忍者ブログ

☆「出会い・別れ」「本当に分かるということ」②・・・「分かった」意識は停滞

僕は足踏みが嫌いだ」は上原輝男先生の口癖でした。

学問研究(探求)でもある程度の目鼻がついたら、「さあ、次」と。
「いつまでも一つの事にしがみついている」というのが、壮大なテーマに向かってぶれなく探求し続けているというのであればいいのですが、人間はとかく「過去の栄光」にしがみついて、実績をあげたものから離れられなくなったり、「これなら間違いなく進められる」という安全圏の中でいつまでもグルグルと堂々巡りをしてしまいがちです。

それを日本神話では「黄泉の国」⇒「禊」⇒「三神の出現」という形で示唆しています。禊では「自分をこれまで支えてきた杖」、「自分を地位や名誉というように包み込んできた衣服」を先ず捨てることから始まります。そうした目に見えるような価値は汚れとして洗い清める。その時に天照大神等々が出現されるわけです。

そんなことに関して「お笑い」の話題から始まって、「深層心理」や「数学の世界」などに話が発展します。




2019年3月29日 諷虹宅②
諷虹 最近の短編アニメもいろいろあって面白いですよね。

虚空 やっぱりいろいろと実験できる。そういう場がないと新しい人が伸びないよ。

諷虹 放送時間が長くなって逆に面白くなくなったのもありますよね。
こういうのは日本人向けなのかもしれませんね。

虚空 やっぱり俳句や短歌の文化だよね。四コマ漫画とか・・・
もちろん長編には長編の良さもあるけど・・・
そのあたりは、もしかすると「垣間見」の感覚もあるのかもね。短編だから垣間見になれる。

諷虹 芸人さんのコントでも開始数秒で分かるのと、ジワジワもりあげていくのと二通りあると思うんですけど、テレビ放送用と、ライブ用と・・・

虚空 ドラマの脚本だと「なで型」と「張り手型」・・・朝の連続ドラマと2時間ドラマの違い。

諷虹 最初のインパクトで最後までもっていけるかどうか。最後まで息切れしないでいけるか。笑いどころも長すぎると冷めちゃう。異常性に慣れちゃう。

虚空 ずっと前に紹介した「いとし・こいし」なんていう「しゃべくり漫才」のベテランはさ、ステージに出てきていきなり本題に入るというスタイルだったけど、それこそ「ボケとツッコミの話術だけでもっていく」・・・漫才ブームの頃の若手たちのように妙な動きでバタバタしない。あれはやっぱり至芸だね。

諷虹 トリオでやっている人もさっきの真打のように、二人でのやりとりで煮詰まったところにからんできて起爆剤になる。

虚空 古い人達しか知らないけど・・・「かしまし娘」とか「ちゃっきり娘」とか・・・・。やっぱり役割分担はあったよね。

諷虹 同時に並行してというのだとフレッシュさがなくなっていく感じがありますね。

虚空 本当の基礎ができている人たちかどうかというのもあると思うけどね。
基礎ができていないと、どうしても見かけの斬新さとかだけでウケを狙う。
でも最初は枢要しても飽きられるのは早い。「一発芸」なんかもそうだろ。毎日うんざりするほど出てきたのに、あっという間に話題にもならなくなる。残酷なほどね。
「人間が消耗品」というようになっているのが今のバラエティー番組とかの世界なのかもね。
それこそ、一発ネタはすぐに飽きられる、忘れ去られるという事実をしっかりと受け止めて「ホンモノ志向」になれば「別れ」が「最高の出会い」っていうことになるんだろうけどね。
上原先生とかうちのオヤジが「次の課題もその答えも目の前の子ども達が教えてくれる」って同じようなことを繰り返し言っていたんだけど・・・それも根は同じだと思う。
「僕は足踏みが嫌いだ」といって、一つ目星がついたら「さあ。次!」という生き様だった上原先生の姿勢(構え)を本当に受け継いでいるかどうか。
うちのオヤジの言い方だと、よく引用していたけど、あの「一切成就の祓い」
極めて 汚きも 溜りなければ 穢きとはあらじ
逆に言えばさ、どんなに素晴らしいことでも「停滞していたら汚れていく」っていうことだもんね。
「保存と継承は違う」っていうのも上原先生が講義で話していたよ。

あとね、これもさっきラインで紹介したダンデリオンツイッターの記事の「分かっているつもり」問題。
「自分はもう分かっている」と自負していればいるほど、逆に物事の偉大さ、壮大さを自分の想定内に押し込めようとしてしまう。
教師だってそうだよね。自分の想定から外れる子をとことん拒絶する人っているんだけど。発言にしても作文にしても「わけわかんないことばっかり」と断罪してしまう。
そもそも自分がその向こう側をキャッチしようとしているか・・・「見えない世界をキャッチしよう」としているか。
さらにはね、河合 隼雄さんが言っていたけど、深層心理学の専門家だからこそ、人間の心理が自由自在に分るのではないかという世間の思い込みは全く逆。専門家だからこそ「簡単に分る訳がない」ということを自覚しているんだと。
そういうことからすれば「今、この子の発言は分からない」とか「今、自分はこれには意味がないことだと思っている」っていうのが、どこまで絶対って言えるのか。
単に自分が未熟であるから、っていう方が圧倒的。
それを棚において、自分が絶対基準のようにしていては、取り返しのつかないことをしてしまう。「私はちゃんと分かっています」なんて下手に宣言するよりも「これからも分かろうと努力し続けます」という方がまっとうだと思う。


諷虹 知れば知るほど、っていうのは確かにあると思うんですけど、同じ「分からない」でも「相性」とか・・・波長が合う合わないっていうのはあると思うんです。
例えば将棋なんかは難しいから近寄らないんですけど、はまっているものだと難しいから近寄る。人によって違いますよね。

虚空 それこそ今回のわたてんでも『お姉さんって普段人見知りでおどおどしてるのに好きな事になると一生懸命というか後先考えないですよね』ってセリフがあったよね

諷虹 未知のものが出てきた時に「ワクワクする」か「まだあるのか」ってうんざりするのかが相性なんですよね。

虚空 バガボンドでも強敵が出てきたときの姿勢。

諷虹 「博士の愛した数式」のような世界もワクワクですよね。

虚空 ちょうど50円玉君とそんな話をしたんだよ。整数論にはまる人間はとことんはまる。人生をかける。でも自分なんかは整数論とか幾何学よりは「解析」の方。
やっぱりね、基本的に「時間・空間・ジンカン」の錯綜に関心があるんだね。もちろんだからといって物理オンリーではない。物理を超越するため・・・人知の想定を超えるための純粋数学にも興味はある。
でも整数論にはそれほど燃えない。自分のイメージでは神秘の扉の向こう側をのぞく感覚が強いように思うんだよね。そういう意味では「垣間見」に近いのかもしれない。
でも自分は扉の向こうというよりは、扉を境にした両側でのせめぎ合いに関心が強いんだろうね。
だから今回のわたてんミュージカルにも、そういった部分で反応してしまう。
PR

☆「出会い・別れ」「本当に分かるということ」①・・・ダンデリオンツイッターより

まずは駿煌会ラインに載せた紹介文です。
2019.03.29 金曜日
18:11 虚空
ダンデリオンツイッターの記事、2連発です。
まずは22日のものから
虚空補足⇒ちなみに、この文中の恩師とは上原輝男先生のことです。
私にとっても、この4月は悲しみの深い年でした。
そしてそれは平成8年のこと。・・・本当はこの年の春休みに体調があまりにも悪化していて、校長先生に退職を相談していました。
「じいちゃんに心配かけるだろ」と言われ一度は思いとどまったのですが、8月1日にじいちゃんも他界したので8月いったいで退職したわけです。
そういう意味では平成8年というのは大きな別離が3つ続いた年でした。(3月での平成7年度のクラスとの別れも大きかったので、正確にいえば4つ続いたといえます)



::::::::::::::::::::::::::
―『別れ』は最高の『出会い』―
「『ダンデリオン』て『エヴァンゲリオン』のパクリだろ」と陰口叩かれていたようですが、実は『ダンデリオン』は40年ほど前、私が中高生のころ遊びで書いていた冒険物語の題名です(実物も教室内にあります。『エヴァ』の原作マンガが1994年開始ですから25年前)。
主人公がタイムスリップで様々な時代の波に翻弄(ほんろう)されながらも、その時その時の精一杯の花を咲かせていく、そんな筋でした。「旅する花」→「蒲公英(たんぽぽ)」→「dandelion(ダンデライオン)」→「ダンデリオン」という流れで付けた題名。
未完のままですが、いつか何かで使いたいなあと思っていたのでした。
たんぽぽの花言葉には「愛の神託」「誠実」「幸福」そして「別れ」があります。
「別れ」は、実は尊(とうと)いことでもあります。
これを「悲しいこと」として普段は忘れて過ごそうとしますが、今目の前にいる人、大好きな人、あるいは嫌な人、みんなといずれは「別れ」ますし、最終的には「死別」します。それを意識して、相手とできるだけ深く「出会う」ことを思い続けるのも「あり」ではないでしょうか。
四月は私にとって生涯の恩師と死別した月でもあります。ちょうど桜も散り終えるころの朝報(しら)せを受けて、自分の人生が終わったような衝撃を受けました。ですがこのことが、またその恩師との新たな出会いの始まりでもありました。
遺稿(いこう)論文集を出版するのに10年かかりましたが、解説を執筆するために深読みしたり、資料写真を撮るために全国を駆け回ったりして、先生の学的生涯を追体験する中で、ますます師の到達した高み深み、そしてその境地を誰にも知られなかった孤独とを知るようになりました。
そうした形で改めて、恩師と出会えましたし、また新たな縁も生じて様々な方々との出会いも一挙に増えた時期でもありました。
「別れ」は、そのつらさや悲しさを、我が存在すべてを賭(と)すようにして味わえば、この上なく深い、霊的な出会いにも昇華(しょうか)します。
こんな思いから、「ダンデリオン」を塾名にしました。
実は、つい最近まで照れくさくて自分ではこの塾名をなかなか口にできなかったのですが、今しだいに言えるようになってきました。
慣れもあるかと思いますが、FlyingSeeds(フライングシーズ飛び立つ種たち)を2度送り出し、ようやくかれらから「出会い」を承認された、そう錯覚できてきたので…



18:15 虚空
こちらは26日の記事です。今回は記事通りに
漢文の紹介 ⇒ 意味内容 ⇒ お話 の順にしました。
::::::::::::::::::::::::::
(老子道徳経 下編徳経71)
知りて知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病(へい)なり。夫(そ)れ唯(た)だ病(へい)を病(へい)とす、是(ここ)を以て病(へい)あらず。聖人は病(びょう)あらず、其の病(びょう)を病(びょう)とするを以て、是を以て病(びょう)あらず。
【大体の意味内容】
物ごとについてよく知ることができたとしても、「まだまだなにも知ってはいない」と自覚することが最上である。十分知ってもいないのに、知っていると考えることが、気の病(やまい)であり、本人よりも周りが迷惑するものだ。
そもそもそうした半知半解の病(やまい)は誰にでもあるものだから、自分の気の病(やまい)を素直に病(やまい)として認め、慎(つつし)むならば、他人にまで害を及ぼすような深刻な病(やまい)ではなくなる。更に進めていうなら、聖人にはいわゆる病気もない。
身体に病気があっても、それを自分の生命活動における一つの燃焼の仕方として受け入れるから、生きざまに支障あるような病気ではなくなるのだ。

【お話】
よく似た発言がいくつかあります。
老子とほぼ同時代とされる孔子(こうし)の言動を記録した『論語』には「之(これ)を知るをば之を知ると為(な)し、知らざるをば知らずと為す。是(こ)れ知るなり」(為政第二、十七)とあります。似ていますが、根本が違います。孔子は「きちんと知っていることと、まだ知らないことを区別せよ」なのですが、老子は「いかなる場合でも、まだ知っていないと自覚せよ」ですから、「知った」という思い込みを全否定しているわけです。
老子孔子から百年ほど後、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知の知」を唱えます。これは老子に近いでしょう。
ソクラテスは「アポロンの託宣(たくせん)」によって「もっとも知恵のある者」とされましたが、ソクラテス自身はこれを、「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比(くら)べて優(すぐ)れているらしい、と受けとめたようです。
それからまた長い時を経(へ)て、ある科学者(ニュートンだったかと思いますがうろ覚え)のつぶやきも印象深く想起(そうき)されます。
自分は砂浜で戯(たわむ)れているようなもので、研究を重ねて何か発見すればするほど、その向こうに未知の大海がますます大きく広がっていくのも見えてしまう。おおむねこのような趣旨(しゅし)だったかと思います。
これなどは自分の経験を通じて、はからずも老子の考え方をわかりやすく翻訳(ほんやく)してくれているような気がします。いずれにしても、相当の知的修錬(しゅうれん)・研鑚(けんさん)を積んでいる人ほど、「未知の大海」がよく見えてくるわけです。
マスコミに登場する知識人、コメンテーターたちが、懸命に自分の知識の量をひけらかそうとしているのとは全く対照的です。
「無知の知」を、単なる言葉の知識としてでなく、自分の全人生が一粒の砂に過ぎずその存在が未知の大海の波に洗われようとしているどうしようもない実感に慄(おのの)いていることが、「超一流」の証(あかし)でもあるのでしょう。

☆救いは万策尽きた後?・・・「テレビ作家の教育力」

アニメに限らず日本古来の物語展開で「救い主」は最後の最後に登場というのが多々ありますね。
(もちろん外国のでもそうなのですが)

表面的にみれば、それは主人公たちが絶体絶命のピンチに陥ったところにヒーロー登場、というのが最高の見せ場になる、ということですが、心意伝承的な観点というか、神話的発想だとちょっと違う面がみえてきます。
それはこの現象世界は魂の修行の場、あるいは「それぞれが創意工夫をしながら生活を乗り切っていくところに真の喜びがある」ということです。

だから身近な例でいえば「至れり尽くせりの躓かないようにしてあげる」教育っていうのは、人間の本性に反する、と考えます。最も大きな学習の喜びを得られる機会を失わせてしまう。

だから救い主は人間がまずギリギリ精一杯に自分の力で突き進んでという段階・・・次のステップへの機が熟した・・・段階で、背中を押してくれる存在として現れるわけです。
水戸黄門だって、そのままずっとその場に居続けてくれるわけではなくて、去っていきますよね。

そこが地元に根付いている「氏神様」とは違う、一時的なお客様としての神様「まれびと様」の重要な意義です。

新たな次をまた自分達で切り開く・・・そのためには救い主は居続けたらかえって邪魔になってしまうんです。
(先日NHKのBSで放送されていた「七人の侍」も全くそのパターンでしたね。最後の志村隆さんのセリフに象徴的にあらわれています。
勘兵衛は『今度もまた負戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ、儂達ではない』


補足)「テレビ作家の教育力」についての上原輝男先生の発言
子どもはいつでも夢を見ている。その中に先生だから入れるということでなければ、(ならない)。
ガンダムの世界、子どもの世界、夢の世界に働きかけている。(これが、)テレビ作家たちの仕事、
教育力ということから言えばテレビ作家たちの方が優っている。
教育の世界に(は)、子どもの世界に触れるものがない。
1992年(平成4年)9月15日 月例会 

2019年3月29日 諷虹宅①

諷虹 (まんがタイム最新刊から)
NEW GAME がシロバコみたいになっていますね。
このあたりの話、普通に劇場版とかでやりそうな勢いですよね。

虚空 「チーム全体が一つ」っていう発想・・・チーム構成員が「足し算」ではなくて「かけ算」というか「共鳴し合って」いう・・・飛鳥時代からの宮大工の協同作業にも似た感覚。
折口先生の「一家系一人格」っていうのを縦軸ではなくて横軸版にするとこうなるのかもしれない、って今フト考えた。
ウマ娘の「チームスピカ」なんかでもそうだったけど、どのチームがいいとか悪いとかではなくて、例えばサイレンススズカだったりスぺだったらリギルよりスピカの方が共鳴しあえた・・・だいたいゴールドシップなんてリギルでは芽がでないよね。
でもリギルのようなチームの方が伸びるのもいる。
そんないろいろなチームがあって、あの学園は成り立っている・・・本当の意味での「有機体」観・・・

諷虹 八神さんの再登場の仕方がピンチになっての登場・・・
*ネット検索 『真打』

虚空 「真打登場」っていうやつだよね。

諷虹 今回のコトブキ飛行隊でもガルパン劇場版でもそうですよね。

虚空 自分は今月の NEW GAME で真っ先に意識にひっかかったのが、さっきのチームっていうこと。それこそシロバコでの 武蔵野アニメーションもそうだし。
八神さんが戻るきっかけとして、単に技能が高いからピンチの助っ人として、という以上のことをフランス人も発言しているけど。

諷虹 舞台が整ったっていうやつですね。
スポーツでもピンチの場面だからこその場面で出す。もっと前から出してもよさそうなものなのに。先週の「切り札」にも通じますね

虚空 どの場面で登場すれば「チーム全体に最も共鳴しあえるか」っていうことだよね。「舞台が整う」っていうのは、その場のみんなの「集団的構え」。

諷虹 「万策尽きた」というあとに「新たな次元がみえる」。煮詰まって煮詰まってポンと登場してきたことで活路が見いだせる。

虚空 まさに黄泉の国を通過して、三神登場。
でもこれは単に助っ人が出てきて「もう安心」じゃないよね。
それで新展開への予感が感じられて、みんなが再起動。これまでとは違った頑張りでの共鳴が起きる。

諷虹 メタ的な発言だと思いますけど、最終回近くになってのね。今回のえんどろ~でも、魔王という正体を明かすのが8話くらいででていたらね・・・。あと1話くらいのこのタイミングだから。

虚空 受け手側にもそれなりに限界までという精一杯感があってこその・・・っていうのは王道だよね。
ウルトラマンだって最初からは出てこない。でもイデ隊員がそれを期待してしまって、っていうエピソードがあった。
最終回はウルトラマンにもう頼らずに地球は我々の手で守っていかなければならない、っていう感じだった。 
水戸黄門だってギリギリまで印籠を出さないし、大魔神だって本当のギリギリにならないと出現しない。

諷虹 最終回になって2期決定、っていう不意打ちだって、ワンクールで終わってしまう世の中だからこそできること。

虚空 昭和の感覚だとね、それならちゃんと続けてやってくれ、って思うよ。2期開始が何年もたってからとかね・・・。
それも以前と比べて原作にはないオリジナルストーリーをやらなくなった、っていうのもあるんだろうね。よくいえば原作重視だけど、悪く言えば、魅力あるオリジナルストーリーを描けるライターがいなくなった、ともいえる。

諷虹 そういう意味では動画工房は頑張りましたね。

虚空 その話がどのタイミングで出るかな、って思っていたんだけど。

諷虹  我々がきんモザに求めていたのはあれだったんだな、って。

虚空 そうだよ。同じ最終回にミュージカルっていっても段違い。
ネット感想でも「動画工房の底力」なんていう言葉があったけど・・・本気だしたら、たったAパートだけの10分ちょっとでも、劇場で本格的なミュージカルアニメを観たかのような充実感。「アナ雪」なんて吹き飛んだ。

諷虹 みゃーねぇの言葉でフッと現実に引き戻された

虚空 だいたいさ、オープニングのところでいかにもミュージカルのフィナーレでした、っていうような幕の閉まり方。原作を読んでいた人には、「ああ原作通りあっさりと劇は通過なんだな」と思わせておいてのサプライズ展開だったんじゃないの。

諷虹 まさに真打登場。
どれだけに準備をかけていたのか。シナリオだって歌だって

虚空 作詞作曲だけじゃなくて、声優さんたちだってそれなりにいつも以上に練習は必要だっただろうしね。
とにかく内容も小学生の劇を超越していただろ。表向きは楽し気な美しいミュージカル仕立てでありながら「人間界」と「天使界」での「時間・空間・ジンカン」についての残酷なまでのズレと錯綜。
でも最後は、それこそ今回のダンデリオンツイッターで紹介した「『別れ』は最高の『出会い』」を地で行くようなトランスフォーメーションでしめくくっていた。

諷虹 死後救済

虚空 今回の歌詞の中で繰り返しでてきた言葉もさ、『人は大地に 天使は空に』。
そりゃ人間と天使のお話だから当然といえば当然なんだけど、先週「空海」とかの名前の話・・・日本神話冒頭との共通点・・・とのこともあって余計に心の中に響いてきた。

第12話「天使のまなざし」
内容と感想サイト http://anicobin.ldblog.jp/archives/55077332.html

諷虹 とても小学生の文化祭レベルではないですよね

虚空 この前からテレビ作家の教育力として何度も出ているように、幼い子どもが観る番組だって、子ども扱いしないで作られた深いテーマのものって何故か強烈に印象に残っている。セーラームーンのミュージカルだって良くできた作品は大人がみても難しいテーマを真正面から扱っている。一応幼児から小学校低学年を想定してのミュージカルなのにね。「大きなお友達」が真面目に内容に感動していたけど、子ども達がよく集中して観ていたよ。
それと同じようにね・・・これも単に人間と天使の交流という以上の深い世界を、よくまああの数分間に圧縮したと思うよ。
もちろんこのアニメの想定視聴者は小学生ではないけどね。

諷虹 あそこだけEテレとかでやってもいいですよね

虚空 そりゃ深夜アニメの神回として語り継がれるだけではもったいないよ。

☆「本当の出会い と 別れ」⑩ 「アニメ聖地 大洗 のコミュ力」

*2019年 3月23日 諷虹宅のやりとり(2)です。
俗に言う「アニメの聖地」・・・舞台になった土地をさすのですが、日本全国でもかなりうまくいった場所が茨城県の大洗町です。

ガールズ&パンツァー(通称 ガルパン)のキャラたちが今も生活しているような空間を、アニメとはほとんど無縁だったような年配者の方々が中心になって作り上げているという実例。何度も訪れるファンたちは単にアニメの聖地というのではなく「故郷」という感覚を抱くようにさえなっているようです。

これも「アニメ聖地の話題」というように限定しないで、「よその人を受け入れる」「ともに新しい世界を構築していく」「共存共栄していく」ということのカギが隠されているというつもりで読んで頂きたいと思います。

虚空 自分が子供の頃は、世の中の大人の半分以上が戦争体験者。大半っていってもいいくらい。そうするとね、特撮番組とかを子どもが見ている脇で怪獣を攻撃する時の爆撃音だとかで内心は嫌な思いをしていた人達は大勢いたと思うよ。

小学生の時に戦車のプラモデルがほしくてじいちゃんが買ってくれたことがあるんだけど、孫が戦車のプラモデルを組み立てて動かしているのをどんな気持ちでみていたのかな・・・なんてね。今思うとかなり酷だったろうな・・・。
でもね、大洗でガルパンのことを支えている人たちの中での年配者は、自らの意思でそれはそれ、これはこれ、ということで、戦車道の戦車は応援している・・・当事者ではあるけれどね。

そうなると鯰絵のようなトランスフォーメーションがガルパンによって起きたとも言える。町起こしや、他県からくる若者達とのふれあいという新展開を呼び込んでくれた・・・ガルパンは震災後の大洗を救ってくれた、それこそ「まれびと」。
イベントとかのたびに来てくれる声優さんたちだって、「まれびと」だし、それで何万人規模で集まってくる若者たちも「まれびと」。
アニメ聖地として成功できなかったところは、その信頼関係が出来なかったわけだよね。地元を荒らすとかで「来ないでくれ」と。神ではなくて「破壊者」。ウルトラマンでいうと怪獣や宇宙人。(ウルトラマンの発想の原点は「まれびと」)
お正月でもお盆でも、お迎えする準備をきちんとして・・・っていう構図と同じだよね。大洗の姿勢は。磯前神社がある、っていうのも大きいかな。ガルパン絵馬だってすごいしね。
英国紳士の武蔵君なんか奈良や京都の神社にもたくさん行っているだけど、この前磯前神社の絵馬の写真をみせたらビックリしていたよ。

神田明神だってそれこそラブライブをきっかけにして「えとたま」や「ご注文はうさぎですか」なんかがすごいからね。

諷虹 大洗の磯前神社とか神田明神はライブ感でにぎやか。普通の神社は時間がとまっている感覚がありますね。

虚空 それが神社の良さっていう人もいるんだろうけどね

諷虹 でも神社ってもともと「集う場所」だったと思うんですよ。算額奉納にしてももっと賑やかな場だったんだろうな、って。

虚空 たしかに地元の神社の神様は地元の人たちと共にというのをお喜びになっている、っていう感覚は強いのかな。誰も来る人がいなくてひっそりしていたら神様も寂しい。

諷虹 神主さんがいない神社だと廃墟を探索する感覚だったりして。手水場に水が出なかったり。

虚空 うちの地元の神社も朝の散歩時は訪れる人もいるけど昼間はね・・・。にぎやかになるのはお祭りの日と、正月の真夜中だけ。正月だって夜が明けたらお参りにくる人はほとんどいなくなる。

諷虹 (これまでの神社めぐりの思い出あれこれ)

(グーグルマップで大洗パネルめぐり)
大洗とガルパンのつながりに関しての Wiki
地域タイアップ[編集]
茨城県東茨城郡大洗町が大洗女子学園の母港であり、第4話における親善試合の舞台ともなっていることから、大洗町で行われるイベントや地元企業とのタイアップに加えて、大洗あんこう祭の前日にはメディア向けの記者会見が行われた[134]。本作の放送開始直後からファンが大洗町への「聖地巡礼」に次々と訪れたことが町の復興や活性化に大きくつながったため、地域おこし(萌えおこし)の成功例とみなされるようになる[135][136]。その一方で、バンダイビジュアルの杉山潔はアニメで町おこしはできない、と考えている[86]。

最初からヒットを見込まずビジネス色を前面に出さない方針が、観光客の心を掴んだという分析がある[135][136]。

観光庁の第1回『今しかできない旅がある』若者旅行を応援する取組表彰の奨励賞を受賞した際、審査委員会は、「アニメの舞台となったから、と受動的に町おこしを始めたのではなく、企画が始まる段階から地域と制作サイドが連携している点を評価」という趣旨の講評を寄せている[137]。

ガルパン応援大使の蝶野正洋は「何かや誰かが引っ張ったというのではなく、みんなが力を合わせて作った地域復興だと思う」と述べている[138]。そして結果だけみれば、作品がヒットしたことでタイアップも盛り上がりを見せたのである[2][135][136]。2015年の観光客数は444万1400人で、これは原発事故前の約八割にあたる[139]。アニメ情報サイト「アニメ!アニメ!」が2016年8月に行った読者アンケートにおいて大洗は、行ってみたいアニメの聖地第一位になった[140]。

地元側の対応
杉山は、大洗が元々観光地で、ホスピタリティーや地域住民の交流力やイベントに恵まれていたことを、町おこし成功の理由として挙げている[86]。

例として、商店街の各店舗に置かれたキャラクターのパネルを見に来たファンに、商店街の人々が話しかけたことが挙げられる[141][139]。制作側はこのパネルのキャラクター使用料を取っていない。

理由は作中で戦車により商店街が破壊されたことへの報謝である[142]。また各店舗が作品にまつわるイベントやを行う[143]際、この作品には原作がないため、版権使用の処理が速いことも長所の一つである[142]。なお、大洗を訪れるファンへの対応についての商店街店主からの問い合わせに対し、大洗町役場や商工会側は「ガルパンのことはファンから教わり、逆に大洗のことをファンに教えるように」とアドバイスしている[142]。


大洗町は2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で大きな被害を受け、さらに東京電力・福島第一原子力発電所での事故による風評被害もあり、復興が進んでも町は震災以前のような賑わいはなかった[144]。海水浴客は年間60万人から震災後は14万人に減り[141]、あんこう祭りの来場者数は例年から一万人以上減って三万人になっていた[139]。その時アニメの企画が持ち込まれたが、地元側は復興で多忙だったため、このアニメで何かを成そうという考えはなかった[141]。アニメ制作側にもまた、大洗町を振興しようという狙いはなかった[145]。
水戸駅がまるで「コミケ」状態 茨城県民も驚く大行列、原因は...
https://www.j-cast.com/2016/11/13283280.html?p=all
「こんなに混んでる水戸駅見たことないよ...」「20分以上経ったけど、まだ切符買えない...なんだろう、このコミケ状態」――2016年11月13日、日曜日の茨城県内では、こんなツイートが相次いだ。
   現地から投稿された写真に写っているのは、ホームや駅構内、はては駅の外まで続く人・人・人......。
13日午前9時ごろの水戸駅(@ayataro2649さん提供)。8列に並んだ乗客たちの姿が確認できる(写真は編集部が一部加工)

早朝から「ガルパンおじさん」たちが駅にずらり
   水戸駅の混雑が確認できるのは、朝も早い午前7時ごろだ。ツイートなどをたどると、日曜日とはいえ、普段ならまだ静かなはずの水戸駅に、各所から乗客が集まり始めたことが確認できる。
 
 8時前には、券売機にはすでに長蛇の列。その行列は時間とともに伸びていき、ついには駅の構内では収まりきらなくなって、南口側のペデストリアンデッキまで続く大行列となった。
   ようやく切符を買って改札を通っても、そこにも無数の人が。あまりの人の多さに、駅側は入場規制をアナウンスして対処し、ツイッターに投稿された写真からは、多くの人々が整然と列を作り、ホームに空きができるのを辛抱強く待つ姿が確認できる。電車もすべての乗客を収容できず、積み残しが出るなど、普段では考えられない大混雑だ。
 
 乗客たちの目的地は、鹿島臨海鉄道・大洗駅。そう、この日はアニメ「ガールズ&パンツァー」のロケ地として知られる大洗町の、年に1度の一大行事である「大洗あんこう祭」開催日だったのである。祭ではガルパン関連のトークショーやイベントも催されたことから、「ガルパンおじさん」と呼ばれるファンたちが、一斉に大洗へと向かったのだ。

水戸~大洗を「完歩」する猛者も
   2015年には過去最高となる11万人(主催者発表)が訪れたあんこう祭だが、今年は15年11月に公開され、異例のロングランヒットとなった劇場版「ガルパン」の存在などもあり、ツイッターでも、つぶやかれている回数の多い言葉を示す「トレンド」に、ハッシュタグ「#あんこう祭2016」がランクイン(15時時点)するなど、注目度はさらに増した。
 
 現地からは、
「去年一昨年とは比べものにならないくらい、あんこう祭人が多い」
「あんこう祭り去年の比じゃないほど人がいて流石にヤバイ」
といった声が多数上がっており、最終的な参加者数はさらに大きくなりそうだ。
 
 道路も混雑し、タクシー乗り場などにも多くの人が詰めかける状況で、中には大洗までの約十数キロを、徒歩で移動した人もいたといい、「ガルパンおじさん」たちにはなかなかハードな行軍となったようだ。

虚空 こうしてみると「おじさんパワー」がすごいよね。
東京の人が東京の感覚でこの画像をみてもすごさが分からないよね。
山手線みたいに何両ものながーい列車が数分おきにくる・・・っていうんじゃないんだから。だいたい2両編成だろ。そして単線だからイベントがあってもそんなに増発できない。一時間に2~3本だよね。(立ち席合わせて2両で240人)
それでこんなに水戸駅が混雑していたら乗れるまでには半端ないよ。

諷虹 やっぱりマナーがいいというのもおじさんたちだからというのもありますね。ネット上の炎上が少ないっていうのもね。どっしりしている。

虚空 ふところの深さはあるよね。変に若い信者ファンが多いと、新たなファンを排除する雰囲気があるからね。

☆「本当の出会い と 別れ」⑨ 「コミュニケーション」

*2019年 3月23日 諷虹宅のやりとり(1)
中学生である50円玉君と新海誠監督の最初の作品 「ほしのこえ」を使って語り合った話から始まります。
地球防衛の勤務のためにどんどん地球から離れた遠い宇宙に進撃していく女の子が主人公。恋人の男の子とメールのやりとりをするのですが最初は電波が届くのに数時間・・・それがやがて数年かかってしまうところまでいきたった一人で操縦席に座ったままの日々。返事がくるのを何年も待つ・・・そんな内容の短編アニメです。


諷虹君が紹介してくれたACのコマーシャル(当時話題になったそうですが私は知りませんでした)も子どもや他人をみるときの大切な構えを教えてくれるような内容です。是非実際の動画もご覧ください。

また後半には虚空自身のいじめ体験からくる発言が長々と載っています。

虚空 さっき宇宙飛行士の話もしてたんだけど、狭い閉ざされた場所で長時間過ごせる・・・昔の宇宙飛行士だったらそれこそ本当に狭い操縦席の中で独りですごした。

宇宙飛行士の資質で最も大事なのはコミュニケーション能力だって聞いたことがあるけど、コミュニケーションと孤独との両立ができないとならない、っていうんだから大変だよね

諷虹 星新一のショートショートにそんなのがありますね。・・・・オチとしては夢の世界に入り込める薬を処方されて飲んでいた

虚空 だいたいさ、そんな薬を飲まなくても、そんなところで一人で過ごしていたら、現実と夢の世界の境界線なんてどうかなっちゃうよね。

宇宙空間の話ではないけど、昔有名になった外国映画で「ジョニーは戦場に行った」っていうのがあったけど、あれもある意味でとっても怖い話だった。

Wiki より
ジョーは、徴兵によって最愛の恋人カリーンに別れを告げて第一次世界大戦へと出征する。
しかし、異国の戦場で迫り来る敵の砲弾を避けようと塹壕に飛び込むが、目(視覚)、鼻(嗅覚)、口(言葉)、耳(聴覚)を失い、運び込まれた病院で、壊疽して機能しない両腕、両脚も切断されてしまう。

首と頭をわずかにしか動かせないジョーは、今がいつで、どれだけ時間が経ち、自分はどこにいて、誰が近くに来ているのかを皮膚感覚で察知しようとする。一方鎮静剤を定期的に投与され、彼の意識は現在と過去の間をさまよう。恋人カリーンや戦争に行く前に死んだ父親との、実際には過去にも無かった数々の空想の出来事の世界に身を置き、そしてまた現実の「孤独」と「暗黒」の世界に戻って来る。  

うちのオヤジも手術後の経過が悪くて気管切開で声も出せないし、どんどん弱って筆談もできない状態が続いた挙句に逝っちゃったからね。どんな想いをめぐらせながら2か月ちょっとを過ごしていたのか・・・。

諷虹 昔 ACでやってた・・・。
テーマが「子どもから想像力を奪わないでください」なんですけど・・・https://www.youtube.com/watch?v=SNv4hBbu8K4
初めてこれを観たのが夜中なんですけど、結構怖かった覚えがあります。

虚空 絵でも作文でもそうだけどさ、大人が勝手に価値判断なんてできないよ。

*ACでの公式サイトに載っていたこと
⇒子供たちは、大人の常識をはるかに超えた想像力や発想力を持っています。しかし、それに気づかない大人たちは、そんな自由な感性を、教育の名のもとに既成の枠に押し込み、結果として没個性で画一的な子供を大量に生みだしているのではないでしょうか。この作品は、そんな思いを込め、実際にスタッフの一人が子供の頃に体験した実話をベースにドラマ仕立てで制作しました。

虚空 震災の時のあの「ACの広告」・・・あれは本当に映画の中の特別な世界に迷い込んだような感覚だったものね。

諷虹 都市伝説になっていますよね。

当時のことを考察した都市伝説サイトより
http://toshidensetsuu.com/anime/561/
https://www.youtube.com/watch?v=EsRm78ZSOgc
普通の感覚でのサイト
⇒テレビCM、また「ACだらけ」に 「5年前を思い出し、つらい」「やめてほしい」

諷虹 ありがとううさぎがパワーアップするのが話題になったこともありました。

ニコニコ動画でも例に漏れず、その流れに乗ってこのCMのMADや歌ってみた動画が多数投稿され、流行を見せた。
特に、3月21日に投稿された「グレートありがとウサギ」は「ありがとウサギを巨大ロボに変形させる」という斜め上の発想かつ高クオリティな変形バンク作画が大いに受け、わずか約3日で100万再生されるほどの人気に。
この動画をきっかけに、「これらは「攻強皇國機甲」というアニメシリーズに登場するロボットの変形シーンである」という設定が自然発生、他のキャラクターたちのロボット変形動画も次々と投稿されることになる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm13916425

虚空 これを作って投稿した人たちはどういった人たちなんだろうね。

諷虹 鯰絵の感覚に近いですよね

虚空 問題は作った人たちが被災者かどうか・・・あるいは被災者で観た人がどの程度なのか。
「鯰絵」は制作した側も観て笑い飛ばした側も被災者自身だったということ。
これはどうだったんだろうね?

諷虹 投稿された時期を考えると他の地域の方だと思いますね。
でも当時ものすごく流行っていましたね。

虚空 そうなると鯰絵とはちょっと違った要素も入り込んでくるかもね。

諷虹 ネット上だけだったので・・・これを地上波なんかでやったら不謹慎だっていうことになったでしょうね。

虚空 そりゃそうだよ。自分達自らが笑いで転換を起こそうとした鯰絵とは違って、よその連中が震災をネタにふざけて笑っていた、なんていうのはね。
被災者自身はトランスフォーメーションを起こして元気復活どころか、余計に傷ついてしまいかねないから。
それこそ今のバラエティ番組とかの影響が「いじめ」にっていう構図とも似ているところがある。番組ではいじられる側も了解の上でああいったやりとりがなされてる・・・それこそ仕事として。だからギャラももらっている。

その表面的なところだけで、誰かの血祭りにしてみんなは楽しむなんていうのは、了解の上でもへったくれもない。でもそういうことを全くといっていいほど、考えようとはしない世の中。
大人もそうだもんね。
もちろん、当事者ではない立場からの発想や切り口が想定外の突破口になるというのはあり得るんだけどね。だから柳田先生と折口先生が神々のことで論争をしたというけど・・・「氏神」と

「まれびと」・・・地元にずっと根付いている神とよそからやってくる来訪神。
どっちも大事なんだと思うけどね。
事情を知っているというのも大事だけど、それを知り過ぎているとかえって視野が狭くなってしまうというのはね。
専門バカというのもそうだし・・・だから部外者が自由に口出しできる雰囲気も大事。
素人だからこそ「まれびと」に成り得る。
それを漫画にすると「スラムダンク」の桜木花道。ガルパンでも大半がど素人集団だった大洗女子、なんていうのもそうだよね。
心のアレルギー・・・普通だったら何でもないもの、美味しい食べ物であっても、アレルギーを持っている人にとっては命取りっていうことがあるだろ。
何がフラッシュバックのスイッチになるかは人それぞれだしね。
そうするとどんなにささいなことでも俗に言う「地雷をふんだ」状態になる。
いじめの悪口もそうだよ。どんなに周囲にとって「ただの悪ふざけ」と言っても、本人にとっては耐えがたい凶器で・・・自らの命を絶つには十分な理由になってしまう。
その感覚はすごくよく分かる。
今でもその感覚に襲われることばかりの毎日だしね。
またね、今はだいぶ素直に愚痴をこぼしたり、不機嫌な顔をするようになったけど、子どもの時にはいじめられていると逆に母親に厳しく叱られるということがあって、必死になって隠していた。気づかれないように演じ続けていた。
そういう子って教師やっていた時にもいたよ。普通に明るく過ごしているんだけど、実は・・・って。注意深くみていても本当に分からないくらいの子はいる。
そりゃ命がけで演技しているんだから。もしいじめが発覚したら「チクった」っていうことになってもっといじめられると思っているんだから。必死だよ。
だから相手が傷ついてしまうような言葉を知らないで言ってしまっているかどうかなんてなかなか分からない。特にキーワードが普通では全く普通の言葉だったりすると尚更ね。知らないうちに実は傷つけていたなんていうことはいっぱいあったんだろうな・・・。
ましてやネットやスマホ社会で相手の顔や声の響きが直接分からないから、ますますキャッチできないよね。