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☆「コーヒーコーヒー」と「純粋経験」と 「≒ ニアリィイコール」

2019年11月9日の諷虹・虚空やりとりです。

以前にも駿煌会で話題になった ある短編アニメ集の中のエピソード「コーヒーコーヒー」に関して、西田哲学の「純粋経験」という観点から、最近中学生や高校生とも盛んにやりとりをしていました。


今回、のやりとりではそれを一歩進めて「≒ ニアリィイコール」ということから迫っています。


数学的なやりとりが続きますが、今後この「≒ ニアリィイコール」はキーワードの一つとして頻繁に登場すると思われますので、是非何を言いたくて二人がやりとりをしているのかお察しください。
初めてこの「コーヒーコーヒー」話題が出た時のやりとり記録
⇒『波動同士の共鳴』⑥「言葉にならない意味」 2018,12,30 諷虹・虚空やりとり + ライン
http://syunkoukai.edoblog.net/Entry/154/

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☆Helvetica Standard  という短編アニメ集の中にあるエピソードの一つ  
https://www.youtube.com/watch?v=Hxfks2bB28I

ファミレスのような場所に女の子が二人。
片方がコーヒーを飲もうとしている
一口飲んで
A このコーヒー、あんまりコーヒーコーヒーしてない
B えッ? コーヒーコーヒーしてない? 何言ってんの?
A 自分でもよく分かんないんだけど・・・何ていうか・・・コーヒーコーヒーしてないんだよ!
いいからちょっと飲んでみ。ほれ、ほれ。
B 全く・・・・コーヒーコーヒーしてない、って何なのよ?
(一口飲んだB)
B ン!! コーヒーコーヒーしてない・・・・
::::::::::::::::::::::::::::::::::::
諷虹 最初に一人目がコーヒーコーヒーっていう言葉を言ったから二人目もコーヒーコーヒーという言葉に言い表したっていうのはありますよね。
仮に一人目が言わなかったとしたら、何て表現していたのかな、って。
・・・経験したことが、コーヒーコーヒーという言葉にしっくりきたからコーヒーコーヒーという言葉を使った所があるのかなって。
風呂に入っての極楽極楽なんかも自分もそうなったから使うというような


虚空 でもさ、そのコーヒーコーヒーというのが何なのかを言語化はできないじゃない。ありのまま。だから「コーヒーコーヒーしてない って何なの」と言いつつ、自分も飲んでみたら共感した・・・でも言葉としては「コーヒーコーヒーしてない」というのをそのまま使ったというのがポイントだと思うんだよね。
本質的なところに迫って言語化すればするほど、コーヒーの本質からずれていくような。


諷虹 その言語化できないって、辞書はつくれないということですよね。感覚の言語化だから
医者のいうズキズキ痛いとかガンガン痛いとかがずれていると上手く伝わらない

虚空 純粋経験でさ、分析だとかそういうのを一切伴わないっていうような言い方をしてるじゃない。つまりさ、ある物事に対して「純粋経験」に近いような経験をした・・・でも、それを説明しようとした瞬間にそれはもう純粋経験でなくなる、っていうことじゃない?
二律背反が起きる・・・量子論の不確定性原理のようにさ。


諷虹 言葉に言い表せないっていう言葉があるじゃないですか。何もいえない状態に陥っている時・・・純粋経験のまんまの時


虚空 言えちゃったらもうアウト。
一人目がさ、コーヒーの香りがどうだとか酸味がどうだとか苦みがどうだとか細かく分析したら、分かったような気にはなるかもしれないけど、むしろズレた感じが広がるかもしれない。
そういうのがあるから日本人って「細かく長文で」というよりも、想いが深くて広くても、文を短くする方向になった。和歌なんてそうだよね


諷虹 昔よく友達に言われたのが「お前、名前つけるのが好きだな」って・・・。何か現象とかがあると・・・同じ現象に共感が生まれた時に・・・この現象に名前を付けておこう、って。それで付けた現象の名前は全く思い出せないですけど、よくやっていたな、って


虚空 それもさ、付けていたのは名称でしょ。説明じゃないんだよね。


諷虹 似たような言葉をつけてカテゴライズする感覚ですね。
前に言った「カップ焼きそば現象」」ですね。



ネット検索  「カップ焼きそば現象」
 漫画『みなみけ』から発生したネットスラング。
オリジナルの模倣品・代替品が、オリジナルとは別の魅力・需要を持ち、個性として確立してしまう現象。
コンセプトが同じなのに、作品の世界観や立ち位置によって別キャラ化する現象である。
「焼きそば」を食べたいときと「カップ焼きそば」を食べたいときは違う。これらは既に別の食べものという話から。

諷虹 カニとカニかまぼこ・・・おつまみとして食べる時は別にカニそのものを食べたいわけじゃない


虚空 和歌でもさ、掛詞とか例えだとかを駆使するじゃない。むしろ直接的な表現よりも、直接を避けることが好まれる風だよ。
比喩表現の方が核心に近づけると感じている・・・それがこのコーヒーコーヒーに現れているような気がするんだよね。

もっと言うとさ、中学生や高校生とこの話をする時に、あの数式を紹介したんだよ。

0.999999・・・・・・・・=1

これが数学的には成り立つということ。そこから本質の「1」そのものを言葉で言えなくても、例えば「コーヒーコーヒー」なんていう言葉での方が、具体的な言葉でない分、限りなく迫ることができてさ・・・・本質そのものと = としていいんじゃない、っていう感覚。
それが純粋経験に迫る時の感覚に置き換えられないかな、って。

極限値の考え方もそうじゃない。限りなく近づく、っていうのとその点になるって違うけど、同じというような


諷虹 言語化できないというところがミソなのかな、って。
よく分からないものを使って本質に迫ろうとするから、それがその場その場で便利なものに置き換わっていくのかな。
「超解釈」というか。
(注 ここで即興で浮かんだ言葉だったが、ネット検索したら使っている人はいた。ただし辞書にはないよう)

 ≒を=としてしまうことが超解釈なのかなって。で、それを、何度もできるというか。
(注 実際のやりとりでは = は イコール、≒ はニアリーイコール、≠ は ノットイコール と読んでいる)



ネット検索 「 ≒ (ニアリーイコール)」
ニアリーイコールの意味と記号 ニアリーイコールとは、「おおよそ等しい」「ほとんど等しい」という意味の言葉で、英語では【nearly equal】と書きます。「≒」という記号で表記されるのが一般的で、「A≒B」の場合、「AとBはほとんど等しい」という意味になります。

この「≒」という記号ですが、実は、国際的には「≈」【approximately equal】という記号を用いるのだとか。 外資系企業の資料に「≈」が使われていても戸惑うことのないよう、国際的には「≈」、日本では「≒」であることを覚えておくと良いでしょう。




諷虹 ある意味では証明にはなっていないけど、一足飛び二足飛びで本質に迫ってはいるけど、万人に共通できるかは分からないところが難しいところですね。
人によっては ≒ が ≠ と受け止めるでしょうしね


虚空 さっきの式
0.999999・・・・・・・・・9 だったらこれは = じゃないんだよね。
 

 0.999999・・・・・・・・・9 < 1
ってなる。


諷虹 ≒ って大らかですよね。日本人向けと言うか茨城県人向けというか


虚空 「かまめ」 「いかっぺ」 だからね。
とかく茨城県人の欠点の象徴のように言われる言葉だけど


諷虹 それこそ 本質に迫れる県民 なのかもしれないですね。
学者の頭が固いのは「万人が納得するルート」を見つけようとしすぎているからかもしれないですね。
≒ を使わないで = = = = で何が何でも繋いでいこうとする感覚。
酒の席での議論なんてほとんど ≒ ですよね。「ストライクゾーンが広がる」・・・分かんなくても・・・・本当にそうか?っていう頭が働かないから・・・言ったもん勝ちのような・・・・


虚空 これはさ、いい加減の推奨じゃなくてさ、極限値の概念として、ちゃんと数学的に認められていることじゃない。「ε δ」(イプシロン デルタ)なんてね


諷虹 有効数字もそうですよね。日常の場合とか精密機械の分野とかで随分違う・・・・桁数がね。要求水準。学者の感覚はそれに近いかな


虚空 上原先生が心意伝承の研究での難しさを語っていたのがそういうことだったと思う。無意識の世界の心の動きをどうつかまえるか。学問的に処理しようとすると、どうしても固定化して言語化しなければらない。でもそれを厳密にやろうとすればするほど本質から離れていく。


諷虹 「純粋経験」は経験した瞬間、刹那に思ったこと・・・それを100%再現するのは不可能ですけど、それを =こうだった としてしまうんじゃなくて 本当に=なのか?もっと近いものはないか?って追求していく・・・

=じゃなくて≒としておくことで、それから先に経験したり得た知識を踏まえて「あの時のあれはこうだった」みたいに探求していく姿勢が純粋経験なのかなって
非常にあいまいな表現が多いですが・・・(笑)


虚空 あのさ、前にNanba先生がさ、児言態のメンバーに「よく駿煌会の話についていけますね、アニメとか数学の話、分かるんですか?」って聞かれて「文を読んだんじゃ分からないけど、一緒に話してるとすごくよく分かる。それはこの人らが何を言わんとしているのかが分かるから。アニメとか知らなくても」って。
その感覚だよね。
自分なんて若い頃は上原先生の本で観たこともない歌舞伎だのが話の素材になっていて、さっぱり分からないって思っていたけど、最近あまりそれが気にならなくなってきた。図々しくなったというよりは、その話を正確に知っているかどうかが問題ではないと思えるようになってきたからかなと思う


諷虹 一番最初に善の研究を読んだ時も = で読もうとしていなかったですからね。


虚空 だからあんなに楽し気に、時には声をあげて笑いながら拾い読みできたんだね。


諷虹 いかに自分の世界と接点をみつけるか・・・


虚空 でもそれが西田さんが本当に目指した哲学への姿勢なんだろうしね。


厳密に=を積み重ねる姿勢を無視するわけではないけど、感情やイメージがからんだら完全な = で一致なんていうことはあり得ないからね。感覚器の性能だって違うしさ。同じ色のものをみていたって100%ピッタリのもので同じ色を認識しているわけないじゃない。物の見え方だってさ、それぞれの視力とか目の状態で見え方はみんな違うんだから。


諷虹 昨日のバットマンの映画の姿勢も旧作は ≒ で、新たな劇場シリーズが = なのかな、って。


虚空 アメリカ社会との向かい合い方が大きく違ってきたんだね。


諷虹 アニメの鬱展開なんかとはちょっと違いますが、主人公が誰かを殺してしまったら、もうまっとうなエンドにはならないだろうな、って覚悟しますからね。


虚空 そこをどうするかのさじ加減が制作者によって随分違うよね。
露骨なのだったら「魔法少女特殊戦あすか」とか。それこそ手足がバラバラに切断されるなんていう描写は序の口だからね。ああいうのは苦手なのに、なんであんなのを全話観たんだろう????


諷虹 ひぐらし もそうですよね。誰かが誰かを殺した時点でBadEnd確定のような


虚空 ちょっとオブラートで まどマギ。
もう少しオブラートにくるんでちょびっと混ぜるのが太田監督?


諷虹 都築さんは「魔力ダメージでノックダウン」とか、「フロニャ力でけものだま化」といった具合に、暴力描写をいかに変換するかというのにこだわっていましたよね
(魔法少女リリカルなのは、Dog Days)

*≒の例として「はなまる幼稚園」
その世界がちゃんと分かっているとは言えない人達が制作しているから逆に面白く仕上がっている
似た例 百合をよく知らなかった太田監督の「ゆるゆり」
和服についてほとんど知らない人達が作った「藍より蒼し」
桜木花道もこの路線
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☆釈迦の世界観 と 学習への構え

2019年9月7日 諷虹・虚空のやりとりです。


釈迦の世界観が上原先生による「世界定め」の発想に近いのでは・・・という話から、勉強の際の「学習内容のイメージ化」等々の話へと発展しました。

こうした意識を伴って勉強をするかどうかで、いわゆる「生きた学力」「生きる力としての学力」になっていくかどうかが大きく分かれます。
また世間的に言われているような「得点力」としての学力だって大きく違ってきます。

勉強が嫌い、興味が持てない、という子どもたちや若者達っていうのも、案外「自分の気持ちに嘘がつけない」「純粋な心の持ち主」ということがあります。建前で飾られた現代の学習内容や、大人の言動に嫌気がさしていたり拒絶反応が起きているだけなんです。そういうタイプはど、自分との接点を見いだしたり、興味が湧けば、人が変わったように面白がって学習に取り組むというのは珍しくありません。

苦手な子にはごく易しいところの反復を強いるということをやりがちですが、案外本格的に本質的な事、高度なことに触れてもらった方がいい場合の方が多いと感じています。



参考
☆NHKこころの時代 テキスト 「マンダラと生きる」 正木晃著 2018年4月~9月
第三回 「世界とつながる 胎蔵マンダラの叡知」より抜粋

・(様々な宗教が世界・宇宙をどういった形としてイメージしてきたかの概略を述べたあと)
 ・・・・ブッダ自身は、今述べてきたような「世界」に、全く関心をもちませんでした。

 なぜなら、ブッダにとっての「世界」は自分の感覚器官によって把握できる範囲にかぎられていたからです。つまり、ブッダにとっての「世界」は自分自身の心身とその周辺だけだったのです。その証拠にいわゆる原始仏典には、「世界」をあらわす言葉はほとんど出てきません。

 あえて探せば「五蘊」という言葉が「世界」にあたります。「五蘊」とは「世界」を構成する五つの要素です。色(物質)・受(感覚的な印象)・想(生まれたばかりの認識)・行(先天的な精神傾向)・識(認識)といったぐあいに、物質の領域が一つ、精神の領域が四つあります。

 ただし「蘊」が「集まり」を意味することに、注意しなければなりません。つまり「五蘊」とは、五つの、それも永遠不滅でもなければ常在しているわけでもない要素が、一時的に集まって、なんらかのかたちをなしているにすぎないのです。ですから、短期間で雲散霧消してしまうとみなされていました。となれば、常在普遍の「世界」など、あるはずがありません。(中略)

 言い換えれば、仏教にとっての「世界」は、客観的に「ある」とは言えないのです。わたしたちという観察者がいて、初めて「世界」は「ある」といえるのです。この点は、現代の自然科学が、わたしたちがいようがいまいが、見ていようが見ていまいが、「世界は厳然としてある」という前提に立っているのとは、まったく違います。

 また、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が、「世界」に先立って神が実在し、その神が創造した「世界」は厳然として実在するとみなすのとも、まるで違います。

虚空 自分の発想って原始仏教に近いんだな、って。「世界定め」そのもの・・・でもまあ、日本古来の現実世界のとらえかたも似ているよね。


諷虹 集合みたいですね。


虚空 「観察者」っていうのも


諷虹 その観察者の視点ってちょくちょく話題に出ていますけど、時代によらない・・・よるのかもしれないけど・・・難しいですね・・・見ている人側は時代によってぶれるかもしれないですけど、見ている点・要素自体は不変・・・でも他の色んな要素と同時に見ることで見え方が違ったりする・・・選択公理や、添加の感覚ですかね
しかも、卑弥呼と信長の話のように、実際にかなり離れていても観測者にはそのギャップがそこまで感じられないっていうのも論理的に処理できるところもあるかもしれませんね


虚空 たまたまなんだけど・・・話の筋は違うんだけど・・・さっき中学生に卑弥呼の話をしていた。それを偶然としないのが、人間。


諷虹 やっぱり、時代間のギャップっていうのは・・・秀吉の時代って武将しかいないようなイメージ。だから寺でも僧兵とか・・・だから千利休なんかが同じ時代っていう感覚がないんですよね・・・江戸か平安かみたいな


虚空 たださ、以前家庭教師の時間に等間隔年表をいろんなメンバーに書いてもらったことがあるじゃない。時代区分とか主だった歴史の出来事や人物も書き込む・・・
自分のように歴史に無関心だったのはともかく、学校のテストでは歴史は得意っていうのが、すごい年表をいっぱい書いていたからね。
信長と秀吉が数百年離れたところに書いてあるとかね。でも、秀吉が信長の部下だったことは知っているんだよね。


諷虹 地理でもそうですよね。有名な国であっても全然違う場所にあると思っている。


虚空 自分もその点では大きなことはいえないけどさ・・・・・


諷虹 そのギャップですよね。
自分のイメージとずれているから受け入れないんですかね。今国の位置を覚えろって言われたら、気候とか流通とか、色んな予備知識を総動員して覚えていくんでしょうけど、そういう下地がないときには本当に手あたり次第覚えていったり、自分の持ってるイメージで覚えていくしかない・・・
国旗をいくつも覚えられている小学生って何と結びつけたりして覚えているんだろう、って


虚空 それを感じたのはポケモンだよね。それぞれのキャラの特性から進化系から全部頭の中に入っている子が珍しくなかったじゃない。でも、中高生のテスト勉強みたいに暗記しようとしたわけじゃない。割合にスッと入って、なかなか忘れない。

歴史の登場人物や流れを暗記しようという意識モードの時には全く頭に入らなかった人間が、ゲームで三国志や戦国武将モノにはまった瞬間、何人も覚えてしまう・・・


諷虹 化学なんかでもそうですよね。金属とか有機物・無機物とかそういうのを意識するだけで随分と違いますよね。


虚空 それを感じたのは有機化学をやった時だったね。あっちの方がよほどゴチャゴチャしているのに、見方の原理原則が理解できると案外面白がってスッと受け入れる子が多かった。
別のいい方をすると「構造をつかまえることができた」ってこと


諷虹 学者が分かりやすいように体系づけをしているわけですから、作った人の気持ちになるとスッとわかる


虚空 それをさ、苦手な人間にほど、体系とかは抜きにして「これだけは丸暗記しろ」なんていうから余計に嫌いになるわけだよね。これは土浦で出たような「素読」の意義とは全く別モノ。


諷虹 最近の自分が覚えにくいものっていうのは、結びつく理由が納得できないもの・・・それはなかなか受け付けないですね。



虚空 何かイマジネーションを刺激するものがあると自然に覚えてしまいやすいんですけどね

☆西田幾多郎「善の研究」と漫画「ステラの魔法」、そして連歌

☆2019年 10月25日 諷虹宅での諷虹・虚空のやりとりです。
特に諷虹君は善の研究にはまっていて、たまたま話題になった漫画に出てくる特異なキャラを通して考察をすすめていきました。


後半は、西洋演劇と歌舞伎との違いから連歌の話題へ。
10月19日の聖徳での連歌の授業をふまえて、20日の集まりの時から駿煌会でも連歌部を立ち上げ、みんなで連歌をしています。
それもふまえてのやりとりです。


漫画雑誌きららの最新号を諷虹が虚空にみせる。「ステラの魔法」が連載されているのをみて

虚空 まだ連載していたんだね、って一瞬思っちゃった


諷虹 でもですね、今週のなんか「善の研究」を読んでからだと、もう一度最初から読み直してみようかな、って思って


虚空 哲学者に聞かせたい。西田幾多郎の善の研究を読んで「ステラのまほう」を読み返そうっていう言葉が出るって・・
(善の研究 テレビテキスト)
諷虹 (原文 第4編 宗教 第1章)「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知するとともに、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である」
諷虹 この先輩っていうのはSNS部を作った張本人なんですけど、最初は明るい万能キャラとして知られていたのが実はヤバイやつだと分かっていったんですけど・・・死ぬための暇つぶしとして生きているという・・・
(きららMAX 12月号 P91)
『私が生きる理由はただ死ぬためなんだ
私は生きながらえて社会生活の一員エンジョイ貢献しよ~って気持ちが全然なくってね
ただ後悔しながら自殺したくないから やる前にこのライフを飽きるまで楽しんどこ~って』

https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/40161.html

虚空 諷虹君的にはどうなの?この発言は


諷虹 無神論者の究極系なのかな、って。神とか死後の世界を一切信じていないんですよね。自分がちっちゃな存在で、死んだらそれで何も残らないし、他人と関わらないことで何も残さない。そんなキャラですね。

この先輩が作品中で感情を初めて露わにしたのが、受験失敗のところで・・・受験ギリギリまでゲーム制作をしていたわけですね。結局その理由も自分が発起人だからということで。自分だけ受験勉強をして後輩に押し付けるというのは、他人に関りすぎてしまうというか、他人に迷惑をかけすぎてしまうというか
それでゲーム作りに没頭して受験に失敗するんですよね。

で、その時に後輩に「なんで私達をもっと頼ってくれなかったんですか?」って、それで感情が爆発するっていうシーンがあるんですけど。


(後輩のセリフより
「先輩のできない事 また一つ見つけましたよ、私。
他人を信じること 
先輩は何でもやるって意気込んでいろいろ手出しちゃうから 手を引っ込めたら崩れるんじゃないかって不安なんじゃないですか」

虚空 どう爆発したの?


諷虹 いくつかに分散して描かれているんですけど・・・まずは
『うるさいなー! 理想とか綺麗事じゃ叶わないことだってあるよ!
ふよんちゃんはそういう理想をずっとずっと抱えてさ
大した結果も出せないまま死んでも良いの!?』(6巻)

『生きることは 全てエゴだと私は思っている。
何かを消費し 過ちを犯し 誰かを傷つける
誰かの為に行動し 誰かと一緒に 人生を歩もうとする 
ああいう在り方が私には恐ろしくて妬ましいんだ

(後輩のセリフがよぎる
先輩のできない事 また一つ見つけましたよ、私。他人を信じること)
明日死んでも良いという決意は あさって悲しむ顔を考えないということ 
あさっての誰かのそばに居てあげる

その選択ができる彼女達は最高につまらなくて 最高に羨ましいな…』(7巻)


『全て思いつきで行動する私にとって目標とか努力とかがんばろうって言葉はそれなりに残酷だ
それでもSNS部にいた時間は確かにとても楽しくて 星みたいに輝いていた。
その輝きを今もみんなが灯していることは とても幸福で とても残酷だ』(7巻)

(流れ→後輩が再生数を稼ぐために友達を利用して炎上商法まがいの事をしてしまい、身バレなどの危険性があったことをたまき(主人公)が怒った。そのことを気に病んでこの唯我独尊の先輩の家に泊りに来て、その後輩の気持ちを知るために配信ごっこをする回→きららMAX2019年7月号)

(ナレーション)『ごっこ遊びとはいえたまちゃんは事情を良く知らないはずの他人に容姿などを褒めちぎられながら適当に肩を持ってくれることは案外キモチが良いことを知りーーーそれが故にこれがジャンクフードの如く簡単に承認欲求をおなかいっぱいにできてしまう危険な遊びであることをおぼろげに理解してしまった!!!』

(みんな部活を楽しんでいるかと問いかけ 楽しそうにやっていると聞いて)
『みんなが本当に楽しんでいるか?なんて聞いてもただの気休めだ
他人の本心なんてわかるはずもない

ーーーあの他人の笑顔を信じられる力が
自分の笑顔を信じさせる力がーーー

たまたまちゃんは
もしかしたら本当の正しいまほうつかいなのかもね』


諷虹 照先輩のセリフだけをこうして抜き書きしていくと、随分哲学的ですよね。


虚空 深層心理からいえば「他人の本心」どころか「自分の本心」だった分からないんだけどね。これが自分の本心、って思っていることだって、意識できている部分の表層だし。
無意識には全く別の気持ちが様々に同居して、層をなしているわけだから。

ただ、その無意識がポッと飛び出ちゃう瞬間が上原先生が最終講義のテーマにしていた「垣間見」なのかもね。

西田流にいえば「純粋経験」?


第7巻ラスト
『ふよんちゃんはどんな時に生きているって実感する?』

『哲学ッスか、突然』

『私は生きることが好きになれないままこうなっちゃってさ ただそれでも もし明日死ぬとしたら まだ遊び足りない 今日が残っている 
ならせいぜい遊び尽くしてやろうって 昔思ったんだ』

『 色んな部活を食べ歩きして?』

『そう
SNS部は今のとこ私の暇つぶしの中では一番他人に迷惑をかけたけど 一番楽しかった 本当だよ』

『他人か ずっと他人だったんだな』

『今更だけど去年怒っちゃったのはごめんね
誰かがその人自身に全然関係ないことで悔しがったり本気になったりしてるのをみるとさ
正しい人間だなぁ
私とは違うんだ
ってすごく窮屈な気持ちになっちゃうっぽい』(中略)

『去年一緒に楽しそうにゲーム作ってたのに、その時間は明後日も生きたいとは思わなかったんですか、ってたまちゃんなら怒るのかな

SNS部を作ってたまに様子見にきていろいろ手助けもしてくれる
それら全て照先輩の思い付きで通過点でしかない
私は暇つぶしに巻き込まれただけの他人だ
けど少なくとも私は巻き込まれて良かったと思っているんですよ』


諷虹 これ読んでいると、今やってる「放課後さいころ倶楽部」を思い起こすんですよね。

虚空 昨日の生徒会エピソードとか?

諷虹 それもそうなんですけど、主人公の立ち位置とか。
ステラの主人公も友達はいても自作のボードゲームで心を通わせていた・・・それが同人ゲーム作りにいった

虚空 みんなを笑顔にする、っていう・・・みどり だっけ
フト思ったんだけどさ、この照先輩って、一応健康上とか歴史的境遇で命が保証されていない、っていうわけじゃないよね。

諷虹 一般家庭に生まれて一般的な・・・


虚空 これが戦時中だったら、将来がないのが当たり前。あるいは自分もそうだったけど「病気によって寿命を意識する」っていうのとは違うんだよね。

本当に明日の命がどうなるか分からない、っていう状況だったらこの照先輩ってどういう想いを巡らせるんだろうね?
「暇つぶし」として何かするとか・・・他人との関りをどうとらえるのか???


諷虹 明日の命がどうなるか分からなくても大丈夫なような立ち回りをしているわけなんですよね

虚空 たださ、それだとこの「暇つぶし」っていう感覚がね。
本当にシビアに自分の意思とはどうにもならない「死」が迫る日々。これはいつでも「自殺できる」っていう意味で明日終わるかも、っていうのとは違うじゃない。


諷虹 全部が暇つぶしなんじゃないですか?やらなきゃいけないことが一つもないようなことも意味して暇つぶしと表現しているんじゃないですか。
やらなきゃいけないことがあったら死ねないじゃないですか。だからこそやらなきゃいけないことも全部暇つぶしというひとくくりにしてしまっている


虚空 そういう風にひとくくりにしてしまう構えの奥底はどうなのか、っていうことなんだけどね。

今いきなりタイムワープして戦時中に飛び込んだ、っていうのと、本当に戦時中に生きていてこうした構えを持つかとかね。

マアそんなことを考えること自体ナンセンスと言えばナンセンスなんだけどね。
現代に生きているからこういった構えのキャラになっているわけだから。


諷虹 さっきの配信ごっこ回をみてもわかりますが、この作者は時代の流れに非常に敏感なところがありますね
だから同人雑誌だってここ数十年の文化じゃないですか。それを題材にしてこういう一癖も二癖もあるキャラを
逆に50年後とか100年後にこれを見たらどう思われるんでしょうね。


虚空 さっきね、7巻のさいごのやりとりを転載しようと思ったのもさ、このところの「連歌」のこととちょっとつながってて・・・。

自分の想定とは違って「一人歩き」とか「思いがけない方向」とか・・・それを楽しんだ日本人の構えを助長していたような。
それと、照先輩が自分が部を作った思惑視点からずっと後輩たちをみて、あれこれお考えているじゃない。そこにズレが生じているわけだよね、まさに後輩たちが思いがけない方向に受け継いで流れを作っている。


諷虹 それをみて部を本気で潰そうと思っているのかどうなのか
自分の方がずれた人間なのかと再確認している・・・再確認出来ている部分もあるのかな????

あと連歌の話で、善の研究の第三回・・・純粋経験の定義・・・言葉にするとそぎ落としてしまうということを解説者がいっていたじゃないですか。
言葉にした時点で物事をちっちゃくしちゃってる


虚空 だから言葉は「事のハ」だったわけだよね。本質は表せないのが言葉という自覚はあった。だから和歌だって短い方向に突き進んだ。


諷虹 「圧縮と解放」の話を思い出したんですけど、駿煌会ラインの連歌部をやってて。
いろいろな思惑を詰め込んで最終的に五七五で発表するじゃないですか。それでいうとちっちゃくしたのをさらに詰め込んでいるという感覚なのかな、って。
で、それを解放するのが「別の人」っていうのが面白いところ


虚空 ここがまさにさっきの「他人を信用する」あたりのこととつながっていると思うんだよね。他人に次を委ねるわけだから。
で、思いがけない方向にいっても「遊び心」で包み込んでしまうという気持ちのゆとり。というよりむしろ「飛ぶ」ことが期待されているわけだよね。

意図を察し過ぎてしまうと逆にダメということがある、って難波先生も7日の会議で言っていたんだけど。(ラインでも紹介した)


諷虹 直線がいっぱいあったら平面が決定されてしまうじゃないですか。平面が決定されることで、次もその平面に合わせてしまおうかな、っていう気持ちが出てしまうのかな、って


虚空 違う例えだと、直線のベクトルによる媒介変数表示みたいな?


諷虹 独立じゃなくて従属になっちゃっている感じですね。
ちょっと違うかもしれないですが、麻雀で危険牌の切り方の感覚の変化にも似てる。ノーヒントだから勘で当てずっぽなのが、ヒントがあると気になって自由な発想がなくなる。ヒントがたくさんあればあるほどそれにとらわれる


虚空 それって「ヒント」より「情報」っていった方がいいかもしれない。ヒントだとヒントなんだから正解をつながるよね。ただの情報なんだけど「ヒント」だと勝手に思い込んでしまうと、余計な縛りになる。


諷虹 咲でもありましたよね。咲がネット麻雀で、和がリアル麻雀でそれぞれ特訓する。情報に頼りすぎる問題と気にしなさすぎる問題の一長一短。


虚空 気にするということの大前提に、「純粋経験」があるかどうか・・・かな?
子どもなんて本来は純粋経験の世界に近いハズだったんだけどさ、今は本当に幼い頃から大人の常識を詰め込まれすぎているよね。
典型的なのが「虫嫌い」だよ。


諷虹 伊集院さんが番組の中で言っていましたけど、この事柄の純粋経験は何だろう、って考えることが大事なのかなって。

感情の働く前の刹那に思った事や感じた事をキャッチするのって不可能ですよね。
だから純粋経験なんて無理だと思ったんですよ。でも「こういうことなんじゃないか、ああいうことなんじゃないか」って考えることが大事かな、って。

子どもがあれこれを考えずに行動しているのをみて、「これが純粋経験なのかな」って思うのが。
それが親が厳しかったり口出ししすぎると「怒らるかな」とかが真っ先に浮かんでしまう。


虚空 前に話したけど、最初に勤務した小学校と次の小学校との成績表を渡した瞬間の意識なんてそれに近いかもね。瞬間芸で終わるのと、そこから帰宅後の親とのやりとりがどんどん広がるのとの違い。

「心と体の実況中継作文」なんてさ・・・略して「体感作文」なんていっていたけど、あれは今にして思えば「純粋経験に近づく練習」だったのかもね。
解釈は入れない。


諷虹 「知識」と「情意」のとこですよね。(NHKテキスト19ページ)


虚空 そう。だから「現在形」にこだわった。
理科でモンシロチョウの幼虫を育てていた時にさ、キャベツを取り替えるのをさぼってキャベツの葉が腐ってきたことがあってさ、その匂いを嗅いでもらって、その瞬間にどう感じているか口で言ってもらったことがある。

でも嗅いだ瞬間にみんなが言ったのは
「エサをかえないですみませんでした」とかばっかり。「これからはちゃんと新しキャベツにかえます」とか。


嗅いだ瞬間に「本当にそう思ったの!」って言ったら、ある男子が「臭かったです」って。もう一度嗅がせたよ。そして「今、臭かったです か?」って。
そしたら「臭い!」って顔をしかめて・・・。


今だったら、腐ったキャベツの匂いを嗅がせたというだけで問題教師として訴えられそうだけど、でもこの時はかなり真剣だったから。



諷虹 「動揺的」っていうことも書いてあるんですけど・・・あとは「知と愛」に書かれている内容。解説者がいっている「知と愛」ので「「愛する」とは「物」と一致することである」とも述べていました。ただ、西田の「一致」というのは寸分たがわず重なり合うことではありません。むしろ今の引用に「共に笑い共に泣く」とあったように、異なる二つのものが異なるままで「共鳴」し、「共振」しているようなイメージでとらえた方がいいと思います。


虚空 どうしても学校で書く作文って「思い出作文」とか「報告作文」なんだよね。だから過去形になっちゃう。違うといえば「将来の夢」とかで今度は願望の記述になっちゃうんだよね。
まさに今この瞬間を書くっていう作文ってほとんどないよ。

まあ、この現在形の作文っていうのは、児言態の先輩のある先生が上原先生に助言されたことの受け売りで実行していたんだけどさ。


諷虹 主観ですもんね、現在って。過去のことを思う時って客観になっているんじゃないですかね


虚空 そうかな?


諷虹 今になって振り返ると過去のあれは、って


虚空 そういう方向に行けばね。ただ今自分は一瞬例の親戚が頭に浮かんじゃったから・・・時間がたてばたつほど事実を捻じ曲げて自分に都合よく作り変えてしまうから。完全に作り話が実話となっちゃう。

子どもなんかもそういう傾向があるからさ。大人に知識をつけられて、解釈を伴わせてしまう。
今諷虹君がいったのは、哲学者とかが自問自答する時の姿勢で過去を振り返る場合だから、主観から客観に向かえるというパターンかな?


諷虹 他人のことに涙するのは主観ですよね。他人になってとの出来事を追体験している感覚。だから主観かな、って。


虚空 自分の感覚だとさ、主観と客観の区別がなくなっているような感じかな。主観と客観が超越された感じ。


諷虹 主客合一ですね。
解説書にもありますね。・・・・(P33)


虚空 だってさ、アニメとかでも本当に感受移入しちゃっている時って、今自分はこのキャラになりきっているな、っていう感覚すら失せているからね。ただただ没入というかさ・・・


諷虹 そう考えるとレビュースタァライト でのキリンの視聴者に向けたメッセージ・・・「舞台を見守る存在」っていう客観的なところに再配置したのかなって


虚空 このアニメは西洋演劇だから余計にそうなのかもね。

よく西洋演劇って額縁にたとえられるじゃない。舞台の上のドラマを観客が覗き込んでいるような立ち位置

でも歌舞伎なんかはさ、花道がドーンと客席にあってさ・・・縁側の感覚っていうか・・・客席も舞台の一部。で、この間も話にでたけど、通の人が叫ぶじゃない。決まりどころで。それがあって歌舞伎の舞台はよりビシッと決まる。

それこそ飛躍だけどさ、この前連歌を初めてやった時にさ、待っている間もドキドキっていう話が出たじゃない。個々人が独立して詠む歌会だったら、そういう意味でのドキドキは起きないと思うんだよね。「あいつはどんな歌を詠むのかな」っていうのはあっても、それは自分の出来と他人の出来を比較するような感覚。

でも連歌はさ、他人の歌の完成は自分の始まりという感じがあったじゃない。それが回ってくる時だってどんな段階で回ってくるか予測できない。それでも受け継いで次に渡す自分の存在。それは「受け手」と「送りて」の間のまさに「今この瞬間の存在」っていう自覚に無意識につながっているのかもしれない。
 

☆西田幾多郎「純粋経験」と 台風に対する子どもや若者の構え 他

2019年 10月11日 諷虹宅 の諷虹・虚空のやりとりです。

ちょうど台風19号が接近中の時でした。

前回の西田幾多郎の哲学とからめてのやりとりが中心だったのですが、非常に強い台風接近中ということもあって、こうした台風などの際に子どもや若者が、大人とは違って異様なテンションになること・・・それも純粋経験に近いのではないか、というやりとりもしています。


次々と襲ってきた台風や大雨によってまだ被害が大変な状況ということで、こうしたやりとりをブログアップするのは不謹慎だという御批判もあると思いますが、子どもや若者にどうしてこのような大人とは違う心理的な傾向が備わっているのか、というのは人類にとって非常に大切な側面もあると考えています。


*子持ちの教え子たちとも台風の際の子ども達の様子を教えてくれるラインのやりとりをしていました。

これも大変興味深いものがあるのですが、やはり今それらをアップするのは、いくら子ども達の事実の様子であるといっても配慮した方がいいと考え、しばらく後で紹介したいと思います。


最後の方では「おうち意識」ということもからんで「東方」という作品に関するやりとりが中心になっていきます。


(ことりのおやつくんのラインコメント 千波湖の話から)
諷虹 西田幾多郎が海をながめるのが好きっていうのと通じるような・・・。山に登るのも風を感じる・・・「流体を体感する感じなんでしょうかね。
星を観るのも「宇宙の風」を感じているのかもしれないですね・・・光も波動ですからね。


虚空 小学生たちの希望で天の川をながめながらの立小便したいという子たちを花立山に連れて行ったことがあるけど・・・それなんかも、そういう意味では宇宙の波動を感じながらだったんだろうね。


(諷虹、自分でもNHKテキストも購入 放送も観ている 原著は本屋になかったという)
虚空 あの番組の中に諷虹君も混ぜたかった。

諷虹 純粋経験の話がね・・・危ないっていう前の・・・

虚空 この前ラインにも書いたけど、子どもや若者が何故か台風を楽しみにしてしまうというのも、純粋経験願望かもね。
自分なんかは台風でも雪でもどうしても「現実」のほうばかりに行っちゃって今だって不安がいっぱいだけど。震災で相当家が痛んでいるから、冗談抜きで済めなくなる可能性があるわけで・・・


諷虹 小学生の時に運動会の練習のときに、強風でテントがとんで、クラスのほぼ全員が「オー」って拍手して、先生から滅茶滅茶怒られたことがあるんですよ。


虚空 純粋経験なんだね。


諷虹 稲光をみたときにも危ないとかいう以前に、一瞬美しさとかにとらわれる瞬間。そのあとの雷鳴で恐怖がくるけど。


虚空 若者が台風とかで異様な興奮状態になるのだって、現実的な思考から離れるんだろうから


諷虹 雪だってそうですよね。犬も異常なテンションになっていますから。


虚空 例えばさ、台風の時とかって犬はどんななんだろうね。
室内犬を飼っているところとか、どうなっているんだろうね?


諷虹 怖がるか・・・。カミナリに向かって異常に吠える犬とかみたことありますね。
(ラインに書き込み 犬を飼っているメンバーに問う)
諷虹 災害に備えての買い物って、どこか旅行前の準備の買い物に近い部分ってあるのかな、って。

虚空 確かに昨日、ホームセンターやスーパーで買い物していて、同じ近所の人とどちらでも会ったんだけど・・・・見かけ上は悲壮感はただよっていなかったからね。他のお客さんも。
あまりに不安だから「笑うしかない」っていうのもあるかもしれないけど


諷虹 やっぱりそういう時に買い物に行くっていうのは、「生きよう」という気持ちがあるからですもんね。
停電になっても、如何にして時間を楽しんでつぶすかというような準備をしていますから。

(西田幾多郎 前回のあの時のすごい拾い読みに関して)
虚空 よくあれだけ原著をサーッとめくりながら的確に言葉を拾えていたな、ってあとからやりとり記録を読み返して本当にそう思った。

諷虹 東方のコミックにこんな言葉があって・・・(東方鈴奈庵 第四巻 P78)
『本を読むときは、その本の著者もまた読者を見ているということなの。著者が死んでいようとも。・・・誰が書いたかわからないけど強い思いがこめられている本は、読むだけであの世とこの世を繋いでしまうのよ。』

⇒江戸時代の国学者である 宮負定雄「民家要術」の本の読み方の欄より
(日本大百科全書(ニッポニカ)・・・晩年には幽冥(ゆうめい)界に興味をもつようになる。)


虚空 でもそういうのを本当に感じる瞬間ってあるよね。


諷虹 西田幾多郎もずっと現世にとどまっているのかもしれませんね。


虚空 筆者自らが導いてくれているかもね。
そういうことからすると、上原先生は・・・・「師匠の本を何だと思ってる!」って・・・それでなかなか導いてくれなかったりして(笑)・・・そんなことをいうと夢の中に化けて出てきたりして・・・・





(東方に関して)
虚空 この前ちらっと言っていたけど、東方の幻想郷自体が、ある意味で「おうち空間」じゃない。だからよそ者を排斥する傾向も強かったりする・・・勝手に家の中を踏み荒らされる感覚になるんだろうね。自分達の世界を荒らすな、っていうような。
ガルパンだとかは、大洗が「おうち空間」であるけど、こっちはオープンなおうち・・・いろんなお客さんが来てくれることを歓迎するような家ってあるじゃない。


諷虹 この前久しぶりに例大祭にいって感じたんですけど、かつてのような活気がなくなったから、排斥するような雰囲気がなくなってきた・・・口うるさく主張する人がいなくなってきて、穏健派が残っていて、新しい人達を取り込んでいる・・・自由な感じがでてきていたのかな・・・。

血気盛んな人がいなくなってきているというのも変な感じなんですけどね。
アンチは根強いんですよね。


虚空 だってさ、こっちは入り込もうって好意的な姿勢だったので、よそ者は来るな、っていいう頭ごなしの攻撃を受けたからね。東方に対するアンチというよりは、そういう過激な排斥派の人達への気持ちなんだけどね。


諷虹 単に乗っかっているだけの人達がいるというのもあるんですよね。


ネット検索「ネットイナゴ」
特定のジャンルを持たず、そのとき流行っている人気のあるマンガやアニメ、ゲーム、ライトノベルなど旬な作品やカップリングに飛びつき、一通り騒いだ後に次の流行ジャンルに流れていくファンのこと。

畑の作物を食い荒らし、次の獲物を求めて飛んでいく直翅目・バッタ亜目・イナゴ科に属するバッタ類の総称"イナゴ"から、こう呼ばれるようになった。
主にマナーの悪いファンを侮蔑・批判する際に使われる言葉で、数字の語呂合わせで“175”と表記されることも。

虚空 伝統文化とか閉鎖的とかいってもさ、日本人ってなんだかんだいって、外との風通しはいいんだよね。歴史てきにみてもそうじゃない。大陸の文化とか宗教を貪欲にい取り込んで、日本文化と溶け込ませてしまう。


諷虹 何度も東方はもう終わりだというような言われ方をしてきても根強いですからね


虚空 さっき言っていたじゃない。根本的に民俗学とかそういうところからの発想で設定されている、って。日本人の心が反応する要素はいっぱいだっていうことだよね。


☆西田幾多郎「善の研究」と「駿煌会」 諷虹君、大いに盛り上がる

10月4日の諷虹・虚空やりとり記録の終盤です。


ここまではアニメがらみの話をいろいろとしていて、そろそろ今日はオシマイという感じで片付け始めた時に、何気なく虚空が言葉にしたことから、さらに続きました。


難解なことで有名な、日本の本格的な哲学者の礎を築いた西田幾多郎博士の「善の研究」の話題です。あちことの断片的な拾い読みですが、これを諷虹君が非常に楽し気に声に出して読みながら盛り上がっていました。


学生時代に原典を購入していたもののさっぱり分からずに生きてきた虚空も、その彼の雰囲気に影響を受けて、なんだか違った読み物のように感じてきました。


「善の研究」の解説書は原典からの抜粋が沢山ありますが、そこは読み飛ばしてくださっても結構ですので、そんな文章に諷虹君がどんな反応をしているのだけでも目を通してみてください。





(帰り支度をしながら)
虚空 あのさ、近いうちに話題にしようと思っているんだけど、高校生の頃から妙にひっかかっていた西田幾多郎っていう哲学者の「善の研究」。難解なことで有名なだけあって昔買った岩波文庫のを何度読もうと思っても数行で挫折してきた。

でもこの前でてきた上原先生の「英才児は観察」っていうことと何かつながりそうだと思ったからもう一度引っ張り出したら、今度は半ページは読めた。
そしたらね、先週いわきへ行った時に、特急を待つ間にたまたま入った本屋でNHKのテキストをみつけて・・・

買って読んでみたら、去年から駿煌会でずっと話し合ってきたことや、この前土浦で難波先生と語り合ったこととすごく通じていることがあるらしいと・・・・。
10月に4回シリーズでの番組なんだけど、それをみたら、また原典に再挑戦しようと思ってる。


*諷虹に解説書を手渡すと、私が特にどの部分ということを示す前にパラパラとめくりながら関りの深そうな部分を次々とみつけていく。

諷虹君がみつけて声に出して読んだ部分をいくつかあげると・・・
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解説書の抜粋
P20
ここで西田が強調しているのは、人が、同じことを認知しながら、個々別々の世界を認識し、生きているということです。・・・・・・・・ここで注意しなくてはならないのは、西田が個々別々の世界を生きていることを強調しているだけではないことです。現象的には無数の世界がありながら、実在的には一なる世界であることも西田は注意を促します。

P34
西田のいう「宇宙」とは森羅万象の異名です。さらに「宇宙」は、外的空間だけではなく、内なる世界をも包含する言葉です。・・・・宇宙を感じようとするとき、現代人は空を見上げます。しかし、西田は、目を閉じて座禅をしたかもしれません。そうすることで内外両方の宇宙を感じることができると思っていたのではないでしょうか。

P36
「知と愛」
西田は「愛する」とは「物」と一致することであるとも述べていました。ただ、西田の「一致」というのは、寸分たがわず重なり合うということではありません。むしろ、今の引用に「共に笑い共に泣く」とあったように、異なる二つのものが、異なるままで「共鳴」し「共振」しているようなイメージでとらえた方がよいと思います。
西田にとって共感と共振は哲学的経験の始まりにほかなりません。・・・・・

親が子となり、子が親となるというのは、ともに「私」が主語ではなくなる状態ともいえます。「私」が主語になると、世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しないかもしれない。しかし「私」が深くなっていくと、表層世界の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底にふれていこうとする。この状態が、西田のいう「善」の世界なのです。

P47
「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する。それが西田の「神」の理解です。

P52
西田にとって「哲学」とは、「小さなる自己」を通して「大なる自己」へと至る道であり、「大なる自己」の世界の叡知を「小なる自己」の世界へと運ぶはたらきともいえます。「大なる自己」とは、自我から自由になった「自己」、無私なる自己だと考えてよいと思います。

P64
「行為」はつねに「意識」を伴わなくてはならない、と西田はいいます。西田のいう「意識」とは、表層意識のことではありません。表層意識と深層意識の両方を含んだもののことです。その両方が一つになり「行為」されるとき、「善」への道が開かれるということです。

P66
ここでの「個人主義」は、現代のそれとまったく意味が違います。西田にとって「個人」とは、つねに「他者」と共にある存在だったのです。だからこそ、その開花が至高の「善」になる。むしろ他者と共にいなければ真の「善」にはなり得ないということです。
等々
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そして原典をみせると手に取ってこれもパラパラとめくりながら、目についた文(響いてきた文)をあちこち声を出して拾い読み。
例 原文
P52 
直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質を持っている。・・・厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間・空間・個人等の形式に拘束せられるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越せる直覚に由りて成立するものである。
P216 (神に関する論述)
等々、他にもあちこち
諷虹 駿煌会の言葉の使い方って一般とずれているからすごく分かりずらい、って言っているのと同じじゃないですかね、この本が難しいっていうのは。


虚空 そういう点でいうとさ・・・やっぱり、駿煌会ホームページの用語辞典コーナーを早く充実させないとね。


*さらに原典の拾い読みを次々と声に出して読み上げていく
P190 善行為の動機 内を読んで
・・・・富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるものではない。もし人格的欲求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者を目的とした即ち意識統一者の為に働いた行為でなければならぬ。


諷虹 これはQべえとまどかですね。(アニメ「魔法少女 まどか☆マギカ」のキャラ)


虚空 これまで善の研究でいろいろなコメントがあったと思うけど、まさか「まど☆マギ」なんていうアニメと結び付けた意見がスッと出てきたなんていうのは先ずないよね。

原典 P199 男女の違い
「社会的意識に種々の階級がある。そのうち最小であって、直接なるものは家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級と言わねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は単に子孫を遺すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的を持っている・・・」


諷虹 この前土浦で話題になった、「郷土」から「世界」、果ては「地球」「宇宙」って人格が広がっていくみたいな話の、最小単位は家族なんですかね。
(さらにあちこち音読)

諷虹 面白いですね。これしか読んでいないのに何ですが、鉱脈がありそうな


虚空 はっきり言うけどさ、原典に直接目を通した分量は、高校時代に購入した自分より今の諷虹君の方が多いからね。


原典 P242  ・・・知は主客合一・・・愛は主客合一  を諷虹君が読み上げるのを聞いて


虚空 それがフレーベルでいう「共通感情」とか、上原流にいえば「意識のベース」「心意伝承」


諷虹 「学ぶことも共鳴」できるようにするというなんですね。


虚空 論理や知性が、感情やイマジネーションを豊かにするツールっていうことだよね。
西田さんって、もともとは哲学者じゃなくて、学校でドイツ語とか教えてたんだって。あとはね、数学に対しての素養があって、恩師の先生から「数学者になったらどうか」と勧められていたんだって。
そういうところもさ・・・駿煌会と相性が良さそうだよね。 

原典
「数学者は自己を棄てて数理を愛し数理其物と一致するが故に、能く数理を明らかにすることができるのである。」

諷虹 これってこの前話していたことそのものですね・・・(と大笑い)
数理と一体化しているんですね。大いなる存在として。


虚空 さっきもそうだけどさ、善の研究をこんなに楽しそうに笑いながら音読する人間ってどのくらいいただろうね。


諷虹 『知ることが愛であり、愛がゆえに知りたくなる』っていうのも、オタク気質の性質ですよね。すごくよく分かる。

流し読みしただけですけど・・・学問として面白いってよりかは「あるあるネタ」で笑っている感覚ですよね。


虚空 それなんだよね、この解説者が主張しているのも。善の研究は哲学書として読んではますますわからなるって。生活と一致させて読む。
深夜アニメとかの俗っぽいことと結び付けている駿煌会と相性はいいんだろうね。



・・・・と、話している時に、諷虹、もう一度原典を手にとり拾い読みを始める。

虚空 書き手と波長をあわせるっていうのが如何に大事かだね。
だって、若い頃から何度か開いてもあんなに難解で読めなかったのがさっきから諷虹君が音読しているところは、よく分からないくても心に響いてくるもん。


諷虹 小説でだってこんなに文章を読んで楽しんで共感できたのは初めてですよ。
まあこれは小説じゃなくて哲学書ですけど。今度買ってみようかな・・・まあちゃんとは読まないと思いますけど。


虚空 この解説番組をみたらまたキャッチできることが増えるかもね


諷虹 でも、さっきからは解説を読んでないところばっかりがひっかかってきてるんですよね。解説書よりも原典の方が読んだ分量が多いですからね。


虚空 そこがすごいよね。だから解説番組をみたって、その解説者の意見に従わなければいけないということもないしね。


諷虹 今日、こんな風に読んだのを西田幾多郎はどう思っているのか分かりませんが・・・


虚空 喜んでいると思うよ。生活感情を通して読むことは「余の望むところ」って。