてみてもさ。
職人的に書いているような一見技巧的な作文の中にも、ちゃんとイマジネーションの発動っていうかトランスフォーメーションが混在しているし。

知性や論理によって新たなイメージ運動を次々と発動できる。「添加能力」もすごいしね。異なる意見を排除したりスル―したりするよりも、それを面白がる。

それこそ「ユーモア」・・・他人に対して受けを狙おうと強く意識してなくても、「自分が面白がる」・・・自然に他人も面白いと感じる世界をつくってしまう。
あの参観した数学の授業なんか、3クラスともそうだったじゃない。
諷虹 今「笑う門には福きたる」の語源って何なのかな、と思って調べたんですけど、福笑いがでてきて・・・
虚空 正月に「笑う」っていうのをことさらに持ち込もうというのは現代だって根強く残っているよね。正月番組なんてみんなそうじゃないか。
もっとも今のお笑い番組はつまらないのばっかりだからみないけど・・・笑わせようという意識が前面に出過ぎてて逆にしらけるような・・・
英才児って決して受けを狙おうと強く意識してなくてもね。
諷虹 ワクワクドキドキみたいなものですね。笑わせるっていうのは・・・。想定外の出会いとも。
虚空 「笑いの感染」かな?
諷虹 なごやかな雰囲気だからこそいろいろな意見が出るというのもありますしね。

虚空 本人はいたって大真面目で真剣なんだけど、それが第三者からは面白くてしょうがない、っていうのもあるじゃない。受けを狙った演技だとダメ、とかさ。真剣そのものだから笑う。決してバカにしているとか見下しているわけではなくて、笑っちゃいけないと思いつつも爆笑してしまう笑い。

もちろんさ、どうしようもなく辛い悲しい絶望的な状況だからバカ話をしてみんなで笑ってしまう、っていうのもあるしね。
お通夜の席で年配者が酒を飲みながらゲラゲラ笑うとか。さっきの外国人なんかはそれをみて何て不謹慎なんだろう、って思うんだろうけどね。

でもその裏側には「悲しいから泣く」っていうこと以上の「深い悲しみ」が隠れていることだってある、っていう感覚。
諷虹 笑うしかない・・・究極的に絶望でも笑う。極地的な部分に「笑い」ってあるんでしょうね。憑きものがおちた時なんかも。
虚空 「笑い」一つとっても大変なことがいろいろ隠れている。で、それを完全につかまえることは出来ないんだろうね・・・だいたい笑っている本人でさえ、自分の意識の中にどんなことが混ざり合っているかなんて、わかっていないんだからさ。
見えない本丸に迫ろうとする・・・その繰り返し。
諷虹 笑わせる、っていうのは風を起こす感覚にちかいのかもしれませんね。
虚空 相手だけじゃなくて自分の中にもね。
諷虹 落語とか小話も・・・そういう笑いの中でね。大喜利なんかも。
虚空 「ユーモア」のオブラートに包み込む・・・「たかのすとり」のアッチーの感覚だね。
日本人が本当に逆境に強いかどうかは分からないけど、独特の意識の動かし方をしていることは確かなんだろうね。安政の大地震のときの「鯰絵」なんていい例だよ。あとは「ボケとツッコミ」。
江戸と上方の文化の違いはあるけど、本質はそんなに違わないような気がする。
さっき、あえて肝腎なところを無視する特異点っていう話があったけど、オブラートに包むっていうのはさ、決して無視しているわけでも、スルーしているわけでもない。誤魔化しているというのともちょっと違う。
ユーモアっていうのはさ、それこそ究極のバッドエンドが、究極のハッピーエンドにつながっていく上で邪魔になってしまう変な常識の壁を吹き飛ばす風のような感じなのかもね。
諷虹 今となっては笑い話だ、っていうね。
虚空 それが今の自分にはないな・・・・水戸気質というか・・・。福島気質と半々のハズなんだけどね。(苦笑)
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☆第三項理論に関するやりとり ② 諷虹・虚空やりとり①「主体・客体 集合論的整理」

2019年2月1日  諷虹・虚空
諷虹 今さわりを読んだだけですけど、コーヒーコーヒーよりもこの前の最後に出てきたメルヘンとファンタジーのことに近いのかなとか・・
(もう少し読み進めて)あっ、確かにこのあたりになるとコーヒーコーヒーっぽいですね。
パーソナルリアリティに近いのかもしれませんね・・・「私」がいて「あなた」がいて、「私から観たあなた」・・・たとえば飲み屋でおじさんが何かを言っていて・・・でもその人には会社での顔や家での顔があって・・・でも自分からはそのおじさんは飲み屋で飲んでいるただのおじさんにしかみえない・・・
虚空 難波先生が例としてあげている以外の3つのパターンはいろいろ他にも考えられると・・・ラインでもみんなそれぞれが書いているけど・・・
(図を描きながら)部分集合ですね。真部分集合というか・・・私からみたら部分しかみえないのに、それを含んでいる客体そのものとイコールにしてはいけない・・・
エヴァのマギのようなものも当てはまりますかね。
(人格移植OS・・・3台の自立協議型スーパーコンピューター・・・合議制)「女としての私」「母としての私」「研究者としての私」それぞれのプログラムで動く)
その視点からしかみえない・・・月の裏側はみえないというのと同じですかね。
いかに語り手が神視点のようであっても、登場人物のすべてを知り尽くしているかというとそうではない。
このあいだの琴浦さんの話ですよね。琴浦さんが読める人の心は表面的な浅い部分だけ、って。
虚空 ヒマワリフクロウさんも似たような・・・「意識世界と無意識世界って感じかー?琴浦さん系な感じするー」って
諷虹 無意識世界が月の裏側っていうことですかね。 

オリジナルイラストの難しさ・・・オリジナルキャラだとみんながその背景の設定を知らないじゃないですか。アニメキャラだと見えない部分をそれなりにみんな知っていて、それをふまえてイラストをみるけど・・・・
私以外の視点からみた客体・・・作者視点以外とか、視聴者視点ではない視点からのアプローチ。
虚空 独自の展開でキャラを使ったときに受け入れる人と受け入れない人。公式アンソロジーでもいろいろあるのにね。
諷虹 さっきの(ヒマワリフクロウさん引用の)複素平面上での積分の図のように、特異点を避ける。
歩み寄りですよね。ここに歩み寄ろうとするかどうか。
この議論では絶対譲り合おうとしない。
虚空 この前ソルティさんも書いていたけど、相手目線でどれだけ観てみようとするか・・・。「共感」できるかどうかは別にして「思考実験」でもいいからやってみるかどうか。作家なんていうのはそればっかりやっているわけだよね。
漫画家でも「ひだまりスケッチ」なんかみたいが美術科の生徒が登場人物だと作中のそれぞれの作品もまるで違うように描き分けているじゃない。本当にそのキャラだったらそういう作品になるだろうな、って感じさせるような。
一種の「憑依感覚」。→上原輝男「移り」
*諷虹 アニメ動画(ヲタクに恋は難しい) 「否定はしない。でも共有可能かどうかは別問題」
虚空 アニメでもいろいろと違ったキャラは登場させて、描き分けたとしても、どのキャラに感情移入するかどうかは別、っていうのがあるよね。まどマギのキュゥべえなんて随分意見が分かれたじゃない。スタッフの中でも観客の中でも。
(ある傾向のアニメに関して具体例がいろいろ展開される)
諷虹 理解はできるけど納得はできないというか・・・好みの問題になると思うんですけど。
虚空 そのあたりもさ、どんな背景をふまえるか・・・どんな背景をどれだけ知っていて、どんな風に受け止めているかによって、キャラの印象がまるでかわるわけだよね。
極限値で収束していこうとする部分だって全然違ってくる

「ちいちゃんのかげおくり」を5年生の担任が出張の時にピンポイントでやったんだけどさ、最初の場面での「かげおくりのできそうな空だな」「ここでやってみましょうよ」という両親の心の中をあげてほしい、ってやった時に、ほぼ全員がピクニック気分っていうことで考えようとしていた。
でも2~3人が、まるで違う方向で意見をいってみんながビックリしてさ。その子たちは「だって 出征の前の日 って書いていあるから」というようなことを言って・・・。
その一言をふまえるかふまえないかで、収束する部分っていうかな・・・その方向性がまるで違っていたわけだよね。
諷虹 特異点的なことだと、意図的に無視というか気にしようとしないことがあるんですよね。「黒歴史」にしてしまう。設定の積み重ねをないことにしてしまう・・・そういうファン心理が働くこともあるんですよね。
公式が追加した要素であっても受け入れない・・・スルーしちゃう。
それでいつのまにか公式でもないことになってしまう。

逆に作品の信者レベルのファンだと、そういうこともすべて受け入れなければならないと考えて、公式がないことにしたものまで真面目に受け入れて何とか自分の中でまとまりをつけようとして・・・苦しみ抜いた末にアンチになってしまうとか・・・。
こだわりの強い人って違う視点には絶対立とうとしない。
それをやったらその作品のファンではなくなってしまう、っていう変なこだわりがあるから。「ここは絶対譲らない」って。

人間ってヒマな生き物なんですね。・・・心に余裕を持っているがゆえの・・・と「寄生獣」のセリフにもあったんですが・・・
(引用 道で出会って 知りあいになった生き物が ふと見ると死んでいた そんな時 なんで悲しくなるんだろう そりゃ 人間がそれだけヒマな動物だからさ だがな それこそが人間の最大の取り柄なんだ 心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!! だからなあ・・・ いつまでもメソメソしてるんじゃない ・・・)
虚空 異なる解釈があって当然なのに、それがない・・・自分はそれを許さない・・・そんな構えだから、ネットの炎上とかも起きるんだろうね。うっかりアニメの感想でみんなと違う意見なんていえたものではないよ。多くのアニメファンのみているサイトでなんか。
第三項というのがどういったものなのかはまだ分からないけど、「AかBか」という対立構造だけになっている発想
諷虹 {客体}⊃{主体が捉えた客体}であって、 {客体}={主体が捉えた客体}ではないんですね。 
へたくそな脚本なんてそうですよね。誰も知らないことをいきなりひっぱりだして話を展開されてしまう・・・あの脚本家のように・・・
虚空 後だしジャンケンだよね。

☆第三項理論に関するやりとり① ラインより

2019.01.28 月曜日
09:21 虚空
難波先生のツイッターにこのようなやりとりがありました。
回答の冒頭に「文学に限らない考え方そのものだと思います。」とあるように、このところのやりとりとの関連と響き合える内容だと思ったので転載します。
『第三項理論が拓く文学研究/文学教育』へのご質問あり。
Q:(第三項理論における)、〈主体〉・〈主体が捉えた客体〉・〈客体そのもの〉について、わかりやすく教えて!
〈主体〉とは「作者」?それとも〈私〉?
〈客体〉とは?〈客体そのもの〉とは?
A:〈主体〉・〈主体が捉えた客体〉・〈客体そのもの〉は、文学に限らない考え方そのものだと思います。
小説の場合は、たとえば、ある登場人物Aを〈主体〉とした場合、〈主体が捉えた客体〉は他の人物Bをその人物が捉えた像になり、〈客体そのもの〉は、人物Bそのものとなります。
登場人物Aは永遠に、人物Bそのものは捉えられないということです。
語り手を〈主体〉とした場合、〈主体が捉えた客体〉は語り手が捉えた登場人物たちの像になり、〈客体そのもの〉は、登場人物そのものとなります。
語り手は、登場人物たちを語りながらも、実は登場人物そのものは捉えられていない(それは視点人物であっても同じ)ということです。
一人称の場合も、語り手「私」を〈主体〉とした場合、〈主体が捉えた客体〉は語り手「私」が捉えた登場人物「私」の像になり、〈客体そのもの〉は、登場人物「私」そのものとなりますが、語り手「私」は実は登場人物である自分自身を捉えられていないということです。(終わり)
あ、それでー、以上のことをわかった上で、つまり、例えば語り手は登場人物が捉え切れないと言うことがわかった上で、語り手がとらえた登場人物像と語り手が捉えきれていない登場人物そのものの姿の両方を描き出したのが小説というジャンルということ。読んでいる人は、いーーっとなりそれを狙ってる(笑)
09:48 ソルティ
難波先生のツイッター。 実はこのような文章を読むのが超苦手。上原先生のご著書も殆ど読んでいない。(ごめんしてください) しかし、ちょっと挑戦してみます。(近日中に)
14:35 コバルト
俯瞰(ふかん)、主観、客観、を同時進行でこなして行く感じですかね。
CTスキャンみたいにあらゆる角度からみることで、平面から立体的に見ることができるように、物事も見る角度を増やすことで奥行きが生まれ的確に捉えやすくなるんですよね。
14:55 コバルト サイト紹介
「レクサス"神営業マン"の武器は沈黙だった」
 http://news.livedoor.com/lite/article_detail/15936460/
15:48 ヒマワリ
意識世界と無意識世界って感じかー?
琴浦さん系な感じするー

ブログやりとり記録 http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/197/
          http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/198/  など
16:22 虚空
 お二人の意見・・・何を「重ね合わせるか」という視点は違っていても、「異なる視点を同時に受け入れて、共鳴させながら全体像や本質に迫っていく」ということから、この世の中で生きていく中での大切な視点だと思います。
そこが「文学教育」とか「物語を読む」という枠に限定しない「考え方そのもの」・・・「知覚と認識」とか「意味の本質に迫る際の問題」(この前から何度も登場している「コーヒーコーヒー」のたとえ)とかにつながっていきそうですね!
20:25 ヒマワリ
主体の登場人物Aが、客体Bをそう捉えてしまったら、Bそのものは捉えられないっつーのはさ、
AがBを自分で決めつけちまったから、Bそのものを受け入れられないっつーこと?
Bに対する構えを頑なにしてしまったAとゆう解釈でどうだ?
器を空っぽに、Bに対して鏡とゆう存在にならないAってゆう?
結局なんだ?
見えない世界が本物か?夢か現か。
意識世界でそう捉えても、無意識世界はどう捉えとるか分からんし、AだってBだって「そのもの」とゆう存在なんて存在してます?
これ養老孟司以来の混乱招く気がする(笑)
自我とはなんぞやの世界。壺!
ちょっとコーヒーコーヒーに近づいてんだから彷徨ってんだか分かんないwww
いやそりゃわかり合おうなんてしてないし、正解ないよね考え方なんだからww
いやでもモヤるわ!
20:31 コバルト
 今が混沌(カオス)だね!
そこで柔らかくなれるか堅くなるかで違いが出てくると思います。
柔らかさは変わっていける可能性を秘めていますから。
結局難しく考えてしまうのは点と線の感覚として考えてしまうからなのかな?
物事は円としての感覚で捉えられれば全ては繋がって素直に受け止められるんじゃないかな?
21:24 ヒマワリ
いや、点と線とかではなくてどっちかっつーと円の中を彷徨ってコーヒーコーヒーに近づいてるイメージ
この感じ (画像)
22:19 ソルティ
コバルト君の言うところの俯瞰(ふかん)、主観、客観、を同時進行でこなして行く感じですかね。CTスキャンみたいにあらゆる角度からみることで、平面から立体的に見ることができるように、物事も見る角度を増やすことで奥行きが生まれ的確に捉えやすくなるんですよね。” 
 コーヒーコーヒー。カオス ヒマワリさんの絵、などなど なぞなぞ状態&カオスに存在してます。少しづつ理解に努めたいと思います。
あとコバルト君が紹介してくれたレクサスの営業の方のお話しも興味深かった。
1、人の反応ばかり気にしていた。
2、少しだけ自分本位。
3、世間話はしない。
4、誠心誠意答える。という意見に賛同。
この1、をず~~~~っとやってきた人生だったので病気しまくりだったんだな~と思う。
2019.01.29 火曜日
00:06 コバルト 画像3枚




00:31 虚空
3つの関係について運転中にも考えたりしていたのですが・・・例えば古池やの俳句だったら、
A詠み手 
B対象である静けさ 
で俳句を詠んだとして、それを鑑賞者Cが味わった時に、その味わい方は、そのAのつかまえ方そのものをつかまえるっことは不可能・・・っておいうことと同様なのですかね????
前に紹介した「理解は誤解」という野口三千三さんの言葉に象徴されるような。
「ああ、それ分かる分かる」といっても、響き合いの感覚はあっても100%一致してわかることは感覚器や脳の構造上も無理・・・その自覚をもった上で文学の鑑賞をはじめとして、人間の「認識」や「分かり合う」ということを進めていく・・・とか???
05:42 ソルティ
1、レベル10の不運をイメージ&レベル7の幸運をイメージ。の図は、占いの先生が前者のような手法を提案していました。そうなんだ~と思っていましたが、ちょっと違うような気もしてきました。
2、ヒーリングをお習いした時は、どちらかというと良いイメージをわかせるように言われました。ところが、イメージばかり先行しても現実生活で実践してなにがしかの好転がみられなければ意味がないと思います。そこで言われたことはグラウンデイングを強くするということです。地に足をつけた生き方ということです。
で、まあどちらでも、自分に合った方を選択したらいいのかな?と今は考えています。結局のところ無理しても続きませんからね。
ちょっと高い所を目指して、少しづつ進む。自分が積み上げたものは自信につながる。そんな感じでとらえています。何よりワクワク感は大事だと思います。
つきは円で表すの図。占いでいくと、
12支は 水性( 亥・子・丑 )丑は土だけど変化する。木性 ( 寅・卯・辰 )辰も土性
火性(巳・午・未 )未も土性。金性 (申・酉・戌)戌も土性 これらの性質が 自分にとって 守護神となるか?忌神となるかで 幸運・不運への家協があるように思う。まあこれに 十干( 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 )と組み合わせて運勢を占っていくので、簡単には言えないと思うけれど。。。
守護神が回ってきたとしても、忌神を消化してなければ、好転しないので、とりあえずは苦労を越えるすべを得る。ことなんだろうか?と思う。その時に、大事なことがレクサスの人が言っていた、少しだけ自分本位だろうと思う。
3の図は よくわからない。

虚空の古池の例えの話は面白いな~と思った。「それ わかる~~!」とか言っても (わかるわけないだろが!)とか思う自分がいて、なんというか、合いの手的な、場を盛り上げる的な そんな風に喋る自分もいるね。
学童で働いていて思うことは、昔 教室に 「思いやりのある子」とか貼っていたでしょ?自分が貼ったかは?忘れたけど、それって、この年齢でわかるわけないだろう~?って思うんだよね。

しらけすぎかも知れないけど。相手の身になって というのも、相手と同じ状況におかれて初めて身にしみて理解できるんじゃないの?って思うんだよね。

☆学修塾ダンデリオン 1月22日ツイッターに関して 諷虹・虚空 やりとり④ 「死と再生」

虚空 エヴァには電源ケーブルがつながっている・・・へその緒だよね。
諷虹 アスカのうずくまっている姿もまさに胎児の姿勢
(アスカが復活する時に、砂浜のカット 渚)
諷虹 母親の惨たらしい死の姿がでてきたのって、黄泉の国から去る時の極み?
*ラインに なのは のことを書いたことをきっかけに 起動呪文を復習
『我、使命を受けし者なり。契約のもと、その力を解き放て。風は空に、星は天に、そして不屈の魂(ココロ)はこの胸に。この手に魔法を。レイジングハート、セットアップ!」(1期第1話)
「風は空に、星は天に、輝く光はこの腕に、不屈の魂(ココロ)はこの胸に! レイジングハート、セットアップ!」(1期第9話)』
虚空 とどのつまり単純にいうと「おさまるべきところにおさまる」っていうこと?
それが魔法への扉を開いている?・・・一般化すれば、隠れていた内なる力の発動。
他との共鳴が魔法的な威力を発揮するっていうことかね・・・
もともと なのは は魔法力の資質はもっていたわけじゃない・・・本人は全く気が付いていなかったけど。よそから魔法力を受け継いだわけではない。
それと同様に無意識っていうか、まだ気が付いていない自分っていうのが無意識の世界にはやまほど存在していて、それが現れるのがトランスフォーメーションを起こしながらの人生っていうことになりそう。 
だいたいさ、こういったアニメでの変身シーンのお約束みたいな感じで、なのは達の変身シーンでも着衣が全部はがれて、っていうのが描かれるけどさ。あれって単なるサービスカットというように捉えられているけど、もしかしたら「衣服」の着脱が「死と再生」とか「本性示顕」とかとつながるという心意伝承のようなことがベースにあるんじゃないかと思うよ。
「元服」っていう感覚もそれに近いのかな??? 元服の儀式では服装に大きなポイントがあるわけだけどさ、「元の服」って。本来それを身に着ける資格は持っていたけど、まだ時期ではなかった・・・今まさに機が熟して・・・・というのが元服
上原先生が「今風の成人式は早く辞めさせて元服に」って言ってたけど・・・武士の家の子だったら大人になったのだから、もう合戦にも参加して死ぬ覚悟をするのが元服だったわけだよね。
今の成人式は「堂々と酒を飲んで我が侭が許される日」・・・格式高い羽織袴スタイルがヤンキーの代名詞になってしまっているというのは妙な世の中だよ。
諷虹 ちょっと違った観点になりますが、星回り・・・満月になった時に特別な力を発揮するみたいな・・・特別な時が満ちた時に力が発動っていう意味合いもあるのかな、って。この「星は天に」って。
虚空 それこそ「時間・空間・人間(ジンカン)」の錯綜だね。
諷虹 そういう意味では「風は空に」という言葉が前に来ていることによって、「流れが変わる」宣言・・・星の位置も変わっていくとか。
それが今日の最初に出た歌詞「二人だけの秘密の夢の座標(星座)をそっと記す」につながっていくのかな・・・。
虚空 続きの歌詞にも「誰にも想像できない物語のプロローグに繋がっていく」「始まりを告げるよ」なんていう言葉があるじゃない。
諷虹 「計算違いの展開が未来を切り開いていく」なんていうのもありましたね。Don’t be long  でしたっけ。
(歌詞確認)
「君との出会いで胸に輝く勇気は 思いがけないほどに 大きく解き放たれた」
⇒ 共鳴の拡大?
虚空 はじまりはいつでも「ささやか」で「単純」・・・でもそれを大切にするから最終的にはすごいことになる・・・
最初の「老子さん」の言葉の真意と通じるかどうかは分からないけど・・・・
諷虹 バタフライエフェクトですね・・・
(0時7分終了)

☆学修塾ダンデリオン 1月22日ツイッターに関して 諷虹・虚空 やりとり③ 「境界領域での混沌」

諷虹 この「渚」って名前もエヴァに出てきた「渚カヲル」と通じるのかな、って。
名づけの由来
「渚カヲル」のネーミングは脚本を務めた薩川昭夫による[6]。由来は、映画監督の大島渚からで、「渚」は綾波レイの「波」と対になっている。または姓は偏と旁を分けると「シ者」[6]、すなわち使者(→使徒)であり死者、名前は「オワリ」を五十音順で1字後にずらしたものから「カヲル」、姓と合わせると「シ者オワリ」→「渚カヲル」となる言葉遊び。つまりは「最後の使徒」であり「最後のシ者」であるとの隠喩である。これは弐拾四話のタイトルにも掛かっている
虚空 そうなの?自分は単純に「なぎさ」っていう波うちぎわ・・・寄せては返す波がくる場所っていうイメージからかな、って思っていた。
辞書 海の砂浜から波打ち際までに至るまでの、広い砂地のこと
諷虹 境界領域ですかね。波の動きに応じて「海」だったり「陸」だったりする場所。
あと我々世代だとクラナドなんですが、ヒロインである渚が娘の名前を「汐」ってつけるんですよね。(辞書 月や太陽の引力で海水が満ち引きする現象)
名づけの由来は 『ひとり立ちしても やがては 渚のところに戻ってくるように』というような・・・
虚空 でもさ、あれって出産の時にお母ちゃんの渚って死んじゃうんじゃなかったっけ?それから子供の方も死んじゃうんじゃなかったっけ?
諷虹 ひぐらしのような並行世界で・・・それを回避するルートもある、っていうことなんですよね。アニメ版だと話ずらいんですが、ゲーム版でいうと全ルートを閲覧すれば「光の玉」が集まって大団円ルートに行ける。アニメでは二期のラストでその「光の玉」の奇跡が起きて母親も助かるし娘も助かる。ものすごく大雑把にいうとそういうことになります。
本当はもっと深い意味があるんですけど、それは詳しくはここではとても言えません。

クラナドから元に戻すと・・・「渚」って、まどマギ劇場版のカマンベールチーズ好きの・・・「百江なぎさ」。あれも魔女であり魔法少女であるというところからつけたんですかね。
虚空 最初は魔女は完全悪として描かれていたけど、それらすべてが愛すべき同士だった魔法少女の成れの果てであることが明らかになってから、親愛の情を抱きつつ退治する、っていうような感じだったもんね。
諷虹 (ネット解説文)ほむらのまどかに対する強い愛情が、悪魔ほむらを生みだして、2度の世界改変が起きる・・・
虚空 トランスフォーメーションだね。
諷虹 悪魔っていうのはさっきのなのはでも出てきたけど・・・・
虚空 聖書に出てくる悪魔っていうのも、日本人のとらえかた通りかどうかは分からないよね。だいたいさ、「ガブリールドロップアウト」なんてアニメを作ってしまうんだからさ。天使の優等生が地上にきて堕天使になるとか、悪魔が天使以上に善良だったりして。西洋人からみたらどう思ったんだろうね。
ただ、古いタイプのタロットカードでいう悪魔っていうのは、大切な意味付けもされていたじゃない。神界に入る前に必要なステップとして。
カモワンタロット⇒ 「神の家」に入る直前にいる天上界の偉大な番人
諷虹 エヴァの使徒だってそうですよね。どっちが悪魔だかわからない。
虚空 「はたらく魔王さま!」もそうだった。魔王の方が善良。
そういった逆転が日本人って好きなんだね。
*ここでヒマワリフクロウさんからのライン  
*諷虹「色」「柄」に対しての日本人のイメージを検索して感心する
⇒これらのラインやりとり記録は別記
諷虹 色の組み合わせによって、「和音」のようにその色のイメージがガラッと変わったりするのもあるよなぁって。
手ぬぐいの柄とかは色もですけど絵柄でも意味を出してたり・・・https://kamawanu.co.jp/tenugui/origin.html
虚空 まさに言霊の国だね。
諷虹 これ(かまわぬ 手ぬぐい)なんか女子高生のセンスですよね
諷虹 画像の配置によってということからすると、てぬぐいとかの柄とマンダラっていうのも共通してますよね。バチがあたるかもしれない考えですけど
虚空 いや、バチはあたらないんじゃないかな。マンダラ塗り絵なんてうちにも何冊からあるけどさ、あの幾何学模様に好きな色を塗っていくだけで、トランスフォーメーションをおこせるようなふれこみだから。
そもそもマンダラって、言葉として説明できないからこそ図式でっていう・・・空海が広めた「密教」の根底の発想だものね。
そこはずっと語り合っている「言葉で表すことができない部分に根幹がある」っていうことそのものだよ。
てぬぐいでも着物でも帯でもそうした柄を「どう組み合わせるか=合わせ」っていうことも上原先生は問題にしていたけど、足し算ではなくて、錯綜・共鳴からくる累乗的なかけ算という感じで響き合っていくんだろうね。具体的にいえばそこから触発されるイメージや感情。
それを児言態では「イメージの発動性」って呼んでいたけど、今後の課題としては「発動したイメージ」のその後ということ・・・それが「共鳴」というキーワード。
そしてさ、やっぱり日本人って極端に相反するものを共鳴させあうのが大好きだったと思うんだよ。西洋的な常識では考えられないくらい。それがさっきから出てきているバガボンドのことだとか・・・・
諷虹 マンダラも絵柄同士のコンステレーションっていうことがあるわけじゃないですか。
相反するもの・・・同じ円とか図柄の中に何でこれとこれを一緒に描いているんだろう、って。
虚空 日本画でも浮世絵でも山ほどあるよ。
諷虹 ダリもそうですよね。だから超現実につながるわけで。現実・非現実と両方あるから「超現実」
虚空 スタートの時点とか、一つ一つのステップは老子さんの話からあったように単純。解きほぐせば案外シンプル。でもそこから無限の多様性を広げる・・・水墨画なんかもそうだし、さっきのてぬぐいとかの図柄も、西陣織のような豪華絢爛な配色なんかなくても、イマジネーションを刺激することでどんどん広がる。この前のモノクロ世界の話のように。ゼロのイチの間に無限のグレーがあって、それが無限の色彩となる。
諷虹 てぬぐいの中に「とんぼ」の図柄があるんですけど、前しかみないで飛んでいくイメージから好まれた、ってあるんですけど、それってこの前の「荒野のコトブキ飛行隊」にも出てましたよね。「隼は前しかみないように作られてんの!」
コンビネーション・・・
虚空 それもかけ算だね。バガボンドの井上さんが「リアル」でも書いているチームワークの話だよね。それぞれの関係が起こす「化学変化」・・・想定外のことが起きるから楽しい
コトブキでもガルパンでもそうだよね。水島監督って、くせ者たちがチームワークのために没個性になるよりも、そのまんまでからみあって想定外の力を発揮っていうのを好むよね。
これって、飛鳥時代の宮大工の口伝と同じ。木でも人でも癖をそのまま使え、って。
普通だったら組織のお邪魔虫になるような問題職人を絶対首にしてはならない。そのまま使えるポジションをみつけるのが棟梁の技量だ、って。

この組織論だって、両極端を統合する・・・西洋哲学での「止揚(アウフヘーベン)」よりももっとダイナミックなような気がする。なんて哲学をきちんと学んでなんかないけどね。
ただ、学生時代のゼミは教育哲学のところだったから「絶対矛盾的自己同一」なんていう言葉はさんざん出てきた。この場合の「絶対」って「対立を超越する」っていう意味らしいから、さっきの「超」と通じると思う。(哲学専門の方からみたら暴言かもしれませんが、お許しを)
諷虹 「絶対値」がらみで、アブソリュート(英語表記)absoluteってあるじゃないですか。(辞書 絶対的であるさま。完全無欠なさま。また、まじりけのないさま。)
・・日常での「絶対」の使い方ってそういう使い方とずれている部分がありますよね。
虚空 だから「超」の方が誤解が少ないかも・・・「非現実」と「超現実」の違い。「どっちか」ではなくて「両方の響き合い」・・・
諷虹 日本語のあいまいな表現っていうのも「どっちにも含みをもたせる」んでしょうね。西洋だと「どっちかにしろよ」っていうことになるんでしょうけど。
虚空 あいまいな境界領域っていうのも大好きだよね。
諷虹 渚ですね
虚空 どっちつかずの場所を作る。
諷虹 縁側とかそうですよね
虚空 襖や障子・・・鍵もかけられないし、つつぬけなのに、絶対的な区切りとしてお互いに了解しあって生活する。エヴァでのドイツがえりのアスカのセリフにもあったけど
諷虹 ATフィールドですね。あと旧劇場版でエヴァの操縦席っていうのは母親の胎内だとアスカが気づく場面がありましたけど、あれもドイツ的な思考が邪魔してなかなか気が付けなかったのかな(25話 Air)
(動画で確認