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☆「本当の出会い と 別れ」⑧ 「名前」

*2019,03,21 諷虹宅でのやりとり(3)です。
名前を教える・・・それを日本人は合戦という命のやりとりの場でもやったというのですから驚きですね。
実際にどの程度行われていたのかは分かりませんが、問題は本当にそうしていたかどうかではなく、そういった話を聞いて「あり得るかもしれない」と受け入れてしまう心象が現代人にもあるということ。
そんな名残は今でもアニメやドラマや漫画などの中にみられます。

諷虹 ダークホースのキャラをみつけた時のライバルキャラの立ち回りって「名前を覚える」ですよね。「名前を聞いておこう」

虚空 「良きライバルとして認める=名前を覚える」っていうのは「リリカルなのは」の定番

諷虹 騎士道精神にもつながるんですかね。なのはということでいうと、劇場版でしたっけ・・・フェイトがなのはの名前を意識していなかった自分を実感している。

虚空 そう考えるとさ、日本人が合戦の時に名乗りをし合う、っていうのは妙な習慣だけど、すごいことをやっていたんだね。それこそ「親愛と殺戮」が裏表っていうのを示しているのかも。

『名乗り』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%B9%97%E3%82%8A
名乗り(なのり)とは、戦において武士が味方や敵に向かって自分の姓名・身分・家系などの素性、戦功、戦における自分の主張や正当性などを大声で告げること。武士の作法として、名乗りが行われている間に攻撃することは良しとされなかった。
ここにフィクションへの影響っていうのも書いてあるけど・・・
登場人物による名乗りは史実を題材にした歌舞伎や能楽において様式化された名乗りが導入され、時代劇においても歌舞伎の流れを汲む演出として継承されるなど、日本の創作において様式美となっている。

仮面ライダーシリーズやスーパー戦隊シリーズなどの特撮において主人公らが名乗りを上げるのは、制作している東映がテレビ時代劇の演出を取り入れたためとされる[2]。特撮のみならずプリキュアシリーズなどの子供向けアニメ作品でも「変身した後に名乗りを上げる」という演出が定番となっている。

このように敵の前で名乗りを上げる演出は日本人の美意識に則ったものであり、スーパー戦隊シリーズで一時期省かれた際には主要なターゲットである子供の反応が悪かったなど視聴者からも支持されている要素である[3]が、海外で放送したときに「その間に敵の攻撃を受けるのでは?」と最も疑問を抱かれる箇所である[4]。スーパー戦隊シリーズを英語圏向けにローカライズしたパワーレンジャーシリーズにおいては「名乗り」に相当する英単語が無いため点呼を意味する「Roll Call」が当てられている。
別に海外じゃなくても、子ども達どうしてもそれはよく言っていたよ。
「怪傑ズバット」なんか特にね。あんな格好つけている間にどうして攻撃しないのか、って。

諷虹 正体を明かすというのがあるんでしょうね。さっきのダークホースじゃないですけど。

虚空 それは大事な指摘。正体をあらわす「実は〇〇」って・・・本性示顕

諷虹 ある意味で弱点をさらすということもありますよね。
 Fate/stay night  だとサーバントの正体を示すことになりますから

虚空 随分前に紹介したけど昔のアニメで、登場した時に長々と語って、敵に「誰だ?」と聞かれると「貴様らに名乗る名はない」っていうのを毎回やっていたのがあった。
でも最終回で敵の親玉が出てきた時だけは、きちんと名乗っていた。
これも相手を対等にみるかどうかの表われだよね。名乗るということに伴う。

ロム兄さん マシンロボ_クロノスの大逆襲の主人公。 
CV・井上和彦
格言一覧動画 

現代にそれが残っているのがメアド交換かもね。。。ただ連絡方法を教え合っているかどうかよりも、まずお互いをどう位置付けているのかを確認する。

諷虹 ビジネスマンも名刺交換から始まるわけですからね。

虚空 単なるご挨拶以上のものがあるよね。

諷虹 名乗りを上げるからの連想で、なのはの「切り札」っていうワード・・・語源を調べるとトランプ・・・タロットのルーツとも関連ありそう

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E3%82%8A%E6%9C%AD
トリックテイキングゲーム ってマニアックなゲームなんですが・・・場の流れを断つ・・・そういう意味ではさっきの「裁断と継続」とかともつながるのかな、って。

虚空 その名の通り「切る」札ということなんだろうからね。

合戦中に「名乗り」なんていうのも、ある意味では流れを切るわけだよね。それこそフィクションの世界でのセリフで戦いの流れを一旦止める。それを聞くのがマナーというように。

でもね、さっきのロム兄ちゃんなんていうのは聞いている敵さんたちはよくきちんと聞いていると思うよ。怪傑ズバットよりもセリフは長い。
あとさ、バガボンドでの宝蔵院の場面で修行僧の阿厳が勝負に負けて息をひきとる刹那の相手に「阿厳 そなたを屠った者の名だ」っていう場面があったよね。

諷虹 バガボンドでいえば又八が佐々木小次郎の名を語って、っていう場面がありますよね。あれなんかまさに「名前」だけで「自分」がない、っていう感じですよね。

虚空 偽ブランドにひっかかるのもそうかもね。ニセでなくても雑誌やテレビで紹介されただけで、中身が本当に自分に合うかどうかなんて確かめないで、名前だけで信用する。肩書に弱いのだって、学歴信仰にしたってそうだよね。中身はカラでも。

それを皮肉ったのが一休禅師のエピソードにあるよね。衣だけ置いていこうとした、って。http://d.hatena.ne.jp/mowamowa/20070117/1169000870

諷虹 井上さん(バガボンド スラムダンクの作者)は名乗りの場面が多いですよね。自分が好きなのは三井に自分の名前を語らせている部分。
「おう、オレは三井 あきらめの悪い男...」 
http://slamdunk.get0ver.net/mitsui/791
「まだ時間はあるぞ!!絶対勝てる!このスーパースター三井がいるかぎり」 

「オレを誰だと思ってんだバカヤロウ!!オレは最後まであきらめない男三井だ!!」 「しかし今日の三井寿はいいぜ....山王よ」
他の台詞でも三井は自分の名前を語る場面が多いですね。やっぱりブランドなんですかね。中学MVPっていう。

虚空 これは中身がカラッポではないという自負やプライドがあるわけだよね。
実際に結果を出すしね。
あと、こういうのって一種の「言霊信仰」なのかもしれない。自分に言い聞かせている・・・自己暗示、っていえばそれまでなんだけど。
それだけ「名前」というものにはライフインデキス(生命の指標)・・・トランスフォーメーションへのスイッチとして強力な力がある。

諷虹 こうして台詞だけみると三井ってポジティブな人間ですよね。実際の三井とはかけ離れてみえるほど・・・

虚空 ポジティブになるように言葉を操っているという見方もできるよね。

昔さ、児言態の合宿の時、箱根のジャングル風呂の中でストレスから体調を崩しているというような話を同年代の先生にこぼしていたのを、背後で上原先生に聞かれてしまって。その時に「お前は病気になるように気を動かしてしまっているから」と言われた。

三井はその逆だよね。

諷虹 考えてみると体力のなさの場面って三井が多い・・・他のメンバーだって疲れているけど・・・三井の疲れている場面はドラマになる。

虚空 やっぱり自分の名前の使い方の違いだよね。

諷虹 一度バスケを離れたことで、過去の自分を美化しすぎているというのがね

虚空 それが三井の場合は逆にうまく働いた

諷虹 そもそも使い捨てのキャラの予定だったそうですけど、あそこまでね

虚空 それはガルパンのアンチョビさんなんかと同じだよね。そういうキャラなんかでもいざ位置が確定すると主要なポジションになれる。それは作者の力量でもあるよね。

人間への眼差しの深さ。
さっきからこだわっている、相手を人間として認めているかどうか、っていうのをこうした漫画やアニメにあてはめるとさ、キャラを本当にその世界では生きている人間として陰の暮らしまできちんと想定しているか、単に製作者側の想いで都合よくセリフや行動をさせるか・・・それで脚本や作品の深みが全く違ってくるじゃない。

端役であっても普段から大事にしているかどうかという製作者側の構えというか人間性。

諷虹 夏目漱石の「吾輩は猫である」・・・あの冒頭の一文だけ異常に知名度が高いですよね。「吾輩は猫である、名前はまだない」というあそこまで。それだけで「なるほど」と思わせてしまう。名前もまだ付けてもらっていないという・・・

虚空 それの対極が「このはな綺譚」の捨て猫のエピソードだよね。もう瀕死の捨て猫にもきちんと名前をつけてあげていたという。そのおかげで迷わず成仏できた、って。

諷虹 なのはで「まだ名前も教えてもらってないのに」的な台詞のがありましたよね。あれも面白い。

虚空 最近「王子様」っていう名前の変更が認められたっていうニュースが話題になっていたけどさ・・・。昔で言うと「悪魔」っていう名前をつけようとしたとか。キラキラネームの問題。
まああそこまで極端じゃないにしても、自分の名前が好きかどうか、って人生への姿勢につながることもある。

そういうやりとりをこの前もしたばかりなんだけど・・・。

自分なんかは名前を紹介するのがすごく嫌だった。その感覚は今でもかなり引きずっている。それはいじめられていた頃に、いつも「変な名前」って散々馬鹿にされていたから。

今考えるとね、変な名前っていうよりは、どんな名前だったとしても自分をからかおうとしていたわけだから、馬鹿にされていたんだけど、あの頃は「こんな名前じゃなければいじめられなくて済んだのに・・・」って思ってしまった。

実際に自己紹介のたびにからかわれ笑われていたから。だから今でも自分の名前を言わなければならない時に喉の奥が硬直するような感覚になってしまう。これは相当根深いよ。両親には悪いけど・・・。

きちんとつけてくれた名前に対して自分の名前にコンプレックスを抱くなんてけしからん、という意見もあるんだけど、なかなか理屈通りにはね・・・
ましてやどう考えても妙な名前をつけられてしまっていたら、人生には親が考える以上のダメージをあたえてしまう

諷虹 逆だと「襲名」でのレベルアップ。武士なんか幼名を変える・・・出世魚のように。

虚空 名前が変わる=世界が変わる。世界が変わるから名前を変える。両方向。上原先生があげている例は「戒名」。

諷虹 ハンドルネームやペンネームもそうですね。ここでの諷虹なんかもそうですけど、場所が違うから名前をかえる。

虚空 自分もネット上だけで4つ使い分けているからね。それは単に使い分けているというよりは、人格そのものも変えている感覚。
偽名とかでもないよ。それこそパラレルワールドというかさ、複数の人間を同時に同居させている感覚。多重人格障害なんていうのとは別物。
(感覚・センスで作られたアニメ等々の話題 設定等々で理屈が先行していない)
無印A’sのなのはシリーズ、イカ娘、ごちうさ・・・・

諷虹 (ひだまり)ヒロさんってやっぱりヒロさんですよね。・・・苗字ってないじゃないですか。でも名前の説得力。「ゆの」は「ゆの」。

虚空 確かにあの名前の音の響きは別のと言われても違和感を感じちゃうよね。

諷虹 似たような作品だとGAもね。
昔もそんな話題しましたよね。「なのは」「はやて」とか、「君の名は。」なんかで「みつは」とかね。


虚空 そもそも「君の名は。」なんていうのは日本人のドツボ。古い日本映画としてもヒットしているしね。
『君の名は』は、1952年 - 1954年に日本のNHKラジオで放送されたラジオドラマである。映画化、テレビドラマ化、舞台化もされた。

諷虹 名前を度忘れしていたときに思い出せた時の感覚ってあるじゃないですか。微妙にテンションが高くなりますよね。

虚空 逆にどうしても思い出せない・・・喉元まででかかっているのに出てこない

諷虹 あの気持ち悪さってないですもんね。出てくるまで動きがストップしてしまう

虚空 年々その頻度がアップしているというのは嘆かわしいよ。本当にさ、当たり前に話題にしていた名前が突然度忘れっていうのは特にね。
なんで名前を忘れる、名前が分からなくなるということに、これだけ心がゆさぶられてしまうのか。
名前を憶えてくれた相手、あるいは知らないハズなのに知っていてくれた、なんていう時に急に親近感を持つ、ってあるだろ。昔それが上手な校長に仕えたことがあるけど・・・。
「わたてん」(今季アニメ「私に天使が舞い降りた!」の松本さんのエピソードもそういう点から考えると面白いよね。名前をとっくの昔から知っていた方と、全然知らなかった方とのズレ。名前も知らないというのは意識していない証拠・・・この世に存在していないと同じ。

松本香子
みやこの高校時代の被服部仲間。みやこのことは親友かつライバルだと思っているが、当のみやこは友達と認識していない。
高校2年のころ、被服部で一人もくもくと活動するみやこに憧れを抱き、以来彼女に人知れず執着するようになった。・・・ストーカーまがいの行為を繰り返している。
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☆「本当の出会い と 別れ」⑦ 「時間の濃さ」

*2019,03,21 諷虹宅でのやりとり(2)です。
「出会い」と「別れ」を本当に意識すると、その二つの「時」を結んだ「間」の過ごし方が大切になってきます。
でも大人になればなるほど「時間が薄くなっていく」・・・一年が経つのがどんどん早くなっていく、というあの感覚。

不思議なものですね。

諷虹 夏休みに入った時に「あれやろう、これやろう」っていうのが中盤になってゴロゴロして何をしていいか分からなくなる。

虚空 そうした感覚になるのはある程度の年齢になってからだよね。
小学校低学年なんかは日々「旬」に生きているから・・・
「のんのんびより」のれんちょんなんかそうだろ。

諷虹 前に話題にした「ようこそ先輩」での「まだ5分ある」という言葉に感動した、っていうのがありましたよね。
日野さん「『あと5分もある』というセリフは時間のない大人は言えない」
大人になると「5分という時間のはかなさ」を知ってしまってワクワク感がなくなってしまいますよね。
でも5分アニメで面白いのもあるし・・・

虚空 実質3分くらいだもんね。ウルトラマンが怪獣を倒す時間

諷虹 3分あればカップラーメンができる、って待つ間は長く感じるけど

虚空 CMであったよね。ウルトラマンがカップ麺を食べられないやつ。
でもその気になると3分でも何かできる。

勉強だって時間を使うのが上手なやつは、好きな番組が始まるまであと3分といえば、その間に音読をするなりする・・・その積み重ねがものをいうから。

諷虹 (ある馬について)
89年、ジャパンカップ。
躍り出ろ、お前を知らない者達の隙を突いて躍り出ろ。
世界を変えるのに3分もいらない。
ワールドレコード、2分22秒2という事件。その馬の名は…
 ―2012年ジャパンカップCMより
ホーリックスっていうオグリキャップと名勝負を繰り広げた馬のCMでのキャッチコピーなんですが、「お前を知らない」っていうのはさっきの出会いの話に通じそうですね

虚空 添加を拒む人間ってそうだよね。自分の枠を超えたことを知ろうとしない・・・優越感やプライドを傷つけられるからなんだろうけど・・・でもそれでは「井の中の蛙」

諷虹 ダークホースっていう言葉も・・・まだ多くの観客が出会っていないだけあって、一回ベールを脱いだらスター街道。注目の的になるわけですよね。

虚空 エースを狙え!であったけど、ダークホースで活躍できたあとが、問題だって。みんなに注目されて徹底的に研究されて、それでも勝ち上がってこそ真の実力者。

でもさ、最近の風潮としては、自分が崩されるのを徹底的に拒絶するから、そういった予感がすることには近づかない。まさに「君子危うきに近寄らず」。

でもね、子どものうちからそんな構えを身に着けたらもったいない。

☆「本当の出会い と 別れ」⑥ 「みんな対等な存在」

*2019,03,21 諷虹宅でのやりとり(1)です。
この前紹介したダンデリオンツイッター記事の内容を踏まえながらのやりとりがこの日も続きました。
現代の嫌な風潮として「他人を利用するのが上手な生き方」と私(虚空)は考えています。
だから教師だった頃、相手が低学年の児童であっても「人間存在としては対等」と思っていましたし、だからこそ例えば教育のテクニックとしてよく使われる「子どもをおだてる」というようなこともしなかったつもりです。他人は道具ではないのですから。
そんな関係が互いにできたクラスほど、確かに別れは辛かったですね。


諷虹、あるお笑いのコント動画を紹介してくれる
https://www.youtube.com/watch?v=Qa4gOdBxJik

虚空 他人を奴隷扱い・・・今回のダンデリオンツイッターの記事に対してラインで書いたことだけどさ、周囲の人間を同じ人間としてみているかどうかというのが大前提でなければならないわけだけど、あの親戚たちのように奴隷と言わないまでも他人を道具扱い、っていうのは多いじゃない。そしてそういう風に人を利用できることが、「人を上手に使うこと」って勘違いしている風潮。
江戸の職人気質なんていうのとは完全に相反する構えだよね。
そういう人間ほど、自分のことは尊重しろ、って・・・図々しいったらありゃしない。
それで他人の人生や命を平気で踏みにじっているんだから。

諷虹 出会いと別れっていうのがありますけど・・・出会いって「個を認識するかどうか」なのかな、って。よくあるんですけど、多くのアーティストが参加しているアルバムとか、きららなんかでも毎月買っていても意識にひっかかってこない作家や歌手の人がいろいろいるけど、後にその人の作品が意識に引っ掛かった時に、それまでの生活でも関係することがいろいろあったことに気が付いて・・・一気に出会い直す。ウマ娘なんかもそうだったじゃないですか。

虚空 それこそ「添加」だよね。それによって世界の認識が変わる・・・トランスフォーメーションが起きる。

諷虹 街中でも駅近辺で大勢の人間とすれ違っていても、いたことにならない。でも「あの時に自分もいたんですよ」ということになると、一気に思い出が違った形で甦ってくる。まるで前にも一緒にすごしたことがあるかのように。
それとの逆のことが別れ・・・歯が抜けた時に違和感を感じて、再確認。こんなに影響力があったんだな、って。

虚空 当たり前が実は古語で言う「有難し」っていう感覚だよね。

諷虹 酸素だってなくなったら・・・普段意識していないけど・・・

虚空 精神世界でもあるよね・・・日常を振り返って当たり前のありがたさを丁寧にチェックする。

諷虹 卒業シーズンだから・・・先生のありがたみもね

虚空 学校側でいうと、それまで校内にいた子供らがいなくなる、っていうのはね。
6年を担任していた時、一足早く卒業式でいなくなる。そうすると他の先生らが授業している間に6年担任だけ職員室にいる・・・変な感覚だった。

教師側のこの時期の想いをアニメでっていうので思い出すのは「ひだまりスケッチ」での校長とかの言葉・・・。吉野屋先生は割り切れなくても校長は4月になっての新たな若人たちへ想いをのばしている

諷虹 学生の時によく思っていたんですけど、一日休みよりも、朝一時間とか午前中授業であとは休みっていう方が解放感というかカタルシスがあって・・・そのすがすがしい気分、っていうのが・・・

虚空 その感覚が「再起動」っていうか「死と再生」での甦り感覚なのかな。
過去に囚われているだけでは「停滞」であり「死」と変わらない。
ラインでもちょっと書いたけど、お彼岸やお盆っていうのはご先祖様とか亡くなった人を偲ぶけれども、その悲しみに囚われて前進できないことはよしとしない。

☆「本当の出会い と 別れ」④  別れの時の垣間見「ホタルへの心象」

ホタルに寄せる心象も根強いものがありますね。
現代ではなかなか実際に光ながらの蛍を見たことがないという人が多数派だと思いますが、それでも「蛍の光」などが流れると何かが発動してくるような感覚はあると思います。単に「お別れ」以上の何かを垣間見ているのだと思います。

2019.03.25 月曜日
09:35虚空(続き)
セーラーサターンを宿している小学生の名前は 土萠ほたる。
のんのんびりよりで都会から越してきて、地元の子ども達の生活に新しい風を吹かせる役割となった小学生の名前は 一条蛍
なんていうのもどういうイメージが働いているのか興味がありますが・・・・
例えば乱舞の名所ではないにしても、諷虹君だって地元で蛍が飛んでいるのもみた経験を持っていますよね。コバルトブルー君やヒマワリフクロウさんの地元でも飛んでいるのをみたことがあります。
ホタル に日本人が寄せてきた感情というのだって、異界に共鳴していく「神秘の光」だよね・・・
蛍の光 が何故お別れの際のテーマソングとして定着しているのか
卒業式だけでなくてスーパーなどの閉店のお時間なんかに流しているというのもね。
完全なお別れ、オシマイ というイメージだったら、スーパーなんかが流すハズはない。
「明日の御来店を心よりお待ちしています」なんていうアナウンスもあるけど・・・
こういったことの根底には神話でいうと「黄泉の国」⇒「みそぎ」⇒「新たな神の誕生」という図式。
リリカルなのは に限らず多くのアニメや漫画などの定番のスタイルとなっているというのも、人間の心のカギをとく鍵ですね

12:19コバルト
先日に引退したイチローも引退後はキッパリと「草野球を極めます」(ワクワクドキドキ)と言っていたように、それは自身の原点の復活なんでしょうね。
そうやってやりたい方向に常に向かっていく姿勢は、ウニヒピリ(潜在意識)との関係性を理解しているからだと感じます。
草野球がメジャーより更なる世界定めの飛躍なのかな?

14:34 虚空
うしてもメジャーリーガーだと大人や社会の利害がからむ場面が出てくるからね・・・純粋に野球が楽しめたということだけではいかない部分はたくさんあったでしょうね。
教育でも、例えば私がもっと普通の塾や家庭教師のように一般の親が期待するようなテスト対策に徹した・・・形式的だろうが詰め込みだろうが・・・一時的にテストの点数があがっても後にその反動で子どものダメになろうが知ったこっちゃない・・・という風に割り切ってやっていれば、今でももう少し仕事の依頼があって、それなりの収入はあったと思いますが、やっぱり自分の収入のために子どもを犠牲にできないというのは譲れない部分。
まあ生活はしていかなければならないから、このような方針の自分であっても雇ってくれるような方との出会いは望んでいますがね・・・

14:43 コバルト
始まりの予感はなにをもって決めているか!
終わらせら、また次の世界があるということ。
引退、蛍の光、アニメや映画のエンディングを見ている感覚に通じることだと思うんですが。
夕日が沈んでいく感覚ですかね。
ただそれを美しく感じるのか、もう終わりなんだと感じてしまうのかは、心の構えそのものになっていくんでしょうか。

14:52 虚空
 表裏一体というのが本当のところなんでしょうね。
終わった瞬間に次の可能性が始まる・・・「裁断と継続」「死と再生」・・・・
次に向かう構えがとれるようになるかどうかは別として、そういった構え(生き方)等々様々なものがあるんだ、ということを知るという点でも物語にふれるというのは意義あること。
ただ、どんなに主人公などの生き方が素晴らしくても「こんな風に生きなければダメだよ」式に扱うと逆効果になってしまうことがあるのもまた事実。
自然にそれぞれの人間がどういったことに「憧れを抱き、そこに向かい始めるのか」は誰も邪魔してはいけない領域・・・神様であっても・・・というのが古代日本人の発想。
ただ、判断材料が偏らないように幅広く用意して提示する・・・それは学校教育だけでは無理・・・そこにテレビ作家やゲーム作家もふくめての幅広い教育力を認める必要があるということなんだと思います。
負の影響も含めて。
そこから生まれる語り合い・・・そして共鳴・・・。「教育が感染力」ということの元々とは少しずれるかもしれないけど、そういった側面もあるということがはっきりしてくるような予感はあります。

☆「本当の出会い と 別れ」③ 「セーラーサターン」「チームラボ&トトロ」 等々

再びセーラーサターンの話題です。セーラームーンの原作等々を知らなくても、農耕民族としてのDNAを受け継いでいる我々であれば農耕神の本質を直観することはきっとできます。「わかりっこない話題」だとスイッチを切らないでお読みください。

2019.03.24 日曜日
23:08ヒマワリ
このラインを読む前のことです、私と電話していた相手との会話の中で、私「三種の神器」とゆう言葉を言ったんです。
このライン読む前のことで、ポッと口をでた例えの言葉が今先生のラインにあって、
このあいだの天皇島もそうですけど、ありゃま?って感じでした。
今からブログ読みます。
*補足 この書き込みのこと
☆ダンデリオン様からのダイレクトメールから「大嘗祭」の話になりました。それとセーラームーンのあるエピソードとの接点です。外部太陽系戦士の持つ3つのアイテムが「三種の神器」と同じで、それが揃い共鳴した時に「滅びの神が生まれ大転換が起きる」という内容です。  http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/265/ 

「別れ」や「身を引く」とゆうことが私自身にも人生の大きなこととして直面しているところです。
心がざわついています。
ダンデリオンの出会いと別れのお話は、この日のための前触れだったんだなぁとも思っているところです。


2019.03.25 月曜日
08:49虚空
 普通の会話の中に登場する頻度が高い言葉だったら、こういうことがあってもただの偶然(というか偶然とすら思わないでしょうね)なんでしょうけど、「三種の神器」なんていう言葉は先ず飛び出さないからね・・・。
「平成の時代が終わる」ということ。いよいよカウントダウンというこの時期に、この前から50円玉君へのことをきっかけにラインでも「セーラーサターン」の話になったわけですが・・・
「死への案内人」「破滅の神」「死の淵よりの使者」などと呼ばれて、一般的な「死神」のイメージが強調されていたセーラーサターンが、ムーンの力で復活して以降は、「「破滅と誕生の戦士」で「誕生」というのがより強調されるようになった・・・もともとは三種のj神器が共鳴し合って出現した際には即世界を滅亡させるという役割だったのが、ずっと他の戦士たちと行動を共にできるようになった・・・世の中を破滅というよりは、その後の希望的発展に寄与する存在・・・

「死神」が本来は「農耕神」であり刈り取ることが新たな作付けや次の実りを約束するというお役目の神であったのと同様のことが起きた、と解釈できます。
新たな力を得たというのではなく、より根源に目覚める事ができた、というのが重要なポイントなんじゃないかと思っています。
ダンデリオンさんの「出会い」「別れ」という背景にある「人間同士の深いつながり」というのが、こうした「より本来の状態」に遡っていくためのカギになるのかもね。

09:07 コバルト
チームラボ https://www.team-lab.com/news/athletics

09:18 虚空
知恵泉のソニー創業者回のゲストがこのチームラボの代表の方だったわけですが、興味深い内容が解説されているサイトですね。
改めて感じたのは江戸庶民の基本的は発想法や古来日本人の教育観との共通性です。
当時の日本人はこうした「脳科学」などの知識はなかったハズなのに「体感」「直観」をたよりにして、ちゃんとまっとうで根源的なことに迫ることができていた。まさに折口先生が重視した「実感実証」ということ。
理屈でも理論でもない・・・そうなんだからそうだろ・・・というような。
これが下手に知恵を身に着けた人間は自分の狭い経験や知識からの「当たり前」を絶対基準にしてしまい、それに合わないものを無視、あるいは排除しようとします。
上原先生が「生態研究」とした姿勢は、「理論にあてはめて子どもをみる」ではなくて、「常に子ども達をみながら柔軟にこちらの当たり前をかえていく」・・・だからこそ子どもは「稚児」・・・大人や社会にとってのライフインデキス(生命の指標)という位置づけだったのでしょうしね。
それが極端な形になると「皇太子への教育」ということになるのかな・・・・それが以前ここでも話題になった「教育は感染作用」という折口先生の発想になりそう。

この施設のようなものは全国的にもほとんどないのでしょうが・・・でもかつての子ども達の日常生活にはこれに匹敵する世界があちこちにあったんでしょうね。しかもバーチャルリアリティーではなくて、それこそ「五感+第六感」を総合的に刺激するようなリアル世界。
そんな日常生活をアニメにすると「となりのトトロ」になるんでしょうね。
それこそ自然だけではなくて建物の構造も含めて。トトロには出てこなかったけど「ボットン便所」も宮崎監督はとっても重視していた発言もあるし。
そういうことから「共鳴し合っての生活」・・・「時間・空間・人間(ジンカン)」という間の共鳴・・・それがどんどん広がって「超ミクロな世界」「超広大な宇宙」「見えないあちら側の世界」「互いに認識はできない並行世界(パラレルワールド)などと響き合える・・・。
そんな感覚が、あの50周年の公開授業の最後に子ども達に語りながら浮かんできました。
となりのトトロ・・・近いうちに改めて観返してみようかな・・・

09:29コバルト
学びの構造の捉え方(次元)がすごいですね。
まるでオリオン座を正面だったり真横から見たりして
構造を捉えていくみたいな。
ちょっと衝撃的でした。
こういう事をしてみたくなりますね。
しかしやってみたいだけでプロジェクター500台も買える熱量はさすがとしかいいようがないです(笑)

09:35虚空
逆に言えばそれだけの膨大なお金をかけたシステムに匹敵する以上の生活空間が身の回りにゴロゴロしていたのが日本人の生活だったというのがもっとすごいと思います。
それを江戸時代の絵画もそうですが、西洋文化との出会いによって、すべて「遅れたもの」として引け目を抱き、排除していってしまった。その結果が今の日本。
こうした最先端の施設で刺激を受けた子ども(大人もそうですが)が、再び身近な生活の中で真の豊かさをみつけ、生き生きとしていけるか・・・そんなことのお手伝いもしたいと思ってはいるんですがね・・・・・
以前、コバルトブルー君の長男が小学校に入学した頃に「若いお父さん同士のネットワークをつくって地元に根差した遊び生活を復活させるような定期的な場を作ったら」なんて提案したことがありますが、こういった地域でトトロのような子ども時代を過ごせた若い人達が、今動かなかったらという危機感はあります。

みなさんの世代でも相当ゲーム機を使って室内で遊ぶというのは入り込んでいましたが、それでもまだ体全体を使っての体験は豊富にしていたと思います。
でも最近は農村部を車で走っていても、野外で遊んでいる子どもの姿はまず見ませんよね。ここ何年もの間、正月に凧揚げをしている姿なんていうのも観ていません。
(ちなみに自分は東京の郊外でしたが、正月は近くの広場で大勢の子ども達が凧揚げをしていました)
豊かな自然に囲まれていても、実際の生活空間が室内だけでは、大都会で生活している子ども達と変わりませんから